二村一夫「大原社会問題研究所の70年」


大原社会問題研究所の70年


                                   二 村  一夫



 はじめに 

1 大阪時代

 

〔創立〕

 大原社会問題研究所は,今からちょうど70年前の1919(大正8)年2月9日に設立された。当時,自然科学研究の分野では,すでに伝染病研究所(1892年創立),大原農業研究所(1914年創立),北里研究所(1915年創立),理化学研究所(1916年創立)などが存在していたが,社会科学系の研究所としては日本最初の企てであった。
 所名に大原とあるのは,岡山県倉敷の大原美術館と同じで,創立者が倉敷紡績株式会社社長の大原孫三郎であったことによる。彼は私財を投じて研究所をつくり,20年近くこれを独力で維持したのである。さらにいえば,大原の援助が打ち切られた後も,研究所は,もともとは孫三郎が購入あるいは建築した大阪天王寺の土地建物などを処分した金を基金とし,その利子で運営されたのであるから,大原社会問題研究所は,法政大学と合併するまでの30年間は,大原家の財政的支持によって存続したといえよう。 大原孫三郎

 孫三郎は1880(明治13)年,岡山県倉敷の富豪・大原孝四郎の次男として生まれた。彼は岡山孤児院の創立者・石井十次の影響でキリスト教徒となり,石井の死後はその遺志をついで岡山孤児院の院長に就任するなど社会事業に力をつくした。
 注目すべきは,大原孫三郎が,その時々に取り組んでいる問題について,実際的な解決策を考え実行しただけでなく,そうした問題について,より根本的,理論的な研究の重要性を認識していたことである。たとえば,大地主である大原家の当主として,彼は小作俵米品評会を開いて産米の品質向上を企て,また技術員を雇って小作人に対する農業技術の指導に当たらせただけでなく,1914(大正3)年には農業研究所を設立している。
 同じことは社会事業に関しても見られ,大原社会問題研究所の創立より2年以上も前に社会事業研究に着手している。1916(大正5)年11月29日設立の財団法人石井記念愛染園のなかに置かれた救済事業研究室がそれである。大原は愛染園の開園式で,この救済事業研究室について「将来或る時期に於て一層之を拡張し,愛染園の事業より独立せしめ,以て斯業の進歩発達に資する所あらんとするの希望を有するも,今は具体的に之を発表するを得ず。尚ほ速に之を実現し得るやう各位の援助を望む」と挨拶している。彼がこの時すでに独立の社会事業研究所,あるいは社会問題研究所を構想していたことは明かで,この救済事業研究室こそ大原社会問題研究所の前身といってよい。
 ところで孫三郎は,岡山孤児院院長としての経験から,しだいに社会事業に限界を感じるようになっていった。貧乏をなくすには社会問題を科学的に研究してその解決策を明らかにする必要があると考えるにいたったのである。その背景には,小学校の同級生であった山川均の間接的な影響,河上肇『貧乏物語』の直接的な影響があったと思われる。

 大原研究所の創立には,大阪府の嘱託で社会事業家として著名な小河滋次郎,京都帝国大学教授の河田嗣郎,同講師米田庄太郎らが参画し,徳富蘇峰や河上肇も助言するところがあった。しかし,実際に研究所の性格を決定する上で重要な役割を果たしたのは東京帝国大学教授・高野岩三郎である。
高野岩三郎  高野は日本の社会統計学の草分けで,社会政策学会の創立会員であり,また東大経済学部を法学部から独立させた主役であった。研究所創立の年,彼はILO第1回総会の労働代表となることを政府から依頼された。彼の兄,高野房太郎は日本の労働組合運動の創始者であり,鈴木文治はじめ当時の労働組合の指導者の多くは,彼の教え子であった。また彼自身が友愛会の評議員であったこともあり,高野は自分がILOの労働代表となることに積極的な意味があると考え,就任を受諾した。
 しかし労働組合側は,労働者の友としての高野を高く評価しながらも,労働代表は労働組合の互選によるべきであるとして政府による代表選任に絶対反対の態度を崩さなかった。やむなく高野は労働代表就任を断わると同時に,その責任をとって東大教授も辞職した。これ以後,高野岩三郎は大原社会問題研究所の経営に専念することとなり,1920年3月には所長に就任したのである。

 高野所長のもとで研究所は,櫛田民蔵,暉峻義等,森戸辰男,高田慎吾,権田保之助,大林宗嗣,細川嘉六,久留間鮫造,戸田貞三らを研究員に,大内兵衞,北沢新次郎,長谷川如是閑らを研究嘱託に迎えた。新設の研究所が,しかも学術研究には縁遠い地域とみられていた大阪の地に,これだけの人材を集めることが出来たのは,高野の学問的指導者としての魅力,大原孫三郎の財力によることはもちろんであるが,1920年に起きた〈森戸事件〉の影響を見逃すことは出来ない。〈森戸事件〉とは,同年1月,東大助教授・森戸辰男が新設の経済学部の機関誌『経済学研究』創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表したのであるが,これが新聞紙法第42条にいう〈朝憲紊乱〉にあたるとして,筆者ばかりか編集名義人の大内兵衞まで起訴され,有罪となった事件である。このため森戸・大内両助教授は東大を追われ,櫛田講師,権田・細川両助手は事件に対する教授会の態度に抗議して大学を去り,あいついで大原社会問題研究所に入所したのである。この陣容は若い研究者を引きつけ,宇野弘蔵,林要,河西太一郎,丸岡尭,植田たまよ(宮城たまよ),山村喬,八木沢善次といった新進が助手として採用された。




 

〔研究組織の変動〕

 ところで,創立当初の数年間,研究所は組織面において,かなり大きく変動した。今ではほとんど忘れられているが,最初は二研究所制であった。要するに,はじめ大原と名のつく研究所は社会問題研究所だけでなく,もうひとつ救済事業研究所があったのである。救済事業研究所は,社会問題研究所創立3日後の,2月12日に設立されている。何故このようになったのか正確な事情は分からない。おそらく大原救済事業研究所は小河滋次郎あたりの意見をいれ,愛染園の救済事業研究室を直接継承し,発展させる構想だったのではないかと思われる。しかし,すぐに両研究所の合同計画がもちあがり,19年7月には社会問題研究所が救済事業研究所を吸収するかたちで,主として労働問題を研究する第一部と,主として社会事業に関する研究をおこなう第二部との二部門構成の大原社会問題研究所となった。この二部門制も,1920(大正9)年3月には廃止されたのである。続いてその直後に,当初は救済事業研究所の一部であった社会衛生部門を担当する暉峻義等を中心に,倉敷紡績万寿工場内に研究所分室としての〈工場保険衛生調査所〉を設置することが決定された。まもなく,この工場保険衛生調査所は大原社会問題研究所から分離独立することとなり,翌年7月,倉敷労働科学研究所が正式に発足する運びとなったのである。よく知られているように,これこそ現在の労働科学研究所の前身である。
 また創立直後の大原大原社会問題研究所は孫三郎の個人経営であったが,その後,これを財団法人に改めることで大原と高野の意見が一致し,1922年12月には文部省から正式に法人設立を認可されている。



〔設備〕

 設備面でみると,大原研究所は,まず仮事務所を大阪市南区下寺町4丁目愛染橋西詰にあった愛染園の救済事業研究室におき,図書整理などは倉敷紡績の本社の一室でおこなった。
 創立1年半後の1920年5月には,大阪府天王寺区伶人町24番地に新事務所が竣工し,7月に移転を完了した。
天王寺時代の研究所  この新築の建物は2階建て673平方メートル,それに3階建ての書庫延べ327平方メートルがついていた。総工事費は15万円である。本館は閲覧室を中心に研究室,事務室,図書整理室,編集室,資料室,会議室を備えていた。なお,その後,3階建て書庫535平方メートルと2階建ての講堂92平方メートルが増設され,総建坪は1,627平方メートルとなった。なお,敷地は3,188平方メートルで,10万円をかけて買収したものである。このほか東京にも事務所がおかれ,はじめは権田保之助や宇野弘蔵ら,1925年末からは櫛田民蔵が勤務した。東京事務所は,最初は京橋区山城町6の統計協会の一室に,ついで神田駿河台西紅梅町7の同人社内,1920年7月に本郷区動坂122番地へ,ふたたび同人社を経て,1922年1月26日に大久保百人町311番地に移転し,さらに櫛田民蔵の東京転勤と同時に,三度同人社へと移動している。



 

〔大原社研を担った人びと〕

 設立準備の段階で孫三郎の相談に乗ったのは,主として徳富蘇峰が推薦した京大教授河田嗣郎であり,その同僚の米田庄太郎であった。創立趣意書を執筆したのが河田(一説には米田)であったことが示すように,当初は京都大学経済学部のスタッフが中心となって研究所の設立を推進したのである。
 しかし,高野岩三郎が東大を辞職して専任の所長となり,さらには〈森戸事件〉を機に東大経済学部の若手があいついで入所したことで,事態は大きく変化した。大原研究所は東京帝国大学経済学部の進歩派を結集した形となったのである。〈森戸事件〉の影響もあって,大学など高等教育機関では,社会主義・労働運動などに関する研究をでタブー視する傾向が強まった。これに対し,大原社会問題研究所は,こうした問題を積極的にとりくむ人びとの集まりとなり,さまざまな分野で,あいついで先駆的な業績をあげたのである。
 なかでもマルクス主義,とりわけマルクス経済学に関する研究は活発で,日本のマルクス主義研究,日本の経済学研究の歴史に残る作品がいくつも生まれた。櫛田,大内,森戸,久留間,細川らが唯物史観,価値論,地代論,恐慌論などに関する研究を発表し,あるいは『剰余価値学説史』『資本論首章』『哲学の貧困』などを翻訳紹介した。
 マルクス主義研究以外でも,高野所長の監修のもとにすすめられたウェッブ夫妻の『産業民主制論』『大英社会主義国の構成』『消費組合運動』の邦訳は,日本の研究者や運動家に,伝統あるイギリスの運動を紹介したものとして重要であろう。このほか権田保之助の社会調査にもとづいた娯楽研究,高田慎吾の児童問題研究,細川嘉六の米騒動の研究,森戸辰男の日本の黎明期社会主義運動に関する研究,婦人労働の研究など,それぞれの分野における先駆的な業績があいついで生まれた。また少し後であるが,笠信太郎のインフレーション研究も注目される。そうした成果は《大原社会問題研究所叢書》,《大原社会問題研究所パンフレット》,さらには1923年に創刊された『大原社会問題研究所雑誌』など発表されていった。さらに1920年に創刊された『日本労働年鑑』は,生まれたばかりの労働組合・労働運動の動向をはじめ,労働問題に関する貴重なドキュメントを残した。以後70年,『日本労働年鑑』は研究所の中心的な事業となり,戦中・戦後の中断はあるが今日まで継続して編集発行され,日本労働運動の歩みを系統的,客観的に記録しつづけている。

 このような研究所の活動を支えたのは,図書室,資料室のスタッフである。図書主任の森川隆夫,内藤赳夫は専門職の司書として,櫛田,久留間,森戸らがドイツやイギリスで集めた厖大な図書の整理にあたっただけでなく,内藤は『日本社会主義文献』『邦訳マルクス=エンゲルス文献』などの書誌を作成している。さらに注目すべきは1923(大正12)年に設置された資料室である。今日では図書部門のほかに資料部門をもつ研究機関は少なくない。しかし,1920年代はじめの日本では,おそらく先例のない企てであったと思われる。
 資料室は,『日本労働年鑑』の編集に必要な労働組合や社会運動団体の機関紙誌はもちろん,各種のビラ,パンフレット,大会資料などを収集した。今日,大原研究所がほかの大学・研究所や国公立の図書館にはない各種団体の機関紙誌や原資料などを大量に所蔵しているのも,いちはやくこうした資料類の収集保存の重要性を認識して資料室の設置をすすめた高野所長,その意をうけて積極的に資料収集にあたった資料室主任の後藤貞治,さらにはその下で単調な整理作業に従事した多くの無名の人びとの努力によるものである。高野所長は,こうした実務を黙々と担った人びとを高く評価し,のちには内藤図書主任,後藤資料室主任の2人を,勤務形態はもとのままで,身分を研究員として遇するという事実上の専門職制度を導入している。





2 東京移転

〔研究所存廃問題〕

 創立から10年余は,いわば大原社研の発展期で,在野の研究機関としての特色を生かし,未開拓な研究分野を埋める仕事がつぎつぎと発表されていった。高野の指導により,どちらかといえば学術研究に重点をおいた研究所のあり方は,学理と同時に実際的な解決策を求めて研究所を設立した大原孫三郎の意図には沿わなかった点が多々あると思われる。しかし,彼は「金は出しても口は出さない」態度を貫き,所の運営は高野に一任した。しかし,その後,金融恐慌や大恐慌によって孫三郎が関係した事業の経営状況が悪化するにつれて,彼の周囲では大原研究所から手を引くべきであると主張する人がふえ,大原自身もしだいに研究所廃止の方向に傾いた。この意向は,1928年3月,いわゆる〈三・一五事件〉の際,研究所が官憲の捜索を受けたことを機に表面化した。高野所長らはこうした研究所の閉鎖方針に強く反対し,以後8年間にわたって研究所の存廃をめぐって両者の折衝がつづいた。結局,1936年7月になって,a)研究所は将来自立経営の方針をもって東京に移転する,b)研究所の土地建物の売却代金を移転にともなう諸経費にあてる,などで両者の合意が成立した。翌1937年2月,大原社会問題研究所は大阪を去り,東京市淀橋区柏木4丁目896番地(現在の新宿区北新宿)に移転した。天王寺の土地建物は蔵書の一部とともに大阪府に譲渡された。

 柏木の研究所は日本画家山内多聞画伯の旧邸で,1,850平方メートル余の敷地に既存の家屋500平方メートル,これに書庫250平方メートルを増築したものであった。大阪時代にくらべるとほぼ半分の面積である。移転に際し多くの所員が退職し,残ったのは高野,森戸,久留間,後藤,内藤,鈴木鴻一郎,木村定の7人だけ,最盛期の5分の1の陣容であった。〔つぎの写真は柏木時代の所員、前列左から森戸辰男、高野岩三郎、久留間鮫造、後列一人おいて内藤赳夫、笹井、大内兵衞、永田利雄、権田保之助、黒田俊平の各氏〕 柏木時代の所員
心機一転,研究所の再生を期しての東京移転ではあったが,財政的な制約に加え,戦時体制のもとでの学問研究の自由に対する抑圧は所の活動を困難にした。移転後の新事業として計画された日本労働運動史の編纂は,研究所委員(財団法人の役員)でこの計画の発案者であった大内兵衞が人民戦線事件に連座したため,実現しなかった。また『日本労働年鑑』は,移転前からの継続的な事業としてはほとんど唯一のものであったが,労働組合の解散による運動の消滅や統計資料が軍事機密として公表されなくなったため,1941年の第21集を最後に刊行停止に追い込まれた。この困難な時期に,研究所がその総力をあげて取り組んだのは《統計学古典選集》の刊行であった。これはエンゲル,マイヤー,ペティー,クニース,グラント,レキシスなどによる統計学の古典的文献を翻訳するもので,太平洋戦争が始まった年,1941年から刊行を開始し,敗戦までに11巻を出版し,さらに戦後の1949年にズュースミルヒ『神の秩序』が発行された。まだこのほかにワグナーの著作が刊行寸前になっていたが,空襲で組版が焼かれ,未刊に終わっている。この《統計学古典選集》は,地味な内容で,しかも戦時下の困難な出版事情にもかかわらず,各巻とも初版2000部を売りつくし,なかには版を重ねたものもあり,研究所も発行元の栗田書店も予想外に潤ったという。このほか『決戦下の社会諸科学』の題名で社会科学研究史の総括をおこない,あるいはナチスに関するアメリカの全国産業協議会の報告書の翻訳などで苦境をしのいだ。
 1945年5月25日,前日からつづいたアメリカ軍の空襲で東京は火の海となった。自宅が強制疎開にあったため研究所に泊り込んでいた大内兵衞夫妻や,疎開先から上京していた森戸辰男らが必死で消火につとめたが,研究所も類焼を免れず,土蔵一棟を残して全焼した。ただ,文字どおり不幸中の幸いであったのは,貴重書や原資料など,蔵書中の最重要部分が焼失を免れたことである。東京移転の際,この堅固な土蔵が魅力でこの家を買うことに決めたというが,その先見の明がこうした結果をもたらしたのである。




3 戦 後

〔政経ビル時代〕

 敗戦とともに,研究所をとりまく状況は一変した。学問研究の自由は保障され,研究所の活動を外部から制約していた問題はいっきょに解決した。一方,研究対象である労働問題,労働運動は日本社会を揺るがしていた。敗戦から1年もたたない1946年6月には,労働組合員数が368万人と戦前の最高時の9倍を記録し,さらにその1年後には569万人,組織率は45.3%という急速な発展をとげていた。労働問題研究が,これほど差し迫った課題となった時期はかつてなかった。
 しかし,戦災で建物や図書資料の一部を失い,銀行預金は封鎖されるなど,研究所の活動再開の見通しは暗かった。しかも敗戦後の日本は,冬の時代を凌いできた所員ひとりひとりに,研究所外のさまざまな分野で活動することを求めていた。1945年,大内兵衞は東京大学経済学部に復帰し,その再建の中心となった。翌46年高野は日本放送協会の会長に就任し,権田保之助もNHK常務理事となって高野を助けた。森戸辰男は日本社会党の創立に参加し,46年総選挙で衆議院議員に当選,翌年6月には片山内閣の文部大臣に就任した。細川嘉六も日本共産党から参議院議員に立候補して当選し,同党の国会議員団長となった。
 1946年5月,研究所は1年ぶりに事務所を得た。お茶の水駅から数分の駿河台の旧東亜研究所の一室を借りたのである。東亜研究所は戦時中に国家政策の策定に必要な研究をおこなうため設立された研究機関であったから,敗戦後は占領軍によって解散を命ぜられるおそれがあった。これを回避するため1946年3月に研究所は自主的に解散し,研究所従業員組合などを中心に民主日本の政策決定のシンクタンクとしての新研究所設立を目指す内部改革が企てられていた。
 旧東亜研究所ビルに大原社会問題研究所をはじめ,中国研究所,世界経済研究所,国民経済研究協会,日本農業研究所などの研究機関が店子として入ることになったのは,新研究所が,これら既存の研究機関を傘下に収めた大総合研究所を構想していたからであった。末広巌太郎が政治経済研究所創立準備委員会の責任者となり,準備委員会には大原研究所を代表する形で大内兵衞や久留間鮫造も加わり,会合を重ねていた。
 各研究所はいずれも財政難に苦しんでいたから,この新研究所構想が実現し,政府の資金援助が得られることを期待していたのであろう。しかし,実際にはこの構想は実現せず,1946年10月には〈政治経済研究所〉の発足となったのである。しかし,この東亜研究所の再建の過程で,後に国会図書館となる議会図書館の設立も構想されたのであった。
 結局,大原社会問題研究所は独自の再建の道を模索せざるをえなかった。しかし,戦時中も研究所に残った数少ない研究員は全員,外部でさまざまな重責を担いはじめていた。残されたのは研究所が東京に移転した1937年以来理事となっていた久留間鮫造で,47年6月には文部大臣に就任した森戸辰男の後をついで常務理事となった。ただ彼自身も,事務所が旧東亜研究所ビルに移転してまもない1946年10月には法政大学経済学部教授に就任して法政大学の再建にかかわり,さらに愛知大学の兼任教授でもあったから,研究所の業務を日常的に処理する条件にはなかった。そこで,1946年5月に採用された研究員・上杉捨彦が久留間を補佐し,『日本労働年鑑』の復刊準備などが始められた。

 1947(昭和22)年5月には戦後最初の出版物が刊行された。安部磯雄『地上の理想国瑞西』がそれで,早稲田中学で実際に安部の教えを受けた権田保之助が自伝的解題を付していた。これは,日本にも早くから社会主義の芽生えがあったことを敗戦後の日本国民に伝えることを意図した《日本社会問題名著選》の第1期全10冊のうちの第1巻であった。翌48年には第2巻矢野龍渓『新社会』が三宅晴輝の解題で刊行されたが,『職工事情』,横山源之助『日本の下層社会』,片山潜『自伝』『日本の労働運動』,堺利彦『日本社会主義運動史』などは未刊に終わった。
 また,47年には斎藤泰明,48年には舟橋尚道が研究員として入所し,多数のアルバイト学生の援助もあって研究調査活動も本格的に再開された。その最初の成果が《大原社会問題研究所シリーズ》で,上杉捨彦『就業規則と職場規律』,舟橋尚道『賃金統制と賃金闘争』『最低賃金制の意義』,斎藤泰明『戦後の家計調査』が1948年から49年にかけて出版された。さらに1949年8月には,懸案の『日本労働年鑑』を戦後特集として復刊することが出来たのである。
 こうして研究事業は再開されたが,研究所の財政状態は悪化する一方であった。戦時中の1943年から続いていた鮎川義介の義済会からの年3万円の助成は46年で終わっていた。同年末には大原総一郎から3万円の寄付があり,文部省からは年7万5000円の補助を受け,経済企画庁などからの依託調査費や,年鑑編集費として栗田書店から月額5000円の助成を受けてはいたが,激しいインフレの前には文字どおり〈焼石に水〉であった。49年には『国家学会雑誌』のバックナンバーなどをフーバー研究所に売却している。研究所存続の見通しは暗かった。




〔法政大学と合併〕

 ここで研究所に救いの手がさしのべられた。いうまでもなく法政大学からである。1949(昭和24)年6月,大原社会問題研究所を法政大学に合併する話がもちあがり,7月には正式には合併覚書に調印の運びとなった。8月23日,研究所は駿河台から法政大学内に移転した。10月16日,財団法人大原社会問題研究所最後の委員会が大内兵衞宅で開かれ,正式に解散して法政大学との合併を決議し,12月8日には文部省の認可も得られた。こうして創立以来ちょうど30年で,大原社会問題研究所は解散し,法政大学大原社会問題研究所として再出発したのであった。
 大原社会問題研究所と法政大学とのこうした結びつきには,それなりの背景があった。すなわち1947年3月,法政大学は学園民主化の動きの中で,野上豊一郎を総長・理事長に選任したが,それと同時に学事顧問の1人として高野岩三郎を委嘱し,また大学理事として大内兵衛が参加したのである。たまたま野上家と高野家は姻戚で,ともに戦時中は北軽井沢の大学村に疎開して,日常的に親しくつきあう関係にあった。さらに,これより先の1946年10月久留間常務理事は法政大学経済学部教授に就任し,48年には上杉研究員も研究所を退職して助教授に就任していたのである。
 法政大学との合併によって研究所の財政状態はいちおう安定し,スタッフの充実もはかられた。合併直前の49年4月に富塚良三が入所したのにつづいて,同年9月大島清,10月宇佐美誠次郎,50年3月田沼肇が入所した。なお,52年に富塚良三は福島大学に転じ,かわって53年に原薫が助手として採用された。職員も1949年4月に石島忠,同9月に永田利雄,50年には林春子,谷口朗子,鈴木弘,富塚照代が採用され,戦前の最盛期には遠く及ばないが,それでも専任者だけで10人,兼担も含めれば14人のスタッフを擁し,研究所はようやく本格的な活動を再開する条件が整ったのである。
 この時期,事業の中心となったのは『日本労働年鑑』の編集である。法政大学との合併決定とほぼ同じ時期に刊行された第22集は資料の不足などから労働運動の記録のみにとどまったが,第23集からは第1部労働者状態,第2部労働運動,第3部労働政策の3部構成にもどった。年鑑の執筆には全所員があたり,所外からも上杉捨彦,上田誠吉,氏原正治郎,中林賢二郎の諸氏の協力があった。発行所は第22集は第一出版,第23集から28集までは時事通信社,第29集から第35集までは東洋経済新報社,第36集以降は労働旬報社と変わった。この間,内容や構成,収録時期などに若干の変動はあったが,今日にいたるまで原則として年1回発行され,1988年には第58集に達した。このほか戦時中の空白部分についても1964年に『太平洋戦争下の労働者状態』,1965年には『太平洋戦争下の労働運動』を刊行したので,創刊以来の総冊数は,1988年末現在でちょうど60冊である。労働年鑑は外国でも見られ,日本でも協調会などが発行したことはある。しかし,このように70年もの長期間にわたって労働運動の歩みを記録し続けているものは他に例がない。なお,年鑑の全巻揃いは長い間ほとんど入手不能の状態であったが,戦前刊行分については法政大学出版局から,戦後分については労働旬報社から復刻された。
 年鑑とならんで1950年代から60年代へかけて研究所が力を入れたのは労働問題・労働運動に関する調査研究である。経済安定本部,経済審議庁,経済企画庁,水産庁などの委託で,あるいは文部省の研究助成を受けて,毎年のように全国各地で調査を実施した。その結果は『失業者の存在形態』,『中小企業労働者論』,『中小企業の賃金と労働』,『金属産業労働組合の組織と活動』などの単行書にまとめられたほか,1953年に創刊された『資料室報』に発表された。




 

〔大学院棟への移転〕

 1953年1月,53年館(大学院棟)の新築落成にともない研究所は,新館から53年館5階の一角に移転した。所長室,事務室,研究室,書庫などをあわせ総面積は156平方メートルであった。大阪時代の10分の1にも満たない広さではあったが,柏木の研究所を焼失してから8年後,研究所はようやく一通りの設備を備えた本拠を構えることが出来たのである。
 そこで問題となったのが柏木の土蔵の中に残されている図書資料の整理であった。図書は洋書の貴重書が主で,点数も比較的少なかったこともあり,整理は順調に進み,1960年には1880年以前に発行された洋書の目録が,当時経済学部講師であった良知力氏の努力で完成した。
 問題は機関紙誌や原資料の整理であった。これらは研究所の東京移転に際し厳重に包装され箱詰めにされたままのものが多く,長い間放置されていたわりには保存状態は良好であった。しかし,延べ50平方メートルの土蔵の地下から天井まで積み込めるだけ積み込まれていたから,新しく書庫,事務室ができたとはいっても,全部を移すことはとうてい不可能であった。しかも,年鑑や実態調査など日常の業務に追われて,人手も充分ではなかった。そこで,未整理資料は少しづつ新事務室に移し,かわりに当面不用な戦後資料を土蔵に運びいれる形で整理をすすめ,その実務は主として大学院生のアルバイトや有志の無給奉仕に頼らざるを得なかった。専任の整理担当者を欠き,はっきりした整理方針をもたず,作業を大学院生に依存していたから,作業は遅々として進まないだけでなく,担当者の交代による混乱も避け難かった。それでも1955年からは整理済みの資料の一部を《農民運動史資料》,《労働運動史資料》などとしてタイプ印刷で復刻刊行しはじめ,50年代の終わりには整理作業もようやく緒についた。とくに1960年から63年にかけて,文部省の科学研究費を得ておこなわれた「わが国労農運動における社会民主主義の研究」によって原資料の整理は大きく前進した。




4 創立50周年以後

〔新たな動き〕

 1966年4月,研究所創立以来の研究員であり,委員,理事,常務理事として,さらに戦後研究所の維持がもっとも困難な時期に所長として,研究所を運営してきた久留間鮫造が,老齢の故をもって所長を辞し,名誉研究員となった。後任の所長・理事長には宇佐美誠次郎が就任した。
 所長の交代だけでなく,この前後には人事面でかなり大幅な変動があった。すなわち,63年には第24集以降の『日本労働年鑑』編集の実務を担っていた田沼肇研究員が社会学部に移った。また,司書として図書整理にあたると同時に『本邦会社史目録』や「戦後労働組合史文献目録」などを作成した永田利雄が退職し,かわって是枝洋が65年に入職した。66年には政経ビル時代から20年近く庶務会計を担当してきた中林倭子が退職し,後任に唐谷喜夫が採用された。また65年には中林賢二郎,66年には小林謙一,二村一夫が兼任研究員となり,中林,二村はそれぞれ1年後に専任研究員となった。さらに68年には原薫研究員が経済学部に転じた。
 当時,研究所はいくつかの困難な問題をかかえていた。そのひとつは『日本労働年鑑』のたてなおしである。年鑑は製作費の増大に加え,売行き不振のため第31集からページ数の大幅削減を余儀なくされていたのであるが,第35集はついに発行部数が1000部を割り,1962年には出版社から発行を断わられるという状態になっていた。宇佐美新所長,それに第36集から年鑑編集の実務を担当した中林研究員を中心に全所員が協力して事態の打開にとりくんだ。執筆に先立って関係者から運動の実状をきき,各自が分担箇所を報告する研究会を毎週開くなどして内容の改善につとめた。編集の最終段階では,所長はじめ専任,兼担の研究員が合宿して内容の検討,相互調整を行なうなどの努力が続けられた。問題の出版社は65年から労働旬報社にかわり,同社の積極的な取り組みによって発行部数はいっきょに3倍以上になった。
 また,容易に進捗しなかった原資料の整理もこの頃からしだいに軌道に乗り,利用可能な状態になった。この点で大きな意味をもったのは,67年はじめに第一工業高校の廃止によって空いた麻布校舎に図書資料の整理閲覧のためのスペースを確保できたことであった。麻布分室の設置によって,柏木の土蔵や研究所の書庫,さらには研究室,事務室にまで山積みになっていた図書資料が書架に配架され,閲覧可能となった。予算の制約で新しい書架は購入できなかったが,折よく他大学で不用となった書架をただ同様で払い下げてもらい,当座をしのぐことが出来た。スペースと同時に資料整理を進捗させることとなったのは,これまでアルバイトに一任する形であった戦前資料の整理を専任所員中心の体制に切り替えたことである。はじめは,1956年からボランティアとして戦前資料の整理にあたってきた二村が主としてこれに担当し,70年以降は谷口朗子が中心となった。さらに図書や機関紙誌の整理も,1967年から68年にかけて,石島忠,是枝洋を中心に研究員も参加し,暖房はおろか電灯さえない土蔵に通っておこなわれ,その結果は『法政大学大原社会問題研究所所蔵文献目録(戦前の部)』としてまとめられた。これによって研究所焼失以来,25年近く全容が不明のままであった研究所の図書・逐次刊行物の所蔵状況が判明し,利用が容易になった。この目録の価値はしだいに研究者の間で認められるようになり,「灯台もと暗し。慌ててヨーロッパの図書館に尋ねる前にこの『目録』を見るとよい」(西川正雄「ヨーロッパ労働運動史研究について」)と評されている。




 

〔創立50周年以後〕

 1969年,研究所は創立50周年を迎えた。これを記念するため,研究所は朝日新聞社の協力をえて記念講演会と展示会を開催した。講演会は5月22日,有楽町の朝日講堂に満員の聴衆を集め,大島清所長が〈社会運動の半世紀と大原研究所〉,美濃部亮東京都知事が〈私と大原研究所〉,大内兵衞元法政大学総長が〈世界の中の日本〉と題し講演した。展示会は講演会の翌日から6日間,東急百貨店日本橋店(旧白木屋)7階グランドホールで,「社会運動の半世紀展──圧制と民衆の抵抗」と題して開かれた。展示会は,研究所所蔵資料を中心に物品によって日本の社会運動の歩みをたどったもので,連日2000人前後の入場者がつめかけ,用意した写真入りのカタログ3000部は全部売り切れ,急遽増刷したほどであった。展示会などの他にも,研究所は50周年記念事業として『所蔵文献目録』と『大原社会問題研究所五十年史』を刊行した。『五十年史』は1954年に刊行した『大原社会問題研究所三十年史』に,その後20年の歩みを書き加えたもので,1970年11月に刊行された。どちらも大島清研究員の執筆にかかるものである。
 創立50周年前後から,研究所の活動分野はしだいに広がった。すなわち,1950年代,60年代の研究所は『日本労働年鑑』と労働問題に関する実態調査を二本柱としていたが,60年代末から新たに『マルクス経済学レキシコン』と《復刻シリーズ・日本社会運動史料》の編集という二大事業が加わり,さらに従来は学内や研究所関係者に限られていた図書資料の閲覧を一般に公開し,専門図書館・資料館として機能するようになったのである。
 『マルクス経済学レキシコン』は,マルクス,エンゲルスの諸著作や書簡,遺稿などから,重要な概念や問題点についての理解に役立つ叙述を抜粋し,競争,方法,唯物史観,恐慌,貨幣とうい5つのテーマごとに整理・編成し,原典と邦訳を見開きに収めたものである。この事業は,久留間名誉研究員が文字どおり生涯をかけて作成した抜粋カードを基本に編集され,1968年4月に第1巻が刊行された。以後,ほぼ年1巻のテンポで刊行が続けられ,1985年9月に第15巻を刊行して完結した。このプロジェクトは,久留間博士を中心に所内から宇佐美誠次郎・大島清研究員,所外から川鍋正敏,久留間健,尾形憲,岡田祐之,大木啓次,大谷禎之介の諸氏の協力を得たもので,さらに後には遠藤茂雄,小西一雄,前畑雪彦の諸氏も編集委員会に加わった。この『レキシコン』に対する内外の評価はきわめて高く,1970年に朝日学術奨励金を,年には野呂栄太郎賞を受けたほか,出版社の大月書店は1975年にモスクワの国際図書展で銀賞を得ている。一時,西ドイツなどで海賊版が出回っていたが,その後同国の4つの出版社からドイツ語版発行の申し入れをうけ,結局社会主義文献の復刻などで実績のあるアウヴァーマン社から刊行された。なお,その後同社の合併にともない発行所はトポス社に移った。
 《復刻シリーズ・日本社会運動史料》は,研究所が収集した労働組合,無産政党,青年団体などの機関紙誌をはじめ,大会議案,議事録,通達,報告,書簡,ビラなどの原資料を復刻して,研究者や運動家の利用に役立てようとするものである。新聞雑誌の復刻ということであれば他に例は多いが,この計画は,a)出来る限り欠号のない完全な原本を揃えること,b)正確な解題を付すこと,c)詳細な目次と索引を作成し,同時にペンネームや無署名論文の筆者を明らかにすることなどの方針のもとに,それ自体が学問研究としても価値あるものとなるよう編集している。発行所は法政大学出版局で,1969年3月に『新人会機関誌 デモクラシイ/先駆/同胞/ナロード』を出したのをかわきりに,1989年2月の『政治批判』で機関紙誌篇は192冊,原資料篇は『政治研究会/無産政党組織準備委員会』1冊,『労働農民党』5冊の計198冊に達している。全体の編集には二村があたり,兼任研究員の大野節子,梅田俊英,横関至の諸氏が実務を担い,目次索引の作成などには是枝洋,古谷暢子のほか,所外から松尾多賀,鈴木裕子,敷野静子氏らの協力を得ている。さらに各巻の解題は,所外の専門研究者多数の協力を得てすすめている。
 麻布分室の設置以後,図書資料の整理は順調にすすみ,71年4月からは週2日の閲覧日をもうけ,利用者の便宜をはかることとした。さらに73年からは,閲覧日を週5日とし,かねてから利用者の間で強い要望が出されていた協調会文庫との共同利用についても,管理を大原社研が担当することで実現をみた。




〔創立60周年〕

 1979年,研究所は創立60周年を迎えた。また創立以来の所の中心事業である『日本労働年鑑』は,この年11月に発行された1980年版で第50集に達した。これを記念し,また1年後に迫った法政大学の創立100周年を記念して,研究所はその所蔵する図書資料のうちからヨーロッパ関係の貴重書や書簡,肉筆原稿など約100点を選んで特別展示会を開いた。11月12日から6日間,東京駅前の八重洲ブックセンターで開かれた〈秘蔵貴重書・書簡特別展示〉には,社会運動史,社会思想史,経済学史などを専攻する学者研究者をはじめ,全国各地から多くの見学者がつめかけた。また会期中の11月14日には,創立60周年と『日本労働年鑑』第50集の刊行を祝う会を日本私学振興財団ビルで開いた。学界,労働組合関係者など100余人が出席し,中村哲法政大学総長,森戸辰男,向坂逸郎,有泉亨,氏原正治郎,斎藤一の諸氏から祝辞がのべられた。
 このほか創立60周年を記念し,研究所は所蔵資料を用いて『写真でみるメーデーの歴史』を編集刊行し,さらに岡本秀昭兼担研究員はウエッブの『大英社会主義社会の構成』を改訳刊行した。
 また79年には,文部省科学研究費の助成を得て,「産別会議に関する研究」が始められた。これは敗戦直後の日本労働運動において重要な役割を果した産別会議について,研究所が所蔵する産別会議本部の旧蔵資料を基礎に,関連資料をさらに補充し,関係者からの聞き取りなどをすすめる計画で,専任研究員の早川征一郎が責任者となり,吉田健二,平井陽一,松尾洋,桜井絹江,木下武男の諸氏が参加し,現在なお続いている。
 翌1980年,創立60周年の記念事業の一環として〈労働組合運動の今日的課題〉と題し,連続公開講座を開催した。これを第1回に,その後原則として年1回公開講座を開催するようになった。当初は,労働組合の幹部などを対象とする教育的な色彩が濃いテーマを選んでいたが,第4回の〈企業別組合論の再検討〉からシンポジウム形式に変えている。またテーマも情報化をめぐる問題や最近はその年のILO総会の議題に即したテーマを選んでいる。




〔2度の移転〕

 ところで,創立60周年以降の10年間は,長い研究所の歴史の中でも,創立当初につぐ第2の激動期であった。その意味は二重,三重で,第1は文字どおりの激動,物理的な動きで,この間,研究所は2回の移転を経験したのである。第2は組織面での激動で,財団法人としての法政大学大原社会問題研究所を解散し,法政大学の付置研究所として再出発することとなった。第3には,これを機に組織・運営面での改革がはかられ,また研究・事業活動の点で,さらには人事面でも大きな変化がみられた時期であった。
 最初の移動は81年3月で,富士見校地に新築された80年館に居をかまえたのである。この図書館研究室棟の3階に事務所と閲覧室,研究室など平方メートルが,同じ建物の地下2階と3階に集密書架のある書庫が設けられた。これによって,それまで大学院と麻布校舎,さらに柏木の土蔵と3箇所にに分散していた図書資料が,一箇所に集められ,ようやく研究所としての体裁が整ったのである。
 しかし,ここに落ちつく間もない1982年,経済学部,社会学部の多摩校地移転決定にともない,両学部は大原研究所も多摩へ移転するよう要望してきたのである。80年館の研究所は交通至便の地での新しい施設であったし,学外の利用者が多い実状を考えると,移転は必ずしも望ましいことではなかった。しかし,ここでは当初から書庫は満杯で,図書と逐次刊行物の一部は旧図書館,さらには川崎校舎に収めざるを得なかったほどであった。富士見校地で拡張の余地が乏しいとすれば,多少の不便は我慢しても移転せざるを得ない状況にあることもまた確かであった。研究員会議や事務会議,所員会議における何回もの討論の結果,最終的には経済・社会両学部の申し入れを受けいれることとなり,86年3月に多摩校地への移転が実施された。新しい研究所は,図書館研究所棟の最上階である5階に事務室,閲覧室,研究室,参考図書書架,作業室のほか,比較経済研究所,統計研究所と共用の会議室,さらに地下3階には電動の集密書架をそなえた書庫があり,総面積は2,200平方メートルと大阪時代よりも広く,研究所70年の歴史で最大かつ最高の設備を有するものとなった。




〔組織改革〕

 激動の第2は,組織面での変化である。経済・社会両学部からの申し入れは,単に研究所の移転だけでなく,大原研究所が学内の研究活動を促進する上で積極的な役割を果たすよう,その機構改革も求めていた。この問題はかねてから所内で検討中であったが,最終的な結論をみるにいたらなかったので,83年2月,両学部に対し,移転を原則的に受け入れることを表明すると同時に,当面なしうる改革について回答した。その骨子は,兼担研究員を若干名増員しその任期を決めること,さらに嘱託研究員の増員等によって,研究所をより開かれたものとするというにあった。
 ところで,研究所の組織改革問題の焦点は,学校法人法政大学と形式的には別法人である,財団法人法政大学大原社会問題研究所をこれまでどおり維持するか否かにあった。1949年,法政大学との合併と同時に,いったんは財団法人を解散し大学の付置研究所となった大原社研は,その翌年に改めて法政大学とは別個の法人格をもつ財団法人法政大学大原社会問題研究所に組織を改めていた。この改組の理由は明かではないが,おそらく文部省など外部からの補助金を受け入れやすくするための措置であったと推測される。しかし時日の経過とともに,事態は大きく変化した。私立大学に対して経常費助成が始まったのに,民間研究所への助成はしだいに限定されていったからである。このため,大原社会問題研究所は,実質上は法政大学によって維持されているにもかかわらず,その専任研究員や職員に対して,私立大学への経常費助成が受けられないという矛盾が生じた。この問題を解決する一方策として,1973年に法政大学の付置研究所としての社会労働問題研究センターが設置された。専任研究員,専任職員は全員ここに所属して大学から給与を受け,同時に大原研究所の研究員,職員として併任されたのである。もちろん,このセンターは,たんなる補助金受け入れのための機関ではなく,大学図書館所蔵の協調会文庫と大原研究所の所蔵図書資料との共同利用施設としての独自機能をもたせていた。しかし,予算面,人事面などで,大原社研と社会労働問題研究センターとが二重組織的であることは否定できず,正常な状態とはいえなかった。しかし一方で,研究所が独立の財団法人として維持されていることは,大原社研独自の企画,運営を可能にし,弾力的で,柔軟な活動の展開を容易する条件でもあった。
 この〈二重組織〉をそのまま維持するか,財団法人を解散して大学の付置研究所として一本化すべきかについては,さまざまな意見があり,研究員会を中心に慎重な検討がかさねられた。その結果,最終的には,多摩移転を機会に財団法人を解散し,大原社会問題研究所を法政大学の付置研究所に改めることで意見が一致した。この方針は83年6月8日の研究所理事会及び評議員会でも承認され,「研究所の多摩校地への移転を機に,法政大学付置研究所に改める」との所長提案が全員一致で可決された。さらに86年1月31日には,臨時の理事会および評議員会が開かれ,「財団法人法政大学大原社会問題研究所を解散し,残余財産を学校法人法政大学に寄付すること」を全員一致で可決した。この決定にもとづき同日付で監督官庁である文部省に財団法人の解散を申請し,同年3月13日には文部大臣の認可が得られた。財団法人の残余財産は法政大学に寄贈され,同年4月,法政大学大原社会問題研究所は,名実ともに法政大学の付置研究所となったのである。
 財団法人解散とともに,研究所運営の中心は理事会から運営委員会に引き継がれた。運営委員は研究所の専任研究員全員と各学部専任教員の中から委嘱される兼担研究員によって構成されることとなった。専任研究員の任務は,研究所の日常業務を分担すると同時に,さまざまなプロジェクトを組織し,調整することである。また,兼担研究員には,単に運営委員として委員会に参加するだけでなく,原則として,なんらかのプロジェクトを組織し,あるいは参加することが求められた。また財団法人時代以来の有給の兼任研究員制度は,若い研究者に各人の研究関心と関連する一定の業務を分担してもらい,これによって研究所の事業活動を活発化すると同時に,長期的には各人の研究にとってもプラスとなることを期するものであった。
 これら従来からの制度に加えて,無給の嘱託研究員と客員研究員の制度が新設された。学内専任教員や学外の専門研究者を委嘱した嘱託研究員には,プロジェクトチームへの参加をはじめ,研究所が実施するさまざまな活動への協力と同時に,研究所の運営についての率直な批判や意見を提起し,さらに兼担研究員・運営委員のプール的な役割も期待されていた。また客員研究員は,大原社会問題研究所を利用して研究をおこなおうとされる内外の専門研究者を受け入れるものであった。このように専任,兼担,兼任,嘱託,客員といった研究員の区分は,小さな研究所にとっては余りに複雑にすぎると思われる向きもあろう。しかし,ごく限られた数の専任研究員しかもてない私立大学の小さな研究所であるからこそ,多様な人々の力を借りる必要があり,それによって,研究所は活力を増し,その活動分野を広げることが出来ると考えてのことであった。




〔人事面の変化〕

 激動の第3は,人事面での大きな変化であった。1983年3月には,元所長であり,常務理事・兼担研究員であった大島清教授が定年のため職を退き,名誉研究員となった。さらに専任研究員の斎藤泰明教授も病気のため退職した。その後任の専任研究員には,同年7月佐藤博樹助教授が就任した。また,1985年3月には元所長,常務理事・兼担研究員の宇佐美誠次郎教授が定年退職し,名誉研究員となった。1987年4月には専任研究員の佐藤博樹助教授が経営学部へ移り,後任には五十嵐仁助教授が就任した。
 職員についても,この間,かなりの異動があった。すなわち,真島克子,唐谷喜夫の両氏が退職し,福嶺盟,熊沢典,井上貞代の3人が,学内の異動で転入し,数年で転出した。さらに,庶務主任として立花雄一が工学部図書館から転入し,司書として小島英恵,若杉隆志の2人が新たに採用された。
 さらに研究所にとって大きな打撃であったのは,この間に多数の先輩や同僚を失ったことである。なかでも研究所創設以来の研究員であり,戦後の困難な時期に研究所の維持に心をくだいた久留間鮫造元所長が1982年10月に死去されたのに続き,1984年5月に戦後の研究所にあって,所長,理事,兼担研究員として研究所の活性化につとめられた大島清が死去されたのは痛手であった。さらに戦前から戦後初期まで専任研究員,常務理事として研究所を支えた森戸辰男氏も同月に逝去された。さらに,1986年になると,1月に『日本労働年鑑』の立て直しに手腕を発揮された兼担研究員・評議員の中林賢二郎氏,8月には,資料庶務係主任として,2度の研究所移転の先頭に立って活躍された大野喜実氏がともに急逝された。この他にも,大内兵衞,松川七郎,木村定,有沢広巳,唐谷喜夫氏ら,研究所と関わりの深い方々が死去された。



〔新たな活動の展開〕

 80年館への移転,さらには多摩校地への移転は,充実した施設のもとでの,あらたな活動の展開を可能にした。そうした中で,研究所が文字どおり総力をあげて取り組んだのは,『社会・労働運動大年表』の編集であった。これは,研究所創立60周年の記念事業として計画したものであるが,実際に編集委員会が発足し,作業が軌道に乗ったのは80年館へ移転後の1983年のことであった。この『社会・労働運動大年表』は,日本の開国が決定した1858年から1985年までの約130年間について,日本の労働運動・社会運動の歩みを記録するもので,第二次世界大戦前を1冊,戦後を2冊,索引・出典を収めた別巻を加え全4冊,総計1500ページ,文字どおりの大年表である。社会運動と労働運動の2欄を中心にしながら,運動をとりまく政治法律,経済経営,社会文化についてもそれぞれ独立の欄を設け,さらに国際欄では日本に影響を及ぼした外国の出来事はもちろん,世界各国の社会・労働運動とその背景,国際的な運動等について収録し,民衆の側からみた近代日本総合年表となることを目指していた。この年表の特色は,a)全項目に出典を示したこと,b)重要項目3500には簡潔な解説を付したこと,c)索引を独立の巻としたこと,d)毎年の『日本労働年鑑』に同一形式の増補を作成することなどで,さまざまな面で利用者の便宜をはかっていた。解説項目の選択,編集作業は,所内の研究員11人で構成した編集委員会が中心となり,さらに事項選択と執筆,解説項目の執筆などには,各分野の専門家250人余の援助を受けた。期間中,編集委員は,毎月1回欠かさず開かれた定例の委員会のほか,各巻,各欄ごとに集まり検討を重ね,その会合の数は300回を越えた。
 さいわいこの『社会・労働運動大年表』は各界から好評をもって迎えられ,完結直後の1987年3月には第1回沖永賞を受賞した。この事業が研究所の若返り,活性化に果した役割は大きかった。それというのは,この大事業の遂行には専任・兼担研究員だけではとうてい力不足であることは明瞭で,これを補うため若手研究者を兼任研究員として採用したからである。彼等は『社会・労働運動大年表』完成の推進力となっただけでなく,つぎにみるプロジェクトチームの新設や『大原社会問題研究所雑誌』の改革をはじめ研究所の活動のさまざまな分野で大きな力を発揮したのである。
 ところで,研究所は,これまでもさまざまなテーマについての調査をおこない,文部省の科学研究費などを得て共同研究を実施し,あるいは随時,研究会を開いてきた。しかし,その参加者は専任研究員,兼担研究員が主で,ともすれば固定化する傾向が避け難かった。こうした状況を打破し,研究所をもっと開かれたものとするため,81年頃から兼担研究員が中心になり,所外さらには学外の専門研究者にも参加を求めて,一定の研究テーマを中心とするプロジェクトチームの編成し,研究所はこれをサポートする体制をとるようにした。こうして1981年には経済学部の小林謙一教授を中心とした〈高齢化社会研究会〉,翌1982年には舟橋研究員を中心に〈80年代の雇用と賃金〉,1983年に嶺学研究員を中心とする〈QWL(労働生活の質)研究会〉などつぎつぎに新しいプロジェクトチームを発足させた。これらの研究会は,多いもので20人前後,少ないものでは3人ほどの研究者で,文献研究の集まり,専門家や実務家の報告を聞く研究会,調査活動などを実施している。その成果は,『大原社会問題研究所雑誌』に随時発表するほか,《法政大学大原社会問題研究所研究叢書》として発表している。88年末現在刊行の研究叢書は次の6冊である。

  1.  舟橋尚道編『現代の経済構造と労使関係』(1983年,総合労働研究所)
  2.  早川征一郎・小越洋之助・相田利雄編著『電機産業における労働組合』(1984年,大月書店)
  3.  法政大学大原社会問題研究所編『現代の高齢者対策』(1985年,総合労働研究所)
  4.  法政大学大原社会問題研究所編『労働の人間化』(1986年,総合労働研究所)
  5.  二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』(1988年,東京大学出版会)
  6.  中村圭介,佐藤博樹,神谷拓平著『労働組合は本当に役に立っているのか』(1988年,総合労働研究所)

 なお,産別会議研究会,長期労働統計編成プロジェクト,労働戦線再編に関する研究会は,それぞれ文部省の科学研究費を得て活動している。
 つぎに特筆すべきは,故向坂逸郎氏の蔵書7万冊の寄贈を受けたことである。これは,研究所の蔵書量をいっきに増加させただけでなく,その質を高める上でも重要な意味をもったのである。向坂文庫の具体的な内容や整理の進行状況は別に詳しく記しているので,ここではふれない。ただこの向坂文庫の受け入れが,あとに述べる図書整理の機械化,コンピュータ化を促進する上で積極的な役割を果たしたことだけは,指摘しておく必要があろう。すなわち,この10年間で,研究所の活動はつぎに見るように急速にその幅を広げた。とうぜんのことながら研究員や職員の負担はそれだけ増していた。その上に,7万冊もの向坂文庫を整理し,目録を作成することは,これまで通りのやり方では不可能であった。根本的な解決策は専任職員の増員であるが,大学財政の現状を考えると,そうした対応が難しいことも明瞭であった。次善の策としてとられたのが,臨時職員の増員であり,コンピュータの導入であった。向坂文庫の受け入れを機に,コンピュータ導入への取り組みが始まり,さらに今年度から出発したデータベース作成へと発展しているのである。



〔多摩移転以後の活動〕

 以上の活動は,『社会・労働運動大年表』をのぞけば,いずれも現在も続けられているものであるが,そのほか多摩校地に移転してから新たに始められた企てがいくつかある。すなわち,a)機関誌の改善 b)『日本労働年鑑』の改革 c)図書整理,文献情報の作成等へのコンピュータの導入 d)労働関係文献に関するデータベースの作成作業開始 e)戦後労働・社会運動資料の編集準備。
 すでに述べた《日本社会運動史料》,プロジェクトチーム,研究叢書,向坂文庫などに加え,この問題のそれぞれについて説明すれば,研究所の現状についてはあらましご理解いただけるであろう。
 1)機関誌の改善……研究所は1953年から月刊の機関誌『資料室報』を発行し,社会労働問題研究センターの発足後は,研究所とセンターの共同編集で『研究資料月報』を刊行してきた。しかしその内容は,研究員がもちまわりで執筆する論文1本に労働日誌を加えただけのものであった。こうした状態を打破するため,1984年6月号から,一般の投稿も掲載するように改め,単に研究所の紀要ではなく労働問題に関する専門研究誌とすることを目指すこととした。この努力はしだいに実を結び,1986年4月号からは,誌名も『大原社会問題研究所雑誌』と改め,内容体裁の一新をはかった。その後,労働年鑑の速報的,補充的なデータを集めた特集号をはじめ,いくつかの特集を編み,さらには若手研究者の時間をかけた力作の投稿も増え,雑誌に対する社会的評価もしだいに高まりつつある。
 2)『日本労働年鑑』の改革……『日本労働年鑑』は戦前の第18集以来長い間,a)労働者状態 b)労働運動 c)労働政策の3部構成をとっていた。しかし,これでは日本の労働問題において重要な位置を占める経営内労使関係の状況を反映しがたいところがあり,かねてからその点をどう改善するかが問題となってきた。そこで,1987年に発行した第57集から,a)労働経済と労働者生活 b)経営労務と労使関係 c)労働組合の組織と運動 d)労働組合と政治・社会運動 e)労働・社会政策の5部構成に改めた。また,労働組合全国組織については,従来それぞれの組織の大会を中心に取り上げてきたが,これを各組織の構成,運動方針,政党との関係,国際活動など,その実態を総合的に把握できるようにした。さらに従来の〈労働日誌〉を『社会・労働運動大年表』と同じ6欄形式に改め,『社会・労働運動大年表』の増補となるようにした。
 3)図書整理,文献情報の作成等へのコンピュータの導入……多摩移転を機に,図書整理をそれまでの手作業から,パーソナル・コンピュータを使用しての整理に切り替えた。1986年はまだ実験段階で,新着図書について図書台帳の記入をはじめ,新着図書目録の編集,各種カードの打ち出しをパソコンを利用しておこない,かなりの成果をあげた。また,向坂文庫についても,基本的な書誌データの入力を外部業者に依託し,予想以上に整理作業の進捗をはかることができた。こうした実験結果をふまえ,またパソコン本体および周辺機器の能力向上と,パッケージソフトのめざましい進歩によって,30万冊〜50万冊の蔵書であれば,汎用コンピュータによらなくとも電算化が十分可能であることを考え,研究所独自でパソコンによる図書整理に踏み切ったのである。現在はまだ過渡期であるため,書名・著者名・分類カードを打ち出し,手作業で配列しているので,人手の節約にはなっていない。しかし,いずれはカードレスシステムに移行し,大幅な省力化をはかりたいと考えている。 
 4)労働関係文献に関するデータベースの作成作業開始……研究所は1960年以来,〈労働関係文献月録〉を作成し,研究者や実務家の利用に供してきた。この〈月録〉は,労働問題に関する専門的な文献索引として,他の専門書誌が採録対象としていない労働組合機関誌や,組合調査部や労働問題専門調査機関の調査資料など市販されていない文献も採録し,他に類のない文献情報のソースとして高い評価を受けてきた。しかし,月録であるため速報としては利用価値が高いが,長期的な検索には向いていない。そのため,かねてから,この〈労働関係文献月録〉作成の経験と目録そのものの蓄積を基礎に,労働関係専門文献のデータベースを作成することを考えてきた。さいわい,この計画を私学振興財団の学術研究振興資金に応募したところ認められ,1988年度から作業を開始している。
 5)《戦後社会・労働運動資料》の編集準備……創立70周年の記念事業として1989年から《戦後社会・労働運動資料》を編集刊行することとし,準備にかかっている。

〔国際交流〕

 この10年間で大きく変化したことのひとつは国際交流の進展である。それまでも,客員研究員として,外国から長期滞在の研究者を受け入れた例はあったが,80年館への移転以後,施設が充実し,事実上,日本最大の労働問題専門図書館となったこともあって,急速に進展した。アメリカ,イギリス,ドイツ,フランス,イタリア,カナダ,ソ連,オーストラリアなど世界中から多数の学者が来所し,研究所の図書や資料を利用し成果をあげている。とくにここ数年は,毎年数十人の人々が研究所を訪れ,うち3,4人は客員研究員として受け入れている。外国人研究者の受け入れだけでなく,大原社研の所員が海外の共同研究に参加し,あるいは講義や講演を依頼される機会も増えている。また,かつて客員研究員であった教授の強い希望で,アメリカのデューク大学と法政大学との間で学生の相互交流協定が結ばれるなど,大学全体の国際化の上でも研究所の果たす役割は増大しつつあり,今後はいっそう大きくなるであろう。



〔21世紀へ向けて〕

 あらためて言うまでもないが,ここで大原社研70年の歴史を振り返ったのは,単に過去の栄光を誇示するためではない。われわれにいま課せられているのは,いかすればこの伝統ある研究所を継承発展させることが出来るかその方向を探り,その名に恥じない研究所を作り上げていくことである。しかし,これは言うはやすく,実現は困難な課題である。
 70年前と比べ大原社会問題研究所をとりまく環境は大きく変わっている。日本中に類似の研究機関がまったく存在しなかった創立当初であれば,マルクス主義研究,社会主義史研究,婦人労働研究,児童問題研究,娯楽研究など,何を研究してもそれぞれの分野での先駆的な業績となりえた。それに比べて現在は,社会科学研究を目的とする研究所は数十を数え,社会・労働問題を対象とする官民の研究機関だけでも2桁はあり,さらに諸官庁や全国数百の大学,さらには民間企業などにも,さまざまなディシプリンによって研究を進めている専門家集団が多数存在する今は,研究所の在り方は異ならざるをえないであろう。
 また戦前であれば,労働組合員が最高時でも42万人であった事実が示すように,『日本労働年鑑』編集のための調査や資料収集等にあたっても,その対象となる運動の規模は限られたものであった。だから一民間研究所が,毎年,独自に労働組合について悉皆調査を実施することが可能であったのである。これに対し,現在,労働組合員数は1200万と戦前の実に30倍である。さらに,さまざまな社会問題が噴出し,これに対する運動団体も非常な広がりをみせている。一方,これに対応する研究所の主体的な力量はといえば,戦前の最盛期には専任研究員10人,図書関係職員15人,書記雇員等15人,合計40人のスタッフを擁していた。これに比べ現在は,専任研究員3人,職員7人の計10人と4分の1の規模である。
 こうした状況を考える時,われわれに残されている道は,小規模ではあっても,この問題であれば大原社研といわれるような,強い個性をもった研究所を作り上げて行くことでしかないと思われる。国公立の主要大学の社会科学研究所や人文科学研究所のような総合研究所を志向するのではなく,労働問題研究に重点をおき,その分野では日本における研究のセンターとなることを目指すことである。そのための条件は揃っている。70年の歴史と『日本労働年鑑』をはじめとする大原社研の名で続けてきたいくつかの事業,その間に広く知られた名前,さらには〈労働問題文献月録〉編集の実績を生かした資料収集を基礎とした専門図書館・資料館としての機能,さらには新たに進めつつある労働関係研究文献情報のデータベースなど,先輩が残してくれた遺産は決して小さなものではない。地道な努力を積み上げていけば,さらに大きな飛躍をとげる機会は充分あるであろう。






〔初出は『大原社会問題研究所雑誌』363号、1989年2月〕

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