二 村 一 夫 著 作 集



《書評》

栗田健『日本の労働社会』

(東京大学出版会、1994年4月刊行、231+xi頁、定価4120円)


                             二 村 一夫

はじめに

 長年、イギリスの労働組合・労使関係史を対象に、現代の労使関係の論理を追究してこられた栗田健氏が、その鋭い方法意識をもって日本労使関係の特質の解明を試みた野心的な作品である。著者によれば、本書は「新たな事実発見を提供することを主目的とするものではなく、これまでの諸研究によって明らかにされていることの意義を、私の日本の労働者像を中心とする理論的な枠組みの中に位置づけること」を意図したもので、「日本の労使関係の特殊性を理解するために、日本の労働者が持っている価値観……を尺度にして、実際の労使関係の展開を再構成」することにある、という。

 本書は、〈はしがき〉〈序論〉〈結語〉と、本論4章で構成されている。〈はしがき〉では、本書の意図が記され、〈序論〉は、日本労使関係研究の研究史を通じて、解くべき課題を提起している。第1章は、本書の理論的な枠組みの提示で、国際比較的な視点から、日本の産業化の過程における労働者の価値観と行動様式が検討される。序論と第1章は既発表論文の改稿だが、第2章以下はすべて書き下ろしで、戦後の日本の労使関係が時間の経過を追って論じられている。すなわち、第2章は「戦後民主主義と労働者」、第3章は「日本的労使関係の形成」、第4章は「労使協調の構造」、そして〈結語〉で「日本労使関係の展望」が示される。  以上7部で約 220頁、大冊ではなく、また良く読めば論理明晰な書物である。だが、白状すれば、全体を読みこなすにはかなりの時間を要した。難解であった理由はいくつかあるが、その第1は、現実の事象をひとつの論理に基づき再構成する、その方法にあると思われる。つまり、本書を理解するには、何よりもその論理構造を把握しなければならない。そこでまず、これを主題とする序論と第1章をみておこう。


2. 序論について

 序論は、日本労使関係研究の研究史である。しかし、ここで検討されているのは、大河内一男、氏原正治郎らごく限られた研究者の業績である。このテーマに関する研究史となれば、他にも重要な作品はいくつかある。ここは包括的、総括的な研究史というより、著者の課題確認のための作業と見るべきであろう。ただ、この研究史整理にあたる著者の立脚点が、やや明確を欠いている。あるいは、著者は、ここで検討されている研究の各潮流の何れをも超えた立場にいる、と見るべきなのかもしれない。だが、仮にそうであるとしても、各潮流からの距離は同じではなかろう。その違いを示して欲しかった。この研究史評価にあたる著者の位置の不明確さが、本書を難解にしている一因である。
 序論で著者が力をこめて論ずるのは、マルクス主義的労使関係論の危機的状況である。それは、欧米をモデルとして理論を構築してきた状況の崩壊という客観的条件の変化に加え、日本のマルクス主義理論がもっていた欠陥が露呈したからである、という。その欠陥は、「階級という、高度に抽象的な概念で分析することが可能な領域は、資本、賃労働という抽象化された論理の領域であり、企業や従業員が織り成す具体的な世界ではないにもかかわらず、この理論は、労使関係の具体的諸現象に抽象的概念での解釈を下すことで満足してきた」点にある。欧米との対比で日本の現実を批判し得た段階では、疑似的にではあれ具体性を持ち得た日本労使関係論が、今や比較の対象を失い、理論と現実をつなぐ術をもたなくなった、というのである。そして最終的に本書の課題として提起されるのは、つぎのような壮大なテーマである。
「西欧的な価値規範が揺り動かされ、社会的運動の目標が不明確になりつつあるとき、そして日本社会のあり方がもうひとつの選択肢として注目されているとき、日本社会の価値規範を見出し体系化して、その意義と限界を明らかにすることは、日本の社会科学に課せられた一つの責務である」。また、「欧米諸国の経済破綻が意味しているものは、市民社会の経済的基盤の危機であり、自立した個人という世界史的な人間像の危機である。〔中略〕この状況の中で、もし異質の社会構成体としての日本社会の編成原理が……欧米諸国の社会体制に代わって現代を担うとすれば、日本社会がこの市民的権利を継承する用意のあるものなのか否かが検討されなければならない。……日本労使関係が世界史的に進歩的な位置を占めるに足るどのような人間像を基礎とするものであるかという問題が、あらためて問われることになるであろう」。
 この書物の直接の研究対象は、日本の労使関係であるが、そこで提起されている課題は、はるかに大きな広がりをもつものである。ただ、評者の読みの浅さにもよろうが、この課題の後半に関する答を、本書から充分に読みとることは出来なかった。著者は、〈結語〉を「日本的労使関係が当面提示し得ていない、西欧的市民社会の人間像に代わる現代的人間像は、そのような試練を克服する過程を越えて振り返ったときに、市民的権利に裏付けられた組織志向型の人間像として、積極的な意義を伴って浮かび上がってくるのではないだろうか」と、結んでいる。これが、おそらく著者のこの設問に対する解答であろう。だが、自らの問いに、もう少し踏み込んで答えて欲しかった。


3. 第1章「労働者の価値観と行動様式」

 標題が示唆するように、労使関係は経済的な利害関係を基礎とする階級関係だけで解明できるのでなく、労働者の価値観が重要な意義をもっているというのが、本章の、そして本書の基本的な視点である。これは評者もかねてから主張して来た点で、賛成である。

 ここで著者はR・ベラーに依拠して人間の社会行動における価値観の独自性を強調し、また作田啓一に依拠して日本の近代化の過程における価値体系の特質を論じている。そして日本では、「国家価値に包摂される限りにおいて労働者の権利もまた承認され」たこと、また「日本の近代化の過程は、精神的には濃厚な平等主義によって特徴づけられ」、ただ「それが個人に属する人権としての平等ではなく、天皇制への従属者としての平等」であったことが指摘されている。ついで、〈権利構造〉〈権力構造〉に関し、西欧と日本とが対比的に論じられている。 まず〈権利構造〉について、西欧では中間的集団として〈自治的機能集団〉が形成され、それを基礎にさまざまな〈特権〉の保持が行われ、個人の自由はその集団への同調によって確保される。これに対し日本では、中間集団は国家の許容するところとならず、個人の国家への一体化が要求された。

 〈権力構造〉に関しては、西欧では自治的機能集団の「対抗関係を通じて力のバランスが形成され、それぞれに制約されながら固有の領域については独自の支配を遂行する主体の形成がみられる」。労使関係では、「経営の管理については使用者の権利と義務が承認され、他方労働者については労働契約の当事者としての権利と義務とを確認した上で、相互の関係をそれぞれの権利の行使としての交渉を基軸とする利害調整にゆだね」る。これに対し日本では、「権力構造は単一で、総ては国家の権利から派生していた」。そこでは「総ての個人に同じ権限を保障するように見える」が、産業社会では現実に必要な機能に基づき官僚制的な権力の配分が成立し、「倫理的には平等主義」だが、「現実的には権力の不平等」となる、という。  評者も、大筋で、こうした著者の把握に賛成である。ただ、ここで論じられているのは、日本の労働者の〈価値観〉というよりも、広く日本の社会構造そのものの特質、あるいはその一側面なのではなかろうか。

 いずれにせよ、著者は以上のような〈価値観〉についての把握を前提に、「日本の労働者の行動様式」を検討する。そこで明らかにされるのは、つぎの諸点である。

  1.  戦前の日本では、企業内における序列が身分として形成されていた。そのなかで日本の労働者が自己の位置を確認する基準は、西欧の労働者のように技能や職種でなく、企業内で自分が占めている地位であり、他の労働者との上下関係が最大の関心となった。
  2.  西欧の労働者が従属的位置を機能的な役割分担にすぎないと企業内に限定し、社会的には市場的な関係のもとで経営者と対等な位置を確立したのに対し、日本の労働者は従属的な位置は固定的ではなく、各人の努力次第で社会的上昇の機会が開かれている、と考え、個人的な競争により問題の解決を図ろうとした。
  3.  企業のほか社会的な行動領域をもたない労働者は、企業内昇進をめぐって、互いに競争した。日本の年功制度に競争的性格を持たせたのは、労働者自身の欲求である。
  4.  企業内昇進は社会的上昇の証であったから、企業という私的領域が〈公〉的な世界としての秩序を要求された。かくて、自由な競争を保証すること、競争に参加する労働者の平等な権利を承認すること、つまり〈公平な競争〉の原理、これが日本の労使関係における最も基本的な規範となった。



4. 日本の職場構造

 第1章の最終節は「日本の職場構造」である。ここでも、著者はイギリスとの対比で、日本の職場の特質を描いている。この箇所こそ、著者の独自の主張が展開されている、いわば栗田理論の核心部分である。そこで、以下、これについてやや詳細に見ておきたい。
     
  1.  イギリスでは、職場は、同一の職業集団を形成する限られた労働者集団を意味し、経営組織としての職場とは異なった領域である。これに対し、日本の職場は、「まず何よりも競争の場」である。「労働者同士であるから共通の利益に基づいて連帯することが自然なことであると考えることは空想的で」ある。  
  2.  日本の職場が、社会集団としてのまとまりを持つのは、互いに競争する労働者間で〈公平な競争〉が、職場集団に属することによって保障される時である。この〈公平な競争〉ルールは、社会的な広がりをもつ職業集団を形成し得なかった日本では、労働者間には成立せず、企業秩序として成り立つ。かくて、「日本の職場社会は企業社会となる」。  
  3.  企業社会での〈公平な競争〉ルールの確立には、管理者の評価の公正さが問題になる。各労働者は管理者に対し、それぞれが理解する公平な処遇を求め、管理者はこの相互に衝突する主張を調整し、労働者が納得しうる秩序を形成する義務を負う。もし管理者が公正な秩序を形成できなければ、労働者は〈集団〉としてのまとまりをもてない。  
  4.  日本の労働者は、他の職場の労働者とも競争する。したがって、ある職場の管理者は、上位の管理者に対し、自分の職場の労働者が他の職場と比べ不公平な処遇をうけないよう努力しなければ、管理者としての権威を認められず、労働者を職場に帰属させ得ないない。つまり、日本の職場は管理者と労働者が協力して、公平な殊遇を獲得する集団、〈競争する職場集団〉となる。  
  5.  管理者は、労働者を庇護するが、仕事の監督はむしろ厳しい。労働者にとっての〈良い〉管理者は、仕事には厳格な監督者で、その成果の評価には上司に対する強力な交渉者であるようなリーダーである。そのような管理者たるべく、彼らも競争している。  
  6.  こうした職制と上司の関係は、さらにその上位の職制間でも同様である。管理機構の上位に進むほど、管理者は経営者と同質化し、労働者の価値観からはなれるが、管理者がこれを企業内昇進の過程として認識する限り、こうした関係は継承される。各レベルの管理職がこうした機能を発揮すれば、従業員は全体として集団化し、最終的には〈企業一家〉と呼ばれるにふさわしい状態を形づくる。  
  7.  このように管理者に、経営者の意思に従う役割と、部下の労働者の要求を代行する機能とが合わせて課せられ、管理するものと管理されるものとの志向が同じ人格の中に集約されていることが、職場を一つの集団として統合し、職場の規律を労働者間規律たらしめている条件である。  
  8.  労働者が与えられた役割を経過的なものと考え、競争を通じて階層的に上昇しようとする価値観を保持し続けることが、一方で管理者・労働者の同一性を基礎とする職場集団を形成し、他方で管理者の二重性を生む。これが日本の近代化の過程で形成されてきた日本の職場組織である。
 以上のような日本の職場についての認識は、評者も、一定の留保を付せば、ほぼ同意見である。留保条件は、こうした構造の成立時期についてである。すなわち著者は、管理者・労働者の同一性を基礎とする職場集団が、戦前に、それもかなり早い時期に成立していたと見ている。しかし、評者は、こうした職場集団や企業社会は、戦後の工職混合組合による運動の結果として確立したもので、つぎの2つの理由から、戦前期にはまだ成立していなかったと考えている。
     
  1.  戦前の日本の職場では、〈公正な競争〉ルールは成立しておらず、「上司に対し強力な交渉者」であるような職制は一般的な存在ではなかった。戦前の日本で絶えず問題になったのは、職制の恣意的な管理監督であった。昇進昇給をめぐる賄賂の横行は日常茶飯事で、労働者が抱く憤懣の一因であった。  
  2.  従業員の昇進は、学歴ごとに明確な上限があり、とりわけホワイトカラーとブルーカラーの差が大きかった。これは、著者も認めるところである。つまり、企業内の階層区分は、著者が本書41頁の図式に示すような、区切りのない同質的なものではなかった。ブルーカラーとしての最高位に到達した職制が、さらなる昇進を望んで相互に競争するような状況にはなかった。労働者が「与えられた役割をつねに経過的なものと受けとめ」ることはなかったのである。もちろん、身分的に構成された職場で「階層的に上昇しようとする」志向をもった若者は少なからず存在した。しかし、〈公正な競争〉ルールが確立していないこともあり、彼らは、職場における競争の勝者をめざすより、企業外の夜学校か企業内養成所を卒業してより高い学歴を身につけ、それによって、学歴別階層区分を1ランク上に昇ろうとしたのである。

 著者は、日本の労働者の価値観・行動様式の連続性を重視するあまり、行動様式の時代による変化を軽視する結果になっているのではないか。戦前の日本の職場が著者の描くようなものであったとすれば、敗戦後の民主化運動=工職身分格差撤廃運動の必然性は理解できなくなりはしないだろうか。

 関連して、著者には〈価値観〉と〈行動様式〉の差異と関連について、もう少し検討して欲しかった。今のままでは、両者を区別する意味があまりない、というより〈行動様式〉と〈価値観〉をほとんど同義に使っている様子がある。たとえば第1章で日本の労働者の行動様式として発見された〈組織志向〉は、第4章では「労働者の〈組織志向〉的価値観」とされている。評者は、〈価値観〉はより基底的で持続的であるのに対し、〈行動様式〉は、他の社会的諸要因の影響もうけ、急速な変化の可能性をもっていると考えている。

 本書を難解にした理由のひとつは、実際には現代日本の労使関係構造から概念化した図式であるのに、著者がこれを「日本の産業化過程」での、つまり初発からの特質としてしまった点にあるのではなかろうか。著者は戦後を3期に分け、その変化を追っているのに、戦前期については、そこに段階的な変化がありえたことに、まったく関心をはらっていない。だが、評者は、日本の労働者は、社会的身分の違いを重視するという〈価値観〉では一貫していても、その差別をいかに克服するかという対応=〈行動様式〉については、時期により、また、労働者の階層によっても、かなりの変化があったと考えている。時期については、a)工業化の初期の段階、b)教育制度・学校制度が整い、学歴別の企業内序列が確立した20世紀初頭以降、c)第一次大戦後の労働組合運動が大企業の労使関係にインパクトを及ぼした時期、d)産業報国運動や戦時労働政策が企業内の労使関係を規制した時期、といった区分が考えられる。また階層としては、ホワイトカラーとブルーカラー、若年層と中高年層などを考慮すべきであろう。こうした時期や、階層の差によって、労働者の行動様式にはかなりの違いがあったと見るべきであろう。

 おそらくこうした批判に、著者はつぎのように反論されるであろう。「仮にそうした問題があるとすれば、それは戦前日本の労使関係に関する歴史的研究が、そうした変化を解明していないからだ。もともとこの本は、新たな事実発見を主目的とするのでなく、従来の諸研究が明らかにしている事柄の意義を、私の理論的な枠組みの中に位置づけることを意図しているのだから」。その意味で、批判さるべきは、著者よりも、戦前期の日本の労使関係史を専攻してきた評者たちなのかもしれない。



5. 戦後日本労使関係史をめぐって

 第2章以降は、第1章までの難解さは影をひそめる。いずれの章も、戦後日本労働運動史・労使関係史について、最近の研究成果をふまえた明快な分析と、著者ならではの新たな評価が、小気味のよい断定的な表現で示されている。
 第2章、第3章の叙述のひとつの柱は、戦後労働運動史を彩った主要争議である。読売争議、東宝争議、日産争議、尼鋼争議、日鋼室蘭争議、王子製紙争議、三池争議といった大争議を素材として、日本労使関係の特質が論じられている。 もうひとつの柱は、労使双方の主要文書、すなわち総評の賃金綱領(1952年)と組織綱領草案(1958年)、日経連の労働協約基準案(1953年)などについての分析と意義付けである。これらは、部分的には著者の旧著(『労働組合』)などにその片鱗が示されていたものだが、ここではさらに詳しく論じられている。

 すでに与えられた紙幅を大きく越えているので、以下に、評者が注目した論点や評価の一部を例示し、全容については読者が直接同書にあたって検討されることをお勧めしたい。

     
  1. 日本の労働者にとって抑圧からの解放は身分的序列の解体であり、民主化とは使用者と労働者の同権化であった。〔この〕体制は、経営権を労使が共有する体制で、労使協調とは異質の構造である。経営者がもつ経営権と、労働組合が持つ団体交渉権の接点としてではなく、団体交渉権が経営権を包含してしまうような、両者の一体化が民主主義と理解されていた。それは労使協議であるよりは経営参加であり、実態からみれば、労働組合が経営主体になったという方が実状に合う体制であり、いわば労働者の経営者化であった。  
  2. 経営民主化が経営権の労使による共有という形で定着したことは、戦後の日本労使関係にとって最も本質的な問題を残した。一面でそれは労使の協力体制であったが、他面、労使がいずれもその独自性を確保しえない可能性を作り出した。同じ領域に利害の異なる二つの主体が同質の権利を持っている状態は、もしそれぞれが主体性を発揮しようとすれば相手を排除せざるをえない関係であり、その対立は非妥協的たらざるを得ない。  
  3. 戦後改革では、世界の労働運動の到達点をしめす進歩的な労働立法が競って持ち込まれた。この法的な枠組みの先進性と、日本の労働者の主体的条件の弱さとのギャップは、日本の労使関係の特徴である、労働者側が交渉の場での力不足を法廷闘争で補おうとするexcessive legalism を生んだ。  
  4. 民同派は組合民主主義を主張して、共産党の支配から労働組合を自由にしたが、企業運営を掌握することをもって交渉力としていた戦後労働組合のあり方を否定したその働きは、企業が資本蓄積の装置に転換する場合の障害物を除去する結果となった。この自由な労働組合運動は、従業員による企業運営という戦後労働運動の当初の目標を放棄し、戦後的労使関係を解体することの代償として、団体交渉の当事者としての地位を得た。  
  5. 経営者側は、〈労働協約基準案〉で契約的な近代的労使関係を主張しながら、ひとたび組合との抗争が始まり、第二組合との協力が必要になると、これと非契約的あるいは情緒的な協調関係を結んで、職場構造を取り込むことに成功した。管理機構と交渉機構とが綯い交ぜになった現在の労使関係はその結果として形成された。  
  6. 総じて、労働組合運動は〈職場闘争〉を推進し、職場を基礎に組織を固めようとしながら、結果的には職場と対抗し、敗北した。  
  7. 日本の労使関係では、本質的には労使の利害対立である事柄が、職制と労働者の対立として現象する。すべての労働者が幾分かは管理者的であり、また幾分かは被管理者的であるという二重性を帯びるため、対立は……労働者全体に拡がり、第一組合と第二組合という対立を生み出す。かくて、日本の労使関係の危機は〈労・労関係〉として現象する。  
  8. 〈批判的パートナー〉である組合は、組合としての機能を持とうとすれば、〈もう一人の経営者〉であることを迫られる。

 以上の断片的な紹介からもうかがえるように、これまでの戦後労働運動史、戦後労使関係史にみられない鋭い評価を可能にしたのは、著者のイギリス労働運動・イギリス労使関係についての深い学識にもとづく国際比較的な視点であり、またすでに紹介した日本の労使関係に関する論理の大筋での正確さであろう。

 本書は、大河内一男の〈出稼型論〉以来ひさびさに、ひとつの論理で日本労使関係の構造を一貫して解き明かそうとした業績で、刺激的な内容に満ちている。今後、日本の労使関係の特質を論ずる者は、本書の検討を避けて通るわけにはいかないであろう。かつて出稼型論がそうであったように、必ずや多くの研究者が本書に学び、かつ方法的・実証的にこれを批判し、そのことを通じて日本労使関係研究を大きく前進させることになるであろう。若い研究者にまじって、評者もその一翼に加わりたいと思う。



〔初出 『大原社会問題研究所雑誌』433号、1994年12月〕