書評・労働社会学会『企業社会の中の女性労働者』


《書評》
日本労働社会学会編『〈企業社会〉の中の女性労働者』

(発行:日本労働社会学会、発売:東信堂、1995年9月、3000円)


評者 二 村 一夫

1 はじめに

 《日本労働社会学会年報》の第6号が、単行書風に装いを改めて刊行された。巻頭の特集は、書名と同じ「〈企業社会〉の中の女性労働者」で、1994年度の大会報告をもとにした次の3論文から成っている。
  1. 熊沢誠「企業社会と女性労働」
  2. 木本喜美子「性別職務分離と女性労働者」
  3. 橋本健二「〈企業社会〉日本の階級・階 層構造と女性労働者」
 また、新たな試みとして「論争」欄が設けられ、野村正實氏の「トヨティズム」評価に対する批判とそれへの反論が収められている。あとは2本の投稿と2点の書評、それに会員の研究テーマと業績を紹介する「研究ネットワーク」欄など充実した内容である。


2.特 集

特集の3本の論稿は、それぞれに力のこもった労作で、読みごたえがある。

  熊沢誠論文は、「もっぱら論理的説明にかぎ」ると断っているように、現在の日本企業における女性労働者のおかれている状況を、明快な論理によって解き明かした論稿である。
 多くの労働問題研究者が大企業の男子労働者に焦点を絞る傾向が強いなかで、熊沢氏は女性労働者の現状にも注目してこられが、本稿にはその蓄積が生かされている。氏は、『日本の労働者像』、『職場史の修羅を生きて』、『日本的経営の明暗』など、研究者以外に多数の愛読者をもつ点で、労働問題研究者の中ではぬきんでている。その理由のひとつは、QC活動や人事考課の実態、あるいは一銀行労働者の生涯など、個別具体的な事例を多面的に分析し、するどい感性で素材を内面から把握し、生き生きと描き出すその筆力にあろう。もうひとつには、それらの論稿が、単なる事例研究に終わらず、個々のケースをつらぬく普遍的な論理の追究となっていることであろう。ただ、評者のような不敏な読者には、その論理構造が、みずみずしい文体や駆使されている豊富な語彙に覆われ、時として十分に把握しきれないうらみがないではなかった。それに対し、「もっぱら論理的説明」に限った本稿は、そうした読者に対する、著者自身の〈熊沢理論〉解説ともなっている。
 きわめて圧縮された形で、氏の論理が呈示されている本稿を、さらに短いスペースで紹介することは不可能なので、とりあえず主なキーワードだけを挙げれば、〈機能的フレキシビリティ〉、〈生活態度としての能力〉、〈被差別者の自由〉などである。日本的経営の特質として周知の概念であるフレキシビリティや能力主義が、さらに具体化され、説得的な内実をともなって呈示されている。

 木本喜美子論文は、「百貨店A社の職務分析から」という副題が示すように、東京都心に立地する大手百貨店の、〈重衣料〉婦人服売り場に関する事例研究である。対象は限られているが、その意図は大きく、労働社会学の研究方法の革新を目指した意欲的な作品である。
 本稿の方法は、マルクス主義フェミニズムの理論家ヴェロニカ・ビーチらイギリス人研究者による〈ジェンダー・アプローチ〉から示唆を得たものである。すなわち、旧来の労働社会学は、女性労働研究では〈家族重視〉モデルを採用して職場を軽視し、一方、男性労働の分析では家族やコミュニティと切り離された〈職場モデル〉を採用してきた。しかし、そうした方法では、男性自身もジェンダー化した主体であることが見落とされてしまう。そこで課題となるのは、労働市場や労働過程をジェンダー関係の形成・再形成の場として把握することにある。具体的には、性別職務分離(job segregation by sex)を分析概念に、職場レベルでの実証研究をすすめる必要があると主張するのである。
 また、〈職場〉というミクロ・レベルの研究を重視するのは、日本のジェンダー研究は、マクロ・レベルでは一定の研究蓄積があるが、具体的な労働過程における性別職務分離の形成メカニズムを解明しておらず、そのため女性労働研究が労働研究全体にインパクトを与えるものになっていないとする、女性労働研究の現状に対する批判的な認識がある。

 こうした明確な問題意識に立って、「女性活用・登用の諸制度の導入」において先進的な人事管理システムをもち、百貨店業界でも女性比率が高く、その長勤続化傾向が明確なA社について調査がおこなわれている。その結果、この先進的な政策をとる「女性依存型」の職場でも、依然として「男性的管理」中心の「販売は女性、管理は男性」という性別職務分離の存続が明らかにされている。
 短大・高卒女性の場合は、勤続年数による役割分担はあるが、総じて販売業務だけを担っている。これに対し、男性は大卒だけで、入社当初から男性チームの一員として、膨大な量の残業をこなし、最初から管理職予備軍として、〈生活態度としての能力〉形成がなされる。女性の場合、残業時間は短く、交代制は守られている。ただし役職につくと残業は増え、交代制を守ることが難しくなるなど、男性に近づくことになる。大卒女性は、大卒であるがゆえに男性同様に跳び級で昇格するが、女性であるがゆえに販売ができなくてはならないとされ、短大・高卒女性と同じように販売業務をこなしつつ、大卒男性同様の商品管理知識などを身につけることが要求される。木本氏は、このように男女の役割が明瞭に分離され、相互に協力し合う余地のない事態を「職場における〈職務の過度のジェンダー化〉状況」とよび、職務構造を〈ジェンダー・ニュートラル〉なものに再編することが課題であると主張する。このように、女性サポート政策で最先端をいく企業でも、女性の戦力化には成功していないが、その最大の原因は、従来の職場慣行を残したまま、長勤続で有能な女性を抜擢しようとする所にある、と筆者は指摘する。

 橋本健二論文は、女性労働者と〈企業社会〉の関係を、階級理論を用いて解明することを意図した論考である。筆者は、従来の階級理論が、「即自的階級・対自的階級」、「労働者階級=社会主義勢力」といった政治的仮定を前提としていたことが、研究停滞の原因となったとし、そうした政治的バイアスを除けば、生産関係を基軸とする〈階級〉概念は職業カテゴリーを基本とする〈階層〉概念より理論的有効性をもつことを主張する。その上で、(1)階級構造とジェンダーの関係の把握、(2)〈企業社会〉における階級所属が男性と女性とでは異なることの把握の2点が、今日の階級研究の課題であるとし、この課題の解決のために、新たに、「階級構造と他の社会諸構造の連節化」と「階級所属のアップグレード効果」という2つの概念を提起する。前者は、たとえば、同一家族に階級所属の異なる成員がいる場合に、あたかも家族全員が同一階級に所属しているかのようにたち現れるが、これを「家族と連節化した階級所属」と規定する。また、まだ職業はもたないが、すでに進学コースに乗った若者の場合など、将来の所属階級の成員として行動することがありうる。これを「キャリアとしての階級所属」と規定するのである。人びとは一般に、そうした「家族との連節化」や「キャリア」の影響を受けると、現実の所属階級より上位の階級に所属しているかのように行動する傾向があるが、これを「階級所属のアップグレード効果」と規定するのである。

 橋本氏は、以上のような理論的準備の上で、これまで性別にはまったく無関係に適用されてきた階級構成表を男女別に組み替える作業をおこなっている。その作成過程で従来の基準と大きく異なるのは、これまで事務職はすべて「新中間階級」とされてきたが、キャリアの上で管理職と接続しない女性の事務職の大部分は「単純事務職」であり、「労働者階級」とみなすべきであるとした点にある。その結果発見された事実は、(1)1970年代以降の労働者階級の増加はほぼすべて女性によるものである。つまり男性のプロレタリア化はストップし、女性のみのプロレタリア化が進行した結果、労働者階級にしめる女性の比率は増加している。(2)新中間階級比率の変化は緩慢で、多くの論者が指摘してきた新中間階級の増加傾向は顕著ではなく、しかもほぼ男性に限られている。統計上、「新中間階級」の増加とみなされてきたものの多くは女性単純事務職の増加で、女性の労働者階級化、あるいは労働者階級の女性化に過ぎない。橋本氏は最後に、「妻・夫の階級所属の効果」について検討し、妻が専業主婦である場合、新中間階級男性の労働者階級帰属意識は低く、保守政党支持が多い事実を指摘している。この専業主婦層をとりまいて、新中間階級としての将来を期待する若い男女の事務職、本人はパート労働者であるが、夫が新中間階級であることから「階級所属のアップグレード効果」で比較的高い階級への帰属意識をもち生活全体に高い満足度をもつ女性たちが存在し、その結果「日本社会は、家族とキャリアという2つのメカニズムによって階級所属をアップグレードされた幸福な人々を中心とした平穏な社会として、とりあえずは存在している」と橋本氏は結んでいる。



3.〈論争「トヨティズム」〉

 小特集は、湯本誠「日本型生産システムと企業社会論──野村正實氏の近著をめぐって」と、野村正實「トヨティズムの評価をめぐって──湯本誠氏へのリプライ」の論争である。この企画自体は魅力的なものだが、残念ながら内容は期待を裏切った。その原因のひとつは、野村氏が勤務先の変更で準備に十分な時間がさけなかったこともあるようだが、問題はむしろ論争提起者の側にあったと思われる。

 湯本論文は、特集論文と同じ22頁ものスペースを使いながら、その半ばを〈日本型生産システム〉をめぐる自説の主張にあてている。論争点の背景説明を意図されたのかも知れないが、火花の散る論争を期待している読者からすると、いつまで経っても論点が見えてこない苛立ちを感ずる。しかも、その主張が〈新説〉であることは良いとして、論証抜きの断言が多いので、そこかしこで引っかかって、なかなか先に読み進めない。こう言っただけでは、単なる誹謗中傷の謗りを免れないので、一例をあげておこう。「トヨタ・システムの形成」と題する節の冒頭の一文である。

「こうした企業内封鎖システムは敗戦直後、産業報国会組織を基盤とした労職混合の企業別組合が戦時動員態勢下の戦時社会政策による工員の待遇改善策を継承し、経営民主化、労働・生活条件の改善のためのラディカルな職場闘争を展開し、企業レヴェルでの〈市民的同権化〉(労職平等化)をかなりの程度、達成したことに端を発する。」
この一文だけでも、次のような数々の疑問が生まれる。(1)「産業報国会組織を基盤とした労職混合の企業別組合」というが、戦後の企業別組合が産報を基盤としたか否かは、研究者の間でも意見が分かれ、一致した結論が得られていない論点である。
 (2) また、戦後の労働組合が、「戦時社会政策による工員の待遇改善策を継承し」たという史実は、寡聞にして聞いたことがない。
 (3) 最大の疑問は〈労職平等化〉=「企業レヴェルでの〈市民的同権化〉」との規定である。評者も、戦後、国際比較的に見て〈労職格差〉が著しく縮小したことは、現代日本労使関係の個性を規定する重要な要因だと考え、そのことを強調してきた。しかし、はたして両者は〈平等化〉し、〈同権化〉しているであろうか。現場労働者と大卒ホワイトカラーとの間には、作業内容や昇進・昇格・昇給の展望など、さまざまな面で、依然として質的な違いが存在する。今日の企業社会の内部で〈市民的同権化〉が実現しているとは、何を根拠に主張されるのだろうか。(4) また、〈労職平等化〉は「ラディカルな職場闘争」によって達成されたと主張されている。だが、〈職場闘争〉とは、企業別組合の弱点が問題にされ始めた1950年代以降、企業主義の克服を意図し、職場に組合組織の確立を目指して展開された特定の運動形態を指す言葉であったのではないだろうか。

 さらに問題は、肝心の論争点である。氏は、野村説への批判の多くを、(1) 野村の生産技術概念はあいまいさを残し、混乱がある、(2) テイラーリズムと日本型生産システムの間に連続性を見る野村の主張自体にオリジナリティは見られない、(3) 野村の議論の仕方とその結論には、ある種の違和感がつきまとう、といった消極面の指摘でおこない、しかもその論拠は、他の研究者の諸説の紹介の形をとっている。不充分な点、欠けたところの指摘だけでは、稔りある論争は期待できない。見解が対立する論点を明示し、その論点についての自説とその根拠を述べなければ、論争の提起者としての責任は果たし得ないのではないか。十分なスペースが与えられていただけに、論争点に関する筆者の見解が詳述されなかったことは理解に苦しむ。あえていえば、この論争が不毛な結果に終わった責任の一半は、この論文を採用した編集委員会にもあろう。



4.投 稿 論 文

 山下充論文「熟練概念の再検討──熟練論に必要な社会学的視点とは何か」は、投稿論文であるが、小特集の論争テーマと重なり、さらにコンパラブル・ワースについても触れた点で特集テーマとも関連する内容である。この論文は、野村正實氏による小池和男氏の〈知的熟練仮説〉批判を手がかりに、熟練に関する日本の研究史をたどり、日本の研究が総じて「熟練を労働者の能力と結びつけて考察してきた」という特色をもつことを発見する。そして、野村氏の小池批判は、日本の熟練研究を国際比較的視点でとらえなおし、分析概念としての〈知的熟練〉に代えてヨーロッパで一般的な熟練の分類を検索手段としてもちいることを提唱したものであり、「生産組織の分析方法にオルタナティブを提示したという意義がある」と評価する。しかし、検索手段として有効であることは認めても、社会科学の分析概念としては十分といえない、と主張する。つまり、特定の社会で認められている熟練類型が社会科学的に普遍的な基準たりうると言えるか、と問うのである。

 山下氏は、国際比較研究に際し、参照すべき英米の研究蓄積として、熟練が社会的な利害をめぐって構成されていくという〈社会構成論〉、それに、男女の賃金格差を生ずる要因の一つとして、職務評価に男性中心的なバイアスが存在することを指摘し、その是正をめざすコンパラブル・ワースに着目する。そして、「社会構成論は熟練が社会的に形成されることを歴史的過程に注目して明らかにし、コンパラブル・ワースは熟練が社会的に構成されている今日的な事例に注目して熟練の社会的な側面を明らかにした」と、その意義を指摘する。そして、従来のような「熟練=労働者の能力」という理解だけでは限界があり、各国の歴史的・社会的諸条件の違いに着目した熟練概念を構築する必要があることを主張している。労働問題研究に関連したひさびさの論争として話題にはなったが、必ずしもかみ合った議論にはならなかった〈野村・小池論争〉を、別の角度から見直し、新たな研究方向を示唆する力作といえよう。

 蔡林海論文「中国の労使関係に関する史的考察──史的企業の国有化化から国有企業の民営化へ」も、投稿論文である。同論文は、1949年の建国から93年までの45年間を以下の3期にわけ、各期について、その社会的背景、経済構造、労働政策、企業構造、労使関係とその行為者という、5つの側面について検討を加えることを意図している。

  1. 国営企業の形成と私的企業の社会主義改造の時期(1949〜56)
  2. 国営企業一極化の時期(1957〜77)
  3. 経済改革と対外開放の実施、計画経済から市場経済への転換(1978〜93)
 半世紀に満たぬ間に2度の大激変をとげた中国の労使関係の歴史を、簡潔にまとめているが、冒頭で筆者が問題として提起した「変動の社会的・経済的背景あるいは原因は何であろうか。そして、上記の各時期における国家、企業の経営者、労働者はそれぞれどのような性格を持って、三者の間にはどのような関係が形成され、また社会経済体制の転換と経済構造の変動はその関係にどのように影響していたか」との問に答えるにはいたっていない。どちらかといえば、国家の経済政策と労働政策の変遷を中心にした制度史的概説に終わっている。もっとも、このように大きな課題を、雑誌論文として書くことに、もともと無理があったというべきであろうが。


 巻末には「研究ネットワーク」と銘打って、会員の研究業績と、各人の研究内容を示すキーワードが掲載されている。本年報からは、編集委員会が、そこかしこで意欲的な試みを企てたことが伝わってくる。若い研究者の労働問題研究離れが指摘され、労働研究専門誌がつぎつぎと消えていったなかで、新鮮な活動を展開されている日本労働社会学会と年報のさらなる発展を祈りたい。


〔初出 『大原社会問題研究所雑誌』457号、1996年12月〕



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