University of Hawaii Press、1989 273ページ
二村 一夫
I日本労働運動史に関する文献で日本語以外の言葉で書かれたものはまだまだ少ない。その意味で、本書の刊行は歓迎さるべきであろう。また、著者スティーヴン・マーズランド氏は研究者ではなく、シカゴで会社を経営する実業界の人であり、本書のもとになった研究は、氏がコーネル大学労使関係学部の学生時代にまとめられていたことを知ると、誰しもその才能と努力に強い印象を受けずにはいられないで。
ただ、素人の余技としてでなく、研究書として本書を評価するとなると、残念ながらあまり高い点をつけることは出来ない。以下、本書の内容を紹介しながら、なぜそのように評価するのか、その理由と根拠を明らかにしよう。本書は全体で273頁、うち本文は157頁である。あとの半分余は付録で、労働組合期成会、鉄工組合などの規約や「職工諸君に寄す」など、日本の初期労働運動関係の資料を翻訳したもの、のこりは注、文献目録、索引である。
本文は、つぎの8章から成っている。
- 背景
- 高野房太郎
- 労働運動の誕生
- 鉄工組合
- 労働運動の発展
- 転換点
- 危機と崩壊
- 運動の遺産
第1章の「背景」は、日本の政治、法律、経済、労働市場、労使関係、労働運動についての一般的な叙述で、本文の3分の1を占めている。ここを読んだだけで、著者の日本理解があまり深くないことがうかがえる。一例をあげれば、日本文化の強固な伝統は「和に対する強い希求で」、「このためストライキやロックアウトといった争議は受け入れられず、また暴力もあまりふるわれなかった」といった、いささか紋切り型の主張が展開されているのである。II
第2章は本書の主要部で、日本の労働組合運動の創始者であった高野房太郎の生い立ちについての叙述である。問題は、著者がもっとも重視するこの人物の伝記に、重要な事実の誤りが少なくないことである。たとえば、すべての伝記的研究の出発点である生年月日を間違えている。房太郎が生まれたのは1869年1月6日であるが、これを1868年11月24日としている。これは1872年以前の日本が太陰暦を使っていた事実を見落としたことによる単純なミスで、日本人研究者の多くも間違っているところだから無理はない。だが、高野が生地の長崎から直接横浜に移り住み少年時代をそこで過ごしたと書いているのは、理解しがたい誤りである。1877年に高野一家は長崎から東京・神田へ移住し、1882年に横浜の伯父の店で働きはじめるまで東京で育ったことは、房太郎の弟・岩三郎が記しており(『大日本人名辞書』)、高野に関するいかなる文献もこれに従っている。
マーズランド氏はまた、高野一家が貧乏であったことを再三強調している。これは著者にとっては重要な論点で、房太郎が労働運動に関心を抱いたのは家が貧しかったからだとの主張につながっている。
しかし、これは氏の勝手な思いこみである。岩三郎の語るところでは「家系は、私の覚えているのは祖父からだが世襲的な和服の仕立屋の親方であった。数人の弟子をおき、山や畑も多少は持って、小市民の生活をしていた」(大原社研『資料室報』68年10月号)。東京へ移ったのも、不景気がひとつの理由ではあったらしいが、横浜で三菱汽船会社傘下の回漕店を経営して成功した伯父が、事業拡大のために弟を呼んだとみられる。いずれにせよ、東京・神田で回漕業兼旅宿業を営む者を「あらゆる点からみて彼の家は貧しかった」と断言できるであろうか。
しかも著者は、房太郎が高等小学校を卒業した後、横浜商業学校で学んだことを、今日であれば大学教育にも匹敵する高等教育であったと認めているのである。これは正しい。小学校の就学率が40%前後、その平均在学年数も 2年前後の時に、房太郎は 8年間の小学校教育を受け、さらに夜学ではあるが横浜商業学校で学んでいる。この「高等教育を受けた」房太郎を、本書は、貧家の子弟で低賃金・長時間労働に苦しむ若者として描いているのである。
このような〈思いこみ〉は、マーズランド氏の労働運動に対するいちじるしく単純な経済主義的理解とかかわっている。これは、単に高野房太郎を理解する上での問題であるだけでなく、労働運動史の研究書としての本書全体を制約する根本的な難点である。
労働組合期成会の母体となった職工義友会をめぐる史実についても、著者はいくつもの誤りをおかしている。その日本語の名称は職工義勇会ではなく、職工義友会である。著者は義友会の英語名を、房太郎自身ががゴンパース宛の手紙の中で Friends of Labor と記しているのに、わざわざ Knights of Labor と注記している。III
だが、そもそも AFLのオルグである高野が、対立組織と同名の Knights of Labor を使うであろうか。また職工義友会の創立年も誤っている。義友会は1890年ではなく、翌1891年にサンフランシスコで創立されたのである。さらに著者は、高野は会の創立に関係せず、後で加入したと記している。だが、高野こそ職工義友会創立の中心人物であった。このような高野の労働運動家としての経歴にかかわる重要な事実を間違えたのは何故かといえば、著者はこの箇所を、隅谷三喜男氏の資料紹介論文「高野房太郎と労働運動──ゴンパースとの関係を中心に」(初出は『経済学論集』1963年4月、のち『日本賃労働の史的研究』御茶の水書房、1976年刊、所収)に全面的に依拠しているからである。隅谷氏の論稿は、高野岩三郎が保存し女婿の宇野弘蔵氏に引き継がれ、今は大原社会問題研究所に収められている貴重な資料の一部を紹介したものであるが、他の資料や研究論文を十分参照せずに書かれており、重要な点で不正確なところが少なくない。
マーズランド氏は、在米中の房太郎が岩三郎に送った手紙などの資料があることを知りながら、しかもそのかなりは活字になっているのにそれを参照せず、隅谷論文を盲信してしまったのである(これらの点の詳細については拙稿「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」『黎明期日本労働運動の再検討』労働旬報社、1979年、参照)。第3章から第7章までは、鉄工組合を中心に、日本の黎明期の労働組合運動について、これまで他の英語の本にはなかった詳しさで叙述している。当然のことながら、ここでも著者は相当部分を日本人研究者の成果に依拠している。そのこと自体はなんら非難さるべきことではない。
主要な研究をかなり正確に読み、使いこなしている点は評価されて良い。ただいささかフェアでないのは、先行研究をきちんと注記していないことである。たとえば労働組合期成会に参加した労働者活動家についての叙述は池田信『日本機械工組合成立史論』に依拠していることは明瞭だが、そのことは注記されていない。さらに鉄工組合の組織や財政についての諸データをまとめた表は、兵藤つとむ『日本における労資関係の展開』の研究成果を利用していることは一目瞭然なのだが、そのことを明記していない。ただし完全な孫引きではなく、もとの資料にあたって若干の加工を加えている点があることは、著者の名誉のために一言しておきたい。最後の章は、高野の死と、日本の労働運動のその後をごく簡単に述べている。そして、日本の労働組合運動を一貫する特徴として企業別組合と組織の基本的な単位が職場、あるいは工場にあることの2点をあげ、これは日本の労働者が、職業別あるいは職能別意識(job or craftconscious )ではなく、強い職場意識( shop conscious)をもっていたからであると主張している。これは著者独自の見解ではないがポイントをついた重要な指摘である。しかしこの後で著者が、なぜ日本の労働者は職場意識をもっているのかを問い、5つの要因をあげて答えている点は、あまり説得的ではない。
外国の日本研究者に、われわれが希望することのひとつは、それぞれの母国との比較的な視点である。また日本国外に残されている資料を発掘し、これによる独自な研究の展開である。この場合でいえば、房太郎が AFL のオルグに正式に任命されていた事実が象徴するように、日本の初期労働運動、社会主義運動に対するアメリカの影響は大きなものがあった。IV
それだけに、本書の著者が単に日本人研究者の研究成果を外国に紹介するだけでなく、アメリカ労働史の研究成果などからも十分に学び、高野らがどのような点で、当時のアメリカの労働運動から影響をうけ、あるいは受けなかったのかなどについても独自に資料をあつめ分析して、未知の部分を解明してほしかった。たとえば、高野房太郎の伝記研究に限っても、高野と労働騎士団やアメリカ労働総同盟との関係、あるいは高野が理論的に大きな影響を受けたアメリカの経済学者ジョージ・ガントン(George Gunton)についてなど、まだまだ検討すべき課題は多い。
こうした点でこそアメリカ在住の研究者は有利な立場にある。現に、高野に関する先行研究であるハイマン・カブリン(Hyman Kublin)『明治労働運動の一齣』は、房太郎がアメリカの労働組合機関誌などに発表した多数の論文を発掘し、その後の研究をすすめる上で大きな功績があった。だがこの点でも、本書は期待に反した。それどころか、マーズランドは、アメリカ労働史に関する部分でさえ、日本人研究者の叙述を引き写して済ませている。それを暴露しているのは、ガントンの思想形成に重要な役割をはたしたボストンの機械工、8時間労働制を要求して活発な活動を展開し8時間狂とまで呼ばれたアイラ・スチュワード(Ira Steward)の名をIraでなくAiraと記していることである。これは、日本語のカタカナ表記をアルファベットに書き戻したことによっておきた誤りに違いない。本書の4分の1をしめる付録は、20世紀初頭における日本の労働組合規約などの翻訳である。これは欧米の読者には役立つであろう。しかし、これらの規約が実際にどれほど守られていたかは疑問である。一般に規約だけで運動の現実を知ることは困難だが、とくに規約の運用に際し臨機応変、融通無礙を尊重する傾向のある日本では難しい。ある程度は本文でふれられているのではあるが、資料そのものに即した解説が必要であったろう。
〔初出 『大原社会問題研究所雑誌』394号、1991年9月〕