大原社研こぼれ話(11)
前回、権田保之助が大内兵衞、久留間鮫造といった人びとには評価されなかったらしいことについて書いた。同時に、同じマルクス経済学者でも櫛田民蔵の権田評価は違っていただろうとも述べた。実をいえば権田と櫛田は学生時代からの友人、それも互いに心を許した親友であった。あるときなど、権田は妹を櫛田と結婚させようとさえしている。今回はこの 2人のかかわりについて紹介しよう。2人が知り合ったのは東京外国語学校独逸語学科の同級生として、時は1906(明治39)年初夏、高野岩三郎の「経済原論」の教室であった。櫛田が河上肇の『社会主義評論』に読みふけっているのを見た権田が「『その本は面白いですか』と頗る皮肉な調子で話し掛けた」(権田「櫛田君の思ひ出」『改造』1934年12月号)のがきっかけである。つまり 2人を結び付けたのは社会主義であった。
河上の本を見て「頗る皮肉な調子で話し掛けた」のは、年齢こそ櫛田の方が 2つ上だが、社会主義については権田がいくらか先輩だったからである。早稲田中学で安部磯雄に英語を習い、16歳で『週刊平民新聞』の熱烈な読者となった権田は、学内の回覧雑誌に日露戦争反対の論陣をはったため、戦争熱にあおられた級友に袋叩きにされた上、事勿れ主義の学校当局からは卒業までわずか 1ヵ月前に〈自発的〉退学を勧告された経歴の持ち主であった。15年後に大原社研東京事務所で机を並べることになる 2人が、所長となる高野の教室で、河上肇の本がきっかけで知り合うというのは、「事実は小説より奇なり」というべきか。
一方、2人のかかわりを櫛田の側から見た記録もある。『櫛田民蔵・日記と書簡』(社会主義協会出版局刊)がそれで、櫛田から権田に書き送った手紙が何通もある。その中に 2人の出会いのころを回想したものがある。
暗黒なる僕、田舎物の僕、不経理なる僕、纏まらない僕が何かの因で語学校へ入って、妙な風の吹き出しで社会主義と云ふバンドで兄と結びつき、何かにつけ喧嘩しながら感化もうけ干渉もされて今では少し物の解かる様になった。感謝せずにおられぬ感だ。兄の言ふ事も始めは解らずに聞いて居たのだが今では解る。大いに解る。一鬢一笑の微までも解ると思ふ位解る。もし兄の友人中兄其の物、権田君其の物を聞き読む人がいたなら僕も其の一人に数えられる資格のあるものと信ずる。
知り合ってからの 2人は、会えば社会主義について語り合い、一緒に平民社を訪ね、幸徳秋水の渡米歓送会に出席し、あるいは 2人でショウペンハウアーの『宗教論』を翻訳している。その親密さは『櫛田日記』のいたるところで見てとれる。たとえば1906(明治39)年 9月 1日の項は次のようである。
それより権田氏を訪ふ。例により社会主義の事ばかり。余農民生活の状態を述ぶ。氏都市生活の様を語る。余朝鮮の現状を述べて、ポーランドに比ぶ。氏曰く「ポーランド人は刀おれ、弓矢つくる迄、戦っての上なればまだ諦もつく可きが、朝鮮に至っては一指をそめずしてあの始末、何と可憐の事ではないか」と。それより談、支那帝国の将来に及び、一転して平野国臣、大塩平八郎の事に及び、遂に虚無主義論に至り、話何時つく可しとも見えず。この時櫛田21歳、権田はわずかに19歳である。
はじめにちょっとふれた権田の妹との結婚の件も『櫛田日記』にある。1910(明治43)年12月25日の項である。
東京着。夜権田氏と中川牛肉屋に飲む。妹君との婚姻をせまる。余を妹君の婿として、氏が亡母の廃絶家を起さしめん計る。拒絶す。余、飽く迄櫛田を捨つる能はさるを主張す。大いに論、論理の行く所に行く可しとて別る。『櫛田日記』には、彼が高野岩三郎の姪、高野房太郎の娘に恋をし、福田徳三に邪魔されたことも出てくる。これこそ「こぼれ話」にもってこいの話題だが、今回はここまで。 (二村 一夫)