二村一夫「労働争議研究の成果と課題」

労働争議研究の成果と課題



二村 一夫





はじめに──自分史的研究総括のこころみ──

 私は今から16年ほど前、労働争議研究の重要性を主張しました。これは、大河内一男氏が労働組合研究の重要性を強調する反面で、争議は単なる〈事件〉として軽視されていることを批判したものでした。方法的な提起としては不十分なものでしたが、予想外に多くの方が積極的に受けとめられ、いくつもの労働争議研究が発表されました。私自身も、20年もほっておいた足尾暴動の研究を再開し、先頃ようやくまとめ終えました。この機会に、労働争議研究の成果をきちんと整理しておかなくてはと思っていたところに報告を申しつけられたので、ほとんど抵抗せずに引き受けました。その時には2ヵ月もあれば、ここ十数年間の争議研究について勉強して報告できるだろうと考えていましたが、時間がとれませんでした。そこで今日は、私自身が足尾暴動研究をまとめた中で考えたことを中心に話させていただきたいと思います。

 労働運動史研究会が労働争議研究について検討するのは今度が最初ではありません。7年前に小林英夫さんが例会で争議史研究を批判されました。私はその時、日本を留守にしていましたのでご報告をうかがっていませんが、小林さんは、それを「日本労働運動史研究の方法論」と題する論文にまとめられました。この論文に対し82年6月の例会で、三宅明正さんが反論されました。この三宅報告は会報第4号に討議要旨とともに掲載されています。今読みなおして見ても、この例会の討論は充分かみ合っていません。その理由は、そこで栗田さんが指摘されているように「争議分析の成果が未確定であり、争議研究はこういうことをやったとはっきり言えるところまで来ていないところにある」ように思います。そこで今日は争議研究はどのような成果をあげたかについて考えて見たい。また、議論がかみ合わなかったもうひとつの原因は、争議研究の意図と方法について、批判者に若干の誤解があったためであるように思います。そこで個人的なことで恐縮ですが、まず私自身の提唱の背景と意図についてお話しすることから始めたいと考えます。





1 1950年代の研究状況

 私が労働運動史研究を始めようとした頃、1950年代の中ごろ以前の労働運動史の多くは、社会主義運動の歴史、なかでも運動の指導部がもっていた戦略・戦術を、その後の運動の到達点から検討するものが中心であったといってよいと思います。もとよりそうした研究の意図や意義はよく分かります。今後も「運動の未来を見通すために、過去の経験に学ぶ」というのは労働運動史研究の中心課題であり続けるだろうと思います。

 ただ運動史研究を志したばかりの私は、そうした研究のあり方に多少の違和感を覚えていました。個人的な資質もあり、私にはとうてい戦略・戦術の当否を検討する力はない。そうした問題は労働運動、社会主義運動を現に指導してきた人びと、あるいは指導しようとする人びとの任務であろうと感じていました。歴史研究者には運動家とは違った役割があり、実践家とは異った角度から労働運動史を研究すべきであろうと考え、そうした立場から労働運動史研究の課題と方法を模索してきました。たぶん運動史研究を実践から切り離し、悪しきアカデミズム化への転落させたと評価される側面をもっていると思いますが。

 当時、私は従来の運動史研究=かくあるべきであった戦略・戦術を検討することを主眼に労働運動史を研究する人びとの成果に学びながらも、そこに2つほど問題があることを感じていました。第1は歴史的な条件を無視して、運動の到達点から過去の戦略・戦術の誤りを指摘する議論が少なくなかったことです。もうひとつは、最初の問題と無関係ではないのですが、戦略戦術の検討が、あまりに抽象的でした。つまり、運動の指導部がもっていた方針が、その後の運動の到達点から見て、あるいはマルクス、エンゲルス、レーニン、あるいはコミンテルンのテーゼに照らしてどうであったかという議論になりがちでした。
 どちらも歴史離れというか、その方針を実践した日本の労働者の現実と無関係に論ぜられる傾きがないとはいえなかった。活動家や一般労働者がそうした方針をどのように受けとめ、どのように実践したかをあまり問題にしない。下部の労働者を無視するだけでなく、しばしば方針を提起したのは誰であるかさえ明かにしないまま論じられることさえ稀ではなかったように思います。





2 研究課題

 そうした研究状況で、間違いなしに歴史研究者が果たし得る独自の「役割」の一つは、社会・労働運動に関する資料を、多くの人に使いやすいものにすることであると考え,大原研究所の所蔵資料を整理公開し、重要なものは復刻すること、その際、無署名論文やペンネームの筆者を明らかにし、また資料の信頼度を確かめることなどを仕事としてきました。
 その一方で私個人の研究課題は、日本の労働運動を担った〈日本の労働者の特質〉を解明することに収斂していきました。

 最初の仕事は大河内一男氏の出稼型論批判でしたが、その作業を進めるうちに、自分が依拠してきた山田盛太郎『日本資本主義分析』における労働者階級の把握が、あまりにも一般的、抽象的で、実際の日本の労働者とは著しい距離があることを感ぜずにはいませんでした。『分析』は、日本資本主義そのものが、日本資本主義を変革することを自己の任務とする階級意識をもった労働者を生み出し、鍛え上げることを主張することで、未来への展望を示していました。そこでは「日本ブルジョアジーの特質」はあまり内容はありませんがともかく1項目としてとりあげられていたのに、プロレタリアートの日本的特質は問題にされていない。それは、「労働者階級は祖国をもたない」ことを当然の前提としていたからだと思います。また、そうした抽象的なものであったからこそ、1930年代の日本において未来を展望し得たのでしょう。

 大河内氏の出稼型論は『分析』に比べはるかに図式的でしたが,日本の労働者の特質を問題にして無視できない発見があることを感じていました。とりわけ企業別組合は、欧米には見られないもので、なぜ日本の労働組合はそうしたものになったのか、その根拠を明らかにすることは、日本の労働運動史研究者の重要な課題であろうと考えました。その意味で大河内理論には絶えず反発し、批判してきましたが、問題関心には共通するものがあったと言えます。

 ところで、先にも述べましたように、私が70年代のはじめに、労働争議を研究すべきであると提唱したのは、これも大河内批判の一環としてでした。いま大河内氏は別の意味で図式的であったと言いましたが、彼の理論には、いくつか論証抜きで前提されていた事実認識がありました。その一つは労働組合を「労働力の売り手の組織」としていたことです。それが正しいとすると、戦前の日本には労働組合は存在しなかったということになる。鉄工組合や日鉄矯正会、友愛会などはとうてい「労働力の売り手の組織」ではなかった。しかし、労働者の団結体ではあったのだから、それがどのような性格の組織であったかを事実に即して明らかにすべきであろうと考えました。ところが大河内氏は、労働力の売り手の組織としての労働組合を日本に定着させるべきであるとの立場から、労働運動史研究の課題として労働組合の研究こそ重要であると強調し、労働争議や暴動のような〈事件〉でなく、組合の日常的な活動をもっと研究すべきであると主張されたのです。これに対し、私は日本の労働者の主要な闘争形態であった労働争議を抜きには、労働組合の特質も明らかにはしえないとして、争議研究の意義を強調した訳です。私がそこで意識していたのは、争議研究こそ労働運動史と労資関係史の接点で、労働者の非日常と日常を同時に追究し得る場となるだろうことでした。しかし、この点は、その後の研究では必ずしも十分理解されなかったように思います。私が争議研究で検討すべきであり、また解明し得ると考えていたのは、争議そのものもですが、争議の際に顕在化する当事者間のより日常的な関係、その矛盾を明らかにすることでした。この点、争議分析に重点を置く山本潔さんとは、問題関心や方法に違いがあるように思います。





3 事例研究と〈全体的把握〉

 ところで、争議研究に対しすぐに出された疑問・批判は、部分的な事例研究にすぎず、それでは労働運動の全体像は描けないということでした。木を見て森を見ないというわけです。私もその批判が当たっている面があることを認めます。争議研究は事例研究であり、問題の部分的な把握に過ぎない。ものごとの認識、把握は全体的、全面的でなけらばならず、部分的な把握より全体的な把握の方が優れていることは言うまでもない。
 しかし、問題はどのようにすればそうした全面的な把握に近づき得るかということでしょう。私がずっと考えてきたのは、これまでのグランドセオリーを越えて、新しいものを生み出して行くにはどうすればいいかということでした。それには理論的な検討から問題を詰めていく作業が必要があると同時に、これまでの大理論を史実に照らして検証していく作業が不可欠であろうと思ったのです。従来の日本資本主義に関する大理論は壮大な枠組みをもつ反面、基本的な問題についても簡単な例証のみで、歴史的実証としては不十分な点が少なくない。ある仮説を実証すると言うのは仮説に合致する史実を集めることではなく、それに反するであろう事実を集めて突き合わせても、なお維持されることで示すものであると思うのですが、日本近代史の実証は、そうしたものとはほど遠い。

 私とても個別的な実証研究を積み上げさえすれば、おのずと大理論ができあがるなどと考えている訳ではありません。おそらく総括的な理論は、一種の直観抜きには構想されえないでしょうし、理論そのものの検討によって新たな仮説が構築されることが必要であろうと思います。
 ここで全体像を描けという主張者に対し指摘しておきたいのは、日本労働運動史の通史といえども部分史にすぎないことです。日本労働運動の全体像を描くことはもちろん大事だけれど、労働者は日本の人民の一部でしかないし、労働運動史は日本人民の運動の一部しか描いていない。そこでは小作人、未解放部落民、青年・婦人等の運動は抜けてしまう。仮に社会運動の全体像を描いたものが出来たとしても、それで言うところの〈全体像〉が把握されたことにはならない。やはり全体像を問題にするのであれば、『日本資本主義分析』が指摘するように「云ふ迄もなく、把握は全機構的のものでなければならぬ。蓋し、構造揚棄の〈必然性〉と〈条件〉とが問題となる限り、それは全機構的な問題提起として、提起されねばならぬからである」という言葉が顧みられるべきでしょう。全体像を問題にするなら、労働運動史より国家史や政治史の方が適している。近年、労資関係史の研究者が労働政策史に強い関心を示しているのも、それがより全体的な問題把握に近づくことを予想しているからでしょう。

 いずれにせよ歴史科学が実証科学である限り、いきなり全体的把握にいきようがない。全体的な把握に近づくためにも、個別具体的な実証と大理論を媒介する、いわば中理論が必要ではないか。もちろん個別的な課題を設定が何でもよい訳ではない。なるべく国家・社会の特質を全体的に把握する上で接近しやすいテーマを選ぶことは当然だと思います。
 私は、とりあげる対象が広く、大きければ全体的な把握となり、小さければ部分的になるとは考えません。個々の事例を分析することでも、普遍的な問題把握は可能であろうと考えています。造船業のような大企業の労資関係、労働運動しかとりあげていないから部分的であり、地方都市を無視して、大都会しか問題にしていないから全体像を描けないという意見には賛成ではない。問題は普遍的な課題を追究しているか否かにある。





4 争議研究の成果

 では、事例研究としての労働争議研究がどのように普遍的な理論にかかわる問題点を明らかにしてきたか、いわば労働争議研究の成果を、また労働争議研究は何を明らかに出来る可能性をもっているかを、具体的に見てみようと思います。

 1 労働争議研究が明らかにしたことの第一は、労働運動の担い手の性格を明らかにし、階級関係の歴史的変化を具体的に跡づけたことにあると思います。それ以前の労働者像といえば大河内氏にあっては、a)紡績女工等の年季奉公、b)季節出稼、c)流動的過剰人口、d)通勤工といった類型化でした。あるいは隅谷三喜男氏のように、産業別と熟練・不熟練、男子・女子等の組合せによる分類でした。争議研究は、労働者の具体的な存在を資本との対抗関係の中に位置づけることを可能にした。その好例は、三菱神戸造船所を対象にした中西洋氏の研究でしょう。彼は第一次大戦を期に、それまでの「資本の一方的なリード・労働の一貫した追随のパターンは、1917年を区切りとして、労働のイニシャティヴに資本が専ら受動的対応を余儀なくされるという型に反転した」ことを指摘し、その反転の根拠として労働者側における中核部分の旧型熟練職種から新型熟練職種への交代、その反面としての経営側における意志決定機構の重層化・官僚化の進行を明らかにした。また私の足尾暴動の研究も、飯場制度の変質による坑夫の飯場頭からの自立の進展、これを基礎として暴動がおき得たことを発見したのです。

 2 労資関係についての経済主義的理解・固定的図式的理解の是正
 これまでの労働運動史研究や近代史研究が主に経済学の研究者によって推進されてきたこととかかわっていると思いますが、全体に労働運動の動因について経済的要因を主に、しかもいささか単純な経済主義的理解が強かったことの誤りを具体的に明らかにした。
 これまで、日本の労働条件に関する歴史研究では、常に低賃金・長時間労働が説かれてきた。そうした論理の一環として、労働争議の原因についても、その低劣な労働条件が、またそれによる労働者の経済的窮乏が強調されている。しかし個々の争議を調べてみると、単純な経済的窮乏だけで理解しきれない場合があることがはっきりしてきた。足尾暴動はその典型的な例です。すなわち、暴動を起こしたのは最低辺の労働者ではなく、相対的には高賃金の採鉱夫であった。彼等は賃金の60%もの引き上げを要求していましたから、明らかに経済的な困難に陥っていた。しかし、彼等が、相対的に高賃金であったこともまた確かです。相対的と言うのは、足尾銅山の他の職種の労働者に比べても、また全国の鉱山の採鉱夫に比べても高い。これは何故か。そこで、足尾の職種別賃金を歴史的に調べてみました。その結果明らかになったのは、1880年代の足尾銅山の労働条件が、他産業や他鉱山と比べかなり高い水準にあったことです。それは、この時期に足尾では富鉱脈が発見され、急激に生産を拡大した。このため局地的な労働力不足が起きた。しかし、生産の急激な拡大期が終わり労働力不足が解消したこと、さらに鉱毒事件を期とした経営政策の転換にともなって、足尾坑夫の賃金水準は低下しました。これが、坑夫の大幅な賃上げ要求の背景にあったことでした。同じようなことが日鉄機関方ストの場合にもあったのは青木正久さんの研究で明らかにされています。三菱長崎造船所についての西成田さんの研究もそうしたことを示唆しています。たしかに経済的窮乏は争議の一原因でしたが、従来の理解のように単純なものではなく、むしろ相対的には高い労働条件を享受した労働者が、その相対的な優位を失った時、あるいは失いつつある時が少なくなかった。最底辺の労働者でなく、むしろ相対的には好条件の労働者が争議を起こしたひとつの理由はここにある。大企業の場合は、こうした急速な拡大期をもっていたケースが多く、それが相対的に低下したしたときに争議が起きる傾向があるのではないか。いずれにせよ、こうした認識は、日本の賃金を構造的な低賃金と把握するだけでなく、賃金水準を労働市場の動向に規定され、変動するものとして把握することが、労働者の運動を理解する上に重要であることを明らかにしたものと言えましょう。

 このように具体的な事例研究は、従来の理論の枠組みの問題点を検証する上で有効です。こうした認識が長い間出て来なかったかのは何故かといえば、やはり通史的、総括的な研究に問題があったからではないか。構造的な低賃金による経済的窮乏という論理を、あらかじめもっていれば、それを論証する歴史的事実にはこと欠かない。とくに近代史研究のように、史料が大量に存在する場合には、つまみ食い的な史料の利用を恐れなければ、実証が可能である。しかし、特定の経営体の労働条件を追跡して行く場合には、そうしたつまみ食い的な史料の利用は不可能になる。この点に一企業を対象にした労資関係史研究のひとつのメリットがある。

 3 もうひとつの成果は運動の主体的な要因の重要性を明らかにしたことです。足尾暴動など鉱山争議では、採鉱夫が友子同盟という自治団体に組織されていたことが積極的な意義をもっていた。このように、争議研究はこうした面からも経済主義的理解の是正が必要であることを明らかにした。単に労働条件の問題だけでなく、労働者の主体的な要因が運動においてもつ意味を具体的に明らかにしたわけです。別の面からいえば、日本の労働者の価値観や意識、感情など、はやりの社会史のキータームであるマンタリテ、心性の問題の重要性が認識され始めたことです。すなわち、a)〈不当な差別〉に対する憤懣が労働争議の際に大きな意味をもつことが、きわめて多いことがわかってきた。b)能力による差別を当然とすると同時に、人並の処遇を要求する〈日本的平等観〉が見られる。c)経済的要求と同時に経営者や職制に〈誠意〉を要求する強い感情をもつこと、争議の際に対立点を明確にして解決を図るより、それぞれの個別の事情を訴え、情緒的な和解を図ろうとする傾向、d)自己の正当性を、国家的な価値によって主張する傾向。あるいは実定法を基礎に主張し、自然権という考えが見られないことなども注目される。

 これらの点は、経営内で身分制度が大きな意義をもったこと、労資の意志疎通の重視などといった、日本の労資関係の特質を解明する上でも大きな意味をもっていると思います。こうした問題は争議研究だけが明らかにするというものではないのですが、争議行動を分析することによって一般労働者がもっていたマンタリテを解明し得る。もちろん、何故そうになったかを、争議研究だけで明らかには出来ませんが。

 4 さらに企業社会、職場社会、職工社会といった社会関係の重要性が明らかになったことも重要です。企業社会で言えば、ブルーカラー労働者と労働者出身の下級職制の関係、ブルーカラー労働者全体とホワイトカラーとの関係は日本の労働運動史を理解する上できわめて重要な意義をもっていることの発見です。

 このように、争議研究によって従来の経済主義的な労働運動史理解が訂正されたのに、争議研究の批判者としての小林英夫さんは、争議研究あるいは労資関係史研究は経済主義であるとして「労働運動と言うのは人がやることだから、人間関係もあるし、地域や工場の伝統とか、経済学的範疇では捉えられない種々の問題、今のはやり言葉でいえば社会史というような問題まで包摂していかないと方法論にはなっていかないのじゃないか。労資関係論というのは積極的意味をもっていたと思うが、いかんせん経済主義的傾向は拭い去れなかった」と述べておられます。しかし、残念ながらこの指摘は的はずれのように思います。





5 労働争議研究・企業別労資関係史研究の問題・限界

 このように見てくると、すでに労働争議研究の限界が問題になる。クラフト・ユニオンの伝統不在の問題を追究して行くと、どうしても工業化以前の前近代社会における職人組織と権力との関係を問題にせざるをえないことになるからです。幕藩体制のもとで、職人組織が役負担の体系となっており、自律性に欠けていたことを考えざるを得ないからです。
 ここにくると私は、小林さんとは別の意味で、これまでの日本労働運動史の理論的な枠組は狭かったと思わざるを得ない。具体的にいうと、日本の労働者の特質を近代史の枠の中だけで考えていることです。もっと時間的に対象を広くとることが必要ではないか。こうした前近代社会とのつながりを追究する仕事はラッキョウの皮剥きになるという意見がありますが、私はそう思いません。最近の日本史研究の動向を見ても、水林彪『封建制の再編と日本的社会の確立』や義江彰夫『歴史の曙から伝統社会の成熟へ』などは、われわれの問題関心に重なるものがあるように思います。そもそも近代日本を考えるのに天皇制を抜きにしえないことは明瞭で、天皇制研究は明治維新以後だけを対象にするわけにいかないことは明らかでしょう。とすれば、労働運動の研究も日清戦争後から始めてよいわけはないでしょう。

 たとえば、企業はイエ結合、職場社会は仲間結合といえますが、前者の強さ、後者の弱さには歴史的なものがある。もちろんイエ結合原理の企業社会は初めから今日のように強固な存在だったのではない。労働者の要求を取り込み、その正規の構成員の範囲を拡大して行くなかで強固になったのですが。

 もう一つ、時間的だけでなく空間的に見ても日本労働運動史研究はは狭いのではないでしょうか。もっと意識的に比較史的方法を取り入れるべきでしょう。それも、西欧やアメリカとの比較だけでなく、東ヨーロッパアジア各国などとの比較も試みられる必要があるのではないでしょうか。








【労働争議関連研究文献一覧】



個別企業の労資関係史

【関連論文】
  1. 池田信「労働運動史──昭和恐慌まで」(『季刊労働法』1977年12月)
  2. 小林英夫「日本労働運動史研究の方法論──1920年代日本労働運動史分析を中心に」(『賃金と社会保障』1982年1月下旬号)
  3. 三宅明正「戦間期日本労働運動史研究の〈方法〉について──小林英夫『日本労働運動史研究の方法論批判』」(『労働運動史研究会会報』no.4,1982年12月)


初出は、『労働運動史研究会会報』no.16 1988年6月。


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