私は労働調査について専門的に勉強しているわけではありませんし、自分で労働調査をやった経験も2、3回しかありません。それなのに、今日のように経済学の文献や経済資料についての専門家の集まり(経済資料協議会総会)で、このようなテーマでお話しするのは、前座が真打の師匠方を前に話をするようなもので、なんともおこがましいのですが、文字通りの前座話としてお聞き流しいただきたいと思います。ただ、これまで自分の専門である日本の労働問題の歴史を勉強する時には、さまざまな調査資料、統計資料を使わざるを得ず、そうしたものがどの様にして作られてきたかについては多少の関心もあり、またそれを知らないと資料批判も出来ないので、いくらかは勉強してきました。
それと、大原社会問題研究所の諸先輩のなかには、高野岩三郎初代所長をはじめ、日本の労働調査の歴史でかなりの役割を果たしてきた人びとがいます。大原社会問題研究所の英文名はOHARA INSTITUTE FOR SOCIAL RESEARCH と言うのですが、これを文字通り訳すと大原社会調査研究所というわけです。当然のことながら、自分が働いている研究所のことについては、いろいろ調べてきました。
もうひとつ、現在私どもの研究所が、法政大学図書館から引き継いで管理している文庫に「協調会文庫」があります。これは大原社会問題研究所と同じ年に、内務省と財界が一緒になって作った財団法人・協調会の附属図書館が集めていた図書・資料のコレクションです。この協調会も戦前の労働調査では、大きな実績をもつ機関です。そんな訳で、大原社会問題研究所や協調会の活動を知るためにも、少しは勉強しなければいけないと感じていたテーマでした。そこへ昨年ある機会に、協調会の労働調査について報告させられたものですから、今日はその話をいくらか広げて、日本の労働調査の歴史をめぐってというようなことで、お話しさせていただこうと思います。
なお、労働調査と言っても、個別的な実態調査と統計調査とがあり、両者の間にはかなりの違いがあるわけですが、今日は主として実態調査に重点をおいてお話しさせていただきたいと思います。もちろん実態調査の場合でも、統計調査と深い関連がありますし、話のついでで、統計調査についてもいくらかは触れることになろうかと思いますが、統計調査は主たるテーマではないことだけお断りしておきたいと存じます。
【下層社会探訪記】労働調査の前史ともいうべきものは、ジャーナリストの下層社会探訪記です。だいたい今から100年前1888年、明治21年あたりから盛んになります。ひとつのきっかけは、いわゆる〈高島炭鉱事件〉にあったと思います。高島炭鉱での坑夫がいかに虐待されているかが伝えられ、新聞や雑誌が競争で特派員を出すといった大きな社会問題になりました。同じ頃、松方デフレにともなう貧困の深刻化、スラムの拡大といった状況も、こうしたテーマに関心を抱かせた背景にあるのではないかと思います。
そうした中で、労働調査の前史ともいうべきものとしては、この年に出た鈴木梅四郎『大坂名護町貧民社会の実況紀略』や、翌年の桜田文吾『貧天地大飢寒窟』などでしょう。さらに松原岩五郎『最暗黒の東京』(1893年)、『社会百方面』(1897年)横山源之助『日本の下層社会』(1899年)などがこうしたタイプの仕事の代表的な作品です。こうした作品の筆者である新聞記者にとって、こうしたテーマは、社会の木鐸、オピニオンリーダーとしてやりがいのあるものだったのでしょう。一方、こうした記事を掲載した新聞雑誌、具体的にいえば『東京日日新聞』『時事新報』『日本』『国民新聞』『毎日新聞』などの経営者側から言えば、視聴率獲得競争の明治版ともいうべき面もあったのでしょう。読者の知らない世界について、ひろく知らせる冒険談的性格もあった。「探訪記」という言葉が示すように、読者が見たことのない社会の内側を見せる、悪く言えば覗き趣味的な側面がないではなかった。しかし、社会調査としてみると、記者が実際にスラムに潜入してその実態を伝えるわけで、一種の参与観察法による記録としての性格をもっていたといえるのではないでしょうか。
【横山源之助『日本の下層社会』】今日のテーマである「労働調査」という点からみると、こうした作者の中で、横山源之助は飛び抜けた存在でした。彼にいたって、単なる探訪記事でなく、労働問題の調査・研究としての水準に達したと考えられます。何より重要な点は、横山が自分自身を「下層社会の研究者」と位置づけていたことです。もちろん松原岩五郎、横山源之助は、ともに二葉亭四迷の影響を受けて下層社会探訪記を書くようになったのであり、さらに横山は樋口一葉を訪ねて、ラブレターまがいの手紙を書いていたことが示すように、もともとは作家を志向していました。したがって、その下層社会探訪記は、文学の一ジャンル、記録文学・社会文学としての性格をもっていました。しかし、横山は労働問題研究者としての自覚をもっていた。そのことは、彼が『中央公論』に書いた未完の研究計画「貧民状態の研究」にはっきり示されています。(立花雄一『評伝・横山源之助』195〜202ページに全文収録)。
そこでは、自分の研究課題を総括的に提示しているのです。ただし、その課題を、どのようにして調査研究するのかと言う方法については未解決です。あえていえば、方法論をもたなかった。その意味で、これは未完の研究計画に終わっている。横山源之助の後にも、下層社会の探訪記は盛んに現われます。しかし、どちらかといえばセンセイショナリズムに走る傾向が強くなっていったように見えます。
しかしこの系列の仕事は、日本の労働問題に関する調査研究のひとつの山脈として、より正確には、いくつかの独立峰として存在しています。戦前では細井和喜蔵の『女工哀史』、賀川豊彦の『貧民心理の研究』などがそれです。戦後では、上野英信『追われゆく坑夫たち』、森崎和江『まっくら』、鎌田慧『自動車奴隷工場』、山本茂美『ああ野麦峠』などがこの系列の作品です。どちらかといえば文学的性格の強いものになっている。個人的な調査で大量観察を実施することは困難ですし、人びとに訴える力としえは、生ま生ましい事実を掘り出して見せるものの方が強いものがあるからでしょう。
このタイプの仕事が大きな意味をもつのは、その調査結果が広く人びとに伝えられ、社会的な影響力をもった点にある。その意味では、これからお話しする官庁関係の調査が、労働調査、社会調査としてはより本格的な仕事でありながら、非公開であったため、直接にはあまり社会的な影響力をもたなかったのとは、大きな違いです。
【農商務省の調査】ところで、労働調査のように、調査対象が多数の人びとである場合の調査は、いかに限定的・個別的な実態調査でも、個人的な作業として実施するのには限界があります。どちらかといえば、複数の人がチームをくんで実施する組織的な調査の方が、より正確で豊富な内容をもったものとなるでしょう。ただ、そうした調査を実施するには、当然のことながらお金もかかります。ロンドンやヨークの貧困調査を実施したことで有名な、ブースやローントリーは、金持ちでしたから自分で調査に必要なお金を出すことができました。しかし、戦前の日本にはそうした人物はほとんどいなかった。大原社会問題研究所をつくり、労働科学研究所をつくった大原孫三郎は例外中の例外ともいうべき存在です。
そこで当然のことながら、戦前の社会調査や労働調査の実施主体として大きな比重を占めたのは、農商務省や内務省といって中央官庁、さらに第一次大戦後になると大阪市、東京市といった大都市の役所でした。「明治期」では、中央官庁だけを問題にすればよい。
明治期の中央官庁による調査のなかで重要なのは、工場法制定のための基礎調査として農商務省が実施した一連の調査です。「工場法」、今で言えば労働基準法にあたるもので、労働時間の制限、年少労働者の保護などを目的にした法律です。1890年代にはその制定が問題にはなっていましたが、紡績業など資本家の反対で、なかなか法律になりませんでした。ようやく1911年、明治44年に制定されましたが、その実施はさらに引き延ばされ、実際に施行されたのは1916年、大正5年のことです。それだけに、法案準備の段階以降の長い間にわたって、いくつか調査が実施されました。そうした調査のなかで生まれた最も注目すべき成果が、農商務省工務局工場調査係の『職工事情』であることは衆目の一致するところだと思います。
もっとも、農商務省は『職工事情』以前にもいくつかの調査を実施しています。1896(明治29)年から1897(明治30)年にかけて刊行された『工業視察紀要』、1997年の『工場及職工ニ関スル通弊一斑』、1902(明治35)年には、『工場調査要領』を出しています。
さて、『職工事情』ですが、この調査は、1900年、明治33年に、工場法制定のための基礎調査として開始され、2年後にまとまり、1903(明治36)年に、『綿糸紡績職工事情』、『生糸職工事情・織物職工事情』、『鉄工事情、硝子職工事情、セメント職工事情、燐寸職工事情、煙草職工事情、印刷職工事情、・・・・』というように、産業別に実施された調査です。内容的には、職種、雇用関係、労働時間、休日、深夜業、賃金、住居、賞罰などの諸項目について調査しています。これによって、当時の労働者をとりまいていた労働条件、労働環境について知ることができます。この調査の実務を担当したのは、窪田静太郎、桑田熊蔵、横山源之助といった、それ以前にすでに実態調査をした経験のある者、あるいは外国での労働調査についてよく知っていた専門家でした。そうした専門家により組織的に実施された調査であったこと、さらに労働者保護のための法を制定する上での基礎調査という、調査目的がはっきりしていたことが、この調査の水準を高いものとした理由ではないかと思います。なかでも、付録に収められた文書は、女工虐待事件に関する裁判記録や、談話記録などで、この時点における男女労働者の生の声が聞こえてくる貴重なものです。われわれが、一般的にイメージしている官庁調査とはまったく異質な記録が収められており、きわめて貴重な調査となっています。
【鉱夫待遇事例】ところで、『職工事情』ほど有名ではありませんが、一産業に関する包括的な労働調査として見ると、『職工事情』よりも優れている調査があります。それは、農商務省鉱山局が1906年6月現在で実施し、1908年に刊行した『鉱夫待遇事例』です。その続編ともいうべき『鉱夫調査概要』(1910年末現在、1913年刊行)をあわせると、主要鉱山の労働事情が全体として良くわかります。一二の個別事例でなく、鉱業というひとつの産業について、主要事業所を網羅的に調査しているからです。その点では最も良質のものです。なぜ、そのような調査が可能であったかといえば、鉱山業はすべて国の許可が必要でした。地下の鉱物資源は原則的にすべて国のものとされ、鉱山を経営するためには、誰でも国から一定の範囲、つまり「鉱区」を借りる建前になっていました。そして、国から鉱区を借りている借区人は、定期的に「借区坑業明細表」を提出する義務を負っていました。その報告をしないと罰金をとらられる。そうした関係が、『鉱夫待遇事例』の網羅性の背景にあったのです。
同様のことは、工場法によって報告を義務づけられ、工場監督官によって監督されていた、『工場監督年報』についてもいえるように思います。この『工場監督年報』の数値は、同時期におこなわれていた産業統計、たとえば『工場統計表』より信頼度が高いように思われます。そのことを示す例をあげてみましょう。1919年、大正8年の『工場統計表』と同年の『工場監督年報』の長崎県の労働者数を見ましょう。通常であれば調査対象が5人規模以上である『工場統計表』の方が、15人規模以上を調査対象とする『工場監督年報』より多いはずです。ところが、『工場統計表』は8856人、これに対し『工場監督年報』は2万5505人と逆の結果になっています。なぜこのようなことになったかというと、おそらく『工場統計表』では三菱長崎造船所の数字がすっぽり落ちているのだと思われます。そのことは、『工場統計表』のこの年の金属機械関係の労働者数はが、ほかの年より、はるかに少ない。次の年1920年は、第一次大戦後のいわゆる反動恐慌の年で、造船業の労働者数は大幅に減少するはずなのに、『工場統計表』では逆に増えています。このように、統計調査がどのように実施され、集計されていたかを吟味してみると、さまざまな問題があることが判明します。とくに個別企業のレベルまで下がって調べてみると、さまざまな問題が出てきます。たとえば労働者数といった基本的なことが、同じ企業で、理由もなく変動することがあります。それは、おそらくそうした統計調査に回答した担当者が、従業員の範囲をどのように考えていたかによっても左右されます。とくに、臨時雇用、日々雇用の労働者を含めるか否かによって、大きく違ってきます。私が多少詳しく調べた足尾銅山の例でみますと、いわゆる「労働者数」と「延べ工数」の間に、簡単には説明できない矛盾が存在します。たとえば、従業員数としてあげられた労働者数で、延べ工数を割ると、労働者一人当り年間500工、600工と言った数になってしまうのです。そうしたことがおこる原因は、おそらく「従業員数」は長期雇用の在籍労働者数を計上し、したがってそこには「臨時雇用の労働者」は含まれず、一方、延べ工数は、実際に支払った賃金額から算出したためではないかと思われる。ちょっと、横道にそれてしまいましたが、個々の統計がどのように作成され、どのような特徴をもっているかといった問題の検討ぬきに、統計数値をいじるだけでは、実態を誤るおそれがあることだけ、お分かりいただければ幸いです。
【医学関係者による調査】ところで、工場法案準備のための基礎調査では、医学関係者による職工調査もおこなわれています。その代表的なものが、石原修の調査「衛生学上ヨリ見タル女工の現況」です。一般にはこの調査報告の付録として付されていた講演記録『女工と結核』の名がよく知られています。工場法施行促進の意図をもって、1914年、大正3年に発表されたものです。石原は東京帝国大学医学部衛生学教室の出身で、農商務省や内務省の嘱託として労働者の衛生問題の調査に従事しました。とくに繊維産業の女工の健康状態を、その出身地である農村において調査したのです。その結果はおそるべきものでした。出稼ぎ女工の死亡率は一般の2〜3倍以上、国へ帰った女工1000人のうち172人以上が重病であること、その多くが結核であることなどを明らかにしていました。当時、結核は死に至る病であり、しかもおそろしい感染病でした。この調査がまきおこした社会的な反響は大きなものでした。このように東京大学医学部衛生学教室は、日本の労働調査の歴史において逸することが出来ない位置を占めています。あとでお話しする月島調査も、もともとは衛生調査として実施されたもので、医師が参加しています。
【月島調査】日本の労働調査の歴史の中で重要な位置を占めているのは、高野岩三郎が中心になって実施した「月島調査」です。高野は東京帝国大学教授で、日本の社会統計学の草分けです。それと同時に、大原社会問題研究所の初代所長でもありました。また、日本の労働組合運動の創始者である高野房太郎の実弟です。かれは日本で国勢調査を実施させるよう努力した点でも重要です。その高野が、ちょうど大原社会問題研究所の創立前後にかけて、石川島造船所のある月島、佃煮でも有名な佃島で、総合的な地域調査を実施した。これは、日本の労働調査の歴史の中で重要であるというのは、それまでの特定の産業単位の調査やスラムを中心とする下層社会調査と違って、近代的な労働者が住む地域を対象に、労働者の労働と家族生活、衛生状態などを総合的、全体的に調べようとしたことです。事例研究ではあるが、意識的に典型的な事例を選び、実態調査を行なった。さらに、調査地に調査者が住み込んで、住民の協力を得て、調査を実施することにつとめたことです。そのことは高野岩三郎による『東京市京橋区月島に於ける実地調査報告』の総説の冒頭ではっきり述べています。
「調査地に調査所を設け、専任の調査者を配置し、小学校、警察署、区役所、医師、工場主、労働者等の援助を求め、統計材料其他確実なる材料を調製収集す」。
高野はエンゲルによる生計費調査や、ローントリーのヨーク市調査など西欧の労働調査について知っていたのです。さらに、月島調査の前に、友愛会の組合員の協力を得て小規模な家計調査を実施した経験ももっていました。友愛会員を対象とした「20職工家計調査」(1916年)がそれです。
「月島調査」は、その方法的準備において、第二次世界大戦前の社会調査中の白眉といってよいと思われます。月島調査を単なる家計調査として位置づけることはできない。しかし、調査の結果はいささか表面的で、分析の水準は高いとは言えない。とくに調査結果から方法を検討し、これを充分に展開、発展させえなかった。もちろんまったく影響力がなかったわけではないのですが。
実は、もうひとつ月島調査で重要であったのは、〈月島の労働事情〉と題して工場での労働調査を実施していることです。しかし、実はこれがあまりきちんとしたものではないのです。これを実際に担当したのは山名義鶴という男爵の息子で、新人会の会員ですが、どうも彼は、労働運動の応援に飛び回っていて、調査には本腰を入れて取り組まなかった模様です。
経済資料協議会総会での講演をもとに加筆訂正中。