大原社会問題研究所を創った人びと


大原社会問題研究所を創った人びと


                                   二 村  一夫

はじめに


 今からちょうど75年前の今日、つまり1919年(大正8年)2月9日に、大原社会問題研究所は生まれました。(これは1994年2月9日、研究所創立75周年記念集会における講演記録です)。

 私どもはこれまで、創立記念の大きな節目の年には、なにがしか大きな記念行事をしてきました。30年前の45周年には、東京・大阪・倉敷の3カ所で記念講演会を開き、4分の1世紀前の50周年には、朝日新聞社の後援で日本橋の東急デパートで記念の展示会と記念講演会を開催しました。60周年には八重洲ブックセンターで、所蔵貴重書の展示会をしましたし、70周年記念としては国際シンポジウムを開いて盛会でした。

 そうした前例からすると、4分の3世紀の今回は、欧米流にいえばダイヤモンド記念日ですし、盛大な記念行事をすべきところでした。ただ、ここ何年かずっと日常業務で忙しい日々が続き、また予算の問題もあって、今回はなにも準備せずにきました。しかし、つい先日、今年の創立記念日は、研究所がいつも会合を開くことにしている水曜日であることに気づき、せめて内輪だけでもささやかな記念の集いをしようということになりました。そう決まると、せっかくだから、これまで研究所にかかわったことのある皆様、あるいは大学内で日頃お世話になっている皆様にもご案内しようということになり、わずか2週間ほど前に、文字どおり泥縄でご案内をさしあげました。そうした杜撰な計画にもかかわらず、大勢の方がお集まり下さり、まことに有難うございました。

そんなわけで、記念集会といってもはなはだ準備不足で申し訳ない次第です。私の話も会合同様、準備不足で、ほとんどぶつつけ本番です。ただ、25年に1回しかまわってこないせっかくの機会ですから、現在、研究所でいろいろな仕事をしていただいている皆様に、自分の仕事場がどうしてできたのか、どのような歴史をもっているのかなどについて、お話ししておきたいと思います。



「自由都市」倉敷

 大原社会問題研究所を創った人びとのなかで、まずあげなければならないのは、いうまでもなく自分のポケットマネーで研究所を創立し、今なお研究所の名にその名を残している大原孫三郎さんです。大原さんがこの研究所に出してくださった金は総額で約185万円、今の金にすれば、総額で100億円から200億円というところでしょう〔研究所こぼれ話(1)参照〕。これは21年間に出した金ですから、年平均で8万8千円余です。土地建物にかけた25万円を除いた経常経費は160万円、約5億円というところでしょう。  なぜ、瀬戸内の小さな町の金持ちが、こんな大金を出して研究所をつくったのでしょうか。それも、社会問題研究所だけでなく、労働科学研究所や農業研究所を設立し、、また有名な大原美術館や、さらには駒場の日本民芸館などまでつくったのか。考えてみれば、不思議な話です。また、そういう人物が東京や大阪でなく、なぜ倉敷という瀬戸内の小さな町から生まれたのでしょうか。

 そこで、前から、少しずつ大原孫三郎について調べてきました。ところが、調べれば調べるほど、どうも一筋縄ではいかない人物だと思うようになってきました。言っていることとしていることの間に完全な整合性があるわけではない。かなり矛盾に満ちた人物のようです。実に立派な側面を持っているかと思えば、とても褒められたものではないところもある。差し引きすればプラスの方がはるかに大きい人物だとは思いますが、マイナスに目をつぶったままでは、プラスの側面が分からない。さらに、なぜこうした矛盾に満ちた人物が生まれたのかなどと考えてくると、疑問はつぎつぎにわいてきます。

 そして、やはりこの人を理解するには、彼を生んだ大原家、さらには大原家や倉敷紡績を大きく育てた倉敷という土地について考えてみる必要があると思います。
 「お前はすぐに歴史的背景などといって〈起源〉を問題にするが、そんな〈らっきょうの皮むき〉をやってどうなる」と、私は友人たちからよく言われます。しかし、大原孫三郎のような人物がどうして倉敷から出たのか、その理由はぜひ知りたい、と思うのです。それと言うのも、この時代の倉敷、19世紀後半の倉敷は、単に大原孫三郎だけでなく、何人もの特色ある人物を生んでいるからです。

 孫三郎が生まれた年、1880(明治13)年には、日本の社会主義運動の歴史で重要な役割を果たした山川均が、倉敷の旧家の長男として生まれています。実は、大原孫三郎と山川均は高等小学校時代の同級生、しかも当時は親友といってよいほどの間柄で、2人が並んで写っている写真が『大原孫三郎伝』にのっています。山川は大原を〈孫さん〉と呼び、大原家の別邸の大広間で相撲をとったり、いっしょに回覧雑誌をつくるほど親しくしていました。山川は19歳の時、友人と出した新聞『青年の福音』に、大正天皇の結婚を批判的に論じた小文が日本最初の不敬罪に問われ、実刑を受けたのですが、孫三郎は巣鴨監獄に彼を訪ねています。親戚以外は会えない規則で、実際に面会は出来ませんでしたが、この事実を出獄時に聞かされた山川は「当時獄中に私を訪ねることは、好意のほかに、そうとうの勇気が必要だった。私は旧友の友情に心から感謝した」と記しています(『山川均自伝』231ページ)。その後、倉敷に戻った山川は、孫三郎のエンサイクロペディア・ブリタニカを借りて勉強するなど親密な関係を保っていました。

 またこの二人の 2年後には、植物学者の大橋広(おおはし・ひろ)が生まれています。大橋家は大原家とならぶ倉敷の富豪で、広は倉敷紡績所の創立発起人・大橋良平の長女です。同志社女学校在学中に気にそまぬ結婚を強いられ、子供までできたのですが、自分の意志を通して離婚し、日本女子大の英文科と植物学科を卒業した後、シカゴ大学で博士号をとって母校・日本女子大の教授となり、戦後は学長に就任しています。

 さらに、彼らから十数年前の人に秋山貞輔(あきやま・ていすけ)がいます。明治年間に職人や労働者の間でよく読まれた新聞『二六新報』の創設者です。『二六新報』は、1901年、20世紀最初の年に、日本最初のメーデー集会ともいうべき労働者大懇親会を主催したことでも有名です。

 また、大原・山川の半世代後には、日本のマルクス経済学の第一人者で、大原社会問題研究所の所員だったこともある、また高野岩三郎所長の女婿でもある宇野弘蔵が生まれています。

 この秋山、大原、山川、大橋、宇野の 5人を並べてみると、分野は違いますが、全員が学問や言論など文化にかかわる仕事をしています。みな反骨精神の持ち主で、古い慣習にとらわれず自分の意志を貫いて行動し、また合理的な思考を重視した点でも共通しています。このほか、全国区の有名人ではありませんが、大原、山川の双方と親しく、間接的ながら大原社研にも関わりのある人物に林源十郎がいます。この人については、また後でお話します。

 倉敷が町になったのは、孫三郎が生まれて十数年後のことで、それまでは倉敷村でした。孫三郎が生まれた前年の戸数は1682戸、住民6061人に過ぎません。40万人を越す今の倉敷市からは想像もつかない小村です。そうした小さな地域、それも実際はさらに限られた数の旧家の間から、このような人びとが出ているのは、単なる偶然とは思えません。そこには倉敷という土地、またその地の〈上流社会〉に、なにか独特な性格があったことを予想させます。

 ご承知のとおり倉敷は、徳川時代は幕府直轄の天領で、地付の武士のいない村でした。一般に天領は、藩主によって直接支配された地域にくらべ自由で、年貢なども安いところが多かったといわれます。領地をもつ大名の場合は、領民を厳しく支配し、重税をとりたてました。しかし天領では、直接の支配者である代官は期間を限って任命された役人ですから、経歴に傷がつくことを恐れ、問題を起すことなく無事に任期をつとめあげようとして、比較的穏やかな政策をとる傾向があったようです。また、倉敷自体は小さな村でしたが、代官所は倉敷だけでなく、備中・美作・讃岐の幕府領全体を管轄し、その産米を集めて大阪に送り出すのが重要な仕事でした。一説によれば、〈倉敷〉の地名は、米や繰綿を納めた蔵屋敷が立ち並んでいたことに由来すると言われます。このように倉敷は、村といっても、中四国の幕府領をはじめ周辺地域の物産を大阪や江戸に送り出す重要な拠点だっただけに、商家が多く、普通の村にくらべるとはるかに豊かだったのです。秋山、大原、山川、大橋、宇野は、いずれも上京して勉強していますが、そうしたことが可能だったのも、豊かな家が多かったからです。もちろん、倉敷に学問や芸術を尊重する気風があったこともその一因です。言うまでもなく、こうした気風は暇と金のある人びとが集まっていた土地だから生まれたものでしょう。喰うや喰わずの生活では文化は育ち難い。

 倉敷は、児島湾の埋め立てによって出来た土地で、たかだか数百年の歴史をもつだけの新開地でした。どこでも、新開地は古い伝統・慣習から自由な傾向があります。とくに倉敷は、税金が安いうえに、代官所の管轄に対応して商圏が広かったのです。しかも周辺は米だけでなく、綿や藺草などの商品作物の特産地で、しかも砂地の埋め立て地は金肥を必要としましたから、商売にはうってつけの場所でした。進取の気象に富む人びとが、こうした場所を選んで移り住み、自分の力で自分の運命を切り開こうとしたであろうことは、容易に想像されます。

 倉敷には、18世紀の中頃から、有力な町人による〈義倉〉という自主的な困窮者救済の組織がつくられていました。〈義倉〉は、藩がつくらせた〈社倉〉と違い、民衆が〈おかみ〉に頼らず、自分たちの生活を自分たちで守ろうとするもので、自主的、自律的な性格をもつ住民がいなければ成り立たたない制度です。

 日本にはヨーロッパのような自由都市がなく、武士が民衆を直接支配する城下町ばかりだったことが、日本にクラフト・ギルド、クラフト・ユニオンを育てず、したがって労働組合が企業別になったのだというのは私の持論ですが、どうやら倉敷は長崎や京都などとならんで、日本では例外的な土地だったようです。あえて言えば、ヨーロッパ的な〈自由都市〉に近い性格をもっていた。実は、これは私の説ではなく、私の大学院時代の先生である中村哲元総長に教えられたものです。中村先生が大原研究所の45周年の際、倉敷で講演された内容をもとに「幕末倉敷の知識人たち」という論文を書かれ、大原社研『資料室報』173号に寄稿されています。中村先生によると、倉敷が豪商の町であったことが、武士の思想である儒教でなく国学が定着する条件となった。国学は儒教とともに仏教を目の敵にし、そのため幕末の国学に染まった地域は、明治になってキリスト教が入り易かったというのです。私は、この中村説は当たっていると考えます。ことのついでに申しますと、中村哲先生は岡山出身の文人画家・浦上玉堂(うらかみ・ぎょくどう)の子孫ですが、大原家も玉堂と関わりが深い。孫三郎の父方の曾祖父は玉堂と親交があり、その縁で大原家には玉堂の作品が数多く集まっていた。しかも、孫三郎自身が玉堂を好み、その作品の収集につとめ、玉堂の画譜を出しているほどです。こじつけに聞こえるかもしれませんが、大原美術館が倉敷に出来たのも、浦上玉堂を育てた芸術尊重の土地柄があってのことでしょう。


大 原 家

 さて、そうした商人の町倉敷で、孫三郎を生んだ大原家は、もとを辿れば元禄年間、今から300年の昔、備中児島郡片岡村から倉敷に移り、繰綿を商って成功した商人・児島屋です。
 そもそも倉敷周辺は日本でも有数の綿花の産地でした。ここに倉紡が出来たのは偶然ではないのです。児島屋は200年前には、すでにかなりの規模の問屋商人で、米や綿などいろんな商品を扱い、金融業も兼ねていたそうです。いまなお倉敷川沿いに残る大原邸は、国の重要文化財にも指定されている歴史的建造物ですが、これを建てたのは児島屋の 3代目だそうです。先年、そのなかを見せていただく機会がありましたが、なかなか立派なものですでに200年前には豪商といってよい規模だったことが窺えました。

 孫三郎の祖父・与平は、この児島屋の 5代目です。進取の気性に富んだ方で、幕末明治の動乱期を乗り切り、庄屋を務めるまでになります。一方、倉敷でも山川均の生家など多くの旧家がこの間に没落しています。そして1861年(文久元年)、児島屋は幕府にたびたび上納金を納めた功績で苗字帯刀を許され、原を名乗ります。これは、祖先が一時いたと伝えられる讃岐大野原、つまり香川県大野原に由来する名だそうです。その翌年、原から大原と改めました。内藤本家が大内を名乗り、森の有力者が大森と称したのと同じ流儀で、大原社会問題研究所の〈大原〉もここに始まったわけです。名前といえば、孫三郎の〈孫〉も、この偉いお祖父さんにあやかったものでしょう。

 孫三郎の父・大原孝四郎は岡山池田藩の儒者藤田家から与平の孫娘の婿養子として大原家に入りました。森田節斎の簡塾に学んだ文人肌の方だったそうです。当時としてはたいへん合理的な考えの持ち主で、孫の総一郎さんによれば、孝四郎は機械精米の普及で不要になった石臼を安く買って庭の踏み石にしたといいます。
 「米すりに使ったものを踏み石にするなど罰があたる」と言われたのですが、「廃物を利用するのがなぜ悪い」と少しも動じなかったといいます。また、壁土に安い山土を入れた赤い壁を塗らせたそうで、これも回りは壁土までケチケチしなくてもと噂さしたようですが、孝四郎は「この方が明るくていい」と意に介さなかった。

 こうした古い慣行や価値観にとらわれず、自己の判断に重きをおく気風は、あきらかに孫三郎にも受け継がれています。孫三郎は、大原の家に家憲・家訓のないことを誇り、「古い者の言いつけを後生大事に守っているような人間では仕様がないのだ。子孫というものは、祖先を訂正するためにあるのだ」といい、総一郎に「祖先の欠点をよく見て、それを批判し、訂正するのがお前の義務だ」と語ったそうです。欠点の多い人間であることを自覚していたことがこうした発言をさせたのでしょうが、同時に「どうだ俺を乗り越えられるか」と息子に挑戦しているようにも聞こえます。

 孝四郎は地域の発展をめざす意欲的な青年達にかつがれ、1888年、新たに創立された有限責任倉敷紡績所の頭取となります。これが全国的な企業となった倉紡の起源ですが、当時はまだ5000錐にも足らず、全国20位程度の地方企業に過ぎませんでした。この倉紡との関わりが、大原家を地方の地主から日本の富豪へと成長させたのです。ちなみに大原家の所有地は1877(明治10)年で104町歩、10年後の1887年には約300町歩、孫三郎の代の1924(大正13)年には500町歩にも達しています。



大原孫三郎

 孫三郎は、この父・孝四郎と母・恵以の子として1880(明治13)年7月に生まれました。名前が示すように実際は三男だったのですが、彼のすぐ上の兄は生まれるとすぐに死亡したため、戸籍上は次男として届けられました。
 さらに孫三郎が生まれた翌年、18歳上の長兄が死亡したため、孫三郎は生まれて間もなく大原家の〈跡取り〉となったわけです。父が50歳近くになっての子供で、兄二人が若死にし、他にかけがえのない跡取り息子であった孫三郎は、病弱だったこともあって、大事大事に育てられました。生来の癇癪持ちに加え、祖父母、両親からすっかり甘やかされて育った孫三郎は、手の付けられない我侭な〈若様〉になってしまいました。そんな子が、いろいろ制約のある学校に我慢が出来るわけもなく、いまで言う登校拒否児になります。倉敷の高等小学校を中途でやめ、岡山藩の藩校であった閑谷黌に学びますがこれも中途でやめ、16歳の時上京して早稲田大学の前身である東京専門学校に入学しました。しかし、ここでも学校にはほとんど行かず、芝居や寄席、吉原通いにうつつを抜かしたと言います。仕送りでは到底足りるわけもなく、とどのつまりは高利貸から借金をしての〈遊蕩生〉〈吉原特待生〉になりました。

 岡野なにがしという高利貸が、金を返せと倉敷まで乗り込んできたそうですが、孫三郎の父は、「他国の若者に、大原という家を信用してよくそれだけの大金を貸して下された」と礼をいって、ご馳走したといいます。たいへんな道楽息子だったわけです。

 なお、孫三郎の伝記的記述のなかには、こうした乱行を「悪友の誘惑」で説明するものがありますが、それは当たらないでしょう。何でも自分の意志を通さずにはいなかった男が、悪いことだけは友人の影響では理屈が通りません。この高利貸からの借金は、なんと利子も含め 1万5000円にも達します。100年前の 1万5000円が今ならどれほどか、比較はなかなか難しいのですが、当時、小学校教員や巡査の初任給が10円前後、倉敷紡績所で最高給の技術者が30円、大卒の銀行員が35円前後でした。
 念のためにつけ加えると、その頃の〈大卒〉は東京帝国大学の卒業生だけで、全学部あわせても毎年300人たらずの超エリートでした。つまり、1万5000円は、超エリートの初任給430ヵ月分、小学校の先生の初任給なら120年分です。今なら間違いなく億の単位でしょう。未成年の若者が女遊びによくもこんな大金を借りたもので、その度胸の良さには感心させられます。普通の家だったら一家心中ものです。
 ただ私は、こういう男であったからこそ大原社会問題研究所を創りえたのではないか、と考えるのです。17歳やそこらで、これほどの大金を使う大胆さがあったから、研究所に185万円も投ずることが出来たに違いない。もちろん、使う金がなければダメですから、単なる度胸や気っぷの良さだけでなく、大原家の豊かさ、孫三郎の経営者としての天性の資質もある。しかし、金持ちなら他にもいたのに、孫三郎だけがこんな金の使い方をしたのは、彼が幼い時から、のびのびと、底なしに甘やかされてきたことと無関係ではあるまい、と思うのです。もし仮に、孫三郎が幼年時代から、無駄遣いなどしないよう厳しく躾けられていたら、海のものとも山のものとも分からない研究所に金を出すことなど、考えもしなかったでしょう。

 さらにいえば、彼が事業家として才能を発揮したのも、このように育てられ、いつでも自分の思いどおりに行動してきたことと関係がある。倉紡が成長したのは孫三郎が社長になってからですが、周囲の懸念を押し切って強引に飯場制度改革を実施し、急速な規模拡大を図るなど、強力ななリーダーシップを発揮しています。たまたま第一次大戦による急激な経済成長にも恵まれたこともあって、倉紡はいっきに成長しました。ここには孫三郎の経営者としての優れた感覚がみられますが、同時に彼の天性の大胆さが、その育ちによって磨きをかけられた側面があると思われます。彼が先生のお気に入りの模範生だったら、こうはいかなかったでしょう。学校の優等生が社会で成果をあげるとは限らないから、教育は難しい。

 いずれにせよ、この大借金の発覚を機に孫三郎は故郷に連れ帰られ、謹慎を命じられます。『山川自伝』は、均がこれを父へ知らせた次のような手紙を収めています。「大原氏は原邦三郎氏実況視察委員として上京相成、同道御帰郷に相成候、今度は再び御上京六ヶ敷き様伝聞仕り候」というのです。ここに出てくる原邦三郎は孫三郎の姉婿です。さすがの孫三郎も、借金の負い目の上に、この義兄が高利貸との折衝のため上京中に病気で急逝するというショッキングな出来事が重なって、大いに反省します。さらに、彼の生涯の転機となったのが、有名な石井十次との出会いです。




石井十次のこと


 ここでしばらく石井十次について、お話ししたいと思います。孫三郎が石井に出会っていなければ、おそらく大原社会問題研究所は存在しなかったと思われるからです。つまり石井十次の死後、孫三郎は彼を記念するため、大阪のスラムの児童を対象にした夜学校や保育所を経営する、財団法人石井記念愛染園をつくりました。愛染園には創立当初から救済事業研究室が付設されましたが、これこそ、ほかならぬ大原社会問題研究所の前身です。75年前の今日開かれた大原社会問題研究所の創立総会の会場は、この愛染園でした。そんなわけで、間接的ながら、石井十次も「大原社会問題研究所を創った人びと」のひとりと言ってよいでしょう。

 大原孫三郎も並外れた人物でしたが、この石井十次はさらに桁外れで、世間の常識ではとうてい測ることの出来ない人でした。そんな人物だったから、さすがの孫三郎もその言うところに耳を傾けたのでしょう。石井は、慶応元年に日向(宮崎)に生まれましたから、孫三郎より約15歳の年長です。単なる社会事業家ではなく、熱烈なクリスチャン、というより狂熱的で行動的な宗教家でした。医者になろうと岡山医学校に入ったのですが、在学中に偶然の機会から孤児を育てることになりました。そして卒業直前、孤児救済こそ自分に与えられた天命であるとして、岡山孤児院を創設したのです。現在のような〈少子化社会〉にいる私たちには想像しにくいのですが、この頃の社会問題のうちで、児童問題はきわめて大きな比重を占めていました。孤児や捨て子、浮浪児が多かった。病気、とくに流行病で親が死ぬ。両親が死ねば孤児になるのはもちろんですが、片親でも子供を育てられないため捨て子をする。さらに、産児調節が普及していなかった上に、妊娠中絶は犯罪で、しかも〈シングルマザー〉が胸を張って生きられる社会ではありませんでしたから、捨て子に追い込まれることも少なくなかったのです。

 ところで、石井十次は、合理的計算など度外視した宗教的な熱意と行動力で岡山孤児院を経営しました。それが成功の原因でもありましたが、しばしば困難な事態にも陥りました。彼は何回か経営方針を転換しています。多くは神の啓示によるものでしたから、世間の常識を超越したところがあり、人を驚かせました。たとえば、1895(明治28)年には、極度の財政難のなかで、それまで寄付金に頼ってきた方針を打ち切り、「天父ノ冥助ト院内各自ノ労働トニ由テ之ヲ維持拡張シ、敢テ寄付金ヲ受ケズ」という「独立宣言」を出しています。この方針は、孤児たちや院の関係者の過労となり、折からのコレラの流行もあって、挫折します。しかも彼自身もコレラにかかり、最大の協力者であった妻も病気で失いました。あるいは、明治末の東北飢饉の際には、設備面での収容人員の制約などいっさい無視して、孤児の無制限受け入れを宣言します。その結果、岡山孤児院は1200人もの孤児を収容する日本最大の孤児院になりました。

 なお、石井十次の関係者が何人か大原社会問題研究所の創立にかかわっています。そのひとりは柿原政一郎氏で、その母が石井十次の従兄弟でした。病気で東大を中退して静養していた時、石井のすすめで倉紡に入社し、大原孫三郎の秘書兼顧問として、労務管理改革に当たっています。研究所創立の際には、大原の代理として各方面との折衝に当たり、研究所の財団法人化とともにその監事となっています。もうひとりは鷹津繁義氏で、岡山孤児院茶臼原分院に勤務し、石井十次の最後をみとった人です。創立と同時に庶務会計主任となり、裏方として研究所を支えています。研究所の東京移転に際し、大阪府の職員となり、市に譲渡された研究所の図書の保管・管理に献身し、戦後は石井記念愛染園常務理事、園長に就任されました。



林源十郎のこと

 こうした、ほとんど〈無茶苦茶〉ともいえる岡山孤児院の経営を可能にしたのは、石井の異常ともいうべき熱意と内外のクリスチャンを中心とする多くの人びとの援助でした。とりわけ地元の岡山県下には多くの支援者がいましたが、その一人が倉敷で先祖伝来の薬種問屋を経営する林源十郎でした。この林源十郎は、ほかならぬ山川均の義兄、一番上の姉・浦の夫です。同志社で学んだクリスチャンで、家業に熱心な人格者として、周囲の尊敬の的でした。『山川自伝』には、均が『日刊平民新聞』の編集者として上京を勧められた時、義兄だけが即座に賛成したことを不思議に思っていたが、後年その日記を読んで理由が分かったとして、その一部を引用しています。そこにみられる林源十郎〔別名甫三〕の姿勢はまことに見事で、とりわけ次の一節などは感銘深いものがあります。
 「甫三不明、未だ均の志の存するところを知るに難しと雖も、蓋し、彼が成さんと欲する所のものは、一身を捧げて社会の為めに貢献せんとするにあらん。事の成否は挙げて天意に在り。苟も其信ずる所を為さんとし、其望む所に達せんとす、敗るるも亦可也。只だ夫れ、彼が素望を妨ぐるは、精神的に彼に死を強ふるに等からんを恐る」。「彼ガ過去ハ悲惨ト辛酸ノ経歴ニ充タサレ、鉄鞭ヲ意トセザル彼モ、動モスレバ家庭ニ於ケル涙ノ要求ニハ其心身ヲ犠牲ニ供シテ終生ノ大事ヲ誤ル恐レナキニシモアラズ。之レ彼レガ現下ノ弱点ナリ。此弱点ニ乗ジテ涙ノ圧迫ヲ彼ニ加ヘ、彼ヲシテ自ラ欺キ人ヲ欺クノ白徒ト伍セシムルハ、彼レヲ千仭ノ暗谷ニ投ズルニ等シ。人生ノ行路痛恨之ヨリ大ナルモノナシ。此ノ如クシテ家庭ノ円満ヲ謀ルモ、仮装的平和ノ価値幾何ゾ。若シ家庭真ニ寛ニシテ均亦真ニ任意ノ答ヲ記スベキ自由ヲ有セバ、仮令余ノ意ニ悖ル所アルモ余ハ喜ンデ彼レガ希望ノ為メニ余ノ意志ヲ犠牲トスルニ躊躇セザルベシ」。

 日本の社会主義運動の歴史には、家族への情愛を梃子に転向を強いられた事例が数多く存在します。それに対し、林源十郎は、均の主義主張は理解できないが、その志を尊重し、〈家庭ニ於ケル涙ノ要求〉によって均が自らを欺き〈終生ノ大事ヲ誤ル〉ことのないよう望んでいるのです。〈仮装的平和〉による〈家庭ノ円満〉には価値を認めていないのです。この林家にせよ、娘の離婚を許した上にアメリカまで留学させた大橋広の実家にせよ、倉敷の旧家には、当時の日本には稀な個人を尊重する精神が存在し、またそれを許すだけの経済的余裕があったのです。

 話は違いますが、赤旗事件で山川均が再度入獄したときの、石井十次の意見も見事です。彼は均の甥、つまり林源十郎の長男に「山川君のことなら心配することはないよ。あれは百年に生きる人であるから、今はどうあろうとも心配してはいけない」と言ったと伝えられています(『山川均自伝』483ページ)。

 ついでに言いますと、創立以来の所員で、戦後長い間所長をつとめられた久留間鮫造先生が研究所に入ったきっかけは、中学時代からの友人林桂二郎から研究所の創設計画を聞いたことにあります。久留間先生は、桂二郎を介してその父・林源十郎に会い、大原孫三郎に紹介され、さらに高野所長にあった上で入所を許されています。なお、林桂二郎氏は後に研究所の監事に就任しています。もうひとつ言えば、大原美術館の基礎となる絵を収集した児島虎次郎の夫人は石井十次の長女です。こんなことまで紹介するのは、この話に登場する人物が、互いに知り合い、あるいは姻戚となっている密度の濃さを示すためです。そこには、倉敷やその周辺の上流社会が互いに深い関係を結び、一種の知的サークルを形成していた状況がうかがえます。

 放蕩に身を持ち崩した息子の将来を心配した大原孝四郎は、この林源十郎に孫三郎の指導を依頼します。孫三郎も林に心服し、その指導下で聖書を読み、さらにその紹介で石井十次と会い、強く惹かれます。こうして孫三郎は、林と石井の影響下でクリスチャンとなったのです。孫三郎が結婚した際は、石井十次と林源十郎の夫妻が媒酌人になるほど、三者は親しい関係を結びます。




石井記念愛染園

 これ以後、孫三郎は、単に岡山孤児院など石井の事業を財政的に援助しただけでなく、石井の集めた基金の管理者をつとめるなど、その事業を身をもって助けています。1914(大正 3)年に石井十次が死ぬと、孫三郎はその遺言により自ら岡山孤児院の院長に就任します。実は、石井は岡山だけで社会事業をしていたわけではありません。さまざまな社会問題をかかえた大都市大阪で、また出身地の宮崎でも、大規模な事業をおこなっていました。彼は、自分の仕事は日本を代表する社会事業であると自負し、その活動の本拠は岡山より日本の中心・東洋の中心である大阪におくべきだと考えていました。そこで、1906(明治39)年には大阪駅に近い出入橋にあった女学校の敷地建物を買い取り、岡山孤児院大阪事務所としています。この購入資金も主に孫三郎が出しました。岡山の事業は孤児救済が主であったのに対し、大阪では貧児を対象とするスラムの救済が中心で、夜学校や保育所などを経営し、乳児保育も実施しています。

 石井の死後、大原は岡山孤児院は閉鎖してしまいます。しかし同孤児院大阪事務所については、その中心人物・富田象吉の願いをいれ、その事業を拡充し、1917(大正5)年11月、財団法人石井記念愛染園を創立したのです。園内には救済事業研究室が設けられ、それがわが大原社会問題研究所の直接の前身であることは、すでにお話ししたとおりです。なお、愛染園は今なお、病院や保育園、児童館を経営する社会福祉法人として存続し、300人を越える職員を擁して、活発な活動を続けています。

 孫三郎がなぜ救済事業研究室をつくったかといえば、彼は旧来の社会事業に対して疑念を抱いたからです。孫三郎は石井のよき理解者であり、熱心な支持者でしたが、同時に冷徹な実業家の目で、石井の活動を批判的に見ています。孫三郎は石井十次の事業について次のように論断しています。

「君の事業は世間では大成功の如く見られてゐますが、忌憚なく言へば全然失敗でした。ただ、美はしい社会救済の根本精神だけが大きな成功であったと見るべきであります」(『大原孫三郎伝』95ページ)。
 孫三郎の石井の事業に対する批判点はいくつかありましたが、なによりも孤児院が孤児にとっても良い結果をもたらさなかったことを問題にしています。孤児院を出た人びとの多くが、孤児院出身者ということだけで差別され、なかなか社会に適応できなかった。またその人びとが自立心に欠ける傾向があったことなどです。もちろん、石井もこの問題に気づいていなかったわけではありません。里親を募り、あるいは宮崎茶臼原で農場経営をおこない、さらにはブラジル移民も実施しています。ただ孫三郎が石井と違ったのは、直感や神の啓示ではなく、科学的に救済事業のあり方を研究すべきであると考えた点です。彼がこうした考えをもつにいたった背景には、山川均の存在があった、と思われます。確証はありませんが、孫三郎は遠くからいつも旧友の言動を見ていたに違いない。そして、その主張に賛成ではなくても、山川が指摘する社会的矛盾の存在を認め、その解決策を明らかにする必要があると考えたのでしょう。

 愛染園に付設された救済事業研究室の中心として招かれたのは高田慎吾です。東大法学部をでて、社会事業への道を進んだ異色の人物です。大原社会問題研究所というと、櫛田民蔵、森戸辰男、久留間鮫造、笠信太郎ら経済学関係の人びとが注目されてきたのですが、児童問題研究者としての高田慎吾は、娯楽研究の権田保之助らとともに、もっと高く評価されてよいと思います。愛染園には、救済事業研究室とともに、救済事業職員養成所も設けられ、高田慎吾がその所長となります。なお、高田が大阪にきた背景には、当時の大阪における社会事業の先進性があると思われます。それを具体的に示しているのは、大阪府知事の顧問として1913年に赴任した小河滋次郎によって大阪慈善協会と救済事業研究会が設立され、活発に活動していたことです。大原社会問題研究所とこの救済事業研究会や、小河滋次郎との関連も、これからはもっと研究する必要があるでしょう。




河上肇との関わり

 孫三郎は岡山孤児院の活動をつぶさに観察するなかで、従来の救済事業のあり方に疑問をもっただけではなく、しだいに慈善事業では問題は解決しないと考えるようになって行きました。社会問題を研究し、根本的な解決策を研究する必要がある。治療的であるより、予防的な救済事業を考える必要がある。社会問題研究所の設立は、まさにそうした考えを実行に移したものでした。

 ところで、私は、孫三郎が社会問題研究所を創立しようと決意したきっかけは、河上肇の影響、とりわけ『貧乏物語』の影響があったに違いないと考えてきました。その根拠は、すでに本誌360号の〈70年こぼれ話〉「大原孫三郎と河上肇」のなかで書きましたので、詳しくはそれをご覧いただければと思います。なにより『貧乏物語』は金持ちにその金の使い方を考えるよう呼びかけた本でした。

 「富を有する者は如何にせば天下の為めその富を最善に活用し得べきかに就き、日夜苦心しなければならぬ筈である。贅沢を廃止するは勿論のこと、更に進んでは其財を以て公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬ」というのです。

 これはまさに研究所創設にあたって孫三郎が考えていたことでした。また、彼は、内務省の役人が〈社会問題〉は穏やかでないから考え直すよう言っても、研究所の名に〈社会問題研究〉をつけることにこだわりました。この〈社会問題研究〉は、他ならぬ河上肇の個人雑誌のタイトルでした。

 研究所の創立にあたって、孫三郎は、まず京都大学の河上肇、河田嗣郎、米田庄太郎の 3人を訪ねて相談しています。その時のことを、河上が書き残した興味深い記録があります。これも本誌361号に書きましたので、詳しい紹介はやめますが、河上・大原という、どちらも並外れた個性の、対面というより対決と言った方がよい場面が存在したことを生き生きと記しています。関心のある方は「河上肇と大原孫三郎」をご覧ください。河上は「社会問題の根本的な解決法なら、今更研究などしなくとも分かっている。現在の日本における急務は、社会問題解決のための根本策に関する理解の普及、即ち社会主義思想の普及である」と主張し、そのための共同事業なら参加してもよいと答えたようです。しかし、これには孫三郎は同意せず、河田や米田も賛成しなかった。のちに研究所を財団法人へ改組した際に、「河上が入所するかわりに米田と河田が去ることになった」という噂が世間に流れたのも、京都大学の 3人の間で意見の相違があったことを窺わせます。
 いずれにせよ、河田、米田は参加したのに、河上だけは研究所の創立に加わりませんでした。もし、河上肇が研究所創立に加わり、運営の中心になっていたら、研究所の性格は大きく変わったでしょうし、たぶん10年ももたなかったと思われます。

 ところで、孫三郎は東京帝大からも、誰か参加して貰いたいと特に希望していました。そこで河上肇が推薦したのが高野岩三郎です。高野は、その申し出をすぐ承知し、創立に参加します。


大原社会問題研究所・大原救済事業研究所の創立

 こうした創立の経緯から分かるように、当初は、京都帝大の学者がもっと重要な役割を担うことになっていました。地理的にいっても、それが自然だったでしょう。なかでも社会政策学者の河田嗣郎は、研究所運営の中心人物となることが周囲から期待されており、河田自身もそのつもりでいたものと思われます。たとえば、社会問題研究所の設立主意書の草案を河田が起草していること、また研究所の役員の中心となる幹事のひとりに河田が就任していることからも、そのことは分かります。なお、もうひとりの幹事は高田慎吾で、彼は愛染園救済事業研究室以来の専任研究員でしたから、当然でした。

 これら研究所役員の人選をおこなったのは徳富蘇峰と谷本富(たにもと・とめり)です。徳富が河田嗣郎を、谷本が米田庄太郎を推薦しました。徳富と谷本は大原孫三郎が1902年から20年近くも続けた〈倉敷日曜講演〉に講師として招かれ、それを機に孫三郎の学術顧問的な役割をした人びとです。なかでも徳富蘇峰には、かねてから社会問題研究所の設立について意見を求めていたそうです。なお、河上肇については推薦者の名が伝えられていません。この点からも、河上は大原孫三郎自身の選択であったことがうかがえます。もうひとり研究所設立の背後にいた人物は、愛染園救済事業研究室をつくった時から、その意見を求めてきた大阪府知事顧問の小河滋次郎です。さらに孫三郎の母校である早稲田大学からも、浮田和民の推薦で北沢新次郎が参加しました。ほとんど勉強はせず卒業もしなかった母校ですが、大隈重信や高田早苗らを倉敷日曜講演に招いたことから、早稲田大学は彼を〈校友〉に選び、後には〈校賓〉に推挙しています。

 さきほど孫三郎は救済事業=慈善事業に批判的だったと言いましたが、もちろん、実際にはいますぐ救済事業が不要であると考えたわけではありません。救済事業の改革も必要である。だがそれ以上に、貧乏人を助けるだけでなく、貧乏そのものをなくすことを研究しなければならない、と考えていました。つまり救済事業の研究も社会問題の研究の一部であると考えていたようです。しかし、彼から相談をうけた学者、おそらくは小河滋次郎が、社会問題の研究と救済事業の研究は別個のものだと主張した結果、研究所は二本建てで出発しました。

 1919(大正8)年2月 9日に大原社会問題研究所が創立され、その 3日後の 2月12日には、大原救済事業研究所の創立総会が開かれ、役員・研究員もそれぞれ別個に決められたのです。大原救済事業研究所は愛染園救済事業研究室を直接継承したもので、専任研究員は高田慎吾に加え、労働科学研究のパイオニアで倉敷労働科学研究所の創立者となった暉崚義等、さらに牧師の経歴をもつ大林宗嗣の 3人でした。一方、大原社会問題研究所の研究活動をになうことを期待されたのは、専任研究員として社会学者の戸田貞三と久留間鮫造の 2人、研究嘱託としては森戸辰男と櫛田民蔵、それに早稲田から北沢新次郎の 3人でした。
 もっとも、両研究所はすぐ合同することになり、同年 9月には、正式に大原社会問題研究所に一本化します。ただし、所内は2部に分けられ、労働問題を研究する第一部と、社会事業を研究する第二部として活動をはじめました。


二つの事件

 研究所の創立者は大原孫三郎ですが、研究所の性格を決めたのは、高野岩三郎です。生みの親は大原孫三郎、育てたのは高野岩三郎と言ってもよいでしょう。いま申しましたように、当初は、高野でなく河田嗣郎が中心になる筈だったのですが、創立まもなく起きた 2つの事件が、高野を大原社会問題研究所運営の中心人物にしてしまいました。この 2つの事件がなければ、大原社会問題研究所のその後は、かなり変わったと思われます。

 そのひとつは、国際労働代表選出をめぐる問題でした。国際労働代表とは、研究所と同じ1919年に創立されたILO(国際労働機関)の総会に、日本から送られる労働者側の代表のことです。ご承知のようにILOは、政府代表、労働者代表、使用者代表の三者構成の機関です。どこの国でも労働代表は労働組合の代表が選ばれるのですが、当時の日本政府は、日本には労働者を代表するにたる組合はないとして、労働代表選出のための全国協議会を独自の基準で開きました。協議会には友愛会など 5つの労働組合も代表を送ることを認められましたが、大部分の代表は大規模工場から直接選ばれた人びとで、労働者だけでなく職員が少なからず選ばれていました。労働組合の代表は、こうした選出方法に反対し、一部は会合をボイコットしましたが、選定協議会は 3人の候補を選んでしまいました。その2番目の候補が高野岩三郎だったのです。第一代表の本多精一が高野岩三郎の助言もあって辞退し、お鉢は高野にまわってきました。高野は、周囲の人びとに相談したうえで、これを受諾したのです。それには、高野自身の自負にもとづく誤算がありました。ご承知のように高野岩三郎のお兄さんの高野房太郎は日本の近代的な労働組合運動の生みの親でした。岩三郎自身も、1897(明治30)年に、日本最初の近代的労働組合である鉄工組合の発会式で祝辞を述べています。また高野は、日本最大の労働者組織である友愛会の評議員として、長い間労働運動を支援し、友愛会の協力で労働者の家計調査も実施しています。さらに、鈴木文治や麻生久など友愛会の主要指導者は高野の弟子でした。だから高野は、自分なら友愛会をはじめ労働組合も支持するだろうと考え、また彼の周囲の人もそう判断しました。しかし、友愛会をはじめ労働組合側は、「問題は労働代表が誰かよりも、その選出手続きにある」として、いかに高野先生であろうと断固反対であるとの態度をとったのです。結局、高野は代表受諾を撤回し、同時にその責任をとって、東京帝国大学教授を辞任したのでした。辞表提出が1919年 9月で、東大経済学部教授会は翌月これを受理しました。孫三郎は、これを機に高野が大原社会問題研究所の運営に専念するよう強く望み、所長への就任を要請したのです。

 この事件だけだったら、周囲の人びとも、また高野自身もそう考えていたらしいのですが、いったん退職し、時期を見て東大に復職する形で収拾された可能性が高かったと思われます。高野にすれば、自分が努力してようやく独立した経済学部に、まだ自分の弟子たちが助手などとして残っている。自分がやめてしまうと、こうした人びとの将来はどうなるのか心配したのでしょう。

 しかし、労働代表事件から数カ月後の1920年1月、あの〈森戸事件〉が起こります。これは他ならぬ、独立したばかりの東京帝国大学経済学部の機関誌『経済学研究』創刊号に、助教授の森戸辰男が書いた論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、新聞紙法の朝憲紊乱、つまり日本の国家組織を破壊せんとする主張であるとして、大問題となったのです。雑誌は発禁になり、東大経済学部教授会はすぐに森戸助教授を休職処分にしました。さらに、論文筆者の森戸だけでなく、雑誌の編集名義人の大内兵衞が起訴されるという事態となり、教授会は大内助教授も休職処分にしたのです。この時、高野のもとに集まっていた若手グループ、櫛田民蔵、権田保之助、細川嘉六らは教授会への抗議運動を展開しましたが、不成功に終わりました。

 高野はこれを機に、研究所の運営に専念することを決意し、1920年3月、所長に就任します。これと同時に、東大経済学部を辞職あるいは解雇された研究者、すなわち櫛田民蔵、権田保之助、細川嘉六らが、いっせいに大原社会問題研究所に専任研究員として入所しました。出獄した森戸辰男も研究所に入り、すぐにヨーロッパへ留学しました。大内兵衞も嘱託となり、大原研究所から外国留学に派遣されたのです。

 今日は、はじめの予定では、「大原社会問題研究所を創った人びと」として、これまであまり注目されることのなかった人びとについて、もっとお話しするつもりでした。しかし、大原孫三郎の周辺のことで時間をとりすぎ、他の方々については十分お話しすることが出来そうもありません。いずれ折りを見て、お話しすることにしたいと思います。今日のところは、研究所を育てた高野岩三郎がどんな人物であったかふれ、最後にもう一度、大原孫三郎について考えて、終わりとします。


高野岩三郎

 岩三郎は1871(明治4)年、長崎市銀屋町に和服の仕立て職人の息子として生まれました。彼も孫三郎と同じで、三郎なのに戸籍の上では次男です。家はけっして豊かとはいえませんでしたが、日本の労働組合運動の創設者となった兄・房太郎がアメリカで働いて毎月送金してくれた10ドルで、帝国大学を卒業し、大学院まで進学することができました。卒業後は、母校の東京帝国大学法科大学に残り、統計学の教授となりました。学問的には、家計調査、とりわけ月島での社会調査で大きな成果をあげました。しかし、彼の本領は個人的な研究よりも、日本の経済学のパイオニアとして、日本全体の学問水準を引き上げるための基礎的条件を整備したところにあります。そのひとつは、東京帝国大学法科大学から経済学部を独立させたことでしょう。大原研究所が創設された年と同じ1919年に、東京帝大に経済学部が創設されます。高野はこの経済学部独立の推進力で、その実現が遅れた時には、辞表を出して抗議しています。今では全国の総合大学にはどこでも経済学部がありますが、その生みの親なのです。もうひとつは言うまでもなく大原社会問題研究所の性格を決めたことです。さらに戦後は、民主化された日本放送協会の初代会長となり、NHKに放送文化研究所を設けています。

 もうひとつ高野の大きな功績は、すぐれた弟子たちを育てたことでしょう。東京帝国大学法科大学は権威主義の権化のような場所でしたが、リベラルな高野の周囲には、そうした権威主義に反抗する人びとが集い、〈同人会〉と称する研究会を開いていました。この人びとが森戸事件を機に、大原社会問題研究所に移ったのです。包容力のある、先生としてすぐれた人物であったようです。

 高野岩三郎という人は、大内兵衞先生が、日本の三大経済学者の一人として、河上肇、福田徳三と並べて論じ、なかでも最も偉い先生と持ち上げていることもあって、われわれからすると近寄りがたい大家という印象があります。しかし、その言行をよくみると、戦前には数少ない性根のすわった民主主義者だったと思われます。彼は、戦前無産政党の党首への就任を要請された時に、「私はリパブリカン(共和制論者)だから」と言ってそれを断っています。何より彼が本物の民主主義者であることを示したのは、戦後、彼が起草した「改正憲法私案要項」です。その冒頭に記された基本原則には「天皇制に代えて大統領を元首とする共和制の採用」とあり、第 1項には「日本国ノ主権ハ日本国民ニ存スル」ことを明記しているのです(高野岩三郎『かっぱの屁』参照)。

 彼が偉いと思うのは、単に言論においてこれを主張しただけでなく、行動でもこれを示していることです。『大原社会問題研究所五十年史』などに載っている所員の記念写真をご覧ください。てんでばらばらな並び方で、所長が真ん中に座っているものなど 1枚もありません。何を些末なことを、と思われるかも知れませんが、序列意識の強い戦前の日本で、しかも帝国大学法科大学教授だった所長が、こうした写真をとっていることは、その人の精神の位置を示すものとして重要だと思います。また、経済学部の独立にいたる経過をのべた文章の最後の一節も注目されます。

 「つくづく経済学部創設に至るまでの経過を顧みれば、私はそれが十余年間にわたる広義の関係者の協同的努力の結晶であると感ずる。すなわちそれは、内においては直接関係者たる教授助教授を始めとし、川南、今岡、戸辺、小林らの事務員あり、名物男、永峰小使に至るまで、終始不変一致協力して目的貫徹に精進した賜であるといえよう」。

 彼は、自分が辞表を出して経済学部創設を促進したことなどは一言も記さず、また教授・助教授の名は全然出さずに、職員と小使さんの名前は明記しているのです。

 高野はまた、戦前には稀なフェミニストでした。大阪朝日新聞社が主催した婦人文化講座で「本邦における婦人職業問題」と題して講演していますが、そこでは、「現代社会の二大問題は労働問題と婦人問題である」と喝破した上で、その解決の方向をつぎのように論じているのです。

 「同一労働には男子と同じ報酬を、政治上には婦人参政権、教育上には男女機会均等を要求し、根強い堅塁を覆すより外にない」。
 この講演は1925(大正14)年のことで、今から70年近い昔の主張です。詳しいことは存知ませんが、これも口先だけでなく、日常生活においても一貫されていたであろうことは、日本の習慣に不馴れなドイツ人の奥様と家庭を営んでおられたことだけからでもうかがえます。なお、この身長1・5メートルに満たなかった〈小さな偉人〉については、大島清元所長の『高野岩三郎伝』という名著がありますので、お読みいただければと思います。


高等学術研究所・専門図書館・資料館

 大原孫三郎が考えていた研究所は、おそらく日本社会を改良するの上ですぐ役に立つ方策を検討する機関、今の言葉でいえば「シンクタンク」的な機能が中心だったと思われます。しかし、高野岩三郎は研究所をもっと学術的な調査研究機関にしてしまいました。つまり、大原社会問題研究所は、研究員がそれぞれ自分のテーマをもって研究に専念する学術高等研究所ともいうべき研究所になったのです。そこでおこなわれた研究は、櫛田民蔵、久留間鮫造らのマルクス主義経済学研究、森戸辰男の社会主義運動史研究と婦人問題研究、権田保之助の家計調査や娯楽研究、大林宗嗣の女給調査や堕胎の歴史などの女性問題研究、細川嘉六の米騒動の研究、笠信太郎のインフレーションの研究などです。このなかには、当時の大学ではやり難かった先進的なテーマに関する研究が少なくありません。

 さらに大原社会問題研究所が日本の学問研究において果した役割のうち、重要な意味をもったのは、研究所に専門図書館・資料館としての機能をもたせ、しかもそれを一般に公開したことです。またその業務を支える専門職、つまり司書やアーキヴィストの役割を重視し、それを育てたことも見落とせません。生まれたばかりの大原社会問題研究所は、おそらく当時はまだごく少数だったであろう大学出の司書を、京都帝国大学図書館から引き抜き、これを研究員である図書主任として処遇しているのです。京大を卒業した森川隆夫その人で、彼は若くして死にましたが、大阪図書館協会設立の中心となっています。また、森川の後任として図書主任となった内藤赳夫(ないとう・たけお)も、京大図書館から移った人です。高野は、自分が外国に留学した時、内藤を同行させたほか、『日本社会主義文献』、『邦訳マルクス=エンゲルス文献』などの書誌を編纂させています。また、図書以外の各種資料の収集も重視しました。いま研究所に残っている資料は、他にかけがえのない貴重なものが多数含まれていますが、高野所長は、その活動を中心的に担った後藤貞治の仕事ぶりを評価し、自分の著書や論文を手伝わせる形で訓練し、ついには『本邦統計資料解説』をまとめさせています。

 大原社会問題研究所が、専門図書館として先進的な役割を果たせたのは、高野岩三郎のリーダーシップによるところ大ですが、大原孫三郎も図書館の重要性をよく理解していました。そのことを明瞭に示しているのは、孫三郎が創設した研究所は、いずれも図書の収集に力を入れて、すぐれたコレクションを購入し、しかもその公開に努めているのです。たとえば、大原社会問題研究所には無政府主義文献に関する世界有数のコレクションであるエルツバッハー文庫はじめ数多くの貴重書を集め、労働科学研究所はゲッチンゲン大学の科学史に関するコレクション=ゲッチンゲン文庫を購入しています。また、農業研究所はライプチッヒ大学植物学教授のプェッファー文庫を入手しています。さらに注目されるのは孫三郎が石井記念愛染園を設立したとき、その事業のひとつに「研究室及公開図書館」を掲げていることです。このほか、倉紡中央病院のなかにも、医師の研鑽のための図書・研究設備の充実を強調しています。孫三郎自身も、図書収集での貢献は自負をもっており、晩年に、「自分が直接何か学界に貢献するところがあったとすれば、それはおそらく外国から学術図書を購入したことであろう」と語ったといいます。

 ちなみに、この倉紡中央病院(のち倉敷中央病院)は、孫三郎が創った施設のなかでは、地元の人以外にはあまり知られていませんが、大部屋か個室かは料金によって決めず患者の病状によるという平等主義を実行したこと、付添人をおかない完全看護制をとったこと、医師はじめ従業員への心付けや贈り物を禁じたこと、院内に小さな熱帯植物園をつくるなどして病院臭さをなくす配慮をしたことなど、数々のユニークな特徴をもっています。

 孫三郎が考えていた研究所は、おそらく日本社会を改良するの上ですぐ役立つ方策を打ち出す機関、今の言葉でいえば「シンクタンク」的な機能を考えていたと思われます。しかし、高野岩三郎は研究所をもっと学術的な性格の強い、調査研究機関にしました。いわば研究員がそれぞれ自分のテーマをもって研究に専念する高等学術研究所としての性格を強くもつようになった。つまり、すぐれた研究者に、教育と直接関連をもたずに高度な研究に専念させる機関となりました。櫛田民蔵、森戸辰男、権田保之助、大内兵衞、久留間鮫造、細川嘉六、笠信太郎、戸田貞三。そこでおこなわれた研究は、櫛田、久留間らのマルクス主義経済学の研究、森戸らの社会主義運動史研究、権田らによる家計調査など社会統計研究、娯楽研究、細川嘉六の米騒動の研究などで、当時の大学では、なかなかやり難かった先進的なテーマについて研究されています。


人間・大原孫三郎

 今日は大原孫三郎についてかなりの時間をかけてお話ししましたが、それでも実際はそのひとつの側面を語ったに過ぎません。確かに孫三郎は生涯を通じさまざまな社会事業や、文化活動に力を注ぎましたが、これだけが彼の活動分野ではありません。むしろ彼本来の場は企業にあり、そこでその才能は遺憾なく発揮されました。今回は、事業経営者としての孫三郎についてはほとんど触れえませんでした。彼は1901(明治34)年に倉敷紡績に入社し、1906(明治39)年に社長に就任しましたが、倉紡が急成長をとげたのは、その後のことでした。また、倉敷レイヨンの前身である倉敷絹織も創設しています。さらに、紡績業だけでなく、電力や金融の分野でも、あいつぐ合併により、岡山県下の企業を統一し発展させることに手腕を発揮しました。こうした孫三郎の別の側面についてもお話ししたいのですが、それでは時間がいくらあっても足りませんので、また別の機会にしたいと思います。ただ、孫三郎が先見性をもち、決断力に富んでいたことが彼の成功を保証したことは確かで、彼自身、その先見性を誇り、息子の総一郎につぎのように語ったといいます。
 「わしの目は十年先が見える。十年たったら世人にわしのやったことが分かる」。「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成者がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するような時には、着手してもすでに手遅れだ」。

ところで、孫三郎は、石井十次に会って悔い改めてキリスト教徒となり、さまざまな社会事業や文化事業に力をつくしたのですが、我侭な遊蕩児的生活から完全に脱却したわけではありませんでした。事業の発展につれ、彼は倉敷を離れて暮らす日々が多くなり、花柳界にも足繁く通い、妻以外にも特定の女性が何人かおり、子供もいたそうです。大原総一郎は、母の味方として、そうした父にきわめて批判的でした。しかし、最後には、父のその矛盾に満ちた性格をよく理解するにいたっています。総一郎が『毎日新聞』に「敬堂十話」(敬堂は孫三郎の雅号です)と題し、父について語った連載の最終回は、次のように結ばれています。かなり長いのですが、孫三郎という独特の個性を的確に捉えていると思われるので、それを読んで私の話のむすびに代えたいと思います。

 「父は……わがままな性質と癇癖の強い性格のため、多くの人に畏れられ、また様々な誤解の原因をも作った。しかし内心には深い惻隠の情を持ち、この魂は石井十次氏と接するに及んで大きく覚醒して〈倉敷を東洋のエルサレムとなす〉ことを天与の使命と感ずるに至ったが、その至純な理想に奉仕しようとした時期は、経済界に進出するとともに再び退転の兆しを見せ、その更正を祈り感謝していた人たちの心を暗くすることが多くなった。父は自分でもそれを知っていたが、世の慈善事業家の態度の偽善的半面に強く反発し、しだいに科学的研究に新しい期待を寄せる傾向をもつに至った。そして社会的な事業が急激に多方面に拡大する反面、経済界での活躍も日増しに活発さを加えた。

 しかし、波乱の多い日本経済の発展期には景気の変動は避けられず、その振幅もまた大きかったので、本業も社会事業もいずれもその波に翻弄され、そのたびに深刻な悩みに陥りつつ、理想と標榜する方針に逆行する政策の強行をさえ、しいられる場合も多かった。そのつど、不屈の胆力のおかげで、なんとか苦境を乗り越えていったが、つねになすべく考えたことは、なしうる能力の限界を上回りがちで、その越えがたいギャップの上に進退両難の板ばさみの苦悩を体験したことも再三ではなかった。

 このような外的条件の悪化は克服されはしたものの、同時に気むずかしい性質をあらわにする副作用をも大きくもった。元来、父の多くの事業への意欲は、一種の反抗精神に根ざし、あるいはそれにささえられたものがまれでなく、単なる理想主義的理解だけでは解釈しがたいものが多々その中にあった。そのことは花柳界に遊ぶことが繁くなるとともに、外部からの曲解に拍車をかけた。父は自己の欠陥に対しては、つねにきびしく自省し、あらゆる努力を払ってその矯正に努めたが、それを改めつくすには、あまりにも強烈な感情の激発があって、それが自然におもむくところは、もはや二十歳前後の時代に復帰することを許さなかった。しかし、若き日の献身の精神は、片時もその脳裏から消え去ったことはなかったと思う。

 父はぜいたくであったが同時に質素を尊び、虚飾的なぜいたくは心から軽侮していた。神経質で繊細な感覚は人一倍強くもっていたが、強健なるものへの趣味はそれらの偏向の上に君臨していた。遊びの中にも芸術への志向と、その社会にひそむ社会的罪害に目を閉じることはできなかった。社会事業屋と呼ばれるべき人たちを非難しつつも、自らの理想をまでともに葬り去ることはがえんじなかった。こうして、理解しがたいことからくる誤解と故意による誤解とに、つねにつきまとわれていたので、父の孤独は、今日のいわゆる『経営者の孤独』といったものとは、異質の、そしてはるかに多くの矛盾をはらんだ複雑深刻なものであった。

 『自分の一生は失敗の歴史であった』とは、おりにふれて、父のよく述懐するところであったが、それは反省のことばというより、告白の響きをもっていた。そのことばの背後には、心なしか、いつも若き日の誓いが胸をさすのを押しかくしているような思いが感ぜられた。

 燃料にこと欠く特別に寒い冬だった昭和十八年一月十八日、父はついに持病の発作に倒れた。その日は、何年か前、十六歳の時、初めて郷里から東京へ旅立った日であった。」

「子を知る親にしかず」と言いますが、この場合はまさに「親を知る子にしかず」です。いや、むしろ「この子にしてこの親を知る」と言うべきでしょう。この文は、筆者が生涯をかけて批判しかつ理解しようとした父に捧げる言葉、あるいは息子が書いた父の墓碑銘といった趣があります。しかも行間からは、自身が経営者であった筆者の「告白の響き」さえ聞こえてくるような気がします。たとえば「理想と標榜する方針に逆行する政策の強行をさえしいられ」たこと、「父の孤独は、今日のいわゆる『経営者の孤独』といったものとは、異質」なものであった、とのくだりには特にその感を強くします。



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