戦後の大原社研




《日本社会運動史料》をささえた人
       ──松尾多賀さんのこと


                                     

二村 一夫

松尾多賀さん

 1994年2月に開かれた〈松尾多賀との別れの会〉は、松尾洋・多賀ご夫妻の人柄を偲ばせる、まことに感銘深い集まりでしたが、私には、なんとも辛い思いの残るものとなりました。ひとつには、多賀〔たか〕さんが、もう何年も前に完成されていた索引を収めた『労働農民新聞』第2巻の刊行がすっかり遅れ、生前にお目にかけることが出来なかったからです。それ以上に辛かったのは、当日の松尾洋さんのお話で、多賀さんが《日本社会運動史料》の索引作成を誇りに思い生き甲斐ともされていた反面、その仕事が時には「死にたい」ともらされるほど大きな負担となっていたことを知ったからです。何とも申し訳けのないことであったと、故人についてお語ししている間も胸が詰まり言葉が出ませんでした。

 《日本社会運動史料》は、私が勤務している法政大学大原社会問題研究所が1969年に創立50周年を迎えるにあたり、その記念として刊行を始めた復刻シリーズです。私自身にとっても、研究所に入った直後に企画しその責任者となりましたから、忘れがたい思い出の多い事業です。
 大原社会問題研究所は第一次大戦直後に創立されましたが、その設立当初から80年後の現在まで『日本労働年鑑』を編集・刊行し続けてきました。その間に集めた貴重な社会運動・労働運動の機関紙誌や資料類を復刻し、多くの方に利用していただこうとしたのがこの《日本社会運動史料》でした。この計画をたてた時、私たちは、それまでの復刻出版のほとんどが原本の単純な複製に終わっていることに批判的でした。大原研究所で編集するからには、欠号のない完全な原本を揃えるのはもちろん、正確な解題や詳細な総目次や索引をつけ、ペンネームなどもおこして、利用者に役立つものにしようと考えました。ただその実現は予想以上に困難でした。研究所は人手不足で、新しい事業にとりくむ余力がなかったのです。それでも、まだ解題は専門研究者の協力を得て早い時期に何とか見通しがたちましたが、総目次や索引作成の適任者がなかなか見つかりませんでした。地味なしかも根気のいる仕事である上に、物的にも精神的にも報われるところ少ないものでしたから。
 そんなことで困っていた時、以前から労働運動史研究会で親しくしていただいていた松尾洋さんにご相談したところ、松尾さんご夫妻でといっても実質的な部分はすべて多賀さんが担う形で、引き受けてくださることになったのでした。1968年の秋だったと記憶します。 その翌年、ご夫妻の名で作成された総目次と索引を付した、新人会機関誌『デモクラシイ・先駆・同胞・ナロオド』が法政大学出版局から刊行されました。これが《日本社会運動史料》の第1回配本です。これを最初に、その後の25年間に205冊を出しましたが、そのかなりの部分は多賀さんが総目次・索引作成を担当してくださいました。とくに手間のかかる新聞類は、すべて松尾多賀さんのお世話になりました。

 最近でこそ索引づくりにコンピュータを利用するようになり、作業はいくらか楽になりました。しかし、それでも索引作成は緻密さと根気を要し、そのうえ途方もない時間がかかる仕事です。多賀さんは、これをすべて手作業で進められました。雑誌や新聞の論文や記事の見出しを、一字一字カードに転記し、分類項目別に集め、一定の順序に配列し直します。多賀さんはさらにこれを原稿用紙に清書され、編集部に渡されたのでした。
 今から考えると《日本社会運動史料》の目次や索引の作成原則は、必要以上に厳しいものでした。論文や記事ばかりか、編集後記や広告までも、目次だけでなくすべて本文に当たって、文字どおり細大もらさず収めることにしていました。そればかりか、初めの十数年は書体までも原文そのままに記録しました。そんなやり方をすることは、実際に索引作成を担当される方にどれほど気を使わせ大きな負担をかけるかを、若い私はまったく思い至っていませんでした。ただただ、きちんとした良い仕事をしなければならないという自分勝手な思いこみを、多くの人に押しつけていたわけです。最近では索引は道具なのだから別字にならない限り、書体は問題にしないことに改めていますが。
 それでも、雑誌の場合は論文が中心ですから項目数は少なく、まだ楽でした。しかし新聞の場合には埋め草的な短信まで採録し、しかも内容的に重なる記事は複数の欄に採録する方針をとりましたから大変です。その大変な新聞の索引作成は、すべて多賀さんにお願いしたのでした。
 おかげさまで、《日本社会運動史料》は、多くの研究者から高い評価を受けています。ある外国人の一研究者は「日本の本は研究書でも索引が付いていないのが多いのに、大原の復刻は世界の水準を超えている」と激賞してくれました。ハンブルグ大学の図書館でその言葉を聞いたときは、いささか誇らしく思ったのですが、実際は大原研究所の力ではなく、病弱な松尾多賀さんの文字通り必死の努力に支えられていたのでした。そのことは私もよく承知しているつもりではいました。しかしそれが「死ぬほどつらい」思いのなかで続けられていたとまでは、まったく気づきませんでした。この仕事でお会いした時の多賀さんは、いつも晴れ晴れとした笑顔で、愚痴一つこぼされたことがありませんでしたから。

 松尾さんご夫妻は、はたから見ても仲むつまじく、いくつになっても若い恋人同士のようでした。筑摩書房から5巻本で出た『日本労働組合物語』は、松尾洋さんが、東大総長だった大河内一男先生と連名で書かれたベストセラーです。実際の執筆は洋さんが主でしたが、あれも多賀さんが、さまざまな形で援助して完成されたものだったに違いありません。そのころ、ときどき多賀さんから「いまは松尾の仕事の手伝いで忙しいので、締め切りを延ばして欲しい」と頼まれたり、松尾さんからは「多賀が索引にかかりきりで、私の仕事が遅れてしまう」と伺ったことがあったからです。
 一昨年の正月にも、松尾さんからいただいた年賀状の添え書きに、「家内がリュウマチになったものだから仕事ができず、私も怠け癖がついて困ります」とありました。多賀さんのお体の様子がよくないことを知ると同時に、奥様がご病気だと松尾さんの仕事が進まないほど、お二人が支え合って暮らしておられることがわかり、ほほえましく、またうらやましくも感じたものでした。一度お見舞いしなければと思いながら、忙しさにとりまぎれて失礼している間に逝去の報を受け、何とも心残りなお別れになってしまいました。




初出は、松尾洋編『松尾多賀をおくる』1995年5月刊行。1997年10月2日加筆







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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