高野房太郎の生涯


高野房太郎の生涯

     ──労働運動家への道と運動離脱の謎を中心に」



                                      二 村 一夫




はじめに

 長い間「忘れられた運動家」となっていた高野房太郎も、今ではどの日本史教科書にもその名がのるようになりました。日本の労働組合運動の生成過程で、かれの果した役割が大きかったことは、ひろく知られるようになっています。
しかし、幸徳秋水や片山潜に比べると、高野研究はあまりすすんでいません。とくに人物研究、伝記的研究としての高野研究は、まだほとんど手がついていないのが現状です。研究論文の多くは、高野の労働組合思想や賃金論に焦点をあて、房太郎その人を、その個性を、その生涯に即して検討していません。彼が労働組合運動や賃金についてどのような考えをもっていたかは分かっても、なぜそのような考えをもつにいたったのかが追求されていないのです。
 従来の高野研究の最大の問題点はここにある、と考えます。かれの労働組合思想や賃金論を考えるためにも、その生涯を具体的に跡づけ、かれの立場にたって、問題を考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

 私はいまから15、6年も前に、アメリカで集めた資料などを使って『日本社会運動人名辞典』に高野房太郎について書き、また『黎明期日本労働運動の再検討』に「職工義友会と加州日本人靴工同盟会」という論文を書きました。
 後の論文では、職工義友会の創立年次がそれまで考えられていた1890(明治23)年ではなく1891年であること、また高野は職工義友会の創立には関わっていなかったという主張の誤りなど、謎の多い高野の在米時代について、ある程度明らかにすることができたと思います。

 その後、資料集めだけは続けていましたが、高野研究をすすめる時間的な余裕がなく今日にいたりました。ようやく最近、高野研究を再開し、暇をみてはいろいろ調べています。先日も、完全に消滅してしまったとみられていた房太郎からゴンパース宛の書簡が、アメリカの研究者によってタイプで記録されていたことが発見されるなど、新しい収穫がありました。
近い将来『高野房太郎論集』をまとめ、いずれは彼の伝記を書きたいと思っています。今日は中間報告をかねて皆様からご意見、ご批判をうけたまわりたいと存じます。

 今回は、高野の生涯を時期を追ってとりあげますが、主として彼にまつわるいくつかの謎について考えてみたいと思います。もともと高野の生涯を知りうる資料は限られており、不明な点=謎が多いのですが、とくに問題なのは、彼が労働運動家になった事情と労働運動から突然身をひいたことではないかと思います。
 この2つの謎については、後であらためて検討することとして、まず彼の生涯をざっと見ておきたいとおもいます。お手元に略年譜をお配りしてあるのでそれを見ながらお聞きください。



高野家の長男として

 高野房太郎は、明治元年11月24日、西暦でいえば1869年 1月 6日に長崎は銀屋町で、代々和服の仕立て職人をしていた父・高野仙吉、母・ますの長男として生まれました。
明治元年ではありますが、西暦でいえば1868年ではなく1869年です。
これは、『日本社会運動人名辞典』で書いたのですが、いまなお1868年と誤って記している教科書や辞典類があとをたちませんから、この際強調しておきたいと思います。母ますの実家は長崎の米屋でした。
家族は祖母、両親のほか、2歳余り年上の姉・きわ(貴和)がおり、彼が生まれて 3年たらず後に、弟・岩三郎が生まれています。兄弟の名前からすぐ生まれる疑問は、房太郎と岩三郎の間にもうひとり男の子がいたのではないか、ということです。
生まれてすぐ死んだか、養子にいったのだろうと考えていましたところ、最近になって、大島清氏が『高野岩三郎伝』をまとめる際おこなった聞きとりのメモから、どうやら親類に養子に出された弟がいたらしいことがわかりました。

 西南戦争の年に、高野仙吉は一家をあげて上京します。もともと武士の裃などをつくっていた親方職人ということで、おそらく維新後は仕事も減っていたのでしょう。しかし、喰いつめて夜逃げ同然に上京したわけではありません。
これは、今回の主要な論点のひとつである彼が労働運動をはじめた理由とかかわるので、ふれておきたいと思います。

 アメリカ人の研究者で、世界ではじめて高野の伝記を書いたスチーブン・マーズランドは、高野の家が貧しかったことを強調し、それが房太郎が労働運動に関心をいだく契機となったのだと主張しています。しかし、これは誤りだと考えます。
なぜなら、後に房太郎は長崎にあった持ち山を売ってアメリカで店をだす資金にしています。高野の父は、家も土地も長崎に残して上京しているのです。それだけでなく、上京後、高野の父は、浅草橋の近くで旅館兼回漕店を経営しはじめます。高野家の重要事項を記録した『要用簿』によりますと、東京の高野家は、建坪162坪余で、宿屋としても客室が15あるかなりの規模ですし、100円の保証金を納めて三菱会社の代理店として回漕業を営むなど、決して喰いつめての上京ではなかったことは明かです。
 実は、父の兄が横浜で三菱の代理店などをする回漕問屋をしてかなり繁盛していたようで、その業務拡張の意味あいもあって、弟を呼び寄せたと、岩三郎は書いています。父仙吉の兄弥三郎は、横浜で回漕問屋や生糸の取引をしており、かなり繁盛していたようです。〔研究会で報告した後、1884(明治17)年7月に弥三郎が横浜の町会議員に選ばれていることを発見しました。町会議員は横浜の各町より1人づつ選ばれるもので、総員14人です。〕

 しかし、上京後の高野家には不幸があいつぎました。上京して 2年も経たないうちに父が病気で亡くなったのです。
さらにその 2年後に、明治期の東京で最大の火事だった神田松ケ枝町大火にあい、家は全焼します。
これ以後、高野家が没落傾向をたどっていたことも確かで、この点を見落としてならないと考えます。しかし、まだそれでもまだ日本人の平均からみてかなり余裕がある方だったと思います。
 焼け出されたため場所をかえて小規模にはなりますが、回漕店兼旅館の経営もつづけており、2人の息子を高等小学校に出したばかりか、弟の岩三郎の場合は一高・帝大へ進学させているのですから。

 ここで注目されるのは、父の死後、房太郎が高野家の戸主となっている事実です。これ以後、役所への届出などはすべて房太郎の名でおこなわれます。
もちろん母や姉、伯父をはじめ周囲の者は、彼を高野家の戸主としてあつかい、没落傾向にある高野家を再興することを彼に期待したと思われます。このように、家をおこし、名をあげることが彼の使命となったばかりか、他の家族の生活を支えることが期待されました。彼が渡米した主目的もここにあったと思われます。
 そのことを示す材料はいくつかありますが、ここでは姉きわの夫である井山憲太郎が渡米直後の房太郎に送った手紙の下書きを紹介しておきましょう。

 そこには、「国に母や弟が指を屈して帰朝を待っている。身に余裕の資金なくして大業を希望する人にありては」、「君が実業に熱心の篤志のなすところにして」といったことが記されています。

 ところで、高野とほぼ同じ頃に渡米した片山潜は、おそらく経済的には房太郎よりずっと貧しかったと思いますが、渡米後は、なにより学校教育をうけることを追求しています。これに対して房太郎は、あまり学校教育に関心をしめしていません。
 この違いにはいろいろな理由があると思いますが、その主な要因のひとつとして、高野が戸主として一家の責任を背負わされていたのに対し、片山は家に対する義務をまったく負っていなかったことを見逃すことはできないでしょう。

 弟・岩三郎は兄の仕送りもあって、東京帝国大学の大学院までいき、帰国すれば教授の座を約束されてドイツに留学しました。
しかし、房太郎の渡米は、そうした弟の場合とは大きく違っていました。岩三郎のような弟がいたことは、もちろん、ある時は房太郎の誇りともなったでしょうが、反面かなりの精神的な負担というか、自分もしかるべき社会的地位を確保しなければという圧迫となったに違いないと思います。この高野家の戸主としての運命というか、父の死と火事によって没落した高野家を再興しなければならないという使命は、終生かれについてまわります。
 弟がドイツに留学するようになっても、彼が労働運動の指導者となっても、このことは変わらなかったと思われます。この点についてはあとでまたふれます。



横浜時代──講学会のこと

 いまは、房太郎の家庭環境が、その人生に及ぼした影響といったことをお話ししたのですが、つぎには、彼の時代の子としての側面をみていきたいと思います。
 だいぶ前に東大の新人会の機関誌を復刻しましたが、その時、会員の経歴を調べながら強く感じたのですが、十代後半から二十代はじめの、いわば思想形成期にどのような集団に属し、どのような体験をしたかは、各人の人生に相当大きな意味をもつと思われます。
新人会の場合、いわゆる前期の会員のほとんどがいわゆる中間派と呼ばれた『社会思想』グループに行ったのに、後期新人会員は圧倒的に日本共産党の影響をうけ、共産党に関係した運動に参加しているのです。単に個人の資質をこえた時代の影響、集団の影響力といったものの大きさが無視し得ない、と思うのです。

 ところで、従来の高野房太郎研究は、この房太郎の少年期、青年期をほとんど問題にしていません。彼が日本の労働組合運動の創始者となった事実から、つまり彼の晩年の事績から彼の生涯をみて、その足跡を逆にたどってゴンパースの影響を発見し、あるいはガントンの影響を発見しています。あたかも、彼がはじめから労働運動家になることを運命づけられてきたかのように論ずる傾向があります。
 だが、こうした見方をしては、その人がもっていた別の可能性を切り捨てることになりかねない。その結果、実際に存在した高野房太郎の姿がはっきり見えてこない。ことによると、ゆがんで見ている、あるいは一面的に見ていることがないとはいえない。そう感じます。

 もちろん、こうした問題をたどる材料は限られているので、調べても大した結論は出てきそうもない。これまで、高野研究がこの時期を無視してきたのも、おそらくこうした資料の不足による点が大きいと思います。ただ、歴史家とすれば、そのように限られた材料からどれだけの事実を読みとることができるか、それこそ腕のみせどころ、というところがなくはないと考えています。本人の資料がなくとも、同時代の、おなじような時期を過ごした仲間はいる。そうした材料も生かせば、もう少し見えてくる部分があるのではないでしょうか。
 そんな大見得をきっても、もともと資料のないところから、その人物を描くことは容易ではありませんが。おそらく、小説家であれば自由に想像力をふくらまして書けるのでしょうが。しかし、歴史家はそれとは別のやり方で、その人間像を復元しなければならないのです。

まずは、いまの段階で分かっている、ごく初歩的な事実から確認しておきたいと思います。
すでにお話したように、房太郎は高等小学校を卒業してからすぐ横浜で回漕業を営んでいた伯父・高野弥三郎の家に働きに出ます。岩三郎によれば、「叔父は厳格な人で、兄は算盤で頭を殴られる事もたびたびであったし、他の店員と同じやうに扱はれ、苦労な少年時代であった」といいます。
 たしかに、それまでわりあい経済的にも恵まれ、家族に囲まれ、長男であり戸主として大事に育てられた少年にとって、見習い店員としての毎日は楽なものではなかったでしょう。
ただ、岩三郎がいうほど「苦労な少年時代」だったかとなると、これは疑問です。夜学とはいえ、出来たばかりの横浜商業学校に通い、さらに友人達と勉強会をつくるなど、かなり自由な時間をもっていたことは確かだからです。
 横浜商業学校で、彼は英語の基礎を学ぶと同時に、多くの友人と知り合いになりました。その中に後に政治講談で有名になる伊藤痴遊、当時の名前は井上仁太郎、あるいは後に『横浜商業新報』の編集者で横浜市会議員にもなった富田源太郎らがいます。
 伊藤痴遊は年少ながらすでに自由党員として活躍していました。こうした事実は『伊藤痴遊雑誌』での痴遊自身の回想記にでてきます。ただ、房太郎が痴遊と親しかったからといって、彼自身が自由党の運動に加わっていたようにはみえません。
 もっとも岩三郎は「兄を語る」のなかで、かれら兄弟が自由民権運動の演説会などを聞きにいったことを記していますし、痴遊との関係からみてもまったく無関心であったとは考えられません。

 ただ、房太郎がより強い影響を受けたのではないかと思われるのは、自由党よりも立憲改進党です。
 実は、房太郎は横浜商業学校の友人達と講学会という名の勉強会をつくっていました。
 『明治精神史』などの色川大吉氏の研究には、この時期に横浜に隣接する多摩地域の青年達の学習会について述べられています。仲間で本を買ったり、議論したり、演説会を開くなどの活動をしたことが明らかにされているのです。
高野らの横浜講学会も、そうした学習会と共通する性格をもっており、その活動のひとつとして公開講演会を開いています。
 その講師をつとめていたのは、いずれも東京専門学校、のちの早稲田大学の関係者でした。とくに、その専任教員であった高田早苗、天野為之が頻繁に講演会に出ています。
 彼らは周知のように大隈重信、小野梓らの率いる改進党の党員です。ごく簡単に性格づけるなら、自由党はフランス流の自由民権思想を基礎としたのに対し、改進党はイギリス流の自由主義、功利主義だったといってよいでしょう。
 小野はベンタムの信奉者として知られています。高田早苗、天野為之らは帝国大学を卒業したばかりの若者で、歳は房太郎と10歳ほどしか違わなかったのですが、東京専門学校の専任教員として週に30時間もの講義をした上に、各地に手弁当で出講していました。若い教師の熱意あふれる演説に、高野らが強い感銘を受けたであろうと思われます。
 これは、つぎの事実からも容易にうかがえます。すなわち、講学会は結成から2、3年後に組織を改め、東京専門学校の同窓会的存在である〈同攻会〉の横浜支会となったのです。
東京専門学校の卒業生でなくとも、同攻会の機関誌『中央学術雑誌』の定期講読者がまとまっていれば、地方支会を組織することが出来たからです。房太郎はその改組にあたっての発起人 4人のなかに名を連ねています。

 ただ、ここでいささか意外なのは、同攻会が「国会開設を数年後にひかえ、立憲改進党の党員として党勢拡張にのため」に活動していたとされるわりには、時事を論じたものはすくなく、学術的、あるいは文明批評的なテーマが多いことです。たとえば高田早苗の論題をみると「英語をもって日本の邦語となすべきの説」とか「耶蘇教東漸の利益を説いて仏徒に望むあり」「有神論」などとなっています。いずれにせよ、房太郎が高田早苗や天野為之の演説から強い影響を受けたであろうことは、彼のその後の生活・行動から明瞭です。

 ところで、房太郎は生涯を通じて経済学に強い関心をしめしています。実は、彼が労働組合の組織者となったのも、これと無関係ではありません。さらに、弟の岩三郎が大学における専攻分野を決めなければならなかった時にも、経済学を勉強するように勧めています。
 また、アメリカ時代には、すこしでも金に余裕があると経済学の専門書を買い集めているのです。こうした彼の経済学入門の師匠は天野為之だったと考えられます。
 天野をはじめ同攻会の会員の講演の内容は、その機関誌『中央学術雑誌』に発表されていて、その内容がわかるのですが、天野のものは、「経済学とは何ぞや」とか「経済学の必要」をはじめ、経済学に関する論稿が少なくないのです。

 もうひとつ注目されるのは、高田早苗から受けた影響の大きさです。先ほどもふれましたが、房太郎は在米時代を通じて、正規の学校で高等教育をうけようとしていません。これにはもちろん、かれの戸主としての立場や経済的な理由もあったでしょうが、同時に、高田早苗の影響があると思われるのです。
 高田は、横浜講学会の講演会で「洋行論」と題する演説をしています。この演説は、同攻会の機関誌『中央学術雑誌』に三回にわたって連載されているので、その内容が詳しくわかります。

 高田の演説のポイントは「自今以後洋行を企つる者はすべからく観察を主とすべし研磨を主とすべし、講学を主とすべからず」というのです。ここで「講学」とは正規の学校教育をさしています。要するに西洋の学校は神学と古典など「吾人東洋未開の民実益実利に汲々とする者にとっては左まで効能なきもの」が必修となっており、こうしたものに時間と金を費やすのは無駄である。それより「先輩の講義と自家の独習によりて以て学問を研ぐべし」と説き、「学位の如きは之を得ざるももとより可なり」というのです。そして西洋に赴く者があらかじめ準備すべき「必要の三条件」として、次のように忠告しているのです。

 1)金銀を懐にするを要す、2)歴史を読むを要す、3)語学を修るを要す。これに加えて西洋先輩の旅日記を読むべし、西洋大家の詩文小説等を読むべしが、なおいっそうの便利をうるための二条件としてつけ加えられています。房太郎の渡米後の言動をみると、彼の渡米直前におこなわれたこの演説が大きな意味をもったことは明かであると思われます。


在米時代

 アメリカ時代の謎のひとつ、すなわち正規の学校教育をめざさなかったのはなぜか、についてはこれで答がでました。

 つぎの問題は、アメリカやヨーロッパに行った者は何千人といるのに、労働問題に関心をいだいたばかりか、労働組合運動家になったのはなぜか、ということです。
 これについては、先ほどから何回かひきあいに出したマーズランドの主張があります。かれはThe Birth of the Japanese Labor Movement; Takano Fusataro and the Rodo Kumiai Kiseikaiと題する本でこの点を強調しています。
房太郎が貧しい家に育ったことが、彼をして労働運動に関心をいだくようにさせた理由だというのです。

 実はこれは、房太郎の弟・高野岩三郎の主張するところでもあります。岩三郎は、房太郎が、叔父の家で「苦労な少年時代を送った」り、さらには弟の学資を稼ぐため、アメリカで労働者として働いたことなどから、高野は自然に労働組合運動を始めるようになったのだというのです。
 岩三郎は兄の生涯を回想する文章を2つほど残していますが、その中でこうした主張を繰り返しています。

 たとえば、戦後、「囚われた民衆」と題する文章では、つぎのように記しています。

 「高野房太郎なる人物が出来合いの労働組合主義者にあらずして、反対にその生い立ち境遇等より自然発生的にこの運動に赴きたるものであることを、容易に了解されるであろう」「再言する。亡兄の労働組合運動は自然発生的であると」。

 だが、この主張が正確でないことについては、すでにお話ししました。さらにいえば、こうした理由づけでは、彼以上に貧しい家に生まれ、彼以上に出稼ぎ労働者として困難な生活を送った人びとが多くいたのに、そうした人のなかから労働運動家が生まれなかった事実が説明できません。

 むしろ検討すべきは、高野岩三郎が、このような主張を展開したことの方にあります。その理由を、私はつぎのように考えています。それは、日本の労働運動史研究においては、戦前戦後を通じ、片山潜との比較において、高野房太郎を低く評価する傾向が強かったからではないか。
 つまり片山の場合は労働運動家として一貫した生涯をおくり、最後にはコミンテルンの執行委員にまでなった。それにくらべ、高野は社会主義に反対し、労資協調的な主張を展開している。さらに短期間で、運動から離脱している。
 おそらく高野岩三郎自身も、社会主義にかなりの親近感をいだいていたと思われます。しかし、平野義太郎らの房太郎評価に異論をもち、兄を擁護したかったのではないでしょうか。

 このように考える根拠は、岩三郎といっしょに外国に留学した経験があり、大原社会問題研究所の司書であった内藤赳夫(ないとう・たけお)が、平野義太郎を批判し、明治期の片山潜が労資協調主義者であることを明らかにする論文を書いた事実があるからです。
内藤が、こうした論文を書いた背後に高野岩三郎の影がちらつくように思われるのですが、いかがでしょうか。

 いずれにせよ、房太郎自身は、自分の貧しい生活を引き上げようとして労働組合活動をはじめたわけではありません。彼が労働組合運動をはじめた動機は、日本の労働者の賃金水準をひきあげることが、日本経済の発展につながると確信していたからです。
 彼は明治初年に少年時代を送った多くの若者と同様にナショナリストでした。またかれが経済学を尊重し、経済法則の存在を信じていました。出稼ぎ労働者として働きながらも、彼は独学で経済学の本を読みあさります。そこで出会ったのが、ジョージ・ガントンの本『富と進歩』でした。かれはガントン説に感銘をうけた、というかその正しさを確信したのです。ガントン説の骨子は、つぎのようなものです。 

  1. 社会の進歩は大衆の物質的状態の改善にかかっている。
  2. 労働者階級の富は、ただ富の総生産の増加によってのみ増進する。富の分配を変更するだけでは、労働者の富は増進しない。
  3. 労働者階級の物質的状態を改善する道は、実質賃金の自然的永久的増進によるほかない。
  4. 賃金の自然的上昇は、資本家の利潤を減らし、地主の地代を削減するものではない。
  5. 賃金はほかの商品同様、その生産費によって規定される。
  6. 労働の生産費は賃金の生活水準によって左右される。
  7. 生活水準は人民の社会的性格によって規定される。
  8. 人民の性格は社会環境によって決定される。
  9. 大衆の社会的機会を拡大するもっとも効果的な手段は労働時間の一般的短縮である。

 このように、ガントン説は、当時アメリカの労働組合運動がめざしていた八時間労働制獲得の運動を理論づけるものであったのです。
高野は、このガントン説に接して、日本社会の進歩のためには、労働者を組織し、その知的水準をたかめ、生活水準を向上させる必要がある。それは資本家の利益と矛盾するものではない、ことを確信したのです。

 彼は自分の貧しい生活からの脱出を労働組合運動に求めたわけではなく、日本の進歩を望み、そのためには自分が確信している理論を多くの人びとに知らせることが必要だと考えていました。つまり彼は、啓蒙家だったのです。

 彼はおそらく自分を労働者だと考えたことはないと思われます。それは、たとえば、労働者出身で労働組合の指導者であるゴンパースに会い、労働組合オルグに任命された時でさえ、彼は自分を学生だと自己紹介していることからもうかがえます。
アメリカ海軍でウエイターとして働きながら帰国することさえ、知らせませんでした。さらに、彼は米軍艦のなかで書いた英文通信を、いったん東京にいる弟の許に出し、そこからアメリカへ転送させているのです。
また、ゴンパーズから、経歴についての問い合わせの手紙があったのですが、その答はただ労働運動に関心を抱いたきっかけについて述べただけで、学歴や職歴にはまったくふれていないのです。

 もうひとつ、ここで見落としてならないのは、啓蒙家、運動家としての高野は、彼のひとつの側面であった事実です。
 たしかに彼は、労働組合運動に強い関心をいだいていましたが、それと同時に、あくまでも実業界での成功を願い、そのためにいろいろな計画をたてています。アメリカのタバコを日本に輸出しようと製造元に値段をたずねたり、あるいは日本に帰って機械製材業を営むことなどを考えていました。どちらも、かなり綿密に情報を集め、調査します。ただ、調査すればするほど実現困難であることがわかって、なかなか実行にふみきれない。
 ここでも、彼が自然発生的に労働組合運動にはいったわけではないことが、示されています。彼の性格は、自然発生的に何かをするといった衝動的なものではないのです。またかれは自分の貧しさからの脱出は、個人的に解決することを計画していたのですから。

 このように事前に情報を広く集め、よく調査した上で、行動にうつるのは、彼の行動様式のひとつの特徴です。労働運動についても同様でした。労働組合について関心を深めた彼は、アメリカ労働総同盟や労働騎士団などに手紙をおくり、規則や活動についての情報を求めます。
 それが、ゴンパースとの出会いのはじまりでした。アメリカ労働総同盟の指導者としてその地歩を固めつつあったゴンパースは、彼の熱意にうたれます。また機関誌『アメリカン・フェデレイショニスト』の編集者としても、遠い日本の労働問題に関する情報の提供者としての高野の価値を評価したのだと思われます。ゴンパースは、高野をアメリカ労働総同盟のオルグに任命したのです。

 これまでの高野に関する研究は、彼は日本で労働組合運動をはじめるために帰国した、と論じています。
 もちろん、これが間違いだと言っているのではありません。ただここで見落としてならないのは、彼はゴンパースと会い、オルグに任命されてから、まっすぐ日本に帰ったわけではないことです。
アメリカの軍艦で中国各地をまわり、2年近くをかけて帰国しています。軍艦での帰国は、働きながら、船賃ただの旅をしようとしたのですから、当然というか、やむをえないことであったでしょう。
 ただ、帰国 1年以上前の1895(明治28)年4月に、彼が乗った軍艦はいったん長崎に寄港しています。もし船賃の節約だけが目的であれば、ここで脱艦したはずです。そうしなかったことに、労働組合の組織化だけでなく、それ以外の人生の可能性も考えていた房太郎の姿が見えてくるとは言えないでしょうか。
 運動離脱後のかれが、新天地を中国に求めたのは、明らかにこの米軍艦で中国各地をみてまわった体験があったからだと思われます。



帰国後

 かれは帰国すると、横浜で発行されていた英字新聞『デイリー・アドヴァタイザー』社に、翻訳者として入社します。
しかし、発行部数600部という小新聞社でしたから、薄給であったようで、ゴンパース宛のの手紙でアメリカに戻った方が豊かな暮らしができるという誘惑にかられると書いています。同時に、彼は、英和辞書を編集しています。

 彼は、まず自分にふさわしい仕事を見つけた上で労働運動をはじめようと考えていたようです。しかし、ゴンパースからの手紙で、AFLのオルグとして一日も早く活動すべき立場にあることを意識させられます。
また日清戦争後のインフレにともなうストライキの頻発もあって、今が労働運動をはじめる好機であると考え、前年に帰国していた城常太郎と相談して最終的に決意を固め、新聞社をやめます。
 収入の道を失った彼が、運動と両立できる仕事として期待したのは、アメリカの労働組合関係の機関誌などへの通信員として報酬をうることでした。すでに、AFLの機関誌やガントンが出していた雑誌に寄稿してあるていど自信をもっていたからです。

 まず労働組合法の制定を国会に請願すること、それに先だって労働者の署名をあつめ、集会を開くことなどを計画します。
しかし、これは、おそらく島田三郎と思われる一議員の忠告で延期します。かわって職工義友会の名で、『職工諸君に寄す』を印刷して、労働組合の結成を呼びかけました。

 彼は岩三郎の紹介で社会政策学会に入り、そこで知り合った佐久間貞一、鈴木純一郎らの支援をうけます。ここから先は、皆さんよくご存知のことですから省略します。
 労働組合期成会の結成から鉄工組合の結成となります。彼は、期成会の幹事、幹事長などとして沢田、片山らとともに、この運動の中心人物として、活発な活動をおこないます。注目されるのは、伝統的な労働者組織、同業組合などに働きかけていることです。

 ところで、鉄工組合ができて一年後の1898年の11月末、彼は常任幹事をやめ、横浜で生活協同組合、当時の言葉で〈共働店〉をはじめます。
しかしこれもたった半年で、東京に戻り、労働組合期成会および鉄工組合の役員に復帰します。
さらにそれから半年たたないうちに、八丁堀で共働店を始めます。そして結局その 9ヵ月後に労働運動から身を引いているのです。



運動からの離脱の謎

 時間も残り少ないので、ここで彼の運動からの離脱の謎について考えてみたいと思います。これには、すでにいろいろな見解が出されています。

 そのひとつは、運動の挫折から説明するものです。つまり、1898年4月の期成会大運動会の禁止、1900年の治安警察法の制定などに典型的に示されている警察当局による弾圧や、経営者の圧迫、さらには労働組合運動に参加した労働者が熱しやすく冷めやすかったため、前途に希望を失ったからだ、というのです。
 一般的な背景としてはその通りだと思います。しかし、これだけでは、なぜ片山らは運動にとどまったのに高野が離脱したのかを説明していません。

 そこで出てくるのが、第2の片山潜ら社会主義者との対立で高野が主導権を失ったからだという説明です。1と2とは別個の説と言うより、この両者で高野の離脱を説明するのが普通でしょう。
確かに片山と高野の対立は存在したようです。1899年に、高野が期成会と鉄工組合の常任として復帰したのも、『労働世界』をつうじて社会主義を宣伝しはじめた片山に対し、反対の意見をもった人びとが彼を呼び戻したからではないかと推測されます。

 ただ、『労働世界』の紙面からみる限りでは、高野の離脱は突然おきているようにみえます。それだけに、戦前から、この問題についてはいろいろな噂があったようです。もっとはっきりいえば、なにか個人的なスキャンダルが彼を運動からの離脱に追い込んだのではないか、というのです。
 それを活字ににしているのは、社会・労働運動史研究の大先輩である田中総五郎氏です。氏はその著書『幸徳秋水』のなかで、つぎのように記しています。

 「ただし個人的事情もあるらしく、弟高野岩三郎博士は生前ついにこれを説明することを避けられた。〔中略〕高野岩三郎氏をNHKの会長室におとずれた時、氏はこの問題に対し苦渋の色をあらわされ、少し弁解じみたことを申された後、この問題については私が書くと言われて、その翌年かになくなられ、筆者は今でも残念に思っている」。

 ちなみに、岩三郎自身が兄の運動からの離脱についてふれているのは『大日本人名辞書』で「然るに期成会ならびに共営社の事業共に漸く衰運に向ひしかば、三十三年日本を去って北清に渡航し、転々流浪」と記しているだけです。

 はたしてこの〈スキャンダル〉がどのようなものであったか、田中先生は具体的には何もふれていませんが、一部では女の問題がとりさたされていたようです。
印刷工の水沼辰夫は期成会の常置委員であった小出吉之助の弟子ですが、『明治・大正期自立的労働運動の足跡』のなかで房太郎が期成会の事務所的に使っていた貸席柳屋の娘と結婚したことを記しています。
水沼氏はそれ以上何もふれていませんが、一部には、房太郎の運動からの離脱は、この結婚問題と関連しているのではないかと推測している人がいます。

 しかし、私はこれは当たっていないと考えます。というのは、高野は結婚後も期成会や鉄工組合の役員を歴任しているからです。
 これと、ちょっと別の見解をのべているのは立川健治氏です。かれは「高野房太郎──在米経験を中心として」(『史林』1982年5月号)のなかで、高野や片山ら明治の運動家の思想には〈種本〉があったことを強調すると同時に、「生活史からのアプローチ」として次のように述べているのです。

 「わたしは、高野の1897年から1900年の足跡をみていくと、その過程で『運動は運動だが、オレは商売もやってみたい』と思う気持ちが、段々強まっているように思う。運動の退潮が、そのような気持ちを強まらせたことはいうまでもないにしても、それと同じ程度に、1899年前半ころに結婚し翌年子供が生まれたという事情、つまり家庭をもったことが働いていたように思う。〔中略〕おそらく運動からの離脱の直接的な理由も、〈義和団事件〉の勃発をみて、在米時からの親友で職工義友会の仲間でもあった城常太郎と、中国で商売を始めることにあったと思われるのである。家庭をもったことが契機となって〈商売気〉が頭をもたげてきたことが、運動からの離脱の大きな要因となった、という考えをわたしはとりたいと思う」。
 立川氏は、高野の結婚年次については計算違いをされているようです(房太郎の娘の美代さんが生まれたのは、1899年3月、したがって結婚はその前の年1898年の5月以前のことでしょう)が、その指摘には当たっているところがあると思います。
前にもちょっとふれましたが、房太郎は労働運動と同時に、実業への意欲をもち続けていたと思われるのです。房太郎が横浜共営合資会社の経営にあたったのは、鉄工組合が生まれて1年たったばかりのことです。まだ労働運動が軌道にのっていない時であり、反面、まだ運動の前途はけっして暗くはなかった時のことです。
こうした時期に、高野が共働店の運動に移ったのは、こうした彼の宿願を考えなければ理解できないように思います。

 もっとも、高野は、日本において労働組合組織の安定的な発展のためには、共働店が最適であると考えていたことも考慮すべきでしょう。彼は、生まれたばかりの労働組合には、ストライキなどで労働条件の維持改善をはかる力はないと見ていた。だから組合が労働条件の維持向上をめざすだけでは組織は安定しない。そこで考えたのが共済活動ですが、これもそれだけでは成功しなかった。共済給付を受け取った組合員の多くは、組合をやめてしまったからです。そこで高野が考えたのは、日常必需品を安く提供する共働店によって労働者を組織化することでした。

 ただ私は、彼が共働店をはじめたのは、さらに運動から離脱するにいたったのは、実業への意欲と同時に、かれの生活上の問題、経済上の問題があったからではないかと考えています。
1897年の彼の日記が残っており、そこには家計の収支も記されていますが、どうも彼は、はじめのうち期成会や鉄工組合から専従としての給与を貰っていなかったようです。翻訳やアメリカの労働雑誌への寄稿で生活を支えている。
しかし、結婚し子供ができては、それでは生活がなりたたない。1899年 6月に彼が期成会の常任幹事、鉄工組合の常任委員に復帰したときは、鉄工組合から20円、期成会から 5円の給与を出すことになりました。
 しかし、まもなく鉄工組合は財政難におちいります。高野は常任委員を辞職して、八丁堀で共働店をはじめます。しかし、日本の労働者には現金買いの習慣は受け入れられず、どうも経営がうまく行かなかったらしい。
 いずれにしても、このあたりに彼の運動からの離脱を理解するひとつのカギがあるのではないでしょうか。

 さらにいうと、私は彼がアメリカで出稼ぎ労働者として、少年時代、青年時代をおくったことで身についた性格の問題もあるのではないか、と考えています。房太郎の生涯をみると、根無し草的、あるいは放浪癖ともいうべきものがうかがえます。
年譜をみていただければ分かるように、わずか35年の生涯に、わかっているだけで25〜26回もその住居を変えています。もちろんこれには、軍艦乗り組みにともなう移動は含まれていません。
彼が自分の意志でその住所を決められるるようになった渡米後を考えると、平均して 1箇所に 1年しか住んでいないのです。
こうした頻繁な移動は、生まれつきの放浪癖というより、アメリカでの出稼ぎ労働者としての生活で身についたものでしょう。少しでも高い賃金がえられると分かれば、すぐ移動する。
 実業で身をたてるという志からすると、こうした頻繁な移住はマイナスだったと思われます。周囲の人びととの安定したつながり作り上げずには、どのような実業でも成功することは難しかったでしょう。

 ここで、もう一度ふりかえってみたいのは、彼が正規の学校生活をめざさなかったことの影響です。学校教育は、世の中にでて役にたたないこと、つまらないことも教えますが、それを通じて我慢する力を養うところがある。つまらない授業でも、1時間も黙って聴いていなければならない。
青年時代をアメリカで送った房太郎が、学校教育を軽視したことと、放浪癖、根無し草的になったこととは無関係とは思えないのです。
 さきほど紹介した高田早苗の「洋行論」は、西洋の学校は神学と古典などを必修としており、こうしたことに時間と金を費やすのは無駄である、と論じて房太郎に大きな影響を及ぼしました。
 「学位の如きは之を得ざるももとより可なり」と喝破するあたりは、高田早苗の見識を示しているといえます。ただ、房太郎が帰国した日本は、渡米前の日本とはもうちがい、すでに学歴社会へと移行しつつありました。かれが学位をもたなかったことが、その能力を発揮する場を閉ざしたともみられます。

 ほかの渡米者とくらべ、房太郎の英語力、とくに英語を書く力はきわめて高かった。おそらく正規の高等教育をうけた者と比べても、高い水準にあったと思われます。辞書の編集までする力があった。会話と違い、英文の通信を書いたり、辞書を編集したりすることは、かなり意識的、系統的に勉強しなければ、身につかないことです。
こうした英語力がどのようにして身についたのか、これも一つの謎です。
 サンフランシスコ商業学校時代はかなり勉強したようですが、1年間で身につくものではない。ここにも、彼がかなり高い語学的な才能をもっていたことがうかがえます。
 かりに彼が正規の高等教育をうけ、学者・研究者の道を選んでいたならば、彼は経済学者として名を残したのではないかと思われます。その方が、おそらく房太郎個人にとっては、幸せだったに違いないと思われます。もっとも、そうであったとすると、日本の近代的な労働組合の誕生はさらに遅れることになったでしょうが。

 はなはだまとまりのない話になりましたが、これで終わります。いくらかでも高野房太郎の人間像をうかびあがらせることができ、これまでとは違った目で彼を見直すきっかけになれば幸いです。


〔初出は『労働運動史研究会会報』25号、1993年4月。1997年9月に若干加筆〕



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