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評者:森 建資


《書評》

二村 一夫 著

『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史


 近年数多く出される労働史のモノグラフの多くは戦後生まれの世代によって書かれた。それらは、徹底した史料の収集を志し、その分析の中から現在の労使関係の原型を取り出そうとする野心を持っている。欧米でも、ほぼ同時期に、若い世代の間に労働史研究に対する関心が高まったが、ニューレイバーヒストリーといった表現に示されているように、そこでは、団体交渉を中心とする労使関係のフォーマルな側面に注日してきた正統的な研究のスタイルとの断絶が意識されていた。彼らは、ホブズボームやブロディーなどの研究の意義を再発見しながら、団体交渉中心史観を克服して、労働者のさまざまな経験を描き出していったのである。
 これに対して、日本の近年の業績は、団体交渉や労使協議制などのフォーマルな側面への関心をさらに発展させて、国家論や近代社会論などの再構成や日本の労使関係の再評価に向かっていくものだった。我が国の研究史における断絶の不在は、新たな道を踏み出すことを恐れる研究者の憶病さの産物であろう。が、反面では、それは先行業績のレベルの高さを物語っているのである。中西洋著『日本における「社会政策」・「労働問題」研究』などにみられるように、二村一夫氏の業績は早くから高い評価を受け、時には黒子に徹するような氏の献身的な研究のあり方は後に続く世代を励ました。その意味では氏は労働史研究興隆の立て役者の一人であった。しかし、興味深いことに、若い世代の作品に混じって、待望されていた氏の作品が世に出たとき、それは研究史の中で十分に咀嚼され尽くした大家の遅ればせの著書としてではなく、むしろ若々しさに満ち、研究の新しい方向を模索する新しい研究として登場したのである。本書は、優れた書物がそうであるように、さまざまの観点から評価されよう。民衆暴動に関心を持つもの、技術の展開が重要であるとみなすもの、労使関係の伝統とは何かと自問するものはそれぞれに本書を通して著者と対話をすることができるだろう。

 『足尾暴動の史的分析』の冒頭から、読者は密度の濃い明晰な文体にいざなわれて、明治の足尾の世界へ連れ出される。研究書にありがちなくだくだしい研究史の説明、師匠達と自分の方法の違いについての弁明。それらとは無縁な叙述は、著者が研究の流れの中で自分の位置を絶えず意識しながらも、長年にわたって〈足尾〉と向かい合ってきた決然とした姿勢を示すかのようだ。
 第一章「足尾暴動の主体的条件」では、まずオルガナイザー永岡鶴蔵に焦点があてられ、彼が設立を試みた大日本労働同志会が、大日本鉱山労働会を経て大日本労働至誠会に結実する経緯が語られる。至誠会の目標であった米の供給における差別廃止と賃上げは、友子同盟と飯場頭によってとりあげられた。坑夫支配への批判の高まりに危機感を抱いた飯場頭は、事件を自ら引き起こし、暴動後には友子同盟を支配下におさめることに成功した。だが飯場頭も、会社によって中間搾取を禁じられてその統制下に組み入れられる。
 第二章「飯場制度の史的分析」は、技術進歩によって、飯場制度がどのように変質していったかを明らかにする。機械化が遅れた採鉱部門は、手労働に依存していたために、下請制度の一種であった飯場制度が残っていた。しかし、1900年前後に、採鉱枝術がそれまでの抜き掘り法から階段掘り法へと変わったことで、飯場頭の作業請負は後退していき、飯場頭が生活品支給や信用供与を通して中間搾取を行う存在であることがあらわになった。著者は、生産過程をだれが掌握したのか、そこで労働者はどのような支配に服していたのかに光をあてている。およそ30年前に大河内一男の出稼ぎ型論への批判として打ち出されたこの観点は、合衆国の機械産業における熟練労働者の生産過程支配を分析したモントゴメリーの研究と比較されうる位置を研究史で占めるだろう。著者などの努力を通して、今では当然と思われる研究視角を我々は持つことができるのである。
 第三章「足尾銅山における労働条件の史的分析」は、80年代に生産規模の拡大によって労働条件の上昇が起こったこと、しかしその後、精錬部門では技術進歩によってそれまでの熟練が解体して労働条件が急速に悪化し、また採鉱部門でも鉱毒問題の発生によって経費節減が進められた中で実質賃金が低下していったことを明らかにした。著者は賃金上昇の後の停滞こそが労働者に不満を生み出していたことを主張する。実質賃金の低下に直面した坑夫の賃上げ運動は、友子同盟を媒介として展開していく中で、中間搾取を強化させつつあった飯場頭との対決を強めていった。
 終章「総括と展望」は、1907年2月4日の見張り所襲撃事件をはじめとする暴動の全体像を提示する。暴動後、経営側は、労働者が人格を持った存在であることに気づき、彼らを従業具として直接把握しようとした。「人格」と「従業員」。この二つのキーワードは、近年の労働史研究を支配してきたといってよい。本書は、東條由紀彦著『製糸同盟の女工登録制度』、佐口和郎氏や三宅明正氏の研究などとともに、現在の研究者の関心がどこにあるのかを示している。労働条件が上昇する中で労働者の期待が高められ、それに続く時期に労働条件が停滞したり低下すると労働者の不満がうっ積して暴動が起こり時としては革命につながるということは、これまでも欧米の歴史家などによって採用されてきた研究視角であったが、これほどまでに着実な史料批判の上に築き上げられた議論を評者はほかに知らない。それと同時にこの章で著者は、労働者の心の底に差別に対するわだかまりがあったことを主張する。労働者は、能力に基づく差別は許容しえたが、そうでない差別には深い怒りを持つ。石田光男著『賃金の社会科学』が分析の対象とした労働者の能力観を、著者もまた重要なものとみなしているのである。

 歴史研究が、時の流行に対する禁欲的態度を持ちつつ、自分の選んだ対象に腰を落ちつけて取り組むことに他ならないことは、あまりに自明のことである。だがそれを実行しうる人は数少ない。終章での著者の主張は確かに時代とは余りかけ離れてはいないが、それは著者が流行に乗ったためというよりも、時代が著者に歩み寄ったことを示している。しかし歴史分析としての著作の評価はそのような時流との関係で決まるのではない。本書が、実に丹念な史料の探索の上に成り立ち、しかもおそらく最小限必要なものを除いては史料へのいたずらな言及を避けたことは、本書の歴史書としての成功を保証した。技術についての締密な調査などは、ともすれば読者に対象への過度のこだわりとの印象を与えるかもしれない。だが、このような偏執は、むしろ健全なる学間精神の表れである。評者は著者の歴史家としてのあり方に深い敬意を表する。評者の感想は、この一点に集約されるが、以下蛇足ながら、粗雑な疑問を並べて、読者がこの書物を読み解いていかれる際の参考に供したい。本書の叙述は、1)足尾暴動そのものの実態解明と、2)友子同盟や飯場制度の変質過程を、生産過程における技術進歩や労働市場の状態によって説明することの二つからなっているように思われる。前者は結局、後者の説明の枠組みの中に位置づけられており、暴動は、技術進歩や労働市場に引き寄せられて語られることになる。当然そこから抜け落ちてくる間題があることはやむをえない。それは優れたモノグラフにつきものである。コミュニティーとしての足尾の分析がないのも、そのひとつである。坑夫中飯場の居住者は約半数といわれており、町場住まいの坑夫はかなりの数に上ったであろう。彼らはどのような生活を送っていたのだろうか。また、彼らはどのような仕方で飯場頭の支配下にあったのだろうか。約半数の労働者が、家族持ちてあったことも著者の関心を引いていないように思われる。イギリスの社会史研究者ならば鉱山地帯での家族のあり方、女性の役割、さらには女性がどのような仕方で自己を主張していたかを入念に描き出すことに熱中するだろう。我々とても、坑夫が「衣食に奢」っていた(43頁)という叙述からさまざまなことを想像したくなる。それは彼らの気概、自負、総じて彼らの文化をかいま見せてくれているではないか。著者が生産過程に焦点をあてたことは、結果としては労働者の生活のさまざまな面への考察を二の次にすることになった。これれは本書だけではなく、日本の労働史研究、ひろくは日本の労働間題研究に共通する問題である。隅谷三喜男氏の賃労働の理論の提唱は、実証分析の中でとれだけ生かされたのであろうか。本書の到達点を踏まえながら、研究上の〈生産主義〉を克服する研究がこれから出てくることを待望する。

 著者は、友子を近代的な制度とみる視点(58、113頁)と、伝統的制度としてみる視点(350頁)を混在させているようにみえる。前者は、松島静雄著『友子の社会学的考察』の説くような友子の疑似血縁的側面を軽視しているように思われる。著者は、友子同盟が全員一致であったことを、前近代的ではない証としている(58頁)が、全員一致への固執こそ前近代性の特徴であろう。日本の労働者の組織における疑似血縁的関係は指摘されることがあっても、立ち入った分析のなされなかったテーマであるように思われる。評者のごとき無知な人間には、本書の問題とする飯場支配もそれを抜きには語れないようにも思える。だが、友子や飯場について深い知識を持つ著者があえてこのことに言及しなかったことにはおそらく理由があるのだろう。後者の友子を伝統的制度としてみる視点については、労働者が伝統を選択的に採用していく(あるいは〈伝統〉を作り上げる)側面の解明がなされればと思う。伝統は、一人歩きするのではなく、その時々の労働者の決断によって受け継がれていく。友子に参加したことの背景にも、個々の労働者の決断、あるいは戦略があったのではないだろうか。労使関係における伝統の問題は著者によって初めて体系的に提起された。
 本書の終章を読んでも、現代の労使関係のはらんでいる問題を江戸時代にまでさかのぼって考察しようとする著者の姿勢は明確である。それは、労働史研究に全く新しいパースペクティブを与えるものである。著者に続いてこの間題について研究が深められることを切に期待するが、その際に伝統が一人歩きをして労使関係の特徴と短絡的に結びつけられるならば、研究史の前進にはつながらないと思う。




評者、森建資(もり・たてし)氏は、東京大学経済学部教授

東京大学出版会、1988年5月刊、366+xiiiページ、5,400円、isbn 4-13-020084-4

初出は、『日本労働研究雑誌』no.386、1992年1月