現代日本の労使関係の特質のひとつに,ホワイトカラーとブルーカラーの処遇面での違いが,他国にくらべ小さいことがある。この特質は,戦後の経営民主化運動の一環として〈工職身分差別の撤廃〉が要求されたことを契機に,〈工職混合組合〉の運動の成果として形成されたものである。ただ,戦後すぐに実現したのは,露骨な目に見える差別の撤廃だけで,賃金や昇進に関するブルーカラーとホワイトカラーとの違いは根強く存続した。戦後労働組合運動において,長い間「格差縮小」が主要な要求のひとつであり続けたのもこのためである。この要求がいちおうの決着をみたのは,1960年代に進展した「職能資格制度」導入にともない,ブルーカラーもホワイトカラーと同じ社員身分に一本化され,建て前上ではあるが,全員に同一の昇進機会が開かれた時でであろう。
戦前の日本では,大企業の従業員は学歴に応じ,つぎのように異なった〈身分〉に分けられていた。最上位にあったのは〈正社員〉で,その多くは大卒や高専卒,採用は本社でおこない全国の事業所に配属された。この慣行は現在の総合職に引き継がれている。つぎは中等教育修了者を対象とする〈準社員〉である。准員,雇員などとも呼ばれた彼らの多くは,事業所限りの雇用で,主として事務や技術関係の定型的な業務に従事し,社員の補助的立場におかれた。正社員と準社員の間には,給与,賞与,昇進,社宅の有無や大きさなど,その処遇にさまざまな相違があった。とくに大きな違いは給与で,社員は年俸あるいは月給制,時間外手当などは出ない反面,長期でなければ欠勤しても給与が減らされることもなかった。一方,準社員は日給月給で,欠勤すれば減給され,会社が定める休日も無給であった。社員・準社員の下には,給仕や用務員などの〈傭員〉がおり,ブルーカラー労働者なみ,あるいはそれ以下の処遇であった。
ブルーカラー労働者は義務教育修了以下の者に限られ,〈職工〉,〈工員〉などと呼ばれた。工員の中からから準社員へ昇進し,さらには社員にまで登用する制度を設けていた企業もあるが,一般には工員と職員の間には容易に越えがたい溝があった。工員の賃金は,個々人の生産量が計測できる職務では出来高給が一般的で,そうでない場合は日給か時間給であった。したがって,工員に対する出欠・遅刻の管理は厳しく,工場への出入に特定の門を通ることを義務づけていた。また,退出時には,製品や材料を持ち出していないか身体検査を行うことも多くの企業で実施されていた。
以上のような〈身分〉に応じて,給与水準も大きく異なったが,さらに賞与が収入格差をいっそう大きなものとした。職員の賞与は,地位が上になるほど支給率も上昇し,月給の2年分に達することさえ稀ではなかった。一方,工員の場合は,皆勤者に対する褒賞的な〈賞与〉が支給されたにすぎない。もっとも1930年代になると,多くの企業で工員にも賞与を出すようになっていったが,その額は多くても賃金の1ヵ月分程度であった。このほか,退職手当などの諸手当や,社宅の広さや設備の優劣など,〈身分〉により処遇は大きく異なった(具体例は,田中慎一郎『戦前労務管理の実態』日本労働協会,1984年参照)。
この工職差別は,日本社会が前近代的であったから生まれたものと,しばしば主張されてきた。だが同様な差別は,近代社会のモデルとされたイギリスにも存在した。すなわち,ブルーカラーの時間給に対しホワイトカラーは月給で,両者間には労働時間の長さ,就業・終了時間や休日数でも違いがある。また,年金・諸手当の格差に加え,解雇の予告期間も工員は1週間,職員は1ヵ月といった相違がある。両者は出退勤には別の門を通り,食堂や便所,さらには駐車場さえ別である。これは何も産業革命期に存在した問題というわけではなく,1965年においてさえ残っていた事実であった(George Bain Growth of White-Collar Unionism Oxford University Press, 1970 pp.48-65)。
おそらく,日本における工員と職員の差別的慣行の多くも,工場制度の導入にともなって移植されたものであろう。
しかし,戦後日本の労働者は,両者の処遇の違いは前近代的な身分的差別であり,非民主的であるとして,その撤廃を要求した。この要求の背後には,歴史的,社会的に形成された日本の労働者の価値観があった。日本のブルーカラーは,イギリスの労働者のように労働者階級の一員としての誇りをもち,独自の社会,独自の文化を形成することはなかった。工場労働は,貧困のためやむなく従事するもので,一般社会は彼らを〈下層社会〉として蔑視しがちであった。労働者の中には,そうした境涯から一日も早く脱出したいと考えるものが少なくなかった。明治維新で〈四民平等〉は謳われたが,文字通りの平等が実現したわけではない。たとえば,企業内には生産そのものが要求する分業の体系,職務の序列があるが,長いあいだ身分社会で生きてきた人びとは,この序列を身分関係でとらえがちであった。もし,この新たな〈身分〉を決めた学歴が,本人の能力をそのまま反映したものなら,彼らもその序列をやむを得ぬものとして受け容れたであろう。だが実際には,学歴は本人の能力より親の経済状態に左右されがちであった。この状況は,戦前はもちろん,戦後も1950年代頃まで続いた。このため,学歴による身分の違い,処遇の格差は,不当で前近代的な差別と意識されたのである。この不当な差別に対する憤懣は,戦前期の労働争議の大きな動因のひとつであった。日本の争議は,単なる経済問題をめぐる争いというより,経営者や監督者が労働者を侮蔑し,あるいは人情を無視した行動をとったことに対する反発に基因するものが少なくなかったが,それもこの問題と無関係ではない。
敗戦後の占領軍による〈民主化政策〉は,日本のブルーカラーが長年抱いてきた憤懣をいっきに爆発させた。多くの企業で,ブルーカラーやホワイトカラーの下層は「身分差別撤廃」を主張し,その要求は運動のリーダーシップをとったホワイトカラー層からも支持された。さらに,そこで組織された労働組合の多くが,〈工職混合組合〉であったことは,その後の運動において,つねに格差縮小,処遇平準化を重視させることとなった。なお,一般の通史などでは,この〈身分差別撤廃〉要求が,ごく短期間で実現したかのような主張がみられる。だが実際には,両者間の格差が縮小し,「ブルーカラーのホワイトカラー化」と呼ばれる事態が生まれるには,かなりの歳月を要したのである。
ごく早い段階で実現したのは,露骨な,目に見える差別の廃止であった。具体的には,〈職工〉や〈労務者〉といった差別的な用語を改め,〈社員〉や〈従業員〉,あるいは〈技能職〉などと呼ぶことであり,職員専用のクラブなど厚生施設をブルーカラー労働者にも使わせること,門前での所持品検査の廃止などである。続いて,家族手当,通勤手当,住宅手当などの各種手当,さらにはボーナスの算定基準などの格差も縮小傾向をたどった。しかし,ブルーカラー労働者が強く要求した賃金制度上の差別解消,つまり日給月給でない〈月給制〉の導入は,容易には実現しなかった。賃金は,出欠勤や生産能率に関連するだけに,経営者はすぐにはこの要求を認めなかった。もちろん,その対応は,産業や職種によって違った。一般に,能率が労働者各人の熟練や労働意欲に依存することが大きい職種,産業では,月給制への移行は遅れた。しかし,一般に1960年代末までには,大企業の多くで,日給月給ではなく,定期昇給をともなう月給制が採用されるようになった。さらに,春闘における賃上げ要求が「一律プラスアルファ方式」によったことは,格差を縮小させる効果をもった。
欧米では,今なおブルーカラーの賃金は時間給であり,隔週あるいは週ごとに支払われるものが圧倒的に多い。また,その賃金プロファイルも,一定の熟練度に達すれば頭打ちになる。これに対し,日本のブルーカラーに定期昇給をともなう月給制度がとられたことは,その賃金プロファイルをホワイトカラーに接近させた。その結果,日本のブルーカラーは,国際比較的にみて独自の性格をもつ存在となったのである。ただ,この変化を単に労働者側の要求だけで説明することは出来ない。経営側も,労務管理上の要請から格差解消を必要としていたからである。すなわち,1954年に50%を超えた高校進学率は,その後も急上昇を続けて65年には70%,69年には80%を超えたのである。折しも高度成長期で,中卒だけでは現場労働者の所要量をまかないきれなくなり,それまでホワイトカラー下層の給源だった高校卒業生を生産現場にも配置せざるを得なくなった。その結果,同じ学歴の者が,ホワイトカラーとブルーカラーの双方に属することになった。このため,学歴による処遇の区分=差別の根拠が揺らいだのである。この頃から,昇進に関してもブルーカラーとホワイトカラーの違いをなくし,さらに「青空の見える労務管理」の名のもとに,昇進の上限を撤廃する企業が増えていったのも,こうした変化と関わっていた。
【参考文献】
(1) 二村一夫「戦後社会の起点における労働組合運動」(渡辺治ほか編『日本近現代史 4 戦後改革と現代社会の形成』岩波書店,1994年,所収)。
(2) 久本憲夫「電機産業における工職身分格差撤廃」(『経済論叢』第155巻第3号,1995年3月)。
(3) 菅山真次「日本的雇用関係の形成・・就業規則・賃金・〈従業員〉」(山崎広明・橘川武郎『〈日本的〉経営の連続と断絶』岩波書店,1995年,所収)。
〔初出は『日本労働研究雑誌』no.443 1997年4月号 特集「キーワードで読む戦後の労働」〕