二 村 一 夫 著 作 集



戦後社会の起点における労働組合運動


                                   二 村  一夫







目 次

    はじめに
  1. 戦後労働組合運動の展開──量的推移と特徴
    1.  組合数、組合員数の推移
    2.  ホワイトカラー組合員数の推計
    3.  労働組合運動におけるホワイトカラーの主導的役割
  2. 企業別・混合組合生成の根拠
    1.  事業所別組合となった理由
    2.  工職混合組合となった理由
    1. 敗戦直後の「企業社会」と経営民主化運動
    2.  食糧危機と従業員の企業への依存
    3.  工職身分格差の撤廃要求
    4.  従業員の経営参加要求
    1. 戦後労働組合運動のその後──むすびにかえて
    2.  戦後労働組合運動の転機
    3.  経営民主化運動が残したもの
    4.  戦後労働組合運動における〈連続〉と〈断絶〉






は じ め に


 与えられた課題は、「敗戦直後の労働組合運動の高揚を、後の企業主義的組合との〈連続〉と〈断絶〉という視点から考える」ことである。国際的にみて独特の個性で知られる現代日本の労働組合がいかに形成されたか、この問題の解明は、かねてより関心のあるテーマで、戦後労働運動にかかわるものとしては、10年ほど前に「企業別組合の歴史的背景」と題する小論を発表し、またその数年後には「日本労使関係の歴史的特質」について書いている。注1

 この二つの論文で強調したのは、日本には、西欧型の自律的なクラフト・ギルドの伝統が欠けており、それが日本で職能別組合が育ちえなかった主な原因となり、さらに現在の労使関係にも小さからぬ影響をおよぼしている事実であった。
もうひとつの論点は、戦後日本の労働組合の特徴は、単に企業別組織であるだけでなく、工員と職員が同一組織に属する、いわゆる「工職混合組合」であることであった。
戦前の日本でも企業別、あるいは事業所別の労働組合は数多く、そこだけ見れば戦前と戦後に大きな違いはない。しかし、戦前の日本の労働組合は基本的にはブルーカラーだけの組織であった。
 また「工職混合組合」は、日本のほかあまり例はなく、その意味で「工職混合」こそ「企業別」とともに、戦後日本の労働組合の特質として重視すべきである、と主張したのである。

 ただ、二つの拙論も戦後期については、おおまかな見とおしを述べたにすぎない。そこで今回は、日本の労使関係を決定的に変革した戦後労働組合運動について、生成期に限ってではあるが、検討を加えたい。
このテーマについては数多くの研究があり、新たな発見は望みがたいが、実証的につめるべき論点はまだ意外に多く残されている。国内では「企業中心社会」からの脱却が問題とされる一方、海外では「日本的経営」がもてはやされ、労使関係の「日本化」さえ論議されている現在、日本の労働組合を、歴史的、国際比較的な視点から検証する作業にも、いささかの意味はあろう。




1 戦後労働組合の展開──量的推移と特徴


組合数、組合員数の推移

 まず、敗戦直後の労働組合の生成状況を数量的に確認することから始めよう。初歩的な問題でありながら、これまでほとんど検討されることなく、不正確な統計数値が今なお流布しているからである。
いま労働組合について一般に使われている統計は労働省の『労働組合基本調査』*2である。
 しかし、この全国一斉の悉皆調査が始まったのは1946年12月からで、45年と、46年6月現在数については、組合の届出にもとづいて作成された「単位労働組合設立解散統計」が使われている。
 だが、この「設立解散統計」にはいくつか問題がある。たとえば、集計時点によって数値が大きく異なる。『中央労働時報』には同統計の速報値が発表されているが、その数はたえず変動している。労働組合は結成してもすぐ届出るとは限らず、後になって判明したケースが少なくないからであろう。ほぼ最終的な数値とみてよいのは『資料労働運動史』の第1集*3に付されたものである(表1)。 〔表1〕

 だが、この数にも疑問がある。なぜなら、組合設立の届出を義務づけたのは1946年3月施行の労働組合法であり、それ以前に結成された組合が、自発的に届出ていたとは考え難いからである。
この点を検討するため、各種の労働組合史や地方労働運動史、それに47年9月末以前に労働省労政局に報告されたデータを基礎にした『日本労働組合名鑑』*4などによって、45年中に設立されたことが明らかな組合名を設立月日順に調べてみた。その詳細を紹介している余裕はないので、結果だけ簡単に記すと、つぎの通りである。

 敗戦の月、1945年8月には、早くも各地で労働組合の組織化に向け準備活動が始まっているが、実際に創立にまでこぎつけた組合はない。
9月には5つの組合が組織されたことが断片的な記録から判明するが、いずれも実態は不明である。
生成過程やその後の活動内容が明らかな組合で、もっとも早い時期に誕生したのは、全日本海員組合で、10月5日に神戸で創立大会を開いている。
 この海員組合をふくめ、10月中の結成が確認できたのは41組合である。同じようにして翌月以降を調べた結果、11月中は173組合、12月は499、このほか月日不明が16ある。以上、1945年中に設立されたことが明瞭な単位組合数は734で、「設立解散統計」の509を大きく上回っている。

 ただ、この作業に使ったデータは組合員数不明のものが多く、しかもたまたま手元で利用可能な二次資料だけで調査したので、網羅的ではない。もっと統計的に信頼できる数値はないか調べた結果、ひとつだけ手がかりを見いだすことができた。1947年の『労働組合調査報告』に収録されている「結成年別組合数」がそれである(表2)。 〔表2〕

 1947年末の現存組合中、45年中に設立されているのは855組合、組合員数は60万2706人で、一般に使われている509組合、38万人を大きく上回っている。
ただし、組合員数は、結成後に加入した者がありうるから、創立時点ではこれより若干少なかったかも知れない。

 一方、組合数は855を上回っていたことは確実である。なぜなら、大企業の場合、事業所全体の組織の結成に先だって、職場単位の組合がつくられた事例があるからである。たとえば、古河鉱業足尾鉱業所では、1945年中に12の組合、すなわち通洞坑、本山坑、小滝坑、の3坑をはじめ、選鉱、製煉、浄水、工作、調度、庶務の各課ごとの労働組合と、それとは別個に職員組合がつくられている*5。
同様の事例は、高萩炭鉱などほかでもみられる。だが、これらの「職場別組合」の多くは間もなく事業所単位の組合へ統合されており、足尾の場合も47年3月には単一組合に改組している。

 いずれにせよ「設立解散統計」の数値は、1945年については、実勢を正確に反映していない。戦後労働組合運動の進展のテンポはこれまで考えられていたより早く、敗戦の年の12月上旬には、戦前の最高水準である42万人を越えていたことは確実である。この際つけ加えれば、「設立解散統計」には、役所の縄張りに起因する欠落がある。運輸省所管の船員が集計から除かれたため、当時最大の労働組合である全日本海員組合*6が含まれていないのである。

 では、翌1946年はどうか。これも一般に「設立解散統計」の6月末現在の数値が使われている。ただし、『資料労働運動史』刊行後に、46年6月以前に解散した単位組合が1組合あったことが判明したようで、『労働組合基本調査30年史』では、1万2006組合、367万9971人に改められている。一方、表2をみると、47年末に現存する46年6月以前の創立組合は、組合数1万361、組合員数340万4353人で、ともに表1の数値を下回っている。「単位労働組合設立解散統計」も、1946年6月については大きな脱漏はないとみてよかろう。



(2) ホワイトカラー組合員数の推計

 では、この敗戦直後の日本の労働組合は、どのような特色をもっていたのか。
それについては、やはり、東京大学社会科学研究所『戦後労働組合の実態』*7が振り返られるべきであろう。
1947年8月現在の調査に基づくこの研究によって、組織形態や組合役員の性格をはじめ、戦後日本の労働組合に関する重要な特質がいくつも発見され、その後の研究の基礎を築いたからである。
 この調査結果でもっとも注目されたのは、戦後日本の労働組合が、他の国にはあまり例のない、企業別の組織であること、同時に現場労働者だけでなく事務職員も同一組織に属し、管理職さえ組合員となっている事実であった。

 なぜこのような特質がうまれたのか、その根拠を解明することが、その後の労働問題研究の課題となった。これについては節を改めて検討する。ここでは、もうひとつの特徴について見ておきたい。
 それは、戦後労働組合にホワイトカラーが大量に参加し、しかも指導的な役割を果たしたことである。これは事実としては知られてきたが、その規模が計量されたことはなく*8、またその意義についても十分な検討はなされていない。

 そこでまず、戦後労働組合運動におけるホワイトカラーの比重を、数量的に確認することから始めよう。表3は、1948年6月末現在の単位労働組合の組合員数を、職員組合、労務者組合、混合組合別に示したものである。
このうち、全員をホワイトカラーとみてよいのは職員組合で、組合数で9196、組合員数で143万人を占めている。
 問題は混合組合に含まれているホワイトカラーの数である。その正確な数は分からないが、推計は可能である。まず、1950年の国勢調査によって、全国のホワイトカラー・ブルーカラー比率を算出してみよう。そのために使うのは、14歳以上就業者のうち、業主と家族従業者を除いた「雇用者」についての、「職業大分類別」数である(表4)。
〔表3〕 〔表4〕

 ホワイトカラーとして問題がないのは、専門的技術的職業と事務従事者である。
管理的職業は、階級構成論では資本家階級に入れるのが普通だが、戦後労働組合が管理職まで組織対象にしていたことを考慮し、これも加えておこう(ホワイトカラーA)。
 一方、ブルーカラーは、採鉱採石的職業、運輸的職業、生産工程従業者である。その他の販売従事者やサービス職業などをどちらに分類するかが問題となるが、混合組合の組合員中にしめる比率は低いので、ここでは無視しよう。
これによって両者の比率を算出すると4.3対5.7となる。この比をもとに混合組合中の職員数を算出すると176万人、職員組合の組合員と合わせたホワイトカラーは319万人、組合員総数の半数に近い。
 ただ、管理的職業には労働組合の組織対象ではない会社役員も含まれている*9。そこで、これを除いた「ホワイトカラーB」によって両者の比を出すと4対6、これをもとに算出した混合組合中の職員は163.7万人である。だが、これも実勢より過大であろう。なぜなら、専門的技術的職業の多くは教育・公務・金融などに集まっており、それらの分野では職員組合の比率が高く、混合組合は少ないからである。
混合組合の比率が高く、組合員の絶対数も多い製造工業、運輸通信業では、ホワイトカラー比率はより低い。
そこで、仮に混合組合全体の職員・工員の構成比を3対7としてみよう。この比をもとに混合組合中の職員数を試算すると123万人となり、ホワイトカラー組合員の総数は265万人余となる。
構成比をさらに2対8まで下げると、混合組合中の職員数は81.8万人、ホワイトカラー組合員の総数は224.5万人となる。

 製造業だけを対象とする「工業統計表」によって算出された職員比率は、1947年で17.7%、49年で17.5%であったから、混合組合全体の職員・工員構成比を2対8としては、職員をいくらか低く見積もり過ぎていると思われる 注10
 だが、ここでの目的はホワイトカラー組合員の組織化の高さを示すことにあるので、あえて最後の控えめな数値、224.5万人を推計値として採用しよう。
 それでも組合員総数の3分の1以上、34.4%がホワイトカラー組合員である。より正確な推計には、職業小分類や産業分類、他の統計や個別企業調査なども加味して検討する必要があるが、おそらくこれより増えても減ることはないであろう。

 つぎにホワイトカラーの組織率を試算してみよう。全体の組織率の算出に使われている雇用者数は、48年6月現在1259万人である。
これに、50年国勢調査の、管理的職業を含んだホワイトカラー比率34.9%をかけると、440万人となる。
ただ全体組織率の算出には販売従業者やサービス職業も含まれているので、その1部もホワイトカラーに加えて雇用者中のホワイトカラー比率を40%と仮定して算出すると、504万人となる。

 前者を分母としたホワイトカラー組織率は51.0%、後者の場合でも44.5%となる。分子は控えめに、分母は多めに見てこれである。
これがどれほど高い数値かは、他の国と比べるとよく分かる。たとえば、労働運動最先進国のイギリスをみると、同じ1948年の組合員総数は936万人、日本を300万人上回っていた。しかし、そのうちホワイトカラーは196.4万人、組合員総数の21%に過ぎない。組織率は、ブルーカラーの53.1%に対し、ホワイトカラーは28.8%、全体では45.1%であった*11。

 またアメリカでは、同じ1948年にブルーカラーの組織率44.1%に対し、ホワイトカラーは16.2%である*12。


(3) 労働組合運動におけるホワイトカラーの主導的役割
 ホワイトカラーは単に、量的に大きな比重を占めていただけではない。
 戦後初期の労働運動全体を主導したのは、ほかならぬホワイトカラー組合であった。
そのことを、あらためて気づかせてくれるのは、同時代の観察者の証言である。『労働運動見たまま』と題するこの小冊は、矢加部勝美、村上寛治ら労働記者の集団著作で、敗戦から2年後の47年9月に刊行されているが、その冒頭の節「争議のトップは新聞から」は次のように記している*13。

 「終戦後の日本労働運動に大きな役割を果たした第一次読売新聞争議が始まったのは、8.15から2ヶ月余を経過した10月24日であった。……以後12月12日の解決に至るまでの50日間の闘争は、生産管理という争議戦術の採用と、新聞という機能の上から社会一般の多大の注目を招き、その後の労働組合運動の発展に影響すること絶大なものがあった。
……争議が長期化し、世上注目の的となるや、読売の闘争本部には連日都下は勿論、遠く九州、東北等からも各自の工場で労働組合を設立しようとしている有志が訪れ、組合についての知識を求めてくるありさま。かくて、一時は読売が労働組合運動の相談部のような形になり……読売の例にならって東京都内は勿論全国的に労組の結成が促進され、生管戦術が労働運動の一新機軸として各所で採用された」。

 このように、戦後労働運動史を特徴づける生産管理を最初に実行し、それを広めたのは「大学出身の論説委員・部長・次長らのエリート記者*14」が指導した読売争議であった。しかも、労働組合の全国組織がまだ生まれていないこの時期に、読売の組合は「労働組合運動の相談部」として機能していたのである。北海道新聞など地方紙の組合も、同じような役割を果たしている。

 さらに、敗戦直後の労働組合運動を主導した全国組織といえば、誰でも産別会議の名をあげる。
この産別会議の形成過程やその指導部の構成をみると、戦後労働運動におけるホワイトカラーの役割の大きさは、より明瞭となる。
 まず、その結成を提唱したのは、ホワイトカラー主体の日本新聞通信労働組合、いわゆる「新聞単一」であった。産別会議の初代議長は朝日の論説委員で新聞単一委員長の聴涛克巳(関西学院)、副議長は全逓労組委員長の土橋一吉(明治大学)、その他の幹事も津々良渉(東京商科大学)、松本慎一(東京大学)、中原淳吉(京都大学)らの大学卒業者が顔を揃えていた。
 現場労働者の出身は副議長の坂口康夫(国鉄)、労働運動経験者として事務局次長や幹事となった細谷松太、山崎良一など一部に過ぎない。さらに、後に「書記局政治」と非難されるほど運動の実権を握った書記局も、大学卒業者や学生が圧倒的に多かった。

 総同盟の場合は、戦前の労働運動家の個人的なつながりによって組織化が進められたから、産別に比べるとブルーカラー出身の指導者が多かった。
しかし、そこでも本部書記は高学歴者で占められていた。
 1946年5月に総同盟準備会書記となった平沢栄一は、当時の総同盟本部に集まった戦後派が、東大の学生や卒業生など知識人ばかりだったことを名をあげて回想し、「インテリじゃないのはぼくくらいなもの」であった、と述べている*15。

 さらに、戦後の代表的な労働争議を選ぶとなれば、二・一ゼネストはそのトップにくるであろうが、その主体は、ホワイトカラー組合が集まった全官公庁共闘委員会であった。また、戦後初期の著名な諸争議、たとえば電産争議、全逓争議、東宝争議など、ホワイトカラー層の比重の大きさを論証する材料にはことかかない。

 個々の事業所における組合結成にあたっても、職員層は大きな役割を果たしている。東大社研調査は、組合結成時の中心人物および組合役員について学歴別や職階別構成を、系統別、産業別、規模別などにわけて詳細に表示、分析している*16。
詳しくは同書を参照ねがいたいが、組合結成にあたって中心となった人物は、工職別組合が多数をしめる鉱業をのぞけば、職員工員がほぼ相半ばしていたこと、とくに産別系で職員の比率が高かったことを明らかにしている。
 個別組合史もまた、組合結成のきっかけをつくり、これをリードした人びとに職員出身が少なくなかったことを伝えている。

 日産重工業従業員組合でカリスマ的指導者として知られた益田哲夫はその一例である。もっとも、数の上からいえば、職員層の組合参加は労務管理者的な立場にいた勤労課などの職員が、御用組合の結成をはたらきかけたケースの方が多かったかもしれない*17。なかには人事課長が職員組合の書記長をかねた例さえあった*18。

 念のためにつけ加えておきたいが、私は戦後労働運動がホワイトカラー中心の運動であったと主張しているわけではない。組合員の半数以上はブルーカラーであり、大幅賃上げ、身分格差撤廃などを要求して活発に運動している。
 ただ、世界の労働運動史のなかに戦後初期の日本の労働運動をおいて見ると、他の先進国には例のない、ホワイトカラーの比重のきわめて高い運動であったと思うのである。とくに運動の指導部では、ホワイトカラー、というより知識分子が大きな役割を果たしている。本稿は、もっぱら労働組合、それも企業レベルの運動に焦点をあてているが、広い意味での労働運動を考えると、こうした性格はさらに鮮明となる。


2 企業別・混合組合生成の根拠

(1) 事業所別組合となった理由

 つぎの問題は、なぜ戦後日本の労働組合は、欧米で一般的な職能別や産業別組合とならず、企業別組織となったのか、である。
かつては、これを労働市場の企業別分断で説明する見解が有力であった。その代表的な論者は大河内一男氏で、はじめは企業別分断の根拠として周知の「出稼型論」を提唱し、後にはつぎのような主張を展開された。

 日本でも1910年代までは、労働者はひとつの職場に定着せず、高賃金をもとめ移動していた。しかし、1920年代以降、大企業は労働者の定着策を採用した。その結果、労働者は学校卒業と同時に雇入れられ、企業内の養成所で訓練を受け、年功序列により定期的に昇給し、定年まで同じ企業に勤めるという「長期雇用慣行」が確立した。労働組合は労働力の売り手の組織であり、同一の労働市場に属する者が利害の一致にもとづいて団結するものである。したがって、この企業別に封鎖された労働市場では企業別の組合が成立するのだ*19。

 この主張に対し、筆者は冒頭にあげた論稿で詳しく検討を加え、批判した。その後、反批判を受けたこともなく、すでに決着済みの問題と考えていたが、今なお、労働市場の構造が労働組合の組織形態を規定すると考える論者がおられるのを、最近知った。
 すなわち、田端博邦氏は「戦間期の労働運動は、横断的な労働組合を目指したが、労働市場の封鎖的構造の前で立ち止まらなければならなかった。すでによく知られているように、この時期における大企業における内部労働市場の形成が戦後企業別組合の源流である」と述べておられる 注20
 「内部労働市場の形成が戦後企業別組合の源流」とは、いささか明晰を欠く表現だが、要するに戦後に企業別組合が成立したのは、戦間期に大企業で内部労働市場が形成されていたからだ、という意味であろう。そうであれば、大河内氏の主張と変わるところはない。
そこで、すでに論じたことの繰り返しとなる点も少なくないが、あらためて検討しておきたい。

 まず指摘したいのは、戦後労働組合の生成期に、日本の労働市場が企業別に分断・封鎖されていたとは考え難いことである。確かに、1920年代後半以降、大企業において従業員の定着度が高まり、労働市場は企業別分断の傾向をみせていた。
だが、戦時中、軍需産業の急拡大と徴兵等による労働力不足で、大量の労働力が流出入した上に、敗戦により多くの工場が操業停止あるいは縮小に追い込まれ、大量の失業者が生まれた。戦災で家を失い、あるいは食糧難のため、都会をみかぎり自発的に退職した者も少なくない。
 また、復員者760万人、引き揚げ者150万人が職を求めていた。多くの社史、組合史は、多数の退職者や解雇者があった反面、中途就職者も少なくなかったことを記録している。つまり、1940年代の労働市場は封鎖的でなく、きわめて流動的であった。

 第二は「終身雇用慣行」の理解にかかわる問題である。すなわち、同じ「終身雇用慣行」といっても、今日のように、正規従業員全員を対象とする「権利に近い慣行」となったのは戦後のこと、それも1950年代の合理化反対争議を経た後の高度成長期のことであった。
 戦間期において「終身雇用慣行」の対象となっていたのは職員と基幹的な熟練工だけで、雇用保障の程度も低かった。

 さらに言えば、「年功賃金制」も、敗戦直後は、激しいインフレと企業ごとに大きく異なった賃上げ率により、労働者の移動を阻止する力を弱めており、「内部労働市場」のルールは今日とは大きく異なっていた。

 第三は、労働市場のあり方が労働組合の組織形態を規定するという主張では、戦後の組合が、工員も職員も同1の組織に属する混合組合となった事実を説明できないことである。日本の労働市場は、ほぼ一貫して学歴別、性別に分断されてきた。
同一企業内でも、高卒と大卒、女性と男性では利害が対立する点が少なくない。労働組合は、同じ労働市場に属し利害を共通する者の間でつくられる、という論理が正しければ、日本の労働組合は、学歴別・性別組合になってしかるべきであるが、そうした組織は皆無である。

 では、なぜ戦後日本の労働組合は、職場別組合、事業所別組合になったのか。私は、労働者の職場別結集は、労働者団結のもっとも本源的な形である、と考えている。
どこの国、いつの時代であろうと、特別な条件がない限り、労働者が団結する際、ごく自然に選ぶ形態は職場別組織である。
とくに戦後日本のように、工場閉鎖による解雇、あるいはインフレによる生活難といった、職場の全員に共通する問題がある時、毎日顔を合わせ一緒に働いている者が集まり、共通の雇い主に要求を出すのはきわめて当然で、特別な説明を必要としない。

 この点、むしろ説明を要する特別な条件があったに違いないのは、欧米の労働組合運動の原型ともいうべきクラフト・ユニオンの場合である。
なぜ、彼らは、企業の枠をこえ、同職の者だけで団結したのか。毎日顔をあわせ、肩を並べて働いているのに、職種を異にするというだけで別の組織をつくり、一度も顔をあわせたことがなくとも同じ職種の者と団結するのは何故であろうか。そこには、何か特別の理由があるに違いない。しかも、労働者がそのような組織形態を選ぶだけでなく、経営者もそれを受け入れるのは何故だろうか。

 これについての私の答は別稿でやや詳しく述べたが、西欧、中欧の中世自由都市で確立したクラフト・ギルドの慣行が、近代の労働組合運動に継承されたためであろうと考えている。
同職の者同士で団結し、徒弟の数の制限、労働時間や生産量の規制によって、労働条件を維持しようとするのは、クラフト・ギルドとクラフト・ユニオンに共通している。同職の連帯感は、歴史的に形成されたのである。これに対し徳川時代の日本に自由都市は存在せず、都市住民はみな武士の支配下にあった。
 もちろん職人の組織は存在したが、ギルドのような自律性はみられず、入職規制もゆるやかであった。欧米の初期の労働組合の主な担い手は職人であったのに、日本では職人の組織も運動もきわめて弱体であった。
企業の枠を超えて連帯感をもつ強固な「同職社会」を基盤とした「労働社会」が歴史的に形成されなかったことが、日本の労働者が職能別や産業別組合を選ぼうとしなかった*21原因である。
 日本の労働者が理屈抜きで仲間と感ずるのは、同じ職場、同じ企業で働く者である。競争会社の従業員に対し同じ階級の一員としての連帯感をもつことは、自然な気持ちとしては生まれ難い。そうした「階級意識」はマルクス主義や、労働運動史の教訓を通じて、意識的に獲得するほかないものである。企業間競争が激しい場合に、競争会社の従業員はみな「敵」となり、ウチの会社の者は経営者までもが「仲間」となるのも不思議ではない。

 このクラフト・ギルド、クラフト・ユニオニズムの伝統の欠如を認識することで、日本において企業の枠をこえて労働条件を規制する労働組合が育たなかった原因が分かるだけでなく、雇用が保障される限り新技術の導入に抵抗しないこと、職務配置の柔軟性、工職混合組合など、日本の労使関係の特色が生まれた理由を理解することができる。

 もう一つつけ加えれば、企業別組合はなにも日本だけに存在するわけではない。中南米の多くの国では企業別組合が主な組織形態であり*22、アジア諸国でも企業別組合が存在する国は少なくない*23。また革命前のロシアでも、労働者は職能意識より企業意識が強かったことが知られている*24。これらの国々では、いずれも、クラフト・ユニオンの伝統は弱いようである。

(2) 工職混合組合となった理由

 では、工員と職員が同じ組織に属したのは何故か。これには小池和男氏による、次のような説明がある。

 「この「内部昇進制」の「先進性」を前提とすると、わが国の労資関係の他の特徴の説明も容易になる。たとえば、なぜわが国の労働組合がホワイトカラーも一緒にした労職混合組合の組織なのかを、よりよく説明できる。……わが国の労働組合は混合組織である故に、最もホワイトカラーの組織化に成功している。その最も重要な理由は、わが国の組織労働者がホワイトカラーとかなり共通した特質をもつようになったからであろう。すなわち、広い内部昇進制が大企業本工労働者にも普及しており、その結果、ホワイトカラーと基本的ににた性質をもつようになった。その大企業本工層が、わが国労働組合の主要部分なのである。だからまた、たとえ大企業労働者でも、鉱山労働者は内部昇進制をもたない故に、今日でも、労職はそれぞれ別の労働組合に結集している*25」。

だが、この説明では因果関係が逆になっているのではないか。つまり「大企業本工労働者がホワイトカラーと共通した特質をもつようになった」から「労職混合組合」になったのではなく、戦後日本の労働組合が「労職混合組合」となり、工職差別の撤廃を要求して運動した結果、日本のブルーカラーは「ホワイトカラーと基本的ににた性質をもつように」なったのではないか。
さらに言えば、内部昇進制で混合組合の生成を説明するのは、もともと無理がある。
なぜなら、内部昇進制に大差のない同一産業の同規模企業で、一方は工職混合を、他は工職別組合を選んだ事例が少なくないからである。
たとえば、鉱山にも混合組合はあり(表3参照)、都市交通も関東は工職混合組合、関西は別組織であった。
また、同一企業内でも事業所によって組織形態を異にした例さえある。労働組合の組織形態は、労働市場の構造だけで決まるものではなく、当事者の主体的な選択の余地がある、と考えるべきであろう。

 とはいえ、私は、労働組合の性格が労働市場の特質とまったく無関係であると主張しているわけではない。いったん成立した労働市場の性格が、組合や組合員の行動を制約することは否定しがたい。

 では、戦後日本の労働組合の多くが工職混合になったのは何故か。この疑問に答えるには、つぎの三つの問題について考える必要がある。第一は、これまで労働運動に無縁な職員層が組合に参加したのは何故か、第二は、なぜ職員は独自組織を選ばず混合組合に参加したのか、第三、工員側がそれを拒否しなかったのかは何故か、である。

 第一の問に答えるのは、それほど難しくはない。
敗戦後のインフレと食糧難、それと空襲による被害などで、職員も工員同様に窮迫していた。また工場閉鎖や事業規模の縮小により、工員だけでなく一般職員も解雇されている。
解雇をまぬがれた者も、どこからも会社の将来についての展望が示されないまま、不安な日々を過ごしていた。
 そうした中で、占領軍から労働組合の保護育成方針が出されたため、多くの職員は安心して労働運動に参加したのである。

 第二の問、つまり職員だけの組織ではなく、工員と一緒に組合をつくろうとしたのは何故なのか。これは従来あまり問題にされていないが、戦後労働組合を考える上で重要な論点である。なぜなら、もともと世界各国の労働運動で、「肉体労働者とホワイトカラー被用者を同じ組合に組織しようという試みが完全に成功したことはまれ」*26だからである。また、イギリスなどでホワイトカラーが労働組合運動に参加する主な理由は、ブルーカラーに対してホワイトカラーとしての社会的地位および労働条件の相対的優位を保持しようとするためで*27、したがって、そこで選ばれる組織形態は、ホワイトカラーだけの組合である。ブルーカラーも含む組合に参加する場合でも、ホワイトカラー部門が明瞭に区分されている組織に限られる。一方、日本では、混合組合を選択したのは他ならぬ職員の側である。

 なぜ職員は混合組合を選んだのか。その理由は一様ではない。二つのまったく相反する立場の者が、結果的に同じ選択をしている。ひとつは労働運動に積極的に参加した若手・中堅職員、主として大学・高専卒職員がとった立場である。彼らは1920年代・30年代に高校・大学で学んだ世代である。当時の高校・大学ではマルクス主義の影響が強く、彼らはマルクス主義に反対でも無関心ではいられなかった。また、この世代は、戦争の惨禍を身をもって体験しており、これも、彼らの間から日本社会の変革を志向する人びとを生み出す一因となった。この立場からすれば、組合は改革・革命の一翼をになう組織で、階層的な利害を超えた労働者階級の単一組織は、当然の選択であった。

 一方、経営者や幹部職員、さらに一般職員のなかにも、組合結成が避けがたいことを知り、また共産主義運動の台頭に危機感をいだいて、組合を「穏健」な立場に誘導しなければならないと考えた人がいた。それには、職員が指導的立場にたたねばならず、彼らもまた全従業員を包括する組織をつくる方向を選んだ。職員のなかには、工員との共同行動を危惧した者もいたが、彼らが組合結成のリーダーシップをとることは稀で、ほとんどは大勢に追随した。

 すでに見たように、職員独自の組合もつくられているが、その多くは公務、金融、教育など「現業職」の比率が低い分野であった。ブルーカラーが多数をしめる産業で職員組合が作られたケースもあるが、これは職員の独自の利益を守るには独自の組織を必要とするといった積極的な意図からではなく、工員組合が先にできてしまったためやむなく職員組合を結成したもので、いわば受動的な選択であった。

 第三の設問は、何故ブルーカラーはホワイトカラーが同じ組合に参加するのを認めたのか、である。おそらく、そこには日本のブルーカラーの間における労働者主義(labourism)の伝統の弱さがある。
そもそも、労働運動が一般にブルーカラーの運動として展開された背景には、イギリスの労働者階級の間に典型的にみられた「奴らと俺達」といった意識があった。事務職員はもちろん、職長も経営者と同じ「奴ら」であり、その「奴ら」と同じ組織をつくることなど想像もつかないことであった。こうした意識は日本の労働者には無縁である。彼らの圧倒的多数は、できることならブルーカラーであることをやめたいと思っていた。「労働者階級」の一員であることに誇りを抱くといった気持ちは、革命運動に参加した活動家の一部を別にすれば、日本の現場労働者には縁遠いものであった。労働者階級の一員としての誇りを抱く活動家でも、心のどこかで、出来れば自分の子は良い大学へやりたいと考え、もし他人から「労働者の子は労働者で当然」などと言われたら、それこそ「差別」と感じたのではないか。

 ただ、こうした労働者意識だけで、ブルーカラーがホワイトカラーを同一組織に受け入れた事実を完全に説明することはできない。なぜなら、混合組合に反対し現場労働者だけで組合をつくろうとした事例が、思いのほか多いからである。鉱業では鉱員と職員とがそれぞれ別組合を選んだ例が多く、また造船業や都市交通でも工職別組合となったものが多い。最終的には混合組合になったものの、結成過程においては、現場労働者の間に職員との同一組織に対する強い反対意見があった例も少なくない。たとえば、東京都交通労働組合は最終的には混合組合になったが、その準備過程では強力な反対論が存在した*28。ではなぜ、これらの産業分野は、工職混合になりにくかったのであろうか。

 炭鉱・鉱山の場合は、鉱員と職員が同じ職場で肩を並べて働く機会は少なく、賃金も鉱員は出来高給、職員は月給であった。また、従業員のほぼ全員が社宅住まいであったが、そこには長屋か一戸建てか、部屋数の違い、戸外の共同水道・共同便所と屋内配水・内便所といった設備の差、さらに鉱員社宅は日の当たらない谷間、職員社宅は見晴らしの良い台地といった立地の相違など、社会生活の面でも、両者は隣接しながら相互に交流せず、ほとんど別社会を形成していた。同様の状態は、鉄鋼や造船など地方の企業城下町にも見られた。これを裏からみると、ブルーカラーとホワイトカラーが生産の場では一緒で、日常生活では共に暮らすかあるいはほとんど相互に接触しないところ、たとえば大企業より中小企業で、また企業城下町より大都会で、混合組合は受け入れられやすかったのではないか。

 一方、都市交通や造船業に共通するのは、戦間期もかなり後まで、組合が一定の組織を維持し、運動経験者が組合再建の中心となったことである。いうまでもなく、それまで、職員は経営者側の人間だった。組合活動について職員から抑圧された体験をもつ活動家は、組合はブルーカラーだけの組織であるべきだと強く主張した。ここから推測されるのは、戦前期に労働運動を体験した人の絶対数が少なかったことが、現場労働者が混合組合を受け入れたひとつの要因だったことである。ただ問題は、全日本海員組合の事例である。戦前から強固な組合組織を確立し、多数の運動体験者を擁していた点では、海員が第一であるが、戦後は高級船員、普通船員が同一組織に結集しているからである。その背景には、戦前期に普通船員を組織していた日本海員組合の役員の多くが、戦時中に日本海運報国団役員や船舶運営会等の職員として、事実上ホワイトカラー化していたことがある。再建された組合の評議員(他組合の中央委員に相当)100人の「大部分が、戦時中から船に乗っていない人々」*29であったという。

3 敗戦直後の「企業社会」と経営民主化運動

(1) 食糧危機と従業員の企業への依存

 戦後の労働争議の中心的な争点である賃上げについてはよく知られているので省略し、これまでともすれば見落とされてきた点についてだけ指摘しておきたい。それは、戦中・戦後期に、従業員、特に大企業の従業員が、かつてなく企業への依存度を深めていた事実である。物不足が著しくなった戦中期以降、企業は生産の場であるだけでなく、物資の配給ルートとして、従業員の消費生活においても不可欠な存在となっていた。
その傾向は、敗戦後さらに厳しさを増した食糧難によって、いっそう強まった。炭鉱・鉱山のような企業城下町では、もともと企業の売店に頼らざるをえず、そこでの食糧不足は、国の責任や個人の問題というだけでなく、企業が従業員に負っている義務を果たしていない状況と意識された。大都会では、人びとは生き延びるためにありとあらゆる縁故を頼って暮らしていた。こういうとき頼りになるのは農村の親兄弟であるが、焦土と化した都会にとどまったのは、帰るべき田舎をもたない人びとであった。
彼らにとって、企業は最後の拠り所となった。賃上げだけでなく、工場がもっている原料や製品、機械、土地などの資産を活用させ、会社のさまざまなつながりを利用して食料を確保することは緊急の課題であった。そうした状況を、日本鋼管川崎製鉄所の組合史は、つぎのように伝えている。

「〔46年〕5月17日組合大会を召集、川鉄のすべての機関、機能を総動員して、従業員の食生活を確保しようと食糧危機突破委員会が設けられた。……この委員会の性格は、全力をつくして全従業員の飢餓突破に邁進することを目的とし、その方法としては、厚生課の協力によって、委員会で1切の食料の購入、配給を管理し、厚生課長に購入した物資を保管してもらい、委員会と協議の上で配分することにした。……先ず手始めとして、食塩製作の許可を所長に頼み、各支部を単位として食塩作りが始まった。敗戦後、会社の機能もストップしていたので、人人は、グループをつくって海水を汲んでは会社の燃料で塩を作り、それを食料と交換していたのである。生産意欲を増進するため、たくさん生産した支部にはその量に応じて増配された。つぎに食糧確保のため有給休暇が認められることになった。当時の勤労支部長であった堀切氏から『未曾有の食糧危機に直面してたとえ生産は下げてもこの危機は突破しなくてはならない、そのためには先ず休暇を出して食糧確保に向け、支部単位にバーター材としてコークスとか、その他社有品を提供する。社有空閑地を利用して、野菜、甘藷などを栽培し食料を確保するようにする』と力強い発言があった。勤労係長であったた堀切氏の発言は皆に勇気を与えた。」 注30

 ここには、互いに助け合うことでようやく生き延びている、文字通りの「企業中心社会」の姿がある。


(2) 工職身分格差の撤廃要求

 戦後労働組合が展開した運動のなかで重要な意味をもったのは、「経営民主化」運動である。組合が工職混合になったのも、これと無関係ではない。東大社研『戦後労働組合の実態』調査は、「混合組合の理念は、身分制度の廃止、企業民主化、月給制の採用、経営参加のような実践的目標と結びついてくる、そして、積極的にそれを闘いとり、徹底させるための闘争組織の理想として混合組合が考えられて」*31いた、と記している。

 では、戦後労働組合がとりくんだ経営民主化運動は、何を目指し、何を獲得したのか。ここで注意すべきは、同じ「経営民主化」といっても、運動の担い手によって目標の重点が異なったことである。まずブルーカラーであるが、彼らにとっての経営民主化は、何よりも職員との間の身分格差の撤廃を意味していた。その背景には、企業の職務編成が学歴によって明確な階層を形成し、階層ごとに、その処遇に大きな格差が存在する現実があった。その実態は企業によって違い、また時期によっても変化したが、おおよそ次のようであった*32。

 従業員の最上位に立ったのは正社員で、すべて大学・高専卒、その採用は本社でおこない、全国の事業所へ配属した。中等学校卒業者は、準社員とか准員と呼ばれ、事務や技術関係の業務に従事し、多くは事業所限りの雇用であった。その下には、さらに義務教育を終えただけの給仕や用務員がおり、雇あるいは傭員などと呼ばれ、ブルーカラーなみの処遇であった。準社員の中から社員に抜擢される者もあったが、昇進には長期間を要し、しかも上限があった。肉体労働に従事する職工として採用されたのは、義務教育修了以下の者に限られていた。職工から準社員や社員に抜擢された事例も皆無ではないが、工員と職員の間には、容易に越えがたい溝があった。

 正社員とそれ以外の者、また職員と現場労働者の間には、給与、賞与、昇進、社宅の有無など、その処遇には大きな違いがあった。とくに重要で、基本的な相違は給与制度である。その他の差別もこれと関連して生まれたものが多い。すなわち、社員は年俸あるいは月給で、いくら働いても時間外手当などは出ない反面、欠勤したからといってただちに給与を減らされることもなかった。一方、準社員は「日給月給」で、欠勤すれば減収となるのはもちろん、日曜などの休日も無給であった。工員は出来高賃金か時間給あるいは日給であった。当然のことながら、日給や時間給の者に対する出欠、遅刻の管理が必要で、その便宜上、工場の出入口を別にしたり、帽子の色で区別した。また、多くの工場で、ブルーカラーに対し、物品を持ち出していないか、退出の際に身体検査がおこなわれた*33。

 ただ、こうした工員と職員の格差は、しばしば主張されてきたように、日本社会が前近代的であったために残存していたのではない。おそらく、工場制度とともに移植された慣行であろう。要するに、職員の業務は、補助的な仕事に従事する者は別として、労働時間で管理することが難しいため、年俸や月給となる。これに対し、現場の労働者は出来高か、さもなければ労働時間によって管理することがもっとも効果的である。近代社会のモデルと考えられてきたイギリスにも、同様な差別が現存していた。時間給と月給、労働時間の長短、就業・終了時間や休日数の違い、年金・諸手当の格差、解雇の予告期間も労働者は1週間で職員は1ヵ月、そればかりか、両者は出退勤時には別の門を通り、駐車場や食堂、さらには便所までも別であった。しかもそれは、産業革命期に存在した過去の問題ではなく、1965年においてさえ残っていた現実であった*34。

 だが、こうした処遇の違いを、日本のブルーカラーは、「封建的な身分差別」であとして、その撤廃を要求した。要求内容は企業により異なったが、多く見られたのは、労務者、職工といった差別的な名称を改めること、給与・賞与・諸手当・勤務時間・休日・休職・定年などに関する基準を職員と同等にすること、通用門の一元化、身体検査の廃止、職員専用の諸施設を工員にも利用させることなど多岐にわたっている。

 ところで、この身分差別の撤廃要求は、何も戦後になって突如として生まれたものではない。その背後には、長年、日本の労働者がいだいていた根深い憤懣があった。また、差別撤廃運動も戦後にはじまったものではなく、戦前から労働争議の時などに、さまざまな形で噴出していた*35。

 ただし、日本の労働者が昔から差別に敏感で、その排除を要求してきたからといって、彼らが平等主義者だったわけではない。その要求は「全ての人間が生まれながらにもつ権利」といった西欧的な価値観にもとづく平等要求ではなかった。戦前の労働争議などでも、労働者はしばしば「人格の承認」を求め、戦後の経営民主化運動では「基本的人権」や「全ての人間の平等」を謳っている。しかし、それは要求の正当性を裏付けるために使っただけで、日本の労働者にとっての本音の要求は「人並みに扱え」ということ、つまり、自分たちも企業の1人前の構成員として認め、能力や努力を正当に評価せよ、というにあった。

 この日本の労働者の「公平感」*36が明瞭に現れている事例をみてみよう。
1948年7月、富士電機労働組合は大会で賃金をめぐる「差別撤廃」を決議している。決議は、「われわれはすべて同じ人間として」という言葉からはじまっており、まさに基本的人権にもとづく要求であるかに見える。だがこれにすぐ続くのは「平等に会社の運営に参加する機会が与えられるべきである」という言葉である。
基本的人権にもとづく要求ではなく、自分が所属する集団、この場合は富士電機という会社の一員として、一人前に処遇さるべきことを要求しているのである。さらに決議は、この後すぐに「われわれの差別は人格と能力との厳正な算定によってのみなされなくてはならない。」*37と続いている。「すべて同じ人間として」の要求が、「厳正な算定による」差別の要求となっている。この決議には「人格」をどのように算定するのか、あるいは、そもそも、人格が算定できるものであるのか、といったことについての疑いはない。
ただ明瞭なことは、そこに「人格と能力との厳正な算定」にもとづく賃金差別は当然とする、「広い意味での能力主義」的な思考が存在することである。能力がすぐれており、また人間的に尊敬できる人物であれば、それにふさわしい処遇がなさるべきである、というわけである。

ここに、後の能力主義的な労働者間競争の制度化へつながる契機があった。なお、「広い意味での能力主義」といったのは、日本人の「公平感」には、能力を重視はするが、同時に努力や協調性、年功、家庭環境など、各人の個別的な要因を考慮に入れない平等は「悪平等」であると感ずるところがあるからである。したがって、全員が窮乏していた敗戦直後には、「民主化」の名のもとに、幹部職員よりも同居家族の多い平社員に大きな社宅を割り当てるといった、生活の必要を重視した平等が実現した。だが、それは「人間としての平等」という考えによるものではなく、その集団の正規の構成員に対し、個人的な事情を配慮して処遇したものであった。

 こうした「公平感」こそ、労働組合が男女の性別格差の是正にあまり熱心でなかったことの一因である。つまり男性組合員は、また女性組合員もその多くが、女性の本来の居場所は家庭であり、職場は結婚までの腰掛けに過ぎないと考え、女性を企業の正規の構成員とは見なさなかったのである。組合が掲げた女性に関する運動目標を見ると、母性保護を目的とする生理休暇要求が目立つ反面、結婚退職制や若年定年制をまったく問題にしていない。男女同一労働同一賃金も口先だけで、女性組合員主体の組合が、その書記の賃金に性別格差を設け、「女子の賃金が男子にくらべ低いのは、日本の社会通念ではないか」と主張する状況であった*38。そのなかで、教員組合が性別による賃金差別の撤廃をねばり強く要求し、これを認めさせたことは重要な意味をもっていた*39。組合が男女差別の撤廃に熱心でない事実は、女性役員の少なさにも見ることができる。1949年現在、男性組合員は513万人、女性組合員は152万人であったが、専従の組合役員は、男性1万19人に対し、女性はわずかに418人に過ぎなかった 注40

(3) 従業員の経営参加要求

 現場労働者にとって民主化要求の最重点が身分差別廃止にあったのに対し、職員は経営参加に強い関心を示した。この従業員の経営参加が、もっとも明確な形をとって実現したのは、生産管理闘争においてであった*41。ところで、戦後初期に生産管理闘争が広がった原因として、つねに指摘されてきたのは経営者の「生産サボ」である。つまり、物価が急騰するなかで、経営者は費用をかけて製品を作るより、手持ちの資材を横流しした方が利益が上がるため、生産再開をサボっていた。そうした状況下でストをしても効果はないので、これに対抗する争議戦術として「生産管理」がおこなわれた、というのである。たしかに、45年10月、出獄したばかりの徳田球一は、「資本家のサボを克服する」ため「労働者による産業管理」を呼びかけている*42。だが、はたして「生産サボ」は「生産管理闘争」の主な原因であったろうか。少なくとも、生産管理で著名な企業、たとえば読売や京成、高萩炭鉱、東宝などで「生産サボ」がおこなわれていた形跡はない。そもそも新聞、電鉄、炭鉱、映画などで「生産サボ」はほとんど意味をなさない。『資料労働運動史』第一集には10件の生産管理闘争の事例が収録されているが、「生産サボ」に該当するケースは、資金難を理由に工場閉鎖が企てられた正田製作所だけである。全事例を検討したわけではないので明確な結論は出せないが、すくなくとも初期の生産管理闘争の主原因は「生産サボ」ではないと思われる。

 むしろ、初期の生産管理企業に共通しているのは、経営者に対する従業員の不信や怒りである。当然のことながら、この時期、経営者の多くは、それも大企業の経営者ほど、将来への展望を失っていた。敗戦の衝撃に加え、軍需の喪失、空襲による被災や戦時中の酷使による機械設備の老朽化、賠償として工場設備が接収される懸念、集中排除法による企業分割、公職追放のおそれ、原料難、資金難など、さまざまな問題をかかえ、明確な経営方針をもちえずにいた。それに対し、職員や役付工など企業に自からの人生を託していた人びとほど、会社の将来に不安を感じ、経営者の無為無策に不信を強めた。そうした人びとに、問題解決の方向を示したのが、読売争議であった。経営者の責任追及にはじまり、従業員組合による事業管理へと展開した事態は、多くの人に、組合を作って、自分たちの手で企業を再建する方向があるあることを教えたのである。また、従業員の要求に理解を示さず、「誠意」*43のない態度をとった経営者への怒りが、抗議の意を込めた激しい闘争へと発展したのである。

 もうひとつ生産管理闘争が広がった理由は、これがストよりは企業業績に悪影響を及ぼさないので、会社の将来に不安を抱く管理職もふくめ、全従業員の支持が得やすく、また社会の理解も得やすい闘争形態だったからであろう。おそらく、この方が「生産サボ」よりも、生産管理闘争が多発した要因としては大きいのではないか。

 ところで、生産管理にまで発展した争議でも、従業員の怒り・不信は経営者個人に向けられただけで、資本主義制度そのものには向けられなかった。運動指導者のなかには、経営者を排除した「労働者による管理」を構想した者もいたが、現実の運動でこれを目標として追求したわけではない。まして一般従業員は、経営者の交代は要求しても、経営者抜きの「従業員の自治体」を望んでいたのではなかった。彼らが求めていたのは、従業員が経営者と対等の立場で発言できる企業であった。その理想としたところは、企業に働く者全員が、企業経営に関するあらゆる問題に発言し、決定に参与する経営であった*44。経営者側も、民主主義が戦後日本社会の基本原理であることは否定しがたい現実として受けとめていたから、企業経営に関する労働者の参加を認めざるをえなかった*45。

 もちろん、働く者全員が経営上の全問題を決定するといっても、従業員全員が直接経営に参加することは不可能であり、そこで広く採用されたのが、労使双方の代表者によって構成される経営協議会制度であった*46。もっとも、経営協議会の実態は、労使の力関係によって大きく異なった。労働者の力が強い企業、別の言い方をすれば経営者が経営能力を失っていた企業では、組合は、企業経営に関するありとあらゆる問題について発言し、その決定に参与した。とりわけ、雇用解雇など人事問題について組合の事前承認を要求し、これを認めさせている。大量解雇が相次いでいた時期だけに、組合が雇用保障を求めたのは当然である。だが、組合は単なる雇用保障要求にとどまらず、従業員の昇進・昇格・配転に対する組合の承認、会社幹部の戦争責任の追及、非民主的分子の追放、物資配給等で不正行為のある人物の追放、部課長はじめ役職者の公選などを要求している*47。配転に組合の承認を要求したひとつの理由は、不当労働行為的な人事異動がおこなわれたからであろう*48。

 ただ、日本の組合が人事問題を重視し、さまざまな発言をおこなったのは、このような組合活動を守るための配慮だけからではなかった。むしろ、その背景には、もともと日本の労働者が、昇進昇格に強い関心をもってきたことがある。たとえば、国鉄従業員組合準備会が設立に当たって採択した「当面の要求」22項目のなかには、@無能または反民主主義的幹部の整理 A学閥による昇進の独占反対(特に東大法学部閥の粛正)、B教習所の拡充、中学より大学までの官費教育機関の設置(現場より幹部を送れ)、といった要求が含まれている*49。そこには「現場より幹部を送れ」のような自からの利害に直接かかわる要求だけでなく、「東大法学部閥の粛正」といった経営のトップ人事にも強い関心を示す従業員の姿が鮮明に浮かび上がってくる。

 また、労働組合のリーダーシップを握ったホワイトカラー層は、敗戦にともなう企業秩序の崩壊に危機感をいだき、実力ある者が経営者となり、職場の管理者となることを望んでいた。そこで、戦後組合、とくにホワイトカラー主体の組合のなかには、経営者の人事にまで介入した事例がある。特徴的なのは、部外者の経営参加に反対し、部内からの昇進を要求したことで、たとえば千代田生命従業員組合は、46年に、会社役員の選任にあたり、@社外重役は絶対に認めない、A組合運動に理解ある人格高潔なる人物、B学歴、年齢にとらわれず経営に積極性ある人物、といった条件をつけている 注50
 また、日本火災従業員組合も「昭和21年の暮から翌年の始めにかけて、戦時経営機構の解体、経営民主化を目指して新経営陣の詮議を組合大会においておこない、ついにこれを貫徹し」ている*51。

 もちろん、経営協議会は人事だけを取り上げたのではない。むしろ多くの企業で、経営協議会は、しだいに労働条件をめぐる交渉の場となっていった。欧米のように産業別組合が団体交渉の主体であるところでは、労働条件は産業レベルで交渉し、事業所に固有な問題について工場委員会で協議するのが通例である。しかし日本では、労働条件もその他の問題も、同じ当事者間の交渉で、また労働条件は他と密接な関わりがあるから、そのような団体交渉機関と経営協議機関との区分は、もともとあまり意味をなさなかったからである。

ところで、労働組合が「経営民主化」のスローガンのもと、企業経営のあらゆる問題に関与したことは、組合は企業にとって不可欠の存在であるから、企業がこれに便宜を供与するのは当然とする考えを生むことになった。
 会社はその一室を組合事務所に無償で提供し、光熱費を負担した。あるいは、従業員としてはまったく働かず、組合活動に専念する組合役員に企業が賃金を支払い、組合活動のための出張に旅費や手当まで出していた。
 こうした便宜供与を組合側が要求しただけでなく、企業の側も当然のこととして認めたのである。このほか、就業時間内の職場集会、組合費を会社が給与から差引くことも、広くおこなわれた。

 もちろん、そうした便宜を享受したのは、組合の力が相対的に強い企業においてであった。組合が強力であればあるほど、企業からさまざまな便宜を供与され、企業への依存度を高める傾向があった。その事実を端的に示しているのが表5である。 〔表5〕

 「戦闘的」な運動で知られた産別会議が、その役員や組合書記までも企業の負担で維持する比率がもっとも高い。戦後労働組合は単に組織形態の上で企業内的であっただけでなく、財政面でも企業依存的であった。これは、産別会議だけでなく、多くの「戦闘的組合」に共通している。その点では、むしろ総同盟の方が、わずかながら企業との間に距離をおいていた。

4 戦後労働組合運動のその後──むすびにかえて

(1) 戦後労働組合運動の転機
 敗戦直後の日本の労働組合運動は、占領軍による保護・奨励策のもとで、また相手となる経営者側の弱体化、混乱に助けられ、急激な発展をとげた。しかし、このような世界の労働運動史にもあまり例のない、国家と企業と組合の奇妙な「同床異夢」の「蜜月時代」は、すぐ終わりをつげた。その転機を何時にみるかは、論議の多いところである。そこで、組合の力の基本的指標である組合員数の推移(表6)により、その転機を確かめておこう。 〔表6〕

 これで見る限りでは、49年から50年の間に画期がある。49年6月、対前年比で組合員数は微減で、戦後一貫して続いた増勢は終わっている。さらに翌50年になると、組合数は5544の減、組合員数では88万余人も減らしている。この後退をより劇的に示したのは、戦後労働運動をリードした産別会議である。結成時には公称2一単産・163万人、労働省調査でも、最高時の48年6月には、単位組合数で4644、組合員数で121万1423人であった産別会議は、49年6月には102万190人、さらに50年には29万87人と激減している。

 この後退は、単一の原因によるものではなく、いくつもの要因が複合的に作用した結果であった。主体的条件からいえば、この時期に運動の内部分裂が深まった。産別会議内では、共産党の組合指導をめぐり、本部書記局はじめ、数多くの単産、単組で民主化運動が拡がり、分裂へとつながった。その共産党自体も、1950年冒頭のコミンフォルム批判により分裂し、さらにレッドパージによる追い打ちをかけられ、労働運動への影響力を急速に弱めた。

 一方、運動をとりまく客観的条件も、組合側に厳しいものとなった。48年暮の経済9原則とこれを受けた翌年3月のドッジラインにより、企業への補給金は打ち切られ、これを機に「企業整備」=大量解雇が実施された。公共部門では、マッカーサー書簡によるスト権剥奪、さらに49年5月の「定員法」による行政整理が強行された。国鉄、全逓、東芝といった戦後労働運動の主力部隊に大量解雇が通告され、組合が反対運動をはじめた矢先に、下山・三鷹・松川といった怪事件があいつぎ、運動は守勢に立たされた。さらに、労組法改正により組合は大きな打撃をうけた。このように見てくると、やはり決定的な意味をもっていたのは占領軍の政策である。マ書簡に始まり、経済9原則、ドッジライン、労組法改正からレッドパージにいたる主要な政策は、いずれも占領軍から出ている。

これらのうち、企業レベルの労使関係に直接的に影響を及ぼしたのは労組法の改正である。なかでも企業の組合に対する経費援助についての規定は、これまでは「主タル経費ヲ使用者ノ補助ニ仰グモノ」は労働組合と認めないという比較的ゆるやかな規定であったものを、「団体の運営のための経費の支出につき使用者の経理上の援助をうけるもの」は労働組合ではないと規定し、組合役員や書記への企業からの給与支給を禁止する主旨を明確にした。また、組合員の範囲については、旧法でも「使用者の利益を代表する者」を排除する規定はあったが、これをより詳細に規定し、管理職や人事課の一部職員等を非組合員とするよう指導を強めた。

 占領軍の政策転換に励まされ、経営者も組合との対決姿勢を強め、失地回復につとめた。争点は三つで、第一は経営権の確保、とりわけ人事に対する組合の発言権の否定あるいは抑制、第二は、管理職が組合員となっている事態を解消すること、第三は、組合に対する経費援助の削減であった。第二、第三点は、労働組合法制定以前に、占領軍と政府が、直接、企業経営者や組合に「個別指導」をおこなっていたこともあって*52、経営者側の主張通り、比較的容易に実現した。改正労組法の施行から半年余の49年末、労働省が実施した「改正労働組合法履行状況調査」によれば、組合から企業の「利益代表者を排除したもの」「使用者からの経理上の援助を既に排除したもの」は、単位組合数で2万を越え、それぞれ全組合の91.0%、93.5%に達していた*53。

 これに対し、第一の経営権確保をめぐっては、労使の激しい対決となった例が少なくない。しかし、これも、改正労組法により、労働協約の期間満了後は当事者の一方の意志だけで協約を廃棄できることになったことが、経営側を大いに助けた。もし、組合側が会社側の協約案に賛成しなければ、無協約状態にあることを宣言すればすんだからである。これを境に、戦後労働組合の性格は変化したが、その具体的な検討は本稿の範囲をこえている。

(2) 経営民主化運動が残したもの
 工職差別撤廃の要求に対する企業の対応は一様ではなかったが、そこには共通した傾向がみられる。最初に撤廃されたのは、露骨な、目にみえる差別であった。たとえば、通用門の区別や、門前での所持品検査である。また、職工、労務者といった差別感をともなう呼称は廃止され、対外的には従業員、あるいは社員と呼ばれるようになった。しかし、筋肉労働とデスクワークという仕事そのものの違いを変えるわけにはいかず、企業内では、依然として技能職、事務職、技術職などの名称のもとで実態的な区別は続いた。また、大学卒業者は本社採用、新制高校卒以下の者は工場ごとの採用、昇進速度や上限も学歴によって異なるといった仕組みにも大きな変化はなかった。

 工職差別のうちもっとも重要な、賃金制度をめぐる「差別撤廃」要求への対応は、産業により、企業によって異なった。
家族手当、通勤手当、住宅手当などの各種手当、あるいは工職間に大きな違いがあったボーナス算定基準などは、比較的早い段階で格差縮小が進んだ。しかし、賃金に関する工職間の制度的な違いの解消は、それほど容易ではなかった。言うまでもなくそれは、賃金制度が生産能率とのかかわりが深いからである。
しかし、工員と職員との給与形態の統一は、その後も組合の主要求のひとつとしてたえず提起され続けた。結局、時期は企業により異なるが、遅い場合でも1960年代には、現場労働者を含む正規従業員全員に、「日給月給」ではなく、定期昇給をともなう月給制が採用されていった。

 日本のブルーカラーの昇給カーブは、他の国のブルーカラーと違い、ホワイトカラーのそれと類似していることが良く知られている*54。おそらく、そうした変化がおきたのは、この頃のことと思われる。ブルーカラーとホワイトカラーの賃金水準の格差も、春闘の賃上げ要求で毎年「一律・プラス・アルファ方式」がとられたことによって、さらに縮小傾向をたどり*55、ブルーカラーのホワイトカラー化、サラリーマン化が進んでいった。現代日本のブルーカラーは、他の国のブルーカラーと比べ独特な性格をもっているが、それはしばしば主張されるような日本の伝統文化によるというより、直接的には混合組合による運動の「成果」によるところが大きい。

 もちろん、こうした変化は、労働運動の成果というだけでなく、経営側の労務管理上の要請による側面がある。両者の妥協、というより合作というべきであろう。ブルーカラーに本格的な月給制度が採用されたのが1960年代であるのも、この頃から高校進学率が上昇し、中卒だけではブルーカラー労働力の所要量をまかないきれず、高卒から現場労働者を採用するようになったことと関わっている。つまり、同じ高卒のなかに職員と工員が生まれたことで、両者の間の区分=差別が問題にならざるをえなかったからである。その結果、この時期には、ブルーカラーに対する月給制度の適用とともに、「青空の見える労務管理」をうたって、ブルーカラーとホワイトカラーの昇進経路の一本化がすすみ、昇進の上限を撤廃する企業が増えた*56。

 こうした一連の変化により、長年、日本の労働運動の動因として作用し続けた現場労働者の憤懣は解消した、とは言えないまでも、運動への潜勢力をいちじるしく弱めた。
一方では、「青空の見える労務管理」の実現は、同時に昇進・昇格をめぐる従業員間の競争を激化させることになった。すでにみたように、日本の労働者の「公平感」は、一方で工職身分差別といった「不当な差別」に反対する一方、各人の能力や努力の違いを考慮にいれない平等は「悪平等」である、とするものであった。
敗戦直後の、全員が窮乏している時期には、各人の生活の必要を最優先させる生活給=年齢給プラス家族手当、がその「公平感覚」を満たすものとして受け入れられた。しかし高度成長期以降、各人の最低生活が充足されるようになると、単に勤続年数に対応するだけの年功賃金や年功的昇進に対し、従業員の間から不満が生まれ、なかには組合が「職務と能力による賃金」を要求する事例さえ生まれた*57。

 もともと、経営側は労働者個々人の能率を反映しない年齢給的な賃金制度には批判的であったから、こうした要求が従業員の間から生まれたことを、大いに歓迎した。ここでも、労使の合作として、職能給が広がっていったのである。


(3) 戦後労働組合運動における〈連続〉と〈断絶〉
 与えられた課題は、敗戦直後の労働組合運動の高揚を、後の企業主義的組合との〈連続〉と〈断絶〉という視点から考えることであった。一方、本稿が実際に吟味したのは、戦後初期の労働組合運動、時期的には1945年から49年前後までに限られている。
当然のことながら、これだけの作業で、敗戦直後の組合と現代日本の「企業主義的」組合との間にある〈連続〉と〈断絶〉を確認するのは無理である。戦後もすでに半世紀近く、その間には1950年代の反合理化闘争、職場闘争により企業主義を克服しようとした総評労働運動の企て、日本社会を大きく変えた高度成長と春闘、石油ショックと円高による低成長期の労働組合運動など、思いつくままに挙げても、検討を要する論点は少なくない。さらに、経営側のさまざまな労働運動対策・労務管理についても具体的に検証することなしに、この課題に答えることは不可能である。
したがって、以下は、あくまで仮説的、暫定的な性格のものにすぎない。

 まず、ごく一般的に考えて、戦後労働運動をめぐる法的、制度的な枠組みは、戦前期、敗戦直後期とは比較にならぬ安定を保ってきたことは明らかである。敗戦によって生じたような決定的な「断絶」は以後おきていない。49年を境に、労働運動が大きく後退したとはいえ、戦前期にしばしば見られたように、壊滅状態になったわけではない。主たる変化は全国レベルの運動指導部における交代であり、企業レベルの労働組合ですぐに決定的な変化がおきたようにはみえない。相変わらず企業内組織であり、現場労働者と事務職員を同一組織にかかえる混合組合である点にも変りはなかった。運動の目標も依然として企業内的であり、程度は低くなったとはいえ運営面でも企業依存的であった。その限りで、主たる側面は「連続」にあり、「断絶」というほどの決定的な変化はなかったと考える。

 ただ、労働組合の組織形態だけでなく、企業内の労使関係、つまり労働組合と経営との相互関係についてみると、この間に決定的な変化が生じたことも、また確かである。すなわち、敗戦直後には従業員のほとんど全員を組合に組織したことによって、組合が企業を動かす力をもち、時には組合が企業を支配する状況さえ存在した。
だが、その後、経営権は完全に経営者側に取り戻された。これは「断絶」といってもよいほどの大きな変化である。この変化の過程について、本稿では、最初の転機をめぐる諸要因を指摘するにとどめざるをえなかった。これについては今後の課題としたい。

 さらに、それにつぐ第二の転機は、50年代から60年代前半にかけて、各産業のトップ企業で相次いだ合理化をめぐる大争議の時期であろう。この一連の争議で、経営側は企業に非協力的な組合指導者や活動家の排除に力をいれ、第二組合をつくらせた。
この際、第一組合から最初に脱退したのは職員、ついで役付工であった*58。ここで、生産管理闘争では威力を発揮した事業所「全員組織」=工職混合組合の弱点があらわになった。これ以降、職員の圧倒的多数は、企業と対決的な第一組合から離れて管理職への昇進コースを選び、大学卒業者の一部はさらに抜擢されて経営者に転身した*59。あくまで企業と対立する道を選んだ人は社外に追われるか、孤立させられていった。

 もちろん企業レベルの変化は、経営権をめぐる問題だけではない。労働組合運動の面でも、いくつか見逃しえない変化が生じている。第二組合の成立もそのひとつであるが、敗戦直後の事業所別組織が1960年代に企業別組合へと変わっていったことも見逃すことのできない重要な変化である 注60

 また、労働組合運動の担い手の面でも変化はおきている。1940年代の労働組合運動が全体として職員層、それも大卒職員の主導下にあったのに対し、50年代以降、労働運動が再活性化した時、企業レベルの運動の主導権は、職員組合では中等学校卒業の一般職員へ、混合組合では役付工を中心とする現場労働者層に移っていた。これがさらに、60年代になると「青空の見える労務管理」の導入で、平職員や役付工の一部が管理職に抜擢され、非組合員となった。このように、労働組合運動の中心勢力の間に、管理職へ上昇する部分が常に存在することは、そのキャリアの初期では組合員である大卒職員のなかから経営者が選抜されることと相まって、経営と組合との境界を曖昧で、ぼやけたものにしている。労働組合の主力が、非組合員となることを目指して相互に競争する状況では、運動の空洞化は避けがたい*61。
 企業主義的な労働組合が成立した背後には、戦後労働組合運動の「達成」がある。社会運動──労働組合運動ももちろんそのひとつだが──の最大の動因は、差別に対する怒りである。その意味で、長年の鬱憤を晴らしてしまい、全員がサラリーマン化した正規従業員だけの組合が、企業主義から脱却することは難しい。今後、かりに労働組合運動が活性化することがあるとすれば、それは現在の企業社会で「一人前の構成員」として認知されていない層が、「自分たちも人並みに扱え」と要求して運動する時であろう。

 ただ、現在の労働組合の多くが、果たしうる役割は、けっして小さなものではない。敗戦直後の労使対決の過程で両者が合意した「あるべき企業像」、つまり会社は資本家(株主)のものである前に、そこで働く者全員によって構成され、そこで働く者のために機能すべきであるとの考えは、その後も生き続けている。もちろん、これはメダルの表面で、その裏側には、企業が繁栄してこそ従業員の生活も豊かになるのだから、企業全体のためには、個々の従業員が犠牲を払うのも当然とする考えが、つねに存在する。とくに経営危機に際し、表裏が逆転し、従業員のための企業でなく、企業あっての従業員となりがちである。だが、この「建て前」をできるだけ実体化させるには、組合の存在が不可欠である。昔から日本の庶民の抵抗は、支配者の「建て前」を逆手にとり、そのオモテの論理を守らせることを伝統としてきたのである。



【追記】

 編者から与えられた課題には、冒頭に記したもののほか、副次的に「戦時中の産報体制と戦後労働組合との関係の解明」があった。その課題に答えるべく、多少は準備をはじめはしたが、紙幅の関係で、今回は省略せざるをえなかった。
 また、もうひとつ、気になりながら本稿で取り上げえなかったのは、労働組合の社会運動機能である。敗戦直後はもちろん、朝鮮戦争からヴェトナム戦争を背景に、70年代までの日本の労働組合は、一面で平和運動団体としての性格ももっていた。占領軍が育成したはずの総評が、平和四原則を主張して「ニワトリからアヒルになった」のも、幹部だけでなく、一般組合員の間に戦争体験に根ざした平和への強い願いがあったからである。こうした平和運動への参与が、戦後労働組合が著しく企業主義的な性格をもちながら、単純な御用組合にはならなかった一因である。
だが、これも80年代以降、組合員の多数派が戦争体験をもたない世代に移っていったこともあって、労働組合から、その社会運動団体的性格を薄れさせていった。これこそ戦後労働組合のおおきな〈断絶〉的側面であろう。この問題も今回はまったくふれることなく終わってしまった。ともに今後の課題としたい。





【 注 】


*1  「企業別組合の歴史的背景」(法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』305号、1984年3月)。「日本労使関係の歴史的特質」(社会政策学会年報第31集『日本の労使関係の特質』御茶の水書房、1987年)。

*2 1947年のみ『労働組合調査』、48年以降『労働組合基本調査』、83年以降は『労働組合基礎調査』。なお、組合の実勢を表示するとき、「単位労働組合」数を使うことがあるが、これは適切ではない。1953年から集計を開始した「単1労働組合」数を用いるべきである。「単位労働組合」では、大組合の場合は支部、分会などまで集計されるからである。ちなみに、1953年の「単一労働組合」数1万8228、「単位組合」数は3万129である。また組合員数も、単位労働組合の場合は本部直属の組合員が洩れてしまい、実勢より低くなる。

*3  労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、999頁。

*4 労働省監修・加納道二編『日本労働組合名鑑』国際労働法制研究所、1948年。

*5  足尾銅山労働組合編『足尾銅山労働運動史』1958年、196頁。

*6 1946年6月現在で、全日本海員組合は支部数26、組合員数6万1419人であった(労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、406頁)。

*7 東京大学社会科学研究所編『戦後労働組合の実態』日本評論社、1950年。のちに同書の附表を除いた報告書の本文だけが改題・再刊された(大河内一男編『労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年)。

*8 もっとも、少し後の時期については推計がある。すなわち泉谷甫氏は、1956年について「サラリーマンの組織人員」を259万人、組織率36%と推計し(松成義衛ほか『日本のサラリーマン』青木書店、1957年)、ソロモン・レヴィン氏は、1960年について組合員総数のうち36%がホワイトカラー組合員であると推計している( Solomon Levine  "Unionization of White-collar Employees in Japan"  Adolf Sturmthal(ed.) White-collar Trade Unions, Urbana & London, @ University of Illinois Press, 1966. pp.223-225. j B

*9 日本の組織率を国際的に比較する際には注意を要する。なぜなら、多くの国では一般に分母には組織可能人員を使っているが、日本では会社役員や、団結権を否認されている自衛官や警官まで含めた「雇用者」数を使っているからである。このため、日本の組織率は5%程度は低くなっている。詳細は二村一夫「労働組合組織率の再検討」(『大原社会問題研究所雑誌』第330号、1986年5月)参照。


*10  小池和男『賃金──その理論と現状分析』ダイヤモンド社、1966年、第30表による。

*11  George S. Bain The Growth of White-Collar Unionism,  Oxford University Press,  1970, pp.22-27

*12  C・ライト・ミルス著、杉政孝訳『ホワイト・カラー』創元社、1957年、280頁。

*13  労農記者懇話会『労働運動見たまま』第1集、時事通信社、1947年。15−18頁。

*14 山本潔『読売新聞争議(1945・46年)』御茶の水書房、1978年、23頁。

*15 平沢栄一『争議屋』論創社、1982年、22−23頁

*16 大河内一男編『労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年、第5章「組合役員の性格」参照。

*17  経営者側がきわめて組織的に組合結成にとりくんだのは北炭で、45年10月、前田一労務部長が北海道各砿業所の労務課長を集め「労働組合設立指導方針」を決め、組合設立を指導している(北炭労務部編『北海道炭砿汽船株式会社労働運動史々稿』第1輯)。また、逓信院当局も、部内で単一組合を結成する方針をもって働きかけている(『全逓労働運動史』第1巻、105−113頁)。その他、経営側の職員が組合結成の中心になった事例は、多くの組合史に記録されている。

*18  住友石炭鉱業株式会社職員労働組合連合会編『十年史』1957年、6頁。ただし、こうした組合の届出は地労委が受理せず、改革を指導したから、長期間続いたわけではない(神戸銀行従業員組合『十年の歩み』1958年、73頁、参照)。

*19  大河内一男氏は、こうした考えを、さまざまな機会に、数多くの論文として発表されている。どれかひとつあげるとすれば「わが国における労使関係の特質」(『労使関係論の史的発展』有斐閣、1972年)であろう。

*20  東京大学社会科学研究所編『現代日本社会 5 構造 』東京大学出版会、1991年、222頁。

*21  戦後日本の労働者が希望した組織形態は「会社別従業員組合」である。この事実は、東大社研調査より早く、実践家によって認識されていた。1946年1月に開かれた労働組合総同盟準備委員会が採択した運動方針書は、つぎのように記している。「一般従業員が会社別従業員組合組織の希望を有することは遺憾ながら我等の当面する事実である。我等はこの迷蒙ママを打破しなければならないことはいうまでもないが」(労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』労務行政研究所、1951年、447頁)。総同盟の指導者は産業別組合を組織しようとしたが、職場の労働者はこれを受け入れなかった。

*22  Efren Cordova Insustrial Relations in Latin America Praeger Publishers,  New York, 1984, pp.30-31.

*23 Ross M. Martin Trade Unionism; Purposee and Forms  Oxford, Clarendon Press,  1989, p.174.

*24 Steve Smith "Craft Consciousness, Class Consciousness: Petrograd 1917" History Workshop Journal No.11, Spring 1981.

*25  小池和男『職場の労働組合と参加』東洋経済新報社、1977年、240頁。

*26 R.ブランパン編、花見忠監訳『労働問題の国際比較』日本労働協会、1983年、238頁。

*27  Richard Hyman & Robert Price(ed.) The New Working Class? White Collar Workers & Their Organizations, London, The Macmillan Press,  1983, p.163.

*28 日本都市交通労働組合編『都市交三十年史』労働旬報社、1978年、158−160頁。

*29 笹木弘「戦後における日本の海上労働運動」(『商船大学研究報告』第3号B、1953年2月)。


*30 日本鋼管川崎製鉄所労働組合『十年のあゆみ』17−18頁。なかには、労働組合委員長の職務が食料や衣料の調達というところさえあった(太平洋炭鉱労働組合『労働組合史』1955年、23頁)。

*31 大河内一男編『戦後労働組合の生成と組織』東京大学出版会、1956年、94頁。

*32 氏原正治郎「戦後労働市場の変貌」(『日本の労使関係』東京大学出版会、1961年)。

*33  戦前の工職間格差の実態については、菅山真次「戦間期雇用関係の労職比較──〈終身雇用〉の実態 」(『社会経済史学』第55巻第4号、1989年10月)参照。

*34  George S. Bain The Growth of White-Collar Unionism,  Oxford University Press,  1970, pp.48-65.

*35 注(1)の拙稿、および二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』参照。

*36 石田光男氏は、その注目すべき作品「賃金体系と労使関係──日本の条件」(同著『賃金の社会科学──日本とイギリス』中央経済社、1990年、所収)で、「フェアネス」あるいは「公平観」という言葉を使って、日本の労働者の「能力主義」志向を分析している。
ただ「フェアネス」とか「公平観」という言葉は、日本の労働者の心性をあらわすには、いささか理念的にすぎるように思う。ここでは「公平感」あるいは、「公平感覚」という言葉を使うことにする。

*37  富士電機労働組合『組合運動史』第1巻、98頁。

*38  塩沢美代子『ひたむきに生きて』創元社、1980年、166頁。

*39  日本教職員組合編『日教組十年史』1958年、230頁。なお、規約に女性の中央委員枠を定めるなど、組合活動における男女差別撤廃に関する日教組の取り組みは先進的であった。

*40 労働省労働統計調査部『1949年6月末基本調査 労働組合調査報告』1950年。

*41 生産管理闘争については、山本潔『戦後危機における労働運動』御茶の水書房、1977年、参照。

*42 山本潔前掲書、111−112頁。

*43 日本の労使交渉で、「誠意」ほど頻繁に使われる言葉は少ないであろう。これについては、前出注(1)の拙稿「企業別組合の歴史的背景」参照。

*44 栗田健編著『現代日本の労使関係──効率性のバランスシート』労働科学研究所出版部、1992年、29頁および栗田健「戦後民主主義と日本労使関係」(長洲一二編『現代資本主義と多元社会』日本評論社、1979年)参照。

*45 経済同友会を中心にした経営者のなかには、生産管理を容認し、「産業の運営に関してすべての関係者をしてこれに参画せしめること」を主張する者がいた。山本潔「〈産業再建〉と諸政治主体」(東大社研『戦後改革 5 労働改革』東京大学出版会、1974年)、
信夫清三郎『戦後日本政治史 U』勁草書房、1966年、412−415頁、参照。

*46  経営協議会については、さまざまな研究があるが、前掲の栗田健論文のほか、中島正道「戦後激動期の〈下からの経営協議会〉思想」(清水慎三編著『戦後労働組合運動史論』日本評論社、1982年所収)、
遠藤公嗣『日本占領と労資関係政策の成立』東京大学出版会、1989年、
西成田豊「占領期日本の労資関係」(中村政則編『日本の近代と資本主義──国際化と地域』東京大学出版会、1992年所収)、など参照。

*47  労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』収録の諸争議の要求事項による。

*48 たとえば井華〔住友〕)鉱業株式会社は、唐津鉱業所職員組合の藤田組合長を東北の鉱山に転勤させようとし、争議となった(井華鉱業株式会社職員組合連合会編『連合会史』1951年)。なお、藤田若雄『サラリーマンの思想と生活』(東洋経済新報社、1959年)は、この問題についての当事者の興味深い記録である。

*49 労働省『資料労働運動史 昭和20−21年』410頁。なお、国鉄労働組合による人事管理への介入・規制問題については、青木正久「国鉄労働運動(1945〜49年)− 人事管理の〈民主化〉を中心に−」(労働争議史研究会編『日本の労働争議(1945〜80年』東京大学出版会、1991年)参照。


*50 千代田生命外務従業員組合『十年史』1962年、13頁。

*51 全日本損害保険労働組合『全損保の歩み』1962年、69頁。

*52 労働組合法改正に先立つ、48年12月、政府は労働次官通牒を発し、各都道府県労働課が各地の軍政部の援助も受け、法改正前に、改正主旨にそって組合規約や労働協約の改訂をすすめるよう指示した。具体的には、組合に対する企業の経費援助の停止、組合員資格を明確に規定し、管理職や人事労務担当者、守衛などを非組合員化することであった。(『資料労働運動史 昭和23年』労務行政研究所、1952年、1117−1122頁)。

*53  労働省『労働行政史 戦後の労働行政』労働法令協会、1969年、469−471頁。

*54 小池和男『日本の熟練』有斐閣、1981年。

*55 「わが国賃金の特徴は、欧米にくらべ企業のなかの賃金格差がやや少ない、という点にあろう」(小池和男前掲書、71頁)。

*56 折井日向『労務管理二十年』東洋経済新報社、1973年。熊沢誠「職場社会の戦後史」(『新編 日本の労働者像』ちくま学芸文庫、1993年)所収参照。欧米に進出した日本企業の多くが、雇用保障と同時に単一身分(single status)制度を日本的経営のセールスポイントの一つにしているのも、こうした歴史的背景をもっている。

*57 橋元秀一「能力主義と賃金体系」(栗田健編著『現代日本の労使関係──効率性のバランスシート』労働科学研究所出版部、1992年)参照。

*58 竹田誠『王子製紙争議(1957〜60)──日本的労資関係確立をめぐる労資抗争』多賀出版、1992年、
労働争議史研究会『日本の労働争議』東京大学出版会、1991年、所収の松崎義、平井陽一論文など参照。

*59 1981年現在、日経連加盟企業313社についての調査では、かつて組合の執行委員を経験した者が取締役となっている企業は232社(74.1%)にも達している。


*60 高木郁朗「日本の企業別組合と労働政策」『講座・今日の資本主義 七 日本資本主義と労働者階級』大月書店、1982年。

*61 現在の労働組合のなかで、スト権が認められていない公務関係の組合の方が、民間部門より企業主義的な色彩が薄いのは、企業間競争がないことと同時に、労働組合に「キャリア組」が参加していないことと無関係ではないであろう。



〔初出  渡辺治ほか編『シリーズ日本近現代史 4 戦後改革と現代社会の形成』 岩波書店、1994年刊、所収〕