二村氏が論文「足尾暴動の基礎過程」をもって大河内一男の「出稼型論」を実証的に批判し、学界に華々しくデヴューした1959年から、本書が刊行されるまで30年近い年月が流れている。途中、中断した時期はあるものの、一つのテーマに30年余とり組み、今回著書として刊行されたことに、まず敬意を表さずにはいられない。本書の合評会が行われた席で(88年7月9日)、司会をされた山本潔氏が「本書の刊行により我々の青春は終った」といわれたが、そのような感慨は、本書を手にした読者の多くが抱くのではなかろうか。
足尾暴動は、1907年2月に勃発した。従来この暴動は、組織をもたず経済的に窮乏した鉱夫による自然発生的反抗として捉えられ、意識の遅れた主体性を欠如した労働者像が描かれてきた。著者は、かような捉え方が労働運動、労使関係を経済主義的に分析することから生じており、その結果、窮乏そのものの把握も、実証的・歴史的分析を怠っている単純なものとなり、暴動もアプリオリに「自然発生的抵抗」と捉えられていると批判する。経済的要因だけで暴動(そして労働争議も)の発生を理解するのは不可能であり、労使関係をとりまく歴史的、社会的、文化的要因を考慮し、労働者の主体的要因を分析することの重要性を指摘するのである。そして、暴動・争議という「非日常」の研究を通して、なかなか史料には表わされにくい労働者のマンタリテといった「日常」が把握できるとする。著者自身が書いているように、1971年に労働争議研究の積極的意義を主張したとき、「争議という〈非日常〉を通して、労働者の〈日常〉を探りあてること、これが争議研究の重要な課題であると指摘したのである。この提唱は、最近の社会史ブームの中で目されている〈マンタリテ〉(心性)の重要性とその把握の具体的方法を提示していたもので、西欧での労働史や社会史の研究動向といささか共通する問題を、ほぼ同時に意識していたと言えるのではないか。」(p.346) 私は、かような分析方法が1970年代初めにすでに二村氏により採られていたことに驚嘆せざるをえない。フランスアナール派社会史にあっては、事件史とマンタリテ=深層の歴史との関連づけはなされず、両者は乖離したままになっている。また、マンタリテという視角は、中世のような緩慢な社会変化の時代の分析には疑いなく有効性を発揮するが、激変的な上層の歴史をもつ近代の分析ではその有効性に疑義が生している現況のなかて、本書は、足尾暴動に関するこれ以上は発掘されないと思われるほどの徹底した第一次資料にもとづき、マンタリテと暴動という現代の事件史との関連性を実証的に明らかにしたのだから、それはアナール派の分析の上記2つの限界を突破したものであり、見事という他はない。
第1章「足尾暴動の主体的条件」は、丸山真男の「原子化された労働者」説の批判を、理論的には目的とする章である。暴動が発生する背景には、友子同盟と大日本労働至誠会が存在していたことが指摘され、それらの組織としての活動が詳述され、暴動は共同体から切り離された「原子化された労働者」が起こしたのではなく、組織的なものであり、「結社形成的」であったからこそ暴動を起こしえたとする。この点は、本書の核心である。「暴動の主な参加者は、徳川時代からの伝統をもつ坑夫のクラフト・ギルドともいうべき友子同盟に組織されていた人々であった。まったく未組織の労働者に暴動を引き起こす力はなかったのである。(丸山氏のように)〈非結社形成的〉であったから暴動を起こしたのではなく、むしろ〈結社形成的〉であったからこそ暴動を起こし得たのである。」(p.112) ついで、3日間にわたる足尾暴動の発生、暴動化、出兵・鎮圧の経過と事後処理(全員解雇・選別再雇用、賃上げ実施)が辿られ、さらに暴動の原因として、偶発説、至誠会教唆・扇動説、飯場頭主謀説が逐一検討され、前二者は多くの難点があることを資料的に提示し、著者は飯場頭主謀説が正しいと考えていることを示唆する。
第2章「飯場制度の史的分析」では、大河内一男の「出稼型論」批判を理論的には目的としている。1900年頃から採用された階段法という採鉱法が、飯場頭の作業請負の廃止をもたらし、かれらの労働管理の必要性を失わせ、地位を弱体化させたこと、すなわち、飯場制度は従来主張されてきたように強化されたのではなく、反対に弱体化したこと、その過程のなかで、飯場頭が挑発して暴動が生じたとするのである。第1章で示唆されていた飯場頭主謀説は、飯場制度の弱体化を採掘方法という技術過程の分析まで深めた第2章によって完結的に論証される。 このことは、第1章て明らかにされた、飯場頭の財政支配を象徴する「箱」の管理権が友子同盟に返還されることが決定された時点で暴動が発生した事実と整合的であり、説得的である。
第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」は、足尾の賃金水準や技術進歩を選鉱部門、製錬部門別に明らかにし、それらの労働の量的・質的変化を分析したものである。足尾の鉱夫が、絶対的に低い賃金ではなく、相対的には高い賃金を取得していたことを、他の職種や他の銅山の賃金と比較して明らかにしたことは、争議や暴動が「構造的な低賃金」から生じたとする、実証なしの従来の研究に対する批判になっている。
終章「総括と展望」では、この足尾暴動研究を労働史研究の潮流のなかに位置づけたとき浮び上ってくる問題点を提示する。それは、日本だけでなく諸外国の労働史研究まで比較検討する視野をもつものであり、労働史の史料に精通し、内外の諸研究についても該博な知識を有する著者のみが書きうる総括である。
以上のような内容をもつ本書を、以下この書評では、暴動史研究の視角から眺め、西欧の、とくにイギリスのそれと比較検討してみたい。それを試みるのは、日本の労働運動史や争議史という視角からの書評は、他で多くなされると推測されるからだけでなく、イギリス暴動史研究の到達点と二村氏の研究が、後述するように多くの共通点をもっているからである。以下、5点に整理して順次みていこう。
第1に、暴動の発生原因に関して。暴動の発生を経済的要因からのみ捉えるW.W.ロストウやT.S.アシュトンを別とすれば、多くの論者は暴動を多様な複雑な要因の絡み合いのなかで把握しようとしている。E.J.ホブズボームは、ラダイツ運動を電流に反応する動物のように描くことを批判し、その運動は、新機械の導入に反対した盲目的運動ではなく、「暴動による団体交渉」であったとしたことは周知のことであろう。そして、J.スティーブンスンやG.リューデは、食糧暴動は小麦価格の絶対的水準ではなく、価格の上昇率が急速であるときに起こったことを明らかにし、「相対的剥奪説」を主張する。このように、イギリス暴動史研究の現在の水準は、暴動を絶対的貧困状態、極度な低賃金水準、あるいは小麦の高価格といった経済的要因から直接的に起こった自然発生的・盲目的反抗として捉えるのではなく、経済的要因を考慮するさいにも「相対的剥奪」説をとり、自然発生性ではなくその組織性を強調する。そのことは、食糧暴動(18世紀)、機械打ちこわし(1810年代)、スウィング暴動(農業暴動−1830年)等々の暴動を、けっして犯罪者や失業者などマージナルな人々と結びつけて捉える伝統的な理解を批判し、「ふつうの人々」 ordinary people が暴動の担い手てあったと主張することでもある。本書も、足尾暴動を従来のように「経済主義的」に、単純に「窮乏」の結果生じたと捉えることを批判する。二村氏はいう。「もとより争議や暴動は〈胃の腑の問題〉という側面をもっている。足尾暴動をはじめとする1907年の一連の労働争議の主原因が、インフレによる生活困難にあったことは明瞭である。だが、〈信じられない悲惨〉な労働条件の下におかれれば、人々は必ず運動に立ち上がるというものではない。いかに飢えても、何らの運動も起こさなかった事例は少なくないのである。……いずれにせよ、経済的要因だけで暴動や争議の発生を理解するのは無理である。」(p.344)
つづいて、氏は、相対的剥奪と暴動の発生との関連を、つぎのように指摘する。「足尾暴動の検討によって確かめられたのは、賃上げ運動の担い手が労働者の中ではもっとも高給をとっていた坑夫であったことである。もちろん彼らも窮乏していた。しかし、その〈窮乏〉は食うや食わずといったものではなく、それ以前に、他職種の労働者に比べ、また他産業の労働者に比べて、相対的に〈豊か〉な暮しを経験した時期があったことを抜きには考えられないものであった。そうした相対的な豊かさが失われた時、あるいは失われそうになった時、何かのきっかけで、彼らは運動に加わったのである。」(p.344)
かくして、二村氏も、暴動の自然発生性を否定し、永岡鶴蔵、南助松が指導する大日本労働至誠会や、徳川時代以来の伝統をもつ自律的団体=友子同盟の日常的活動を重視する。永岡が暴動の発生を阻止すべく努力したのは事実であるが、「〈暴動〉そのものにしても、ある意味では、永岡のような組織者が、粘り強く労働者の団結訓練につとめた結果ようやく起きたもの」(p.337)であった。
第2に、暴動の選択性・合理性・正当性に関して。暴徒が敵の権力のシンボルに対して攻撃したこと、さらに、攻撃目標が選択的、合理的であったことは、暴動史研究が具体的に明らかにしたことである。そのシンボルは、監獄であったり(ロンドンのニューゲイト監獄(1780年)、バーミンガム暴動(1791年)、ブリストル暴動(1831年)等々)、トーリー所有の城であったり(ノッティンガム暴動(1831年))、市長舎であったりする。この悪玉の象徴化は、足尾暴動でも同様に生じ、鉱業所長・南挺三が、暴動発生3日目の2月16日、暴徒に襲撃される。この「権力に対する公然たる敵対行為」(P.74)の間、南は、床下に3時間余身を潜めるが、このときの南は、群衆が生みだした指導者が、無秩序な騒乱にならぬよう指導し、「……品物ヲ持テ行クノハ我々ノ採ラナイ処デ、名誉ニモ関スルカラ、品物ナドヲ持テ行ツテハイケナイ。而シ破砕ハ充分ニスル様ト云テ指揮シテ居リマシタ者ガアリマシタ」(p.74)と証言している。ここに二村氏は、「まさに百姓一揆の行動規範と共通するもの」(P.75)を見出し、南所長を「殴るにも手加減をしていた」し、「かなりの自制心をもって行動していたことも確かである」(p.75)という。この襲撃事件はその日午前11時頃以降、暴動の性格が変化・拡大する以前のことであるが、この暴徒は予想外に自制心が強かったとの指摘は、イギリス暴動史研究でも共通である。E.P.トムスンが、18世紀の食糧暴動を分析するさい、モラル・エコノミーの下で正当性観念に裏付けられた公正価格を求めたとしたのも周知のことであろう。暴動に蜂起した民衆は奪った穀物を公正価格で販売し、その代金を被略奪者に戻したといわれる。また、いささか我々の通念には反することかもしれないが、ラダイツのさいにW.ホースボールが殺された以外は、スウィング暴動でも、食糧暴動でも暴徒に殺されたものはいないのである。
第3は、暴動の保守的・防衛的・過去回帰的性格と慣習の継承性とに関して。イギリスでは共同体の規範community norms、伝統的価値、慣習的生活様式・水準が脅かされたとき、古きよき時代(「自由人たるイングランド人」という思想や「ノルマンの軛」の思想)ヘの回帰を理想にして蜂起したこと、そのさい過去の蜂起が語らいによって民衆の中に伝承されてきたことが潜在的な力として作用したことが、明らかにされている。前述したように、足尾でも友子同盟を単に前近代的組織として否定的に捉えるのてはなく、その積極的継承的側面、それ故、それが暴動の発生の重要な基礎となった点は、二村氏によって指摘されたところである。二村氏はそれをさらに一般化して、日本労働運動史研究が、従来、明治維新以後、それも日清戦争以降に限られていることを批判し、「工業化以前の社会における労働慣習や労働組織、民衆の価値観などが、工業化後の組織や運動に及ぼした影響の検討などほとんど問題にされたことがない」(p.352)と指摘する。イギリスでも、労働組合とギルドの非連続性を唱えたウェッブの理解が永年学界の支配的見解であったが、最近は、ギルドからの労働組合への継承性を、すなわちブレンターノの理解をより実証的な史料にもとづいて再評価することが進行している。明治維新の前と後で、ほとんど研究者の間でも交流がなく、百姓一揆と労働者の暴動や米騒動の研究が分断化されているわが国学界の現状、いいかえれば、暴動史というジャンルが成立していない現状のなかで、二村氏が従来軽視されてきた「労働者の主体的要因を考える上での重要な論点として、前近代社会から引き継がれた伝統の問題」(p.350)を提起したことを、我々は今後の課題として受けとめねばならないだろう。前述の南所長を襲った暴徒の指導者が、「飲み食いは自由だ。充分破壊せよ、しかし盗むな」と指示したところには、たしかに百姓一揆の行動規範と共通するものがあるし、また、至誠会の演説のなかで永岡が「昔ノ佐倉惣五郎ハ逃支度ヲシナイ」(p.59)と語っていることも、ある意味では義民伝承が生きていたことを示している。後者の引用については、本論の中で論じられていないが、今後さらに深められるべき課題であろう。
第4は、暴動弾圧に関して。イギリスでも1830年代までは、警察機構は完備されず、迅速に弾圧できる体制にはなかった。また、警察や治安部隊が出動したさいには、暴徒は、国王がかれらを守るにちがいないとの確信から、警察や軍隊の到着を歓迎することすらあった。足尾でも、暴動発生の2月4日の朝は警官20名足らずであり、午後50名急派。しかし、翌5日県警察部が本格的に動いたが、宇都宮から足尾までは8−9時間近くかかり、警察は無力であった。ついに6日午前、出兵要請がなされ、300名が7日午後足尾に到着し、鎮圧する。628名検挙、182名起訴(p.81-82)。だが、ここでも死傷者はきわめて少ないのが特徴である(死者1名は、酔って火に呑まれたものと推定)。
第5は、暴動の与えた影響に関して。一般に暴動に対して、労働組合運動の指導者がとった態度は否定的であり、暴徒とは一線を画していた。1831年のブリストル暴動のさいには、T.アトウッドを理論的指導者とする「政治同盟」に当局は秩序の回復を求めたし、同年のノッティンガム暴動のさいにも、著名な労働組合指導者G.ヘンスンが、法と秩序を維持すべく、内務大臣と連絡をとっていたのはその顕著な例である。足尾のばあいは暴動鎮圧10日後に開かれた日本社会党第2回大会で、幸徳秋水が足尾暴動の自然発生性を高く評価し、支配階級を戦慄せしめたことを強調するが、二村氏によれば、「幸徳は実際に労働者の階級的自覚を喚起するということが、どれほど根気のいる仕事であるか分かっていなかった」(p.337)し、幸徳らは永岡鶴蔵ら至誠会の指導者が暴動発生阻止の必死の努力をしたことを看過している。暴動後ただちに賃金は20%引き上げられたが、全員解雇され、選別再雇用されるさいに、組合に入らないとする「誓約書」を提出させられた。さらに至誠会足尾支部は壊滅し、友子同盟も自主性を喪失し飯場頭の支配下に組みこまれる。しかし一方では、足尾暴動はたしかに支配階級を震憾させ、また、新聞等により他の鉱山にも伝播し、争議を連鎖的にひきおこしていった。暴動が、一方では労働組合などの組織に被害を与えるが、他方ではたとえ短期間に鎮圧されても、支配階級を震撼させたことは、イギリス暴動史でもしばしばみられることである。
このようにみてくると、本書の足尾暴動の分析とイギリスの暴動史研究の到達点との間には驚くべきほどに共通点があることが明らかになる。それが研究対象の類似性によるのか、あるいは研究方法の類似性によるのかは微妙な問題であるが、ともあれ著者が、わずか3日間の暴動の分析に30年の歳月をかけたのは、この足尾暴動の中に、労働問題分析の諸論点が凝縮しており、それらをひきだすことが「労働者の社会史」を構築することだと確信したからに他ならない。私は永かった「青春」を享受しつつ終えられた著者に、つぎの作品の出現をも強く期待するものである。