《書評》

二村 一夫 著

『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』


評者:三宅 明正




1 「足尾暴動の基礎過程」はどのように読まれてきたか

 本書『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』のもとになった諸論文のうち、最も初期の作品は、「足尾暴動の基礎過程──〈出稼型〉論に対する一批判」で、これが二村氏の足尾暴動研究の直接の出発点である。論文「足尾暴動の基礎過程」は、1959年の発表以降、今日に至るまで、実に4半世紀を越えて、日本労働史・日本労働問題研究を志す者の必読文献としての位置を占め続けてきている。では、「足尾暴動の基礎過程」は、いかなる理由でそうした位置を占めたのであろうか。

 「足尾暴動の基礎過程」が発表された当時、日本労働史・日本労働問題研究で圧倒的な影響力をもち、ことに戦前期日本労働問題の全領城にわたる通説、基本的な考え方とされていたのは、大河内一男氏の「出稼型」論であった。すなわち、一国の労働運動・労働問題は、その国の労働力の特質=型によって基本的に制約されるものであり、労働力の型は基盤としての経済構造に規定される。日本の労働者は前近代的な農家経済と結びつきをもっており、ここから労働力の日本的特質として「出稼型」が成立する。構造的な低賃金、劣悪な労働条件、身分的な労働関係、縦断的労働市場、企業別労働組合、労働者意識の前近代性など、日本の労働問題の特徴は全てこの「出稼型」によって説明可能であり、また、「出稼型」は日本資本主義の全歴史を貫通するものとしていよいよ固定化しつつある、と。
 「出稼型」論が、1940年代後半から50年代前半にかけての膨大な過剰労働人口と農業就業人口の大きな比重を前提にして書かれたことを重視し、現在からみて「当然、その古さが目立つ」(神代和欣『日本の労使関係』1983年、有斐閣)とするのは、たしかに「当然」であろう。ただし、同時に「出稼型」論がもっていた、方法的・実証的難点を追究することを欠いては、この論を乗り越えたことにならないことも「当然」であろう。
 「出稼型」論に対しては、二村氏の「足尾暴動の基礎過程」が発表される以前から、すでにいくつかの批判が存在した。ある論者はそれが「型」の固定化を通じて宿命論的な性格を強くもっていることを指摘(大友福夫氏他)し、また農村がその余剰人口を1920年以降コンスタントに排出し続けてきたことをあとづけた研究(並木正吉氏)も発表されていた。
 しかし、何が「出稼型」論を宿命論たらしめているのかを方法的に明らかにし、その批判をふまえた方法によって日本の労働運動史の様態を具体的に実証した研究としての第一弾となったものこそが、この「足尾暴動の基礎過程」に他ならなかったのである。
 1970年代前半期までの日本の労働問題研究を文字どおり総括した中西洋『日本における「社会致策」・「労働問題」研究』(1977年、東京大学出版会)は、「足尾暴動の基礎過程」をつぎのように論評している。

「戦後『労働問題』研究史上において、かかる意味での史的アプローチの決定的優位を明確化した労作」が「足尾暴動の基礎過程」であり、「ここでこの気鋭の歴史家によって解明された史実は、戦後日本の『労働問題』研究の方法を根底からゆるがすに足りるものであった」、と(181頁)。

 実際、「足尾暴動の基礎過程」によって、「出稼型」に規定された「奴隷制的飯場制度の強度な支配」がその苛烈さを増し労働者の耐えがたい状況に至ったとき、彼らは自然発生的に暴動化へと赴いたのである、とする当時の通説的な理解とは逆に、生産技術の変容に伴う1900年前後以降の飯場制度の弱化の中で、飯場頭と坑夫との間の矛盾が激化したこと、そのために暴動が「起り得た」ことが明らかにされたのであった。そして、「出稼型」論がこうした事実を見出しえなかったのは、労働市場の一特質である「出稼型」を不当に普遍化したためであり、それが「労働力の主要な存在の場は資本の支配する生産過程にある」ことを無視したがゆえに宿命論に陥ったことが指摘され、ここに「出稼型」論は、理論体系としての破産を余儀なくされたのである。
 だが、このような「足尾暴動の基礎過程」にももとより問題がなかったわけではない。中西氏は前述した部分に続けて次のように述べている。「しかしながら、この二村氏の場合においてもなお、〈史的分析の方法〉が明確に提示されたというわけではなかった。……二村氏にあっても、『足尾暴動』の分析と『足尾暴動の基礎過程』の分析とは、方法的に統合化される見通しをもちえていない。……『生産技術』の『労働組織』への規定性は……労働者集団のあり方によって決して一様ではありえないし、またそもそも『生産技術』の革新自体が労働者達のあり方をも含んだ種々の条件とのかかわり合いで現実化するのである。この点を充分方法的に整理することのないまま、『生産技術』を基点として『基礎過程』を説くことは……危険をはらむ」(182ー183頁)と。
 中西氏のこの一文は、「足尾暴動の基礎過程」に対する鋭い批判として二村氏自身が認めていたものである。実際、本書『足尾暴動の史的分析』の「はじめに」vi頁には同文が引用され、続けて二村氏は「この批判に対しては、足尾暴動を、その〈基礎過程〉だけでなく、〈暴動〉そのものについて分析し、両者を統合的に提示する仕事によってしか応えようがないことは明らかであった」と述べている。本書がこの批判に応えることをその一つの目的にしていることは、本書の構成、第1章「足尾暴動の主体的条件──原子化された労働者〉説批判」、第2章「飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する一批判」、第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」からも、明らかである。基礎過程を軸に、「足尾暴動」という争議そのものを分析した作品として、二村氏は本書を世に問うたのである。


2 争議研究の意味と方法に即して

 ここで、やや広い脈絡で、本書を日本労働史研究に位置付ける場合、方法としての争議研究の意味ということが問題となろう。
 1971年、日本労働運動の歴史研究を総括するために執筆された論文「労働運動史(戦前期)」(労働問題文献研究会編『文献研究──日本の労働問題』増補版、総合労働研究所)のなかで、研究史上の流れが労働組合研究から争議研究へと移ってきていることを述べた上で、二村氏は次のように主張した。

「労働争議においては、労働組合の日常活動の記録からは容易にうかがえないさまざまな矛盾が顕在化するのであり、争議を研究することによって組合の日常活動も動態的に分析することができる ……とりわけ、文書による記録を残すことがまれな活動家や一般組合員、あるいは組合にも参加しない労働者の意識、思想をさぐる手だてとしては、彼等の行動そのものを手がかりにする他はない……労働争議は、日本労働運動史の特質を解明するための最も豊かな鉱脈としてわれわれの前に残されている。問題は、それを掘りあてる方法にこそある。……研究を前進させるためには、各時期における代表的な争議についての徹底的な事例研究による他はない。これには……一経営を対象に、その資本蓄積の運動にともなって変化する労資関係の具体的な存在様式を解明することが必要である。このことによって、争議の当事者の性格、特質を解明することが可能になる」と(301頁)。

 この一経営を対象とする争議研究の必要性という提唱は、一定数の研究者の間に強く受け入れられ、争議研究、ことに具体的な個別の争議を対象とした労資関係の史的研究は、急速に日本労働史研究の主潮流の一つになるまでに至ったのである。

 では、争議研究の方法という点でみて、本書はどのような意味をもっているのであろうか。
 まず第1に、争議における主体的な要因の重視である。本書第2章のもととなった「足尾暴動の基礎過程」は、文字どおり争議の基礎過程、すなわち争議を可能にした条件、背景の説明であった。そしてまた、前述のように中西氏の批判は、「基礎過程」のつきとめ方と、基礎過程と争議そのものをどう統合化するか、にあった。本書第1章──この章が本書の中で最も新しく執筆されている──は、暴動に至る経過、暴動そのものの展開過程と、特徴を述べたものである。そしてそこでは、金属鉱山坑夫の間で、徳川時代から続いてきた自主的な同職団体としての「友子同盟」が争議において果たした積極的な役割が、きわめて実証的に明らかにされている。すなわち、足尾銅山──足尾にとどまらず全国各地の金属鉱山はほぼ同様であろう──の坑夫たちは、友子同盟という歴史的伝統に根ざした「自律的な団体」を有しており、これによって「日常的に会合し、代表者を選出し、自分たちの要望を坑夫の総意としてまとめ、全員で行動することが出来た」のであり、また、足尾で労働者の自主的な運動がおこる上で重要な役割を果たしたものに、永岡鶴蔵や南助松らの大日本労働至誠会があったが、こうした坑夫出身の労働運動家が生まれた背景には、友子同盟の伝統があったのである、と。
 争議における坑夫らの直接の要求は、賃金の増額であった。ただし、暴動が始まった契機は、危機感を抱いた飯場頭の、至誠会と坑夫への挑発的行動(通洞坑内の見張り所襲撃事件)と推測される。すなわち、友子同盟の会計で、当時飯場頭がその管理権を握り坑夫に対するピンハネの手段となっていた「箱」を、おりから至誠会の影響を受けた友子同盟の山中委員が自分たちへ返還させるべく求めており、飯場頭らは、これでは飯場の経営が成り立たなくなると、危機感を抱いたのである。そして、飯場頭が配下の坑夫から公然と攻撃を受けるに至った背景には、生産過程の技術的改変に伴い、飯場頭がかつて有していた作業請負の権限を失い、配下の坑夫に対する支配力を弱め、坑夫たちとの矛盾を激化させていたことがあった。

 このように、本書では、争議が可能となった条件、背景と、争議それ自体との連関が、争議主体、ことに一つのまとまった単位をなす労働現場(より一般化すると「職場」)の次元における、活動家層および一般の坑夫たちの行動に焦点をあわせていくことで、くっきりと浮かびあがっているのである。

 第2に、研究の現時点における個別実証研究の意義の確認である。争議研究が日本労働史の有力な一潮流になるに至る過程で、これに対して加えられた最も大きな批判は、争議研究が個別実証研究になりがちで、それでは日本労働史の「全体像」を描くことはできない、というものであった。 もちろん個別実証研究といえども、各研究主体が何らかの「全体像」を背景に有するがゆえに、どの事例をいかなる視点と方法で検討するかを問題にしているのであり、「全体像」と無縁な個別研究などありうるはずもない。
 だが本書が明らかにしているのは、批判者らのいう意味での「全体像」を描きうるほどには、実証──というより、事実に基づき吟味された知識の集積──が現時点におけるわれわれの眼前には、十分に存在してはいない、ということである。

 一、二の例をあげよう。近代日本の鉱山業発達史においては、囚人労働の役割を大きくみるのが常である。論者によっては、これこそが鉱山業の「基底」であったとすら評している。しかし本書によれば、囚人労働は、最盛期においても全国炭坑・鉱山の労働力の2.6%にとどまっており、しかも三池など特定の炭坑に集中する傾向をみせていた。もとより近代鉱山業の黎明期において囚人労働が用いられたことの意味や、その労働条件の苛酷さは、十分に考慮され強調されなければならない。しかしそれらが実態を越えて一般化されるとすれば、いうまでもなくそれは不適切であり、そうした不適切さを是正するのは個別的な実証研究の深化をおいて他にない。
 もっと直接に争議に関する例をあげよう。足尾暴動における坑夫らの主要求=賃金増額要求の、背景・意味はどのようであったのか。二村氏は、争議の先頭に立ったのは、最も窮乏した最底辺の労働者ではなく、相対的に「豊か」な労働者であった、と論じている。そもそも足尾の労働者自体が、他の金属鉱山に比べれば、ことに1880年代には相対的に「豊か」な労働条件のもとにおかれていた。それは、急速に生産規模が拡大されたとき、他の鉱山に比して高い賃金を払うことで、必要な労働力を確保せざるをえなかったためであった。しかし、必要な労働力が確保された後は、賃金の上昇は抑えられた。これに国際商品としての銅の価格変動の激しさ──相場低落時には賃金が低下する──という事情が加わり、労働者は生活水準において不安定な状況へと追いこまれた。物価騰貴ともなると、彼らの不満は激化し、運動参加への要因となったのである。「窮乏」は争議の大きな要因であるが、それはけっして「奴隷的」労働条件による「窮乏」ではなく、このようにいったんは「高い」水準で形成された消費と生活のあり方に深くかかわっていた。こうした把握と理解は、疑いなく、個別の実証を積み重ねることでしか、見えてはこないものであろう。

 第3に、労働者意識の特質把握である。二村氏は足尾暴動において、坑夫らの間に「差別に対する怒り」が深かったことを強調している。暴動の際、坑夫らの攻撃目標となったのは、所長をはじめ坑部課長、庶務課長といった鉱業所のトップレベルから採鉱方、見張方など一般に「現場員」とよばれた下級職員に至るまでの人々であった。ではなぜ坑夫らは彼らを攻撃したのか。それは、現場員らが坑夫の賃金決定に大きな権限を持っていたのをよいことに、賄賂を強要するなど不公正な行為が多かったためである。
 戦前の、ことに第一次世界大戦前後の日本の鉱工業では、労働者の昇級や昇格をめぐり、職長や下級職員らが賄賂をとるケースが多かったことは、よく知られている。もっとも、足尾銅山の場合、賄賂の問題はとくに深刻であった。二村氏は、その主な原因を採鉱夫の賃金が各切羽ごとに予想掘進延長と予想採鉱量を組合せた複雑な出来高制であったためであるとし、賄賂の有無、多寡により坑夫の実収が大きく異なってきたことを論じている。
 端的に言ってこの暴動は、坑夫らの職員に対する制裁行動であった。そして同じ職員のなかでも、まず、労働者出身の下級職制が「暴行」の対象となった。それは、現場員が賄賂を強要する存在だったからであり、同時に、とくに採坑方や見張方が、本来は坑夫らと同じ階層に属していたのに、「役員」となった途端に威張り出し、「労働者」を見下す態度をとったためであった。「このような『身分的差別』によって日常的に欝積した憤懣、怒りが彼らを衝き動かし、暴動に駆り立てたのである」。職員には「内地米」を販売しながら、坑夫らには「南京米」しか売らない、などの鉱業所の施策に対し、労働運動家らが訴えた「南京米ノ改良」についての要求が、坑夫の間に大きな反響を呼んでいた事実も、同様の脈絡で理解しうる事象である。
 この「差別に対する不満」は、二村氏が再三にわたって強調しているとおり、戦前(十五年戦争以前)、さらには戦後そして現在にいたってもなお、日本の労働者のメンタリティーを理解するための最大のキイワードの一つである。研究史上では松沢弘陽氏らにより日露戦後に即して指摘されだした、この「差別に対する怒り」の実情が、本書において具体的な、それもそれこそ名も残さない労働者大衆の意識と心理の問題として、明らかにされた意味は大きい。




3 本書の視点と内容

 ここで本書の概要を紹介しよう。
「はじめに」では、本書の構成とその意味がまず説明される。 すなわち「暴動そのもの」が追究されているのは、第1章であり、第2章および第3章は、「暴動」について調べるなかで生まれた「疑問を解くため、その歴史的背景を追究したもの」である、と。
 そして、各章が発表された際、最も主要な批判対象とされた研究が紹介され、ついで第2章に対する中西氏の評価と疑問、争議研究の意味の再確認がなされ、「本来ならば全体を再構成」するつもりであったこと、しかしそれが「もともと問題別の独立論文として書き、しかもいずれも論争的な形式をとったため」困難であったことが述べられている。ここにも記されているとおり、本書全体がそうであるように、各章もまたきわめてポレミークな性格をもっている。すなわち、第1章では丸山真男氏が、第2章では既述のとおり大河内一男氏が、第3章では隅谷三喜男氏・黒川俊雄氏ほか当時の金属鉱山の労働条件に関する「通説」的理解を有する者が、批判対象とされ、全体を通じては、友子制度・飯場制度など労資関係の「機構」と、戦前期日本の労働諸条件全般について大きな影響力をもつ山田盛太郎氏が、「敵手」とされている。

 ちなみに、二村氏も本書で記しているとおり、学問研究における「敵手の偉大さ」について氏に多大な影響を与えたのは、石母田正氏であった(viii頁。なお、この石母田氏における「敵手の偉大さ」に関しては、『図書』1988年10月号8頁に、石母田氏の学問の体系性を「敵手」と絡めて述べた石井進氏の興味深い発言がある)。続く「序章 暴動の舞台・足尾銅山」では、当時の足尾銅山の様相が、概観されている。

 第1章「足尾暴動の主体的条件」は副題=「原子化された労働者」説批判、が示すとおり、従来鉱山暴動の特徴の一つとされてきた「自然発生的抵抗」説を克服しようとしたものである。大きくは、大日本労働至誠会足尾支部の結成状況、暴動と続く詳細な検討の結果、暴動に至る過程において、前近代以来続いてきた金属鉱山坑夫の自主的な同職団体である「友子同盟」が、そこでは大きな役割を果たしていたことが実証されている。これは、伝統的な近代ヨーロッパ観に基づいて日本の労働者ないし民衆をとらえようとした丸山真男氏の見解──この期の鉱山暴動は「絶望的に原子化された労働者の欝積した不満の爆発」とする見解に、事実として、そして方法において、重大な見直しを求めるものとなつている。狭義の歴史学の世界において、幕末維新期から近代化過程における民衆のありようを、民衆(農民)自らの思想に内在化して見直そうとした研究には、安丸良夫氏らの作品があるが、本書は金属鉱山という限定されたものではあるが、伝統的な、そして日常的に意味を有する組織それ自体の「見直し」である。二村氏は、争議突入に至るまでの大日本労働至誠会足尾支部と友子同盟、そして飯場頭らの関係を立体的にとらえている。ここから、飯場頭から相対的に自律した坑夫らの集団的な行動の根拠が説明される。それにしても、「友子同盟」に対する旧来の解釈を考えると、本書で明らかにされた「史実」は一八○度これを覆すものに近い。この点は後述する。

 なお、第1章で、二村氏においていま少し説明を要したのではないかと思われる点が2つある。1つは、至誠会結成に先立つ組織である「大日本鉱山労働会」と至誠会との関係である。労働会の方は通洞坑のみの組織であったが、両者の関係についていったいどの程度まではっきりしうるのかは、明示されてよいのではないか。もう1つは、坑夫らが要求を提出するに至る内的な過程で日露戦争の体験がもっていた意味があるのではないか、ということである。これは1906・07年の大企業の争議について考える際、落とすことの出来ない論点と思われるのだが、史料上の制約もあろうが、論及されてしかるべきであったのではないか。

 第2章「飯場制度の史的分析」については、すでに述べたとおりである。内容的には飯場制度の歴史的変化が扱われており、その生成と変容の過程が具体的に明らかにされている。補論として「飯場頭の出自と労働者募集圏」「足尾銅山における囚人労働」が収められている。「飯場頭の出自と労働者募集圏」では、寄留者の間に地域的な偏りがみられることを指摘し、足尾銅山において、特定の地域に重点的に形成された求人網があったことが推定されている。

 第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」では、足尾銅山における賃金水準が相対的に高かったことがまず明らかにされ、ついでその理由が、主として技術上の問題と、他企業との競争に即して述べられている。選鉱部門、製練部門、そして採鉱部門のそれぞれに即して、技術的変化と労働の質的・量的変化が詳細にあとづけられ、争議にかかわっては次のようにまとめられる。すなわち、日露戦争後、坑夫の間で賃上げ運動が発展した最大の理由は、この時期にその実質賃金が同じ足尾の他職種の労働者と比べても大幅に低落していたことであった。足尾坑夫の実質賃全低落をもたらした主要因は、特殊的には1897年以降、古河の経営政策が、「進業専門」の積極政策から、長期にわたって安定的に利益を確保することを狙った「守成の方針」に転換したことであり、一般的には日露戦争後の物価騰貴であった、と。なお本章では他に、例えば、いわゆる足尾鉱毒事件についても、その主原因が粉鉱にあるとするなどの、興味深い指摘もおこなわれている。




4 疑問点

 本書の最大の特徴は、その論争的性格と、実証上の精度の高さにある。批判対象とされた諸見解には、本書で明らかになっている「史実」をふまえての反批判が容易でなく思われることが多い。また規模は小さくないとはいえ一事業所の労資関係史、あるいは経営史としてみても、この時代を対象とした研究で本書のように詳細なものは、ほとんど例がなかろう。しかし、こうした本書にあってもなお疑問と思われる点がないわけではない。
 その第1は、友子同盟と飯場制度との関係である。山田盛太郎『日本資本主義分析』のように、納屋制度・飯場制度と友子同盟を事実上すべて一緒にし、かつその強固な存続を説いた議論に対し、まずはそれらが歴史的に変化するものであること、そして友子同盟が坑夫らの自立のより所となっていたこと、を本書は明らかにしている。しかしそこで後景に退いたのは、友子同盟と飯場制度の関連であるように思われる。両者には、補完的な役割というものはなかったのであろうか。たしかに足尾における友子同盟は坑夫仲間だけの組織であったし、その委員は飯場頭のように職務上の権限をもってはいない。しかし、友子同盟に集まる坑夫と飯場頭の「対抗」──それが暴動勃発にいたる過程では主要な線になるのだが──のみが強調されると、かえって見えなくなってしまうものがあるのではないか。実際、暴動開始後は坑夫と現場員・鉱業所当局との「対抗」が基軸となり、そこでは飯場頭がどのように行動し対応したのかは、ほとんど隠れてしまっているように思われる。
 二村氏はこのことにかかわって次のように述べている。

「友子同盟は親分・子分的関係を基本としていただけに、飯場頭がその主導権を握ることが容易であり、友子同盟はしばしば飯場頭の支配を補完する機能を果した。ただ、飯場頭が鉱業主との関係で相対的に自主性を保ち、鉱業主と対立的な関係にあった場合、あるいは暴動前の足尾銅山のように一般坑夫の代表が友子の運営に力をもった時は、経営者と対抗しうる存在となったのである。決定的なことは、友子同盟の運営の主導権を誰が握り、それが経営側といかなる関係に立つかであった」(121頁)と。

 大筋ではこのとおりなのであろう。しかしにもかかわらず友子同盟をこれほどニュートラルなものとみることは適切であろうか。もしそうだとするならば、足尾における飯場制度と友子同盟それ自体の関係がいま少し追究される必要があったのではなかろうか。
 第2は、「前近代社会の遺産」とされる点についてである。すでに見たとおり友子同盟が暴動に至る経過において果たした役割は大きく、また争議時における労働者の行動様式や価値観には近世末期における一揆と同様の行動規範がみられたこと、差別に対する怒りからは労資双方の対立点を明確化して解決点を求めるより情緒的な和解で対立を緩和させる傾向があること、労働者が自己の正当性を自然権ではなく実定法に求めたこと、などを二村氏は指摘し、労働者の主体的要因を考える上で前近代社会から引き継がれた諸々の伝統を考えるべきである、としている。もとより現象的には人間的関係としての「労資関係」は、労働者側の要因のみによって形成されるものではない。ここで二村氏が指摘する諸特徴も、労と資双方のそれぞれ、および両者の関わり方が有した「伝統」に根ざしたもの、と見るべきであろう。それにしても、氏はこの「前近代社会の遺産」の検討が氏の今後の課題であるとされるのだが、そうすることによってかえって、日本の労資関係──というより日本の労働者の価値観・行動様式など彼らの主体的な側面──の、足尾暴動時点での特徴が後景に退くことになってしまったのではないであろうか。 また、単に言葉の問題であると思われるかもしれないが、「前近代社会の遺産」という発想方法には、氏自身が批判された「出稼型」論にある「宿命論」的な陥穽の余地が必ずしもないとは思われない。もっともこうした点は、氏への疑問というよりも、本書の切り拓いた地平に依拠しながら研究を進めていこうとするわれわれ後学の課題である、と正確にはいうべきものなのであろう。






みやけ・あきまさ氏は、本稿執筆時は千葉大学教養部助教授、現在は千葉大学文学部教授

東京大学出版会、1988年5月刊、366+xiiiページ、5,400円、ISBN 4-13-020084-4

初出は、『史学雑誌』第98編第12号、1989年12月



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