本書は、書名からもわかるように、1907年(明治40年)2月に起きた足尾銅山における鉱夫の暴動についての研究である。
周知のように足尾銅山は、日光の近くにある銅山で、1875(明治8年)に古河市兵衛によって再開発され、1883年(明治16年)頃から大富鉱をさぐり当て、その後西欧技術を導入して近代化をはかり、文字通り日本一の銅山として名を轟かせた。それ故、1907年に暴動がおきた当時の足尾銅山は、産業革命下の日本鉱山業における代表的な大企業であっただけでなく、日本資本主義を代表する大企業の一つでもあった。
本書は、単に足尾銅山の暴動についての研究ではない。足尾銅山の鉱夫の暴動の研究を通じて、明治後期における産業革命下の鉱山あるいは資本主義的大企業における労資関係の基本的な構造を分析しようとしたものである。
方法論上の問題として、一鉱山の労資関係の分析が、鉱山業一般の、更にいえば日本資本主義一般の労資関係の分析としてどの程度有効性をもつか、という問題がある。後に詳しく紹介する内容から明らかなように、私にいわせてもらうなら、本書の基本的特徴は、足尾銅山の個別的な労資関係を徹底的に実証的に分析することに努力がなされているということである。
それは、著者が25年前に本書の第二章をもって学界にデビューしたころ支配的だった、あるいは今日もまだ多分に残っている徹底した個別研究もなしに、日本の労資関係を安易に一面的に、抽象的に、図式的にあるいは独善的に一般化したり理論化したりする傾向に、著者が厳しい批判的立場をとっていたからであろう。私は、本書のすばらしさは、後にみるようないくつかの労働問題上の理論命題を批判の俎上にのせて、足尾銅山の鉱夫の暴動とその背景を徹底的に実証的に分析することによって、何人も否定できない具体的事実によって批判を成功的なものにしていることであると思う。もちろん本書は他人の説を批判しているだけではない。著者は、常に足尾銅山の個別的特殊性を考慮しつつ、批判に代わって一般的な自説を見事に展開している。
本書は、次の五つの章からなっている。
1)序章 暴動の舞台・足尾銅山
2)第一章 足尾暴動の主体的条件──〈原子化された労働者〉説批判
3)第二章 飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する批判
4)第三章 足尾銅山における労働条件の史的分析
5)終 章 総括と展望──労働史研究の現地点確認のために
この章別編成をみる限りでは、著者の足尾銅山の暴動の分析の方法や叙述のスタイルは、ちょっとわかりにくい。それは、本書が、足尾銅山の暴動の分析のために書き下ろされたものでなく、著者が、かなり長い期間をかけて、書きためてきたものを、一冊の本にまとめたものであり、その際に全面的な書き変えができなかったからであろう。しかし本書のメリットは.叙述構成の外見上のわかりにくさやまずさによって少しも損なわれることはない。本書のメリットは、問題ごとの徹底した実証的分析方法にあるからである。
本書の直接的な課題は、足尾銅山の暴動が従来考えられていたように「組織をもたず経済的に窮乏した労働者による自然発生的な反抗」(大河内一男)、「苛烈な原生的労働関係と奴隷的飯場制度の強圧的な支配」が「労働組合の力をもってしてはコントロールできない」で「惹きおこ」された「暴動」(大河内一男)といった説、あるいは「絶望的に原子化された労働者のけいれん的発作」(丸山真男)にすぎなかったとする説を具体的に批判することである。
さて第一章「足尾暴動の主体的条件」は、足尾銅山の鉱夫が暴動を起こすまでに至った事情と暴動そのものの過程を、一級の資料を詳細に検討することによって分析している。著者は、この分析によって、まず第一に、足尾銅山の鉱夫が、組織をもたない、絶望的に原子化された労働者でなく、暴動に先立つ数年前から永岡鶴蔵という先進的鉱夫によって労働組合に組織され、暴動の直前には、大衆的な待遇改善運動を成功的に進めるまでに主体的に成長していたことを明らかにしている。
第二に、その鉱夫の労働組合運動は、日本の鉱山に徳川期から存在していたクラフト・ギルド的な鉱夫の伝統的組合である友子(氏は友子同盟と呼んでいるが、これには少し問題がある)を基盤にして行われたこと、そしてこの友子は、暴動直前には、労働組合の働きかけもあって、従属していた飯場制度から自立して、労働組合と並んで、労働組合のように、待遇改善運動に立ちあがったことを明らかにしている。二村氏は従来飯場制度と同一視され、鉱夫の収奪・抑圧機構とさえみなされてきた友子が、時として労働者的性格を持ち、一般的にも労働組合活動の基盤となっていたことを、わが国ではじめて実証的に主張した。
もっとも本書においては、この注目すべき友子についての論述は、後にみる飯場制度の分析に比較されるほど充分ではない。たまたま私は、この7月に友子制度を全面的に分析した『日本の伝統的労資関係──友子制度史の研究』(世界書院)を出版することになっているので、二村氏の友子論を補う意味で、拙著を参照していただければ、二村氏の友子論が一層明確になると思われる。
第三に、著者は、足尾銅山の暴動が、貧しくて絶望的な労働者によって自然発生的に起こされたのではなく、労働組合による待遇改善運動の成功的な展開、とくに飯場制度に従属していた友子(とくに山中委員と呼ばれる友子の役員層)が自立して、飯場制度の傾向を強めたことに脅威を感じた一部の飯場頭らによって、謀略的に起こされた可能性が著しく強いことを明らかにしている。またそうして起こされた暴動には、労働組合は批判的であり.しかし日頃の下級職員や社員へ強い不満をもった採鉱夫たち(これは友子のメンバーであり、中には労働組合のメンバーもいた)が参加してしまった事実をも明らかにしている。
第二章は、「飯場制度の史的分析──〈出稼型〉論に対する一批判──」と題し、足尾銅山の鉱夫の雇用関係の特質を分析している。本章は、もともと25年前に発表された時には「足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に関する一批判──」と題され、著者の足尾銅山暴動研究の最初の論文であり、かつ氏の研究上の処女作であった。この論文は、若い著者が当時支配的であった大河内理論を批判して、自らの独自の日本の労働運動史研究の方法論を提示しようとしたものであり、そして労働問題研究史において高い評価を得ていることは、よく知られていることである。
ここでは、それらの問題に入っている余裕はないので.先に進もう。第二章の意図は、かつて労働問題研究の全般にわたって大きな影響力をもった大河内一男氏の出稼型論、すなわち日本の労働運動、労働問題は、出稼型と呼ばれる労働力の特質に制約されるという見解、足尾銅山の暴動についていえば、「苛烈な原生的労働関係と奴隷的飯場制度の強度な支配」が「労働組合の力をもってしてはコントロールできない」で「惹きおこ」された、とみる見解に全面的に批判を加えようとすることにあった。
著者は、本書で第一に、足尾銅山の飯場制度を分析し、飯場制度が奴隷的なものではなく、また飯場制度下の鉱夫が必ずしも苛烈な原生的労働関係にあるのではないことを明らかにしている。すなわち、飯場制度は、全体として鉱山資本に支配され、資本に代わって一定の独自性をもちつつ、労働力の確保、作業請負、賃金管理、鉱夫の日常生活管理を請負う制度であり、一言でいえば「産業資本に包摂された請負制度である」ことを明らかにしている。
第二に、著者は、飯場制度は、出稼型論のように労働市場によって根拠づけられるのではなく、労働運動・採鉱部面における採鉱夫の手作業によって規定されるべきであると主張する。すなわち足尾銅山のような近代鉱山における飯場制度の必然性は、採鉱部面における作業の性質が、資本による直接的労働の指揮監督に代わって、飯場頭による作業請負を必然化したことにある、というのである。
第三に、足尾の暴動の原因に関連していえば、飯場制度の奴隷的抑圧に耐えかねて鉱夫が暴動をおこしたのではなく、むしろ飯場制度が弱体化し、採鉱夫の主体性が強化される程度で暴動が起きたことが、明らかにされている。とくに飯場制度の弱体化は、伝統的な採掘から手作業だが西欧式の階段掘による採鉱の計画化、大型化が進展し作業請負が廃止され、資本の管理強化によって生じたと主張されている。
もっとも飯場制度を少々研究している評者からみると、著者の飯場制度論は、発表当時は画期的意義をもつものであるが、今日からみると、少々実証牲に欠け、それ故論理的にも少々あいまいさを残してはいないか、という感じがする。例えば、氏が飯場頭による作業請負という場合、それが具体的にどういうものか必ずしも明らかではない。この点は、本書の数少ない弱点のひとつではないかと思う。
第三章は、「足尾銅山における労働条件の史的分析」と題し、足尾銅山の鉱夫の広い意味での労働条件(鉱夫の賃金、労働力の質、労働過程、労働市場、経営政策)の分析を通じて、足尾銅山の鉱夫の労資関係を立体的に分析して、暴動の客観的な原因を明らかにしている。
第一に著者が、本章の分析で力説しているのは、足尾の暴動は、構造的に低賃金の鉱夫が、飯場制度のピンハネや物価騰貴によって一層窮乏し、絶望的に反抗したために起こったのではなく、むしろ相対的に高賃金の採鉱夫が参加しておきたのであり、それに先立つ労働組合、友子の賃上げ運動は、相対的に高賃金の採鉱夫によって展開されたのだということである。
こうした主張は、わが国の伝統的な構造的低賃金、あるいは長時間低賃金論の常識に著しく反するのだが、著者は自分の主張を詳細に実証している。
かくして著者は、明治20〜30年代には一般的に労働力不足と熟練職種のために相対的に高賃金傾向にあり、特に日本一の銅山として労働力の確保の必要から高賃金傾向にあった足尾銅山の賃金が、経営の合理化と物価騰貴によって暴動前に著しく低下していた事実を明らかにし、これが採鉱夫の不満を生み、労働組含運動の高揚をもたらし、ついに暴動の事態をひき起こすことになったと主張する。
第二に著者は、労働組合運動や暴動への参加が採鉱夫中心だったことを明らかにして、何故製錬部門の労働者が参加しなかったかを分析している。著者によれば、製錬部門では、旧型の製錬職人が、西欧式の製錬技術の導入によって駆逐され、技術者の指導の下に新しく形成された製錬職工が、賃金も押さえられ、鉱山資本の下に直接的に支配されていたためである。
終章「総括と展望──労働史研究の現地点確認のために──」は、これまで分析してきた足尾銅山の暴動の原因を総括しつつ、この暴動が労働者社会、鉱山経営、足尾の労働組合、あるいは国家や社会主義運動に与えた種々の影響について概述し、従来の日本の資本主義史や労働運動史の研究が持っていた経済主義的傾向を批判している。そして著者は、足尾銅山での争議の分析によって明らかになった争議下の根底に流れている鉱夫の意識(それは単なる窮乏への不満ではなく、下級職員たちの不正や差別への怒りだったこと)に注目している。そして著者は、そこに西欧の労働者の中にあるお互いの競争を排除しようとするクラフト・ユニオンの基本原理の欠如をみ、日本の労働者の史的特質を見出している。
以上のように本書は、大変ポレミークな書であり、本書の主張は一つ一つが非常に衝撃的で、専門家にとって学ぶべき論点が多い。一般の読者にとっても、従来の常識論をこえて、真実に迫る研究の楽しみを与えてくれる数少ない歴史書であろう。本書は今日の日本の労資関係を理解するためにも貴重な示唆を与えており、著者による今後の研究に期待したい。