二村一夫「労働組合期成会・日本の労働組合100年記念シンポジウム基調報告 労働組合期成会と高野房太郎」

労働組合期成会・日本の労働組合100年記念シンポジウム基調報告

労働組合期成会と高野房太郎


                                   二 村  一夫

1. はじめに

 ご紹介いただきました二村一夫でございます。実は私がいま働いております大原社会問題研究所は、高野房太郎の弟である高野岩三郎博士が初代の所長でした。私の専門が歴史、とくに労働史ということもあり、また高野兄弟ゆかりの研究所にいるということもあって、この20年ほど、高野房太郎のことを折に触れて調べてまいりました。
 たいへん謎の多い人でして、一体どのような生涯をたどったのかさえ、よく分からないところがあります。そうした人物を追いかけるのは、ちょっとした謎解きのおもしろさがあるものですから、ついつい長い間かかわってきました。たとえば、彼がアメリカから帰ったのは何時かも、正確にはわかっていませんでした。また彼は労働運動を始める前に、アメリカの軍艦に乗り組み、中国から英文の通信を書いているのですが、なぜ、どのような資格で乗り込んでいたのか分からなかった。そこで、20年前、アメリカに行った時に、国立公文書館で彼が乗り組んでいた軍艦の航海日誌を見つけ、彼がアメリカから帰国する際、お雇い兵として2年ほど軍艦に乗り込んでいたこと、最後は横浜で契約期間を1年残し、給与32ドル36セントを受け取らないまま脱鑑していたといった小さな事実を発見しただけで嬉しくなったものです。
 そういう次第で、高野房太郎についてであれば、いろいろお話ししたいことがあります。ただ、今回のシンポジウムは「期成会から100年 いま労働運動を考える」という実践的なテーマで、とても歴史家である私の任ではないとは思ったのですが、こういう機会に多くの方に高野房太郎という人は、どのような人物だったか知っていただけば、そこから現在の労働運動について考える際にいくらかでもお役にたつこともあるかと考え、お引き受けしました。ただ、時間が限られていますのでテーマを2つにしぼらせていただきます。1つは、高野が労働運動に関心をいだき、日本で労働組合を始めたのはなぜか、ということです。もう1つは、これは今日のシンポジウムの主なテーマとも関わることですが、そうして生まれた日本の労働組合はどのような特徴をもっていたのか、欧米の組合との違いなどもふくめて考えてみたいと思います。



経済学者・高野房太郎

 まず、高野がなぜ労働運動に関心をもち、労働組合を組織したのかという点です。これについては、実は2つの違った答があります。
 ひとつは、他ならぬ弟の高野岩三郎さんが主張しているところです。お手元の資料集のなかに「兄高野房太郎を語る」という文章があります。これは戦前の総同盟の機関誌である『明日』に掲載された談話記録ですが、要するに房太郎が少年時代たいへん苦労し、アメリカで出稼ぎ労働者として働き、そうした「労働の体験」を経て、「自然発生的に労働運動に入って行った」ことを強調されています。実は、この談話を発表されたのは、当時、平野義太郎さんが、片山潜や横山源之助と比べ、高野を低く評価した論文を書かれたのに対して反駁されるためでした。房太郎のいちばん身近にいて、もっとも良く彼を知る人が主張されたことですから、軽視することはできませんが、私にはどうも説得的な主張だとは思えないのです。
 それはなぜかと言いますと、房太郎は高等小学校を卒業しています。多くの人が尋常小学校にも行けず、就学率が4割ていどでしかなかった時期に、高等小学校まで8年間も勉強しているというのは、当時の日本ではけっして貧しい家に育ったとはいえない。まして弟の岩三郎は、慶応の幼稚舎や一高を経て、東京帝国大学法科大学の大学院にまで行っているのです。そうしたことが可能だった家を、ひじょうに貧しい家庭と見るわけにはいかない。それがひとつです。
 それから、外の写真展にも出してありますが、高野の家は長崎で代々、武士の裃などをつくったという、格式のある仕立て屋でした。明治維新や、西南戦争の影響で家業が振るわなかったので東京に出たというのですが、食い詰めて上京したわけではありません。横浜で回漕業をやっていた房太郎の伯父さん、つまり父・仙吉の兄である高野弥三郎の事業拡張を助ける意味あいがあったようです。上京後は、浅草橋の近くに建坪180坪の家をもち、旅館兼回漕業を営んでいました。しかも、長崎には家や山林を残していました。とても貧しい家の出と見るわけにはいかない。こうした点から、私には岩三郎先生の主張はちょっと納得しかねるのです。確かに、房太郎はアメリカで外国人労働者としての「労働の体験」をもっています。しかし、「自然発生的に労働運動に入った」というと、何か自分の生活が苦しいから、その問題を解決するために労働運動を始めたというように聞こえます。ですが、高野が労働運動を始めたのは、決して自分のためではない。彼が考えていたのは日本の国のことでした。日本経済の発展のためには労働運動が必要だと考え、労働組合のことを人びとに教えたのです。高野房太郎については、これまでもたくさんの論文が書かれていますが、そのなかで多くの人が強調しているのは、高野は啓蒙家として労働組合の重要性を教え、それを日本に広めようとしたことです。ではなぜ彼はそのように考え、行動したのでしょうか。私の答はこうです。
 まず第1に、彼は経済学者だったということです。なぜそうなったか、ということも次の問題になりますが、たぶん商家で育ち、実業界で身を立てようと思っていたからでしょう。彼は横浜で少年時代を送りますが、当時の横浜は商人の町でした。そうした商人の町で、高野少年は経済が世の中を動かす力だということを確信したようです。そして、そのように世の中を動かす経済の法則性を明らかにする経済学に強い関心を抱きます。アメリカで出稼ぎ労働者として働いている時でも、少しでも余裕があると、経済学の本を買い集めています。弟の岩三郎に宛てた手紙が残っているのですが、そのなかでちょっと自慢しています。「いま経済学の本が手許に20冊ほどあるが、さらに10冊ほど注文しており、経済学の書物については恥ずかしくないだけのものがある」と。要するに、高野房太郎は、経済が社会を動かす力だということに確信をもち、経済学に強い関心をもっていた、このことをまず指摘しておきたいと思います。
 このような彼は、はじめてアメリカに着いたとき、並の旅行者と同じように驚いています。たとえば、彼が泊まったサンフランシスコのコスモポリタンホテル──彼は後でこのホテルの客引きとして働くのですが──にあるエレベーターに驚きます。日本にエレベーターが入るのは、ずっと後のことですから。あるいはアメリカの家は、居間や食堂、寝室が別々にある、日本は1つの部屋で全部用をたしている。着るものも食べるものもその質が違うと、アメリカの豊かさに感銘をうけています。ここまでは、誰でもはじめて外国へ行った者がもつ感想でしょう。しかし、経済学徒・高野房太郎は、そこにとどまらず、それは一体なぜなのかと一生懸命に考えたわけです。そこで発見したのが労働組合の存在だったのです。彼は、明治時代に良く読まれたフォーセット夫人の『経済学入門』をアメリカに行く前に読んでいたようですから、たぶん日本にいる間に、trade union という言葉は知っていたと思われます。ただ、労働組合の存在がアメリカの豊かさと関係があることに現地で気づかされたのです。とくにジョージ・マクニールの The Labor Movement; The Problem of Today『労働運動──今日の問題』というアメリカの労働運動に関する古典を読んで、労働運動について関心を抱き、さらに詳しく知りたいと思うようになったのです。房太郎がもっていたこの本を、写真で展示してありますので、ご覧になってください。
 その隣に、もう1冊、ペーパーバックの本の写真があります。これも房太郎がもっていたもので、ジョージ・ガントンの Wealth and Progress『富と進歩』という本です。実はこれこそ、高野房太郎にとっての「1冊の本」でした。実はこの書物は専門の経済学者が書いたものではありません。ガントンはイギリスで生まれた紡績労働者でした。移民としてアメリカに渡ってからもフォール・リバーという紡績業の中心地で紡績工として働いていた時、労働組合の役員になります。そして労働運動のつながりで多くの人びとと知り合うのですが、その中にアイラ・スチュワードという機械工出身の労働運動指導者がいました。
 スチュワードは、当時、アメリカの労働組合が追求していた8時間労働日獲得運動に関する理論家でした。今日のような場では、スチュワードにまで話を広げるわけには行きませんが、ガントンはこのスチュワードの理論を受け継いで、これを体系的な書物に仕上げたのです。その本が『富と進歩』でした。つまり、高野房太郎が心酔した『富と進歩』は、アメリカ労働組合運動が生み出した経済理論を体系化したものだったのです。
 では『富と進歩』はどのような本だったのか、そのポイントだけを述べれば、高賃金は経済発展をもたらすという、いわば内需拡大論でした。消費者の大多数である労働者の実質賃金を高くすれば需要が増え、需要が増えれば生産は増大する。生産の増大なしに、ただ配分だけでは労働問題は解決しない、これがアイラ・スチュワード理論、そしてガントン理論の一番基礎的な命題です。この本を読んで、経済学徒・高野房太郎は「これだ」と思った。ただし、房太郎が強調した論点は、ガントンらとは若干ずれます。ずらした点は、ガントンらは実質賃金を引き上げるためには労働時間の短縮こそが重要なのだという考えでした。この理論は、すでに述べたように、8時間労働日獲得運動を基礎づける理論だったのですから。話はちょっとそれますが、実は、この労働時間短縮運動こそ、その後、世界中の労働組合運動が一致して取り組むことになるメーデーの出発点でした。1886年にアメリカ労働総同盟の前身であるアメリカ・カナダ労働総連盟が8時間労働日を要求してゼネストをやりました。これを記念するものとしてメーデーが始まったのです。
 さて、高野が、その主張点をガントンらとずらしたというのは、彼は労働時間の短縮より、高賃金が経済発展にプラスに働く側面を強調したのです。要するに、労働組合をつくって賃金水準を引き上げれば日本経済は発展するのだ、という点を強調したのです。労働組合を通じて労働者を教育する、それによって彼らの文化水準を引き上げる、これこそが賃金水準を上昇させ、需要を拡大し、日本経済そのものも発展すると主張したのです。その意味では、内需より輸出拡大を志向していた当時の日本の資本家にとっては受け入れ難い理論だったと思われます。低賃金によって生産コストを削減し、それによって輸出を拡大させようとする志向とは相容れないわけです。高野の考えに賛成し、これを支持した資本家が、印刷業の佐久間貞一だったというのも不思議ではない。それというのも、印刷業の場合は輸出志向ではない、完全に内需依存です。ですから、労働者の実質賃金があがり、その文化水準が高まることは、印刷業が発展する条件を整備することになる。現在の労働組合運動は、内需拡大論で、景気回復には賃金水準の引き上げが必要だと主張しているわけで、その点では高野理論を引き継いでいるといえましょう。以上が、第1点、高野が日本で労働組合を始めたのはなぜかという点で申し上げたかったことであります。
 実は、高野房太郎研究としては、なぜ彼は運動から離れてしまったのか、ごく短期間、約3年半ほどで労働運動から離脱してしまったのはなぜなのかという問題があります。彼といっしょに期成会で中心的に働いた片山潜が頑固に運動にとどまり、最後にはコミンテルンの執行委員になったのと比べられ、高野房太郎の業績が低く見られてきた1つの根拠は、この短期間での運動離脱にあります。これは伝記的研究としてはおもしろいテーマなのですが、時間も限られており、今日のシンポジウムの趣旨から外れるおそれがあるので、省きます。




生成期の日本労働組合運動の特徴

 そこで次のテーマ、つまり、初期労働組合運動はどのような特質をもっていたのか、という第2の点に移らせていただきます。私は、この問題に答えるには、次のような疑問について考える必要がある、と思っています。その疑問は4つほどあります。
 第1は、なぜ、初期の日本の労働組合運動は、労働組合期成会も友愛会も知識人の呼びかけで始まり、労働者の間からの自生的な運動として展開されなかったのか。
 第2に、なぜ日本では、大工、石工などのような職人の組織が労働運動の主力にならなかったのか。実は、欧米の労働運動の先進国では、初期の運動の中心となったのは工場労働者よりも職人でした。たとえば、高野が私淑したアメリカ労働総同盟の会長サミュエル・ゴンパーズも葉巻煙草をつくる職人でした。それなのに日本では、そうはならなかった。
 第3に、これは第2とも関連するのですが、高野や片山の呼びかけに応えたのが職人ではなく、工場労働者だったことはなぜなのか。労働組合期成会の結成は予想以上に反響があり、半年ほどで千数百人もの労働者が会員になりますが、その中の1,100人は陸軍工廠などの鉄工でした。
 第4は、期成会や鉄工組合は、ごく短期間で衰退してしまったのですが、それはなぜなのか。こうした疑問について考えることで、日本の初期労働組合運動の特徴を明らかにしてみたいと思っています。
 こうした一連の疑問についての、私の答を先に申し上げてしまいます。それは、日本に、とくに徳川時代の日本には、職人の自主的、自律的な組織が存在しなかったからではないか、つまり、ヨーロッパの自由都市を基盤に発展した、ギルド、とくにクラフト・ギルド型の組織が日本では育たなかったからではないか、私はそのように考えています。
 ヨーロッパの場合は、商人や職人たちが、自ら都市を運営した。その基礎になった組織は、職種ごとのギルドでした。ギルドは、自分たちの職業的な利益を保護するために、自ら守らなければならない規則を作り上げた。お互いに競争しあって、自分たちの職種の利益を損なわないよう、メンバーの数を制限します。仲間になるためには、親方のもとで7年間ほど徒弟として修業し、最終的な試験に合格した者でなければ仲間にしない。また、一人の親方がもつ徒弟の数を制限する、あるいは一定時間以上労働しないこと、夜は働かないなど、一日に作る品物の量を制限すること、といったさまざまな規則をつくって、それを守らせる。要するに、それぞれの職業に関することは自分たちで決め、守らせる。そういう自律性をもった団体があつまって都市を運営した。ヨーロッパの労働組合=クラフトユニオンは、そうした伝統の上に成立した組織でした。クラフト・ユニオンが採用した政策は、まさにギルドの政策とうりふたつです。組合員になるには、一人前の組合員の下で一定期間、徒弟として働かなければならない。そこでの基本的な方針は、組合員がお互に競争しないようにすることにあります。都市はそうした団体の集まりでしたから、同業団体の自律的な取り決めは、社会的にも認められるものとなりました。
 一方日本はどうかというと、商人や職人は幕府や領主の直接の支配下にある城下町に集められていました。城下町では、領主や代官が庶民の生活をこまごまと規制します。庶民がかってに組織をつくり、自分たちの職業だけの利益を守るようなことはさせませんでした。もちろん職人たちも同業組織をつくり、一定以下の賃金では働かないといった取り決めをすることもありました。しかし、そうした取り決めは、物価騰貴をおそれる領主によってすぐ禁止されました。江戸のようにしばしば大きな火事が起きたところで、もし大工がヨーロッパのギルドのような組織を作り、自分たちで手間賃を決めたら、大工の賃金はかなり高くなったでしょうが、そうしたやり方は認められませんでした。
 では、職人たちはどのようにして、自分たちの利益を守ろうとしたのでしょうか。それは、お上の力を利用することによってでした。例えば髪結い床の場合は、一定の縄張りを決めて、そのなかでは同業者に店を開かせないようにしました。ヨーロッパの場合であれば、これは仲間の取り決めによって実現する。しかし日本では、髪結い仲間がお上の御用をつとめる代わりに、仲間に入っていない者が縄張り内で開業することをお上の力で制止してもらおうとします。橋の番や木戸番などの御用をつとめるかわりに、お上から鑑札をもらい、もぐりの髪結いが縄張り内で働いたときにはお上に取り締まってもらう。こういう、お上の力に頼った業者の利益確保が日本の商人や職人の組織のありかたでした。そうした利益を守るためには、賄賂を使ったり、あるいは火事の際に奉行所の火消しを手伝うことを申し出るなどして保護してもらおうとする。いま規制緩和が大きな問題になっていますが、同業者の競争を避け、皆が横並びになるようにするのにお上の力を借りるというのは、実に長い歴史的背景があるのです。銀行が土曜日に休業することを銀行協会では決められず、世間も承知しない。そこでお上の通達によって実施する、というのも同じ仕組みです。
 こうした社会的慣行の違いが、日本でクラフト・ユニオンが育たなかった理由だというのが、私の考えです。高野が書いた「職工諸君に寄す」を読むと、彼はアメリカ労働総同盟のような職業別組合について説明しています。クラフト・ユニオニズムを導入しようとしたのです。先ほど隅谷先生がお話になったように、当時の労働者は渡り職人で、一見するとヨーロッパの職人と変わらないように見えます。しかし、日本ではクラフト・ユニオニズムはついに根づきませんでした。自律的に自分たちの労働条件を決め、仲間同士で競争しないようにするというやり方は、お上はもちろん、他の職種の者も認めない。社会的に認められないのです。
 ヨーロッパのように、どの職業団体も自律的な規制を定めている社会では、社会全体がそうした慣行の存在を当たり前のことと考える。しかし、日本では、そういうことはお上がお決めになることで、下々の者が勝手に自分たちに有利な取り決めをするのはけしからん。そういう考えが根強い社会では、クラフト・ユニオニズムは定着しようがない。また、7年間の徒弟制度を経た者だけを正式のメンバーと認める資格社会のヨーロッパと、「腕さえあれば一人前」と考える日本との違いも、こうしたギルド慣行の有無と関連がある。
 こうした慣行の有無は、今日にいたるまでの日本の経済社会のさまざまな問題に影響を及ぼしています。たとえば日本では、労働市場を組合がコントロールするために入職規制をするといったクラフト・ユニオニズムの考えは到底受け入れられない。労働組合が企業の枠を超えて労働条件を規制する力をもちえず、企業別組合になったのも、こうした歴史的な条件と無関係ではないのです。日本の労働組合が誕生した時期に、職人が労働運動の中心的な担い手にならなかったのも、こうした歴史と関わっている。もっとも、弱かったのは職人の組織だけではありません。企業や同業組合など、民間の団体はお上の力を利用し、依存してきたから、お上の命令にはしごく弱かったわけです。知識人が外国の事例を紹介し、呼びかけなければ労働組合が始まらなかった理由はここにあります。労働組合が労働者の間から自生的に組織されず、職人が初期労働運動の中心的な担い手にならなかった原因もここにあると思うのです。

 では、なぜ、工場労働者が初期の労働運動の中心になったのでしょうか。また、そこで成立した鉄工組合や友愛会は、一体どのような性格の組織だったのでしょうか、これが次の問題です。
 鉄工組合は最盛期には数千人の工場労働者を組織していました。ごく短期間にこれだけの数の労働者が集まったのはなぜでしょうか。彼らは果たして、鉄工組合に何を期待していたのでしょうか。よく労働組合は、労働力の売り手の組織だ、といわれます。確かに労働組合はそうした側面をもっています。しかし、19世紀の末に、日本の工場労働者が鉄工組合に期待していたのは、賃上げなど労働条件の引き上げではなかったのではないか、私はそう考えています。
 実は、労働組合期成会や鉄工組合の呼びかけに応えたのは、労働者のなかでは比較的、高給取りの人たちでした。彼らが高野房太郎の呼びかけに応えたのは、差別に対する怒りからだったのではないかと思われます。高野の名刺の裏には、「労働は神聖なり」と書かれていました。友愛会を創立した鈴木文治も『労働は神聖』という題の本を書いています。こうした言葉が、労働者の社会的地位を向上させようという呼びかけが、工場労働者にはジンときたのだと思われます。当時の日本の工場労働者は、「職工」と呼ばれることを嫌い、好んで「職人」を自称しました。おそらく、「職人」という言葉には、徳川時代から社会的な身分を認められた存在であるという響きがあったのでしょう。それに対して「職工」というのは、ほかの仕事で上手く行かなかったので仕方なく就いた仕事というニュアンスがある。商店に奉公したが辛抱出来なかったなど、失敗した者が、やむなく新しい職業である工場労働者となった。横山源之助は『日本の下層社会』のなかで工場労働者を下層社会の一員に加えています。下層社会から脱却したい、これが日本の労働者の多くが抱いた願いでした。日本鉄道の機関方が全線で列車をとめるストをやった時の要求のひとつは、自分たちを「機関方」と呼ばず、「機関手」と呼べということでした。機関方では馬方を連想するではないか、というわけです。
 戦後も1950年代までの労働運動の活動家のなかには、こうした社会的差別に対する憤懣、鬱屈をバネに労働運動に参加した人が少なくない。彼らがブルーカラー労働者になったのは、義務教育しか受けられなかったためでした。小学校では自分より出来なかった者が、金持ちの子だったから高等教育を受け、ホワイトカラーになって威張っている。ブルーカラー労働者の多くは、意識するかしないかは別にして、こうした差別に対して鬱屈した思いを抱いていたと思われます。
 これに対し、イギリスの場合などでは、ブルーカラー労働者は労働者階級の一員としての誇りをもっていると言われてきました。ブルーカラー労働者が、「職制にしてやる」と誘われても、それを嫌がる者が少なくない。そんな人ばかりではなかろうと、私はひそかに思っていますが、しかし全体としてブルーカラー労働者が独自の文化を育て上げ、労働者階級としてのはっきりしたアイデンティティを確立していることは、よく知られた事実です。
 日本の工場労働者は、これまで述べたような歴史的背景もあって、そうした誇りはもちえませんでした。多くの労働者が、できるだけ早くブルーカラーであることから脱却したいと思っていたのです。労働組合期成会に加わった労働者が相対的には高賃金の人びとだったのも、ブルーカラー労働者のなかでは高い技能をもち、経済的にも一部の職人より良かっただけに、世間が彼らを蔑視していることに、かえって強い不満を抱いたからではないかと思います。そうした憤懣・欝屈こそ、戦後になって工員と職員の間にあった身分差別撤廃運動を展開させる力になったのだと私は考えています。
 第4の問題としてあげた、労働組合期成会や鉄工組合が、短期間で衰えたのはなぜかといえば、直接的には、警察の弾圧でした。期成会の演説会に制服警官が出席して威圧し、指導者には尾行をつけ、演説会場を貸さないよう圧力をかけたり、組合員の名簿の提出を要求するなど、さまざまな妨害行動をとりました。明治維新を経ても、お上の側の意識は変わらず、民衆の自主的、自律的な組織は、治安を害するものと考えたのです。さらに、外国の歴史的経験からも、日本政府は労働組合を危険な存在だとみていました。そうした考えが法律になったのが治安警察法ですが、治安警察法ができる前から、警察は労働運動を敵視し、労働組合を芽生えのうちに摘み取ろうとしたのです。予防先制攻撃的性格は、戦前の労働政策の基本にあります。現に社会的な脅威になっている、実際に危険な組織だから抑えるというのではなく、そうした潜在的な可能性があるとして、対処してきたわけです。敗戦まで、労働運動は、たえず国家から警戒され、敵視されてきました。一方、長年、お上の力に依存し、利用してきた民衆の側も、そうした国家権力に抵抗する力はなく、泣くこと地頭には勝てぬ、長いものには巻かれろという態度をとったのでした。労働組合期成会や鉄工組合が、短期間で衰退したのも、そのようなお上と庶民との長年にわたる関係があったに違いない。
 今までの話は、いわば歴史的な連続性の側面を強調してきたのですが、ただ今日のテーマに関わらせていうと、期成会が誕生した100年前の労働運動と、憲法で労働基本権が保証された戦後の労働組合運動との間には、大きな違いがあることを見落としてはならないでしょう。庶民の自主的な組織を、お上が簡単に潰すことなどは出来ないようになっているわけです。
 もう1つの大きな違いは、戦前の労働組合はブルーカラー中心の運動でしたが、戦後の組合は、他の国にはあまり例のない、ホワイトカラーも加わった工職混合組合になった点です。このブルーカラーとホワイトカラーが一緒になった組合は、戦前期に存在した両者間の身分格差を減らす努力をかさね、かなりの程度それに成功したのです。最近、日本の労働運動が活力を失っているとよく言われますが、その理由の1つは、戦前の労働運動を動かす大きな力であった社会的な差別に対する憤懣、鬱屈といったものが、そうした戦後労働運動がかちとった成果によって、ほとんど解消してしまったという側面があるのではないでしょうか。
 最後に、100年前の歴史をみる時に忘れてはならないのは、日本の労働組合を誕生にあたって外国の労働運動家が力を貸してくれた事実です。今日はあまり詳しくお話しできませんでしたが、アメリカ労働総同盟のゴンパーズ会長は、高野房太郎の事業をさまざまな形で援助してくれました。ゴンパーズは高野房太郎をAFLのオルグに任命しただけでなく、高野が書いた英文の通信をアメリカの労働組合の機関誌に有料で掲載するように、各組合のリーダーたちに頼んでくれたのです。そうした援助に支えられて、高野房太郎は労働組合期成会を結成し、鉄工組合を組織することができたのです。いま日本に来ている外国人労働者の中から、日本の労働運動に感銘し、帰国後、第2、第3の高野房太郎になろうとする若者が出るかどうか、いまの労働組合の指導者の方々に伺いたいところでもあります。これで私の話を終わります。




1997年7月4日、総評会館2階大ホールで開かれた労働組合期成会・日本の労働組合誕生100年記念「期成会から100年 いま、労働運動を考える」での基調報告。


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