『労働は神聖なり、結合は勢力なり』相補的ウェブ本

「囚われたる民衆」         高野岩三郎

                

 アメリカ連合軍司令部の眼には、わが国民はほとんど済度(さいど)しがたい(とら)われた民衆であるように映ずると想像されるのであるが、私自身の眼にも太く鳴滸(おこ)がましい言分であるが、また同様に写るのである。それは何故? この点に関してまずしばらく私ども一家の経歴について言説するを許されたい。
 ここで私どもというのは亡き兄高野房太郎と私との両人を指すのである。約十年前私は、当時大阪市天王寺畔に在った大原社会問題研究所内の講堂において「本邦最初の労働組合運動」と題して亡兄の労働組合運動について一場の講演を試みたことがあったが、昨昭和二十年十二月、また大阪毎日社の主催にかかる「毎日文化講座」において私の少年時代の回顧を談じ、初めにおいて同様の話をした。その速記はおそらく近日同社より公けにされるはずであるから、詳細はそれについて承知されたい。講演の趣旨は高野房太郎の組合運動たるや、労働組合の理論および意義に共鳴しつつも、単に時世の波に便乗し、いわば興味本位に努力したものにあらずして、同人の社会的および個人的境遇よりして、自然発生的に没頭するに至ったものであるという点を解明するにあったのである。
 そもそも私ども両人は共に明治の初年長崎市に生まれた。兄は明治元年、私は明治四年、市の中心銀屋町の一町家に生をうけた。元来長崎はいわゆる天領すなわち旧徳川幕府の直轄地である。したがって大村藩・佐賀藩というがごとき旧藩主その下に立つ藩士の階級存在せず、いわば束縛なき一自由都市たる観があった。しかもまた開港市であり、支那人、阿蘭陀(オランダ)人、葡萄牙(ポルトガル)人、露西亜(ロシア)人等の多数外人との交流繁き国際都市であった。
 それにまた私どもの生まれ落ちた家族は職人階級に属していた。父は和服裁縫師、母は米小売商人の娘であった。すなわち私どもは国際的自由都市の職人仲間の町家の家庭に生まれたわけである。
 しかるに父の長兄高野弥三郎なる者は、明治の初年郷里を出でて横浜に赴き、当時岩崎弥太郎の創立した三菱汽船会社の傘下における一回漕店を始めたのであるが、事業隆盛にして協力者を必要とするに至りしかば、私ども家族を長崎より呼び寄せることとなった。そこで私ども〔の〕両親は私ども二人に長姉を加え、家族合せて五人にて父祖以来長く住み馴れた郷里を後にして東京に上り、神田区浅草橋畔、神田久右衛門町におちつき、万事叔父の世話を受けて回漕店兼旅人宿の営業を営なむこととなった。私どもの小学校教育は共に近くの千代田小学校で受けたのである。かくて国際的自由都市の中心において町人の家に生まれた私どもは、さらに東京の真ン中で下町ッ子として不規則極わまるしかも奔放轄達(ほんぽうかったつ)なる教育のうちに育てあげられた次第であって、私どもの独立自由・負けず嫌いの強きを挫き弱きを助けるという幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)気象(きしょう)はこの境遇環境の中よりおのずから養成されたものであろうと、自認せざるを得ないわけである。
 かくて私どもは比較的順境のうちに小児時代を経過したのであるが、好事魔多(こうずまおお)し、明治十二年虚弱なりし父は齢三十九歳をもって死亡した。しかし三十七歳の若さで未亡人となった母は健康無比かつ男勝りの婦人であったので、叔父の援助の下に姉と二人して家業を継続せしが明治十四年神田松枝町の大火災── 一万二千軒を一嘗めにした大火災──のために家は焼け、蔵は落ち、私ども親子四人は素裸の姿となって街頭に放り出されたのである。
 しかるに叔父はあくまで私ども一家の面倒を見、類焼後間もなく日本橋浪花町に家屋を建築して、従来の旅人宿営業を継続せしめた。兄は小学校八年の課程を修了して卒業後、叔父の横浜の店に赴き、店員として従事したるが、明治十八年この大黒柱たる叔父は急死した。かつその前年、長姉は良縁を得て遠く九州唐津(からつ)在に嫁したれば、無資産同様のわが家計を支え、母と私の二人を扶養するの責は兄の肩上に懸かることとなったので、兄は奮然志を立てて明治十九年北米桑港に渡り、微々たる日本品商店を開きしが、いくばくもなく失敗に終り、明治二十年一たん帰朝しおもむろに再挙の策を講じようとした。しかるにその間私は僥倖にも第一高等中学校の試験に及第して同年九月予科三級に入学するを得た。しかしこれは母の扶養に加えて私の学資を支弁するの責を兄に負わしめることとなったのである。ここにおいて兄は同年末再び米国に渡ったが、じらい十年間苦心惨憺、米国の各地に転々してあらゆる労働に従事し、その得たる収入の一部を割いて毎月私ども親子の家計と私の学資とを貢いだのである。これによって、私はその後一高五年の課程を終え、直ちに進んで東京帝国大学法科大学政治科に入り、明治二十八年七月大学を卒業し得たのであった。
 これに反して兄は小学八年の課程を修めたるに過ぎないのであるが、桑港においては商業学校に通学しまた経済学関係の図書を少なからず購入して、自修独学を怠らなかった。
 かくて、私の大学卒業により兄の負担の一半は軽きを得るに至ったので、兄は米国の一小砲艦の乗組員として艦内の労務に従事しつつ欧米の各港を視察して、明治三十年十一年の遍歴の後帰朝したるが、いくばくもなく片山潜君と共に労働組合運動に身を投じ、後さらに消費組合の運動にも従事した。しかし前者は治安警察法の発布によりその発展を阻まれ、後者は資金の欠乏により成績不振に陥り、ついに兄は両運動より退き、明治三十三年北清事件を機として支那に渡航し、各地を転々し、ついには山東省青島に落ち延び、明治三十七年同地において病死したのである。
 以上高野房太郎の経歴の大要を語ったのであるが、その滞米の十年間にわたる諸種の労働の体験と、当時米国における労働組合運動──サミュエル・ゴムパースの率ゆるアメリカ労働総同盟Samuel Gompers American Federation of Labor──の興隆に興味を感じ、かつゴムパース氏自身とも相知るに至り、帰朝の年明治三十年の夏(一八九七年七月)同氏より日本における組合総組織者 authorized and legally commissioned to act as General Organizer for Japan たるの委嘱を受け、帰朝後いくぱくもなく組合運動に従事したることは前述のごとくである。
 上来述べたるところによって、もって読者諸君は高野房太郎なる人物が出来合の労働組合主義者にあらずして、反対にその生立ち境遇等より自然発生的にこの運動に赴きたるものであることを、容易に了解されるであろう。かくして高野房太郎は熱烈なる組合主義者であったけれども、彼は協同者片山潜君と異なり、社会主義者ではない。単純なるゴムパース流の組合主義者であった。


 再言する。亡兄の労働組合運動は自然発生的であると。ちょうどこれと同様にまた私の民主主義観は自然発生的である。けだし兄は、すでに述べたように、明治十九年日本を去り、じらい十余年間、故国の実際より遠ざかっていたがゆえに、同期間、すなわち明治二十七八年の日清戦役前後におけるわが社会的変革、殊に状勢乃至その雰囲気(ふんいき)にはほとんど触れ得なかったのである。しかるにこれに反して、生い立ち境遇教育を幼少時代全く兄と同じうしたる私は、わが国に在って時代の雰囲気を満喫し、そのうちに青年時代を経過したのである。すなわち明治二十七、八年前後の私の青少年時代にはわが国には仏蘭西(フランス)流の自由民権論旺盛をきわめ、国会開設要望の声は天下を風靡(ふうび)した。貴族もなく、財閥もなく、しきりに打倒を叫ばれたのは、薩長藩閥打破、すなわち近来の用語をもってすれば軍閥打破の声であった。この時代にはまた一方に帝王神権説を唱うるものあれば、他方には主権在民・共和政体論を主張するありという有様であった。当時集会も言論は始めは自由であって、政談演説会はさかんに催されて民心を鼓舞したのである。
 かくのごとき社会状勢のうちにあって、天領すなわち、藩主という頭の押え手なき土地、しかもまた国際的都市の比較的自由開放の天地に生れ、やや長ずるや東京の真ン中に来て、下町気分町奴(まちやっこ)気風を吸収した私のごときものが、青年の血を湧き立たせ、民主主義を謳歌し、その実現の促進に熱情を注いだのもまた当然であろう。当時君臨せる明治大帝に対してはすこぶる親しみを覚え、敬愛の情切なるものありしが、それ以上なんら神がかり的威厳を感じなかったというのが私ども平民の率直なる感情であったのである。しかるにその後に至り、ようやく窮屈な形式的神がかり的・国家主義的風潮浸潤しはじめ、ついには最近時代に至り軍閥の跋扈(ばっこ)となり、われわれの手も足も、口も筆も一切縛り上げらるるに至る時勢の推移に対して、日夜悶々たる不満不快の念を抱きたるも、また怪しむに足らないであろう。ただ近年マルキシズムの勃興、左翼運動の旺盛によって、僅かに慰めらるるところありしも、これもまたいくばくもなく弾圧せられてほとんど形を蔵めたるがため、再び悶々の情を新たにし、わが国にはとうてい自主自由の風は頭上を空過し、国民は未来永劫奴隷的境遇に呻吟するの止むなきかを憂わしめたのであったが、今や時世は急転し、旧時代は忽然として消失し、デモクラシーの新時代はわが全土を蔽うに至ったのである。われわれの満足何者かこれにしかんといわざるを得ない。しかるにもかかわらずわが国民の大多数はなおデモクラシーの真義に徹せず、いぜんとして一種の迷信偶像崇拝的崇拝の念に固執するは、私のごとき自然発生的なる民主政治観を抱懐(ほうかい)する者にとっては、むしろ奇怪にして諒解に苦しまざるを得ざるところである。すなわち囚われたる民衆と叫ばざるを得ざるゆえんである。〔以下略〕






初出は『新生』第二巻第二号(一九四五年一二月)。鈴木鴻一郎編・高野房太郎著『かっぱの屁』(法政大学出版局,一九六一年刊に再録)。本稿は『かっぱの屁』によって作成した。

 ここではほぼ原文通りに翻字しているが、適宜読点を句点に改め、漢字は現行の字体に直している。


〔二〇〇八年九月二四日〕



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