《紹介》
川口 武彦 編『堺利彦全集』
二 村 一夫
堺利彦が「貧乏士族の子」として福岡県豊津に生まれたのは1870(明治3年)11月25日のことであつた。あと2ヵ月ほどで彼の生誕100周年を迎えることになる。おそらく、いくつか記念行事がおこなわれることであろうが、そのひとつに『堺利彦全集』刊行の企てかある。川口武彦氏の編集で法津文化社から全6巻の刊行が予告されている。
堺利彦を抜きにして、日本の社会主義運動の歴史は語れない。これは誰でも認めざるを得ないであろう。僚友幸徳秋水とともに平民社をおこし、日露戦争に反対し、「非戦論」を提唱したのは堺利彦であつた。日本最初に『共産党宣言』や『空想から科学への社会主義の発展』を翻訳紹介したのも堺であった。〈大逆事件〉後の〈冬の時代〉に売文社を経営し同志の離散をふせぎ、社会主義の火種を守りつづけ、第一次世界大戦のさなかに〈小さき旗上げ〉をおこない、戦後の運動の本格的な展開に先がけたのも、また堺利彦であった。さらに、大正デモクラシーの本舞台で華やかな活動をくりひろげた黎明会の「隠れたる創意者」は堺利彦ではなかったかと、松尾たかよし氏は推定されている。
社会主義運動がはじめて大衆的な基盤を得たものとして評価されている〈社会主義同盟〉に機関誌を提供したのも堺であった。自身結党には消極的であったが、日本共産党の創立とともにその代表者におされたのも、また彼・堺利彦であった。
社会主義運動以外の分野でも、「言文一致普通文」の提唱者として、家庭問題、女性問題の評論家として、ユーモア作家として、さらにウィリアム・モリス、ルソー、ゾラ、ショウ、ジヤック・ロンドンなどの紹介者としても、堺利彦の名を逸することはできない。
だが、それにしては堺利彦についての研究はあまりにも少ない。これは何故であろうか。幸徳秋水、片山潜、大杉栄、山川均については既にいくつかの評伝、研究があり、全集や著作集も刊行され、あるいは刊行されつつある。それにくらべて、堺利彦の思想と行動に正面からとりくんだ仕事はまだないにひとしい。その理由のひとつは、堺利彦が理論家であるより、啓蒙家、実践家であったことによるのではないかと思う。堺には幸徳の「直接行動論」や山川均の「方向転換論」のように、運動全体に衝撃的な影響を及ぼしたといえる論文はない。このことが、堺の果した役割の軽視をもたらしているのではないか。
しかし、マルクス主義理論の紹介者としての堺がいなかったならば、また、平民社や売文社の経営者、運動の組織者としての堺がいなかったならば、幸徳秋水や山川均の活躍は、かなり異なった道をたどったのではないか。
ところで、『堺利彦全集』の刊行は、今回がはじめてではない。彼が死去した1933年に、中央公論社から今回と同じく6巻本が出されている。しかし、これは絶版となって久しく、また部数も少なかったとみえ、今日では容易に見ることができない。
その点からも、今回の全集刊行の企てはたいへん有難い。しかも、戦前の『全集』は、編者の一人てある荒畑寒村が「此六巻に採録せる先生の作品は殆んど半ばにも達せざるべく、従つてむしろ選集と呼ぶのに当つてゐるかもしれないが」と認めているように、網羅的でなく、また発禁に対する配慮から採録されなかったものも少なくない。これに対し、今回は増補が予定されていることも有難い。
ただ、刊行内容についての簡単な広告を見た限りては、増補分があまり多くないようである。たとえば、前回同様「社会主義および社会運動に関する外国の著述の翻訳」は全く採録を予定されていないようにみえる。堺の本領がマルクス主義理論の導入と普及にあったことは周知のところであり、この点は編者に一考をねがいたい。また、堺利彦の実践家・組織者としての側面は、彼の著書や論文だけでは充分に明らかにすることはできない。
戦前版『全集』は、明治期については、日記や獄中通信を収め、時事評論にも比較的多くの紙数をさいていたが、第一次大戦後については堺の実践面での業績を反映したものがほとんどなかった。この点は今回の『全集』では、どのように改善されるであろうか。パンフレットやリーフレット、各種の機関紙誌ヘの寄稿、とくに書簡をなるべく豊富に集めてほしい。欲をいえば、多くの人が堺利彦について語った文章で別巻を編んでもらえたらと思う。
注文ついでにもう一つ。出来る限り網羅的な「堺利彦著作目録」をつけていただきたい。おそらく、全6巻では、どうやってみても『選集』にならざるをえないであろう。せめて目録だけは完璧なものを作つていただきたい。
ともあれ、今回の『全集』が、これまでともすれば無視されてきた堺利彦の業績について、あらためて検討をせまるものとなることを期待する。
川口武彦編、『堺利彦全集』全6巻・法律文化社
第1巻 社会主義への出発(万朝報時代1)
第2巻 婦人・家庭論(万朝報時代2)
第3巻 反戦平和とインターナショナリズム(平民社時代)
第4巻 冬の時代を生きる(売文社時代)
第5巻 科学的社会主義運動の飛翔
第6巻 日本社会主義運動の思想
初出は『日本読書新聞』1970年10月5日付
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