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《書評》
吉田 千代 著
『評伝 鈴木文治』

評者:二村 一夫

 日本の労働運動の歴史で重要な役割を果した人物を5人選ぶとなれば、鈴木文治は文句なしにその中に入るであろう。戦前の日本労働組合運動の主要な源流が、少なくともその一つが友愛会にあったことは異論のないところであるし、友愛会の創設者は誰がみても鈴木文治しかいない。しかし、なぜか鈴木文治は研究者の関心を惹くことが少なかった。
 その理由を著者は「わが国においては、とかく華かな革命論的あるいは闘争主義的活動への評価は重視されても、穏健で地道な運動に対する評価は概して低い。そうした傾向の中で鈴木文治に対する評価もこれまで決して高いものではなかった」と考え、そうした傾向の例外として松尾尊よし氏(注)、池田信氏による研究をあげ、ただそれらの研究がいずれも友愛会時代までにとどまっていることを指摘し、その全生涯を対象とする研究にもとづく評価の必要性を強調する。この空白を埋めるため、著者はこの十数年来ひたすら鈴木文治の跡を追いつづけ、多くの資料を発掘し、何本もの論文を発表された。本書はその成果をとりまとめ、彼の生涯を描いたものである。本書によってまたひとつ研究上の空白が埋められたことを喜び、筆者の努力に敬意を表したい。

II

 まず本書の構成を見よう。終章を加えれば全部でつぎの9章から成っている。
   1) 生いたちと背景
   2) 青年期
   3) 若き日の女性観
   4) 社会運動の中へ 
   5) 活動の表舞台へ 
   6) 総同盟会長時代 
   7) 政界への進出 
   8) 郷に帰る 
   9) 終章:十字架をみつめて──平和の使徒ジャン・ジョレスへの憧憬

 第6章と終章は書き下ろし、その他は雑誌などに既発表の論文を加筆訂正したものである。
ここで各章の内容を簡単に紹介し、若干のコメントを加えておこう。
  第1章は、旧家の長男としての鈴木文治の恵まれた生活や、小学校2年から3年の課程をとびこえて4年に進級し11歳で中学に入学したその秀才ぶり、その後生涯にわたって影響を受けることになる吉野作造との最初の接触が紹介される。さらに、十歳の鈴木文治が父とともにギリシャ正教の洗礼を受けたこと、同時にその背景にある生地・宮城県栗原郡金成村とキリスト教、自由民権運動とのかかわりが論じられている。中学時代の作文など、新たに発掘された資料によって自伝の誤りが訂正されるなど、興味深い章である。
  第2章は山口高等学校生徒、東京帝国大学法学部学生、さらに秀英舎社員、東京朝日新聞記者としての鈴木文治が描かれる。生家の没落により学資が途絶えた鈴木は、高校時代は教授の書生として居候生活を送り、大学では雑誌の編集や家庭教師として苦学する。その困窮の生活の中で、鈴木は高校では〈秋吉台の聖者〉本間俊平と接触し、大学では同郷の先輩・吉野作造、内ヶ崎作三郎、小山東助を通じて本郷教会の海老名弾正の影響を受け、さらに桑田熊蔵から労働問題について開眼されたことが述べられる。
 ただ率直にいって、この章、とくに後半はいささか物足りない。鈴木が労働運動家となる方向を選択したのはこの間で、彼の生涯を解く鍵はこの十年間、とくにその後半にあると思われる。ところが、著者の筆は大学入学以後ひどく急ぎ足になる。大学生となってから新聞記者を辞めるまで、年でいえば1905(明治38)年から1911年まで、大逆事件をはさんで日本の社会運動の歴史の上でもきわめて重要な出来事が相次いで起こった時期でもある。ここをじっくりと掘り下げなくては、労働運動家・鈴木文治の誕生の秘密を明らかにすることは出来ないのではないか。
  第3章は本書全体がほぼ時代順に描かれている中で異質の章である。ここでは、彼が山口高校時代に書いた草稿「感慨漫録」によって、その「差別的女性観」が紹介される。この章で明らかにされた内容は、本書を通してもっとも重要な事実発見といってよいのではないか。年少時代からの彼をよく知る吉野作造が「楽天的で」「すこぶる天真爛漫」と評し、世間一般もそのように理解していた鈴木文治に、〈食客書生〉としての屈辱的な待遇によって、いちじるしく内面を傷つけられていた時期があったことを知るのである。
 ところで、本章の最後では、彼が抱いていた「差別的女性観」がその後の運動の中で払拭された事実が指摘され、その変化の過程の検討は今後の課題とされている。しかし、筆者が鈴木を「弱者の友」と規定する以上、弱者中の弱者であった女性についての鈴木の意識の変化の検討は避けて通れない課題であったのではないか。
  第4章は統一基督教弘道会幹事となり、労働者講話会を手始めに、友愛会創立、その初期の活動の中での鈴木が描かれている。すでにかなりの研究蓄積がある時期であるが、筆者はその成果をよく吸収し、要領よくまとめている。
  第5章の前半では、カリフォルニアでの日本人排斥問題に対処するため、渋沢栄一によって鈴木が労働使節に選ばれ渡米した折のことが述べられ、後半では、これを機とした鈴木の労働運動思想の発展が分析される。次章とともに、これまでそれ相応に注目されてきたとはいえない、鈴木文治の〈国際人〉としての側面が明らかにされている。
  第6章では第一次大戦後、友愛会が労働総同盟として発展した時期における鈴木の動向が叙述されている。柱となっているのはILOをめぐる国際的な活動、協調会をめぐる渋沢との対立、総同盟会長辞任問題などである。
  第7章は社会民衆党、社会大衆党代議士としての活動を中心とする政界での活動が取り上げられる。とくに選挙活動に重点が置かれている。議会での活動について若干触れられてはいるが、社民党における活動など鈴木の政治活動全体を位置づける努力が弱いのではないか。
  第8章は鈴木と郷里とのかかわりが、過去にさかのぼって描かれている。なかでも衆議院選挙への立候補問題が詳述され、最後は敗戦直後の総選挙中の突然の死で結ばれている。
  終章はキリスト教徒としての鈴木を、晩年の彼が尊敬していたというジャン・ジョレスと比較しつつ論じたものである。前章までまったく登場してこなかったジョレスがここで急に登場することにいささか違和感がないではない。〈はしがき〉で「鈴木文治の生涯に光をあて、新たな評価を見いだす」ことの必要性を強調された書物の終章としては、いささかもの足りない。

III

 本書のメリットの第1は、徹底的な資料の探索によって、これまで知られていなかった中学時代の作文や、山口高校時代の草稿〈感慨漫録〉のような新資料を発掘されたことである。これによって若き日の鈴木文治の女性観など重要な側面に光を当てることが可能となった。第2は、はじめてその全生涯を描いたことである。従来の研究が友愛会の戦闘化時代にとどまり、自伝でさえ1931年で終わっている。それに対しこの評伝は、その後の15年間についても、その足跡を追い、空白を埋めている。なかでも、戦前の日本では数少ない国際人としての側面を詳しく跡付けている。このように本書は本格的な鈴木文治研究の最初の企てであり、今後、鈴木文治研究、友愛会・総同盟研究はもちろん、日本労働運動史研究の必読書となるであろう。
 そうしたメリットを前提として、いくつかの疑問点というか、注文がないではない。一番問題であると思うのは、著者が、はじめから鈴木文治の弁護者として立ち現われている点である。もちろん伝記作者として対象に惚れ込むのは当然であろう。また、かつての鈴木文治像は常に〈ダラ幹〉的評価がつきまとっていたから、それを晴らそうとする著者の意図も分からないではない。しかし評伝筆者には、もっと対象から距離をおき、醒めた目で見る努力が必要ではなかろうか。同じことであるが、かりに弁護するにしても、批判者の主張を正確に受けとめて反論することが説得性を増すことになるのではないか。たとえば著者が山辺健太郎氏の〈鈴木文治スパイ説〉を批判されている部分は、その限りで説得的である。しかし山辺氏は著者が引用した書簡だけでなく、関東大震災直後に斎藤朝鮮総督宛に、総同盟に〈鮮人部〉を設けるための資金援助を要請する手紙も発掘し批判しているのである(『日本統治下の朝鮮』)。
 鈴木が「能く変な金を持って来る」ことについて一般から批判があったことは吉野作造も触れており、ご子息の思い出にも関連した記述があるが、こうしたことを著者はどう評価されるのであろうか。友愛会時代の鈴木の役割が総じて積極的なものであったことは、今では定まった評価であると言ってよい。しかし、1920年代後半以降の彼も10年代と同じ「弱者の友」と規定できるであろうか。
 この本は、鈴木文治主要著作目録、年譜、参考文献目録、それに事項索引と人名索引が付されている。こうした配慮は日本の書物では、学術書であっても稀なことである。ただあえて注文すれば、著作目録には雑誌論文や草稿も採録してほしかった。著者が資料の探索にたいへんな時間と情熱を注いでおられたことを個人的にも若干知っているだけに、その成果を学界の共有財産にしていただきたかったと思うのである。13ページにおよぶ年譜は鈴木の生涯を展望するのに大いに役立つものとなっている。索引はきわめて詳細であるが、あまり内容のない項目まで拾ってあるため、かえって使い難いうらみがないではない。それに途中で構成を変えたためのミスか、ページ数が一致しないところが多いのも残念である。

【注】 松尾尊よし氏の名の[よし]は「外字」です。ハの下に允を置いた形の字。


吉田千代『評伝 鈴木文治』、日本経済評論社、1988年4月、332頁+xi、2200円

書評の初出は、社会政策学会年報 第33集『「産業空洞化」と雇用問題』(1989年、御茶の水書房)






Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org


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