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二 村  一 夫

文献研究 日本労働運動史(戦前)





1. 労働運動史研究の二つの潮流

 小論の課題は日本労働運動史、それも戦前期を対象とした文献についての研究史的概観である。紙数も限られており、1950年代中頃までの研究については、小山弘健編『日本労働運動・社会運動研究史』(1957年、三月書房)に主要な研究の紹介と網羅的な文献リストがあるので、ここでは、50年代後半以降の研究に重点をおいて検討を加えたい。
 しばしば指摘されるように、日本労働運動史研究には、2つの潮流がある。その1つは、日本においても階級対立の客観法則が貫徹するとの立場から、階級闘争発展史として日本労働運動史を叙述するものであり、第2は、日本の労働運動に固有な特質=日本的特質の追究を主たる課題とするものである。この両者は、本来、絶対的に対立するものとはいえず、したがって個々の研究、あるいは研究者をどちらか一方にはっきりと区分できるわけではない。しかし、ごく大まかに見て、このような2つの傾向があることは確かである。
 1950年代中頃までの日本労働運動史、あるいは日本近代史では、第1の立場で書かれた啓蒙的な通史が主流を占めていた。これらの著作に共通した欠陥は、具体的な歴史事象のなかにわけ入って、それらの現象の背後にある法則性を探求するのでなく、階級闘争の発展法則を自明の前提として、歴史事象は法則の単なる例証に終っていたことである。したがって、これらの通史では、一般に運動は逆行せず、直線的に絶えず発展するものとして描かれがちであった。
 こうした研究傾向を松沢弘陽氏は、つぎのように批判している。

 「…対象に対するその強い関心とパッショネイトな叙述にもかかわらず、そこに殆ど説得力を感ずることができない。何故か。……説得力不足の原因は、史料的論証や叙述の密度の不足──もちろんそれも否定できないが──にというよりはむしろ接近の視角と方法とにあると考えられる。……このような叙述は第一に労働者の、『思想的変革』がこれほど大規模にまたこれほど急速に行なわれえたろうかという疑問をよびおこし、それは更に、そのように『急進的』で『意識の高い』労働者が何故それほど容易に敗退したのかという疑念に連る。何故こうした疑念が生れるかはこのような叙述における接近の視角と方法とを検討する時ほぼ明らかとなる。この叙述には、経済的窮乏化、革命思想のプロパガンダ、激烈な大衆運動という社会現象が同時的に存在すれば──これらは、いつでも、どこかに、何等かの程度で必ず存在する──大衆運動内部の思想の『急進化』が生じたと判断する思考が顕著に見られる。そしてそれを導くのが一つには、経済的窮迫という原因から直ちに、革命的プロパガンダに対する受容性とその直接的結果としての思想の急進化が生じるとする発想であり、この場合、外形にあらわれた行動の激烈さと、内面における思想的『成長』『急進化』とが、しばしば同一視されている。もう一つには、日本の労働運動者たちが、外国の労働運動が生んだ理論を直訳的に受容して、それとは全く異質な自己の運動を弁証するために用いたのに対して、そのように用いられた理論に、その母国の場合と同じ事象が対応していると暗黙に想定する──一種の概念のリアリズムともいえる──態度である。」(下線箇所は原文では傍点

 この批判は、ほぼ当っている。ただ、私自身は「説得力不足の原因」のかなりの部分は、さきに述べたように、史実の背後の論理をさぐる姿勢に欠けるという意味での「史料的論証の不足」によるものであると考えている。また、松沢氏が「経済的窮乏化、革命思想のプロパガンダ、激烈な大衆運動」は「いつでも、どこかに、何等かの程度で存在する」としてこれらの間に歴史的な質の相違があることを無視している点は同意しえない。しかし、他方では第1の立場に立つ通史の多くが、労働運動の組織化の規模や「階級的自覚」においてたえず「質的飛躍」「新しい発展」をとげたことを述べながら、その「質的飛躍」や「発展」の具体的内容は必ずしも明瞭ではなく、したがって、その発展の動因をとき明かしえていないことも事実である。いまだに、「日本の労働運動史の研究では、労働運動の発展段階、そのなかでの労働者階級の成長の過程について、ほとんど実証的、理論的整理がなされていない」*1のである。

 ところで、松沢弘陽「天皇制体制における労働運動リーダーシップの諸類型(一)」(1960年、『社会科学研究』第11巻第5・6合併号)は、右の批判の上にたって「運動のリーダーの思想の内面構造と現実機能をとらえる」ことを意図した意欲的な研究である*2。従来の研究に対する鋭い批判にみち、示唆に富んだ労作である。残念なことに、研究全体は4章から成ることが予告されているが、発表されているのは、序章と第1章第1節のなかばまでで、現在なお未完である。発表された限りでは、「集団の思想」を把握するために、意識的に現実の歴史過程から離れて思想の内面構造をさぐり、その内在的な可能性を追求するという方法がとられている。「歴史過程における思想の現実機能」について検討が予定されている第4章を見なくては、松沢氏の方法が労働運動史研究にとって有効であるか否かは結論しえない。ただ、このままでは労働運動史の方法として継承しうるものになっていないことは確かである。実際にこの成果はその後の運動史研究にはほとんど生かされていない。

 第2の立場、すなわち、労働運動の日本的特質の追求を主たる課題とする研究の代表的なものは、いうまでもなく、大河内一男『黎明期の日本労働運動』(1952年、岩波新書)である。
 ここで大河内氏は周知の「出稼型」論を展開される。「出稼型」論の大前提となっているのは「一国の労働運動、労働問題は、その国の労働力の特質=型によって基本的に制約される」という命題である。この労働力の型は、その労働力そのものを創出した基盤たる経済構造に規定され、従って(1)資本制経済の各発展段階、(2)地域的・国民的差異の二要因によって規定される。しかもこの労働力型の国民的差異は「時間の経過と共に次第に単一の、資本主義に標準的な『労働力』に近付くのでなく、それ自体一つの特殊な、国民的な『労働力型』として形成され、この資本主義経済の型が、一つの纏まりのある型として、即ち経済上の諸範疇の特定の構造として、存続するかぎり、それは『労働力』一般に解消されることはない」ものである。ところで、日本資本主義は、その創出期において、イギリスにおいて典型的に遂行された如き徹底的な農民層の分解、独立自営農民の一掃をなし得なかったため、その後も一貫して小農経営を維持しつつ、その中から労働力の供給を得てきている。ここに、必然的に、日本の賃労働はなんらかの意味で前近代的な農家経済との結びつきを保つものとなり、ここに「言葉の広い意味における出稼型」が成立する。この「出稼型」こそ、まさに賃労働の日本型であり、明治から今日にいたるまでの一切の日本の労働問題の根底にあり、それを基本的に制約しているものであると主張される。低賃金、劣悪な労働条件、横断的労働市場の欠如、身分制的労働関係、労働組合の組織形態(企業別組合)、労働者意識の前近代性、労働運動の不安定性など日本の労働問題、労働運動の特質は、「出稼型」によって一義的に説き明かされる。

 「出稼型」論による労働運動史は、従来の事実羅列的な年代記的運動史にくらべれば、日本の労働運動の特質とその特質をもたらした根拠の究明を意識的におこなった点で、研究を一歩前進させたことは否定できない。
 しかし、「出稼型」論は労働運動史の方法として重大な難点をもっていた。ある論者は、その宿命論的性格を批判し、また、この理論では、日本の労働組合の組織形態が戦前と戦後とでは著しく異なっている事実を説明できないことを指摘した。またある論者は、この理論が労働運動の意識的、主体的要因を全く無視している欠陥を強調した。
 二村一夫「明治四〇年の足尾暴動について」(「労働運動史研究」第12号、1958年)、同「足尾暴動の基礎過程──「出稼型」論に対する一批判──」(「法学志林」第57巻第1号、1959年)は、これらの批判を認めた上で、問題は出稼型論を単に宿命論だときめつけるのでなく、何が「出稼型」論を宿命論たらしめているのかを明らかにし、さらに批判者は、現実の分析においてその方法的優位を示す必要があることを強調した。そして、「出稼型」論は、労働力が生産過程において陶冶される事実を無視しており、「ブルジョアジーは生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、たえず変革しないでは生きて行くことができない」事実を見落している点に、出稼型論が宿命論に陥ってしまった一つの要因があることを指摘した。そして、大河内氏によって「奴隷制的飯場制度の強度な支配」に対する自然発生的な抵抗と規定されている明治40年の足尾暴動が、実際は採鉱過程の近代化に伴う作業請負の廃止によって飯場制度が弱化したためであることを論証した。
 この論稿のもう一つの意味は、従来の労働運動史が第一次大戦以前の労働運動を一貫して同質のものとみていた──たとえば、明治初年の高島炭坑の暴動も、足尾暴動もともに「原生的労働関係に対する自然発生的抗争」とする如く──ことに対し、日露戦争前後の時期に労資関係に、また労働運動に、質的な変化が生じていることを明らかにした点にある。

 一方、これと前後して大河内理論の突然の転換がおこなわれた。ほぼ同趣旨の論文が多数発表されているが、運動史にかかわるものをあげれば次のとおりである。「企業別組合の歴史的検討」(「労働運動史研究」第15号、1959年)、「労働運動史研究の方法についての若干の考察」(『労働問題研究の現代的課題』所収、1960年、ダイヤモンド社)、「企業別組合論の再検討」(「労働運動史研究」第25号、1961年)、「日本労働運動史における問題と方法」(『講座日本の労働問題』第4巻所収、1962年)
 これらの論文で大河内氏は「明治から今日にいたるまでの一切の日本の労働問題」を同質のものと見た従来の見解から一転して、次のように主張する。明治から大正初期にかけては、横断的な労働市場の上に横断的な労働組合が存在した。しかし、第一次大戦後の恐慌から満州事変にかけての時期を境に労働市場は大企業によって封鎖される。戦後の企業別労働組合は、この封鎖された労働市場と長期の雇用慣行の上に成立したのである。
 この新「大河内理論」は、論者自ら「思いつき」と認めているように、ほとんど実証ぬきで提示されたものではあるが、その後の労働運動史研究の方向に大きな影響を与えた。これについては後述する。
 ところで、ここで見落すことができないのは、新「大河内理論」が旧「大河内理論」(=出稼型論)と論理的に全く整合していないことは明白であるにもかかわらず、大河内氏が出稼型論に対する自己批判ぬきで(あるいは両者を論理的に整合的なものとして提示する努力なしに)この「転換」を行なわれたことである。新「大河内理論」そのものに対する検討*3もさることながら、この「転換」にあたって示された大河内氏の姿勢には、研究者としての節操を疑わしめるものがあったことを指摘せざるを得ない。





 (1)犬丸義一『歴史科学の課題とマルクス主義』(1970年、校倉書房)

 (2)松沢弘陽氏には、この論稿の続編ともいうべき「マルクス主義における思想と集団」(1960年、『近代日本思想史講座』筑摩書房所収)がある。

 (3)この点については、本書238ぺージのほか飯田鼎「労働運動史のための一試論」(「日本労働協会雑誌」47号、1963年)中西洋「いわゆる『日本的労務管理』について」(『日本の労使関係』所収、1967年、日本評論社)、高木督夫「日本資本主義に固有の低賃金とその形態変化」(『労働組合運動の理論』第2巻所収、1969年、大月書店)、兵藤釗『日本における労資関係の展開』(後出)など参照。





2. 方法上の転換

 ところで、1950年代前半までの研究は、その立場はともあれ、日本の労働運動を全体的に把握しようとするものが主であった。しかし50年代末以降の研究は、一般に運動の全体像を描くことを将来の課題として残し、個別的、実証的研究に沈潜していった。この方法上の転換を象徴的に示したのは、1960年秋に「労働運動史」を共通論題として開かれた社会政策学会の大会であった*4。共通論題の報告者は、岸本英太郎、渡部徹、白井泰四郎の各氏と二村の4名であったが、岸本、渡部、白井の3氏は一致して、従来の日本労働運動史研究は労働組合運動と社会主義運動との本質的な相違を無視、あるいは混同していると批判され、両者を区分して把握し、その本質・役割にしたがって評価すべきであると主張された*5。渡部氏は報告とほぼ同旨のことを「日本労働運動史分析の方法論−政党論・労働組合論をめぐって−」(「社会労働研究」第12号、1960年)に発表され、白井氏もまた「戦前における労働組合主義の評価について−労働運動史方法論への反省−」(「日本労働協会雑誌」第23号、1961年)でこの主張を詳細に述べられた。渡部氏の論旨は、つぎの3点にまとめることができる。
 (1)労働運動は本質的に役割、目的、性格の異なる労働組合、社会主義、政党という3つの要素の複合体である。
 (2)したがって、労働運動は、これらの要素に即してまず分析さるべきである。
 (3)その際、それぞれの運動の評価は、その組織論的な本質・役割にしたがってなさるべきであるというのである。

 白井氏の論旨も基本的には渡部氏と同一であるが、力点は従来の労働運動史で否定的に評価されてきた労働組合主義を賃労働の集団的売手という労働組合本来の機能に即して再評価すべきであるというにある。そしてこれまで、右翼組合の研究が空白であった原因は、労働運動を一括して反体制運動ととらえていたことにあると指摘し、さらに運動史研究におこりがちな史料の主観的価値評価をいましめ、関連史料の広範な蒐集とその照合、および「史料に表現される事象と事象との因果関連とその論理をとらえること」の重要性を強調された。

 従来の研究が、とかく労働組合運動と社会主義運動を混同しがちであったことは事実であり*6、その点では渡部氏らが労働運動を異なった諸運動の複合体としてとらえるべきであると主張されたことは有意義であった。また、具体的、全面的な検証をせずにつねに左翼に高い評価を与え、右翼に低い評価を下す「善玉・悪玉」史観を批判されたことも正当であろう*7。しかし、この提唱には、いくつか納得できない点がある。
 その一つは、労働組合運動、社会主義運動、政党運動の、「評価の基準」として主張されるそれぞれの「本質的役割」あるいは「本来的機能」についての規定が必ずしも明確でないことである。とくに、社会主義運動、政党運動についてそれがいえる。白井氏は、労働組合の本来的機能は「賃労働の集団的売り手」であると規定されるが、他のものについては全くふれるところがない*8
 渡部論文は、それぞれの「本質的性格」について、次のように述べている。

 労働組合運動は「本来労働者の自然発生的な経済的な生活擁護(労働条件の維持改善)の運動として発生する。そして組合運動はこの目的を達成するためには、組織力の強大(量的力)を不可欠の条件とする。……組合はそれ自身資本主義の変革といった高度な運動を展開する条件をもたないことはもちろん、政治闘争にもある限度をもたなければならない。……これに対し、社会主義運動は、理論的・思想的に、資本主義経済のもとでは労働者階級の解放はありえないという社会主義理論を、組合の内外の労働者大衆に宣伝・啓蒙する思想運動である。したがって社会主義運動は、本来、労働組合運動の外で発生し、系譜的に労働組合とは全く異なっている。しかし社会主義運動が労働組合内外の労働者の意識の変革を発展させれば、必然的に経済的・政治的に資本主義を変革する運動の必要なことが提起されざるをえない。かくして、社会主義運動と労働運動とが結合し、政治的な変革の実践が要請されるとき、階級政党運動(革命運動)は日程に上る。この意味では、革命運動は前二つよりは、次元の一段高い運動といえよう。社会変革をめざし、直接、権力奪取を狙うこの運動は、したがって労働組合のように量的な偉力もさることながら、それ以上に思想的・政治的統一性と堅固な組織性(鉄の規律による団結)を必要とする。その意味で階級政党は階級の指導部であり、前衛である。……労働者の政党といっても、階級政党=革命政党以外に改良主義政党も現実にありうる。しかし組織論の見地からすれば、たとえその政党が労働組合運動の延長線上にあるといっても、すでに労働組合の政治部ないし政治委員会ではなくて、独自の政党的形態をとれば、階級政党と組合との関係と同様に律すべきである。」(傍点引用者)

 この渡部氏の主張は、労働運動が単一のものというより労働組合、社会主義、政党という異なった要素の複合体であることを示し、これらの区分の必要を指摘する限りでは了解しうる。しかし、問題は渡部氏が3つの要素の区分の必要性を指摘するだけでなく、「それぞれの運動は、組織論的な本質・役割にしたがって評価されなければならない」(傍点引用者)と主張するときにおこってくる。たとえば、思想運動である社会主義運動を「評価」する「組織論的な本質・役割」とはいかなるものであるのか。また「革命政党」と「改良主義政党」をともに「評価」する「組織論」的基準はいかなるものであるのか。しかも渡部氏は、イデオロギーによる評価は、「政党論の、それも一つの側面にすぎない」として排し、「組織論」に分析の基準を求められるのであるが、組織論はすぐれてその運動体のイデオロギーとかかわっているものではなかろうか。また、「組織論」そのものが歴史的に変化するものではないか。
 また、渡部、白井氏が一致して労働組合運動を評価する基準として示されている「労働条件の維持・改善のための労働力の売り手の組織」という規定にしても疑問がある。なぜならば、この基準だけで律したとき、戦前の日本には労働組合は全く存在しなかったという結論になりかねない。少なくとも鉄工組合や友愛会などは「賃労働の集団的売り手」とはいえないから、この基準では否定的な評価しか導き出せないことになる。イギリスの労働組合運動の総括から導き出された定義をそのまま日本労働運動史を評価する基準とすることは歴史の方法として有効とはいえないのではなかろうか。

 渡部氏らの主張に対する第2の疑問は、諸運動の複合体である労働運動全体について評価の基準が全く示されていないことである。渡部氏は労働運動を構成する3要素をあげ「労働運動はこれらの要素に即してまず分析され、それぞれの運動は、組織論的な本質・役割にしたがって評価されなければならない」と述べられている。また、「組織論的に日本労働運動は、混乱と偏向にみちている。このもつれは、複雑であるだけに一旦ときほごさなければ、科学的に分析できないのではないかと思う」ともいわれる。「まず分析」し「一旦ときほごす」ことを主張されるからには、次の段階では、労働運動全体を総合して、評価することが当然前提されていると考えられるが、その際の基準は全く示されていない。

 その後、渡部氏は、こうした立場から、第一次大戦後の労働運動に関する数多くの研究を発表された。主なものを発表年次順にあげておこう。『講座・現代反体制運動史』第2巻(1960年、青木書店)、「無産階級運動」(『日本歴史』第20巻所収、1963年、岩波書店)、「大正八年における労働組合論の検討」(「人文学報」第20号、1964年)、「日本的労働組合論の形成過程」(「日本労働協会雑誌」第67号、1964年)、「日本における労働組合法案の登場をめぐって(上)(下)」(「日本労働協会雑誌」第87、88号、1966年)、「第1次大戦後の労働運動思想の推移(上)(中)(下)」(「日本労働協会雑誌」第102〜104号、1967年、のち補正して井上清編『大正期の政治と社会』所収、1969年、岩波書店)、「第1次大戦直後の労働団体について」(「人文学報」第26号、1968年)、「日本のマルクス主義運動論」(『講座マルクス主義』第12巻所収、1969年、日本評論杜)。
 これらの研究は、一次資料を駆使してきめ細かに第一次大戦後の労働運動の理論的、思想的側面を追求し、いくつかの重要な事実を明らかにしている。しかし、方法論的にはさきに提起したところを発展させていない。というより、研究の主題を重要ではあるがきわめて限られた論点──労働組合運動と社会主義運動の癒着という日本労働運動の病根を主体的・歴史的に追求すること──に集中しているため、方法的には発展性をもち得ないでいるように思われる*9

 むしろここでは、社会主義運動史の方法として、「広い意味での社会主義政党(無産政党を含む)ないし社会主義的組織をめぐって展開された理論の史的発展を明らかにしようと試みた」労作、岡本宏『日本社会主義政党論史序説』(1968年、法律文化社)に注目したい。岡本氏は、日本における社会主義運動、社会主義理論の発展を、「組織論」そのものの歴史を基軸として追求し、すぐれた成果をあげている。「組織論」は、ここでは決して固定的なものではなく、運動の展開に伴って発展するものとして把握されている。渡部氏らの方法に欠けているのは、まさにこの視点である。




*4 この大会については栗田健氏による報告がある(『季刊労働法』第38号、1960年12月)。氏はこの大会を「学会の歴史に一つの曲り角をもたらした。…およそ労働問題に関心を持つ人ならば、この大会での共通論題をめぐる報告、討議の持つ意義に充分な検討を加える必要があると思われる」といち早く指摘されている。

*5 この大会の共通論題の報告者と座長を予定されていた大河内一男氏も、3氏とほぼ同様の主張をされている。大河内一男「労働運動史の方法についての若干の考察」(前出)同『社会政策四十年』(1970年、東大出版会)など参照。

*6 渡部氏の援用される大河内一男氏にしても例外ではない。むしろ、前掲『黎明期の日本労働運動』は、労働組合運動と社会主義運動との区分を欠いた著作の最たるものである。

*7 全面的な検討ぬきで、つねに右翼に高く、左翼に低い評価を下す、裏がえしの「善玉・悪玉」史観も同様に批判さるべきであろう。

*8 白井論文で主張されている史料批判の問題については同感するところが多い。しかし、この主張が白井論文そのものの実証的部分に生かされているとは思えない。
 また、白井氏は日本労働組合会議を高く評価されるのであるが、その評価にあたって、組合会議を構成した各組合や、日本労働組合会議自体が「賃労働の集団的な売り手として、労働者の労働条件なり生活条件の維持改善のために、どのような組織をもち、政策を立て、活動を展開し、その結果、所期の目的についてどれだけの実績をあげたか」、という自ら提起された基準にもとづいて検討されていないのは何故であろうか。

*9 一般に渡部氏の方法は「かくあるべきであったのに、不幸にして事実はこうであった」式の評論に傾斜して、何故そうなったかという因果関係の追求に弱い。とくに運動がおかれていた客観的条件の検討を軽視しているように思われる。労働運動においては「かくあるべき」ことの認識が大衆的に定着するには、「こうであった」段階、あるいは「こうでしかあり得ない」段階を経過せざを得ないことがあるのではないか。






3. 組合研究から争議研究へ

 60年秋の社会政策学会でもう一人の報告者であった二村は、先にのべた出稼型論批判を前提にして次のように提唱した。

 「必要なことは、日本資本主義の資本蓄積の、運動法則と日本労働運動の歴史的変化との内的な相互連関を明らかにすることである。これには、生産諸力の発展に伴う生産諸関係の変化が具体的に把握されねばならない。これは従来の一般的な日本資本主義発達史の成果を労働運動史に適用するといった方法では不可能であろう。さし当り、われわれの研究の現状では、各産業部門ごとにその資本蓄積の進行にともなう生産過程、労働組織、労働市場の変化とその特質を明らかにし、それを労働者の主体的な運動との相互関連を明らかにすることから始められるべきであろう」。

 ここでも、運動の全体像を描くことは将来の課題として、「さし当り、われわれの研究の現状では」、特定の産業部門を対象に研究を進めることが主張されている。特定の産業部門を対象に、資本蓄積の進行にともなう生産過程、労働組織、労働市場の変化と労働運動との相互連関を追求するという方法による研究は、その後、いくつかの注目すべき成果をあげている。といっても、対象となった産業分野は、軍工廠、造船業を中心とする機械工業に限られているのであるが*10
 関連する論文は少なくない*11。しかし、さし当っては兵藤釗、池田信両氏の仕事について検討すれば足りるであろう。まず問題となるのは、兵藤釗「鉄工組合の成立と崩壊(1)(2)(3)」(「経済学論集」第31巻第4号、第32巻第1号、同第2号、1966年)、同「第一次大戦後の労資関係(1)(2)」(「経済学論集」第30巻第4号、第31巻第1号、1965年)である*12
 この2論文は、従来の労働運動史研究がほとんどふれることがなかった重工業大経営の労資関係の歴史的推移を綿密に追求した最初の仕事として注目される。兵藤氏はここで未発表の企業内資料をも利用して、資本蓄積の進行に伴う労働力類型の変化、技能養成制度の変化、さらに労働市場の構造、賃金構造と賃金水準、労働者の生活構造の推移について詳細にあとづけ、さらに、それらとの関連において鉄工組合の成立と崩壊の動因を追求し、あるいは友愛会の職業別組合主義から産業別組合主義への転換の根拠と限界を論じ、また1921年の団体交渉権獲得運動と工場委員会制の成立の意義をのべている。
 兵藤氏の研究の意義は、何といってもこれまで未開拓であった重工業大経営における労資関係の歴史的推移を実証的に明らかにしたところにある。今後の研究は、この成果の検討を避けて通ることはできないであろう。これに対し、労働組合運動について論じた部分は、日本においては、イギリスに見られたような徒弟制度は確立せず、労働組合が入職規制による労働力の供給制限をおこないうる条件はなかった」という命題によってすべてを裁断した傾きがあり、ただちに、いくつかの批判を招くことになった。しかし、この命題は、それ以前の大河内、隅谷両氏らの研究が、鉄工組合をイギリスの19世紀中葉の新型組合のアナロジーでとらえていたことに対しては必要な指摘であり、有効な批判であったといえよう。
 ここで問題となるのは、なぜ日本においては徒弟制度が確立しなかったのかということである。この点を兵藤氏は次のように説いている。

「〔18〕80年代後半以降新たな展開の緒についた重工業が日清戦争を契機として急速に拡大を遂げるようになると、新しい生産技術の導入によって労働過程が機械化され修業中の徒弟でもある程度作業しうるようになったうえに、労働需要の増大によってかような徒弟でも相当の賃金を得られる雇用機会が生れてきたため、もはや親方労働者が僅かな小遣を与えて徒弟を養成するという慣行は維持し難くなってきた。」
「親方労働者が徒弟を養い、徒弟に対して強い規制力をもっていた職人的徒弟制度が殆んど崩壊し、見習職工制度を通じて雇主が技能養成の過程を把握しつつあったような状態、しかもその見習職工制度さえも形骸化するほど見習職工が容易に熟練労働市場に入りうるような条件が存在したもとでは、組合規制によって入職制限を貫ぬくことはきわめて困難であった。」

 兵藤氏は、旧来の職人的徒弟制度の下では、徒弟に対する強い規制力が存在したことを、当然の前提とされているかのようである。そして、この職人的徒弟制度は、先進資本主義国からの進んだ技術の導入によって、また日本資本主義の急速な発展に伴う労働力需要の急増によって崩壊したと主張されている。この点では、次に見る池田氏もほぼ同じ見解である。ただ池田氏にあっては、先進技術の導入によって「旧来の鉄工業における職人層と近代的重工業における職工層とは、技術的にも、人的にも連続性にとぼしい」ことが強調されている。
 しかし、ここで考える必要があるのは、もし旧来の職人的徒弟制度の規制力が強固なものであったならば、果して日本資本主義はこのように急激に発展しえたであろうかということである。この点について、中西洋「日本における重工業大経営の生成過程──幕末長崎製鉄所とその〃労資〃関係──」(「経済学論集」第35巻第1号〜第3号、1969年)は次のような重要な事実を明らかにしている。
 すなわち、幕末日本においては、既に「〃職人ギルド〃=自律的な規制」は全く欠如していた。職人の「労働移動は、一応の手続きをふむ限りはほぼ全く自由であり、これを律しうる原則は商品経済のそれ以外にはあり得ないことも既に後の時代と本質的に異なるところはなくなっていた」。それゆえに、「〃職種〃観念」もあいまい化され、無視されていた。労働「市場の構造は、基本的には熟練諸職人の市場と不熟練労働者の市場として与えられてはいたが、前者が新たな近代的工場内分業編成に重大な抵抗要因となることもなく、その適応は極めてスムーズに進行したのであった。」
 同様な状況は、金属鉱業の場合にも確認することができるように思われる。なお、この中西氏の論文は労働運動史について論じたものではないが、一経営を対象にその経営内労資関係に視座をすえて分析する方法は、労働運動史研究にとっても示唆的で、学ぶべきところが多い。

 池田信『日本機械工組合成立史論』(1970年、日本評論社)は、兵藤論文とほとんど同じ研究対象──鉄工組合、友愛会、1921年の団体交渉権獲得闘争──について検討し、従来の研究、とりわけ兵藤論文にきびしい批判を加えている。批判の焦点は、従来の研究が、鉄工組合などをイギリスの19世紀中葉の新型組合と「機械的に対比させてその同一性を強調したり(大河内、隅谷−引用者註)、逆に前者をアナクロニズムであると批判して、その独自の史的意義を否定したりする(兵藤)ような見解には賛成」できない。必要なことは日本の機械工組合の独自の成立過程の究明であるというにある。
 こうした批判点に立って、池田氏は鉄工組合や友愛会の支部レベル、工場レベルの組織と活動の実態を解明し、さらに運動を担った「職工活動家」の特質を追求することに力を入れている。兵藤論文が、主として重工業大経営における労資関係の構造とその歴史的変化に重点をおいてアプローチし、そこで得られた命題によって運動を分析したのとは逆に、池田氏は運動それ自体の解明に重点をおいて問題に接近しているところに特長がある。その結論は、いくつかの点で従来の通説をゆるがす内容をもっている。まず、鉄工組合について氏の提起した主な問題を見ておこう。
 (1) 通説では、鉄工組合の構成員は手工的万能的熟練労働者であるとされてきた。これに対し池田氏は、鉄工組合の主力は東京砲兵工廠にあり、そこではすでに大量生産方式が採用されていた。池田氏は、この労働者を「半熟練工」としてとらえているかに見えるが、これが熟練工と全く異質の存在と見るのか否かは明らかでない。兵藤論文でも、東京砲兵工廠では「中小工場とは多少とも異なった熟練、しかも手工的性質の稀薄化された熟練を生み出していた」事実は指摘されている。ただ兵藤氏の場合は、熟練工間の相違であって、異質のものとは考えられていない。これに決着をつけるには、東京砲兵工廠における生産過程、労働力構成などについての実証が必要とされよう。
 (2) 鉄工組合の発展の上で「親方職工」の支持が重要な意義をもっていたことは、従来の研究が一致して指摘している。池田氏は、一口に「親方職工」といってもいくつかの異なった型があることを指摘し、これを()企業の枠をはなれて子方をもつ職工 ()請負制のもとでの親方職工 ()本来の職長の3類型に区分し、()は従来無視されてきたが、日清戦後の時期にはこれが支配的であったと主張される。しかし、()が支配的であったことの論証は充分とはいえない。この点も今後検討の余地がある。
 (3) この他、同盟進工組など鉄工組合に先行する諸組織の性格、鉄工組合の衰退要因などについて従来の説を批判して説得的である。また職工活動家の特質の検討は、池田氏によってはじめておこなわれたところで示唆的ではあるが、推論に若干疑問が残る。

次に友愛会についての池田氏の主張を検討する順序であるが、その前に、友愛会研究一般について見ておこう。というのも、友愛会に関する研究は、ここ十数年の日本労働運動史研究で最も進んだ部分の一つであるからである。まず第1にあげなければならないのは松尾尊兊「友愛会の発展過程」(「史林」第40巻第6号、1957年)、同「大日本労働総同盟友愛会の成立」(「人文学報」第8号、1958年)、同「若き日の鈴木文治とその周辺」(「人文学報」第15号、1962年)──以上いずれも松尾尊兊『大正デモクラシーの研究』(1966年、青木書店)所収──である。
 この松尾氏の一連の研究は、それまで「ダラ幹鈴木文治のつくりだした労資協調団体」というイメージにかくされていた友愛会の姿を豊富な直接資料にもとづいて復元し、日本の労働組合運動の直接の源流という正当な地位に復権させた労作である。その後、中村勝範、川口浩氏らによる研究も発表されたが新たにつけ加えたものはほとんどない。見落すことのできない研究としては、隅谷三喜男「労働運動における心理と論理」(『近代日本思想史講座』第5巻所収、1960年、筑摩書房)、松尾洋「友愛会の創立」(「労働運動史研究」第31号、1962年)、同「友愛会──総同盟の労働組合化・戦闘化過程と三派の発生」(「労働運動史研究」第34号、1963年)、渡部徹「友愛会の組織の実態」(「人文学報」第18号、1963年)、日本労働組合総同盟『総同盟五十年史』第1巻(1964年、総同盟五十年史刊行委員会)などがある。このうち、渡部氏の論文は、機関誌の克明な検討によって友愛会の組織実勢の消長を支部別に明らかにした労作である。

 ここでふたたび池田氏の研究をとりあげよう。『日本機械工組合成立史論』の第2章から第5章である。そこでとりあつかわれているのは、第1に川崎造船所、三菱神戸造船所の労資関係、とりわけその支配管理体系の問題であり、第2に友愛会神戸支部を中心とした友愛会の組織と活動の特質であり、第3には1921年の川崎・三菱神戸両造船所争議の分析である*13。実は、池田氏がこの対象についての研究を発表されたのは、これが2度目である。さきに、大前朔郎氏との共著で『日本労働運動史論──大正10年の川崎・三菱神戸両造船所の争議──』(1966年、日本評論社)を出されている。旧著はその標題に似ず、いささか平板な争議に関する事実の記録に終っていたのに対し、新著は面目を一新している。現在の日本労働運動史研究の一つの到達点を示す作品といっても過言ではないであろう。その方法上のメリットは次の点にある。一つは、問題を支部レベル、経営レベルでとらえていることである。従来の研究は少し極端ないい方をすれば「方針書」と「決議」中心の運動史であった。もちろん、方針書や決議をそれ自体として研究することは可能であり、必要である。だが同時に、労働運動史研究としては、それらの方針書や決議が下部の活動家や一般組合員にどのようにうけとめられ(あるいはうけとめられず)、どのように実践されたか(あるいはされなかったか)ということの検討を怠るわけにはいかない。このことの必要は抽象的にはいえても、実際に検証することはそれほど容易ではない。活動家や一般組合員はトップリーダーとはちがって文書記録を残すことが著しく少ないからである。
 この困難な課題に接近する方法は、まだ充分に開発されていない。しかし、池田氏は労働争議の事例研究によってこの課題に一歩接近することが可能であることを示された。『日本機械工組合成立史論』の方法上のメリットの第2はこの点にある。この指摘の意味を理解していただくためには、若干のより道が必要である。

 この十年来、日本労働運動史研究の主たる課題の一つは、労働組合の組織形態の変化をもたらした要因を把握することにあった。関係する文献をあげれば、次のとおりである。大河内一男「日本的労資関係の特質とその変遷」(「日本労働協会雑誌」創刊号、1959年)、同「企業別組合の歴史的検討」(前出)、同「企業別組合論の再検討」(前出)、隅谷三喜男「産業発展と労働組合」(『産業と労働組合』所収、1959年、ダイヤモンド社)、西岡孝男『日本の労働組合組織』(1960年、日本労働協会)、矢島悦太郎「企業別組合の生成要因」(「労働運動史研究」第26号、1961年)、小松隆二「戦前における企業別労働組合の発生要因をめぐって」(「三田学会雑誌」第56巻第10号、1963年)、同「戦前における企業別組合の展開」(「三田学会雑誌」第61巻第9号、1968年)、同「わが国における労働組合の組織と機能」(「三田学会雑誌」第61巻第11号、第62巻第2号、1968年、69年)、飯田鼎「初期労働組合組織における国際的比較の問題」(「三田学会雑誌」第58巻第2号、1965年)。
 題名からも明らかなように、研究は主として企業別組合の生成要因をさぐるという観点からおこなわれている。ここでも最初に問題を提起し、その後の研究の枠組みを示したのは大河内氏であった。ところで、この大河内氏の「思いつき」の背景には、次のような研究史的把握があった。

 「日本の労働運動史や社会運動史の資料は、戦後たくさん刊行されているし、戦前にも若干あることはありますが、しかし、労働組合運動の歴史という観点に立ってそれらをみると、はなはだお粗末というか、低調で、どちらかというと、無産政党の歴史だとか、あるいは古くは社会主義の各分派の歴史が労働運動史という名前でよばれているのが大部分である。厳密な意味での労働組合の運動の忠実な歴史的記録ということになると、はなはだ貧寒としているというのが、私どもの共通に感じたことでした。もちろん、労働組合にいくらか触れた歴史叙述が従来まったくなかったというのではありません。だがその場合でも多くは、たとえば争議とか、労使間の紛争といった普通の日刊新聞の三面を飾るようなことにつながりのある『事件』の歴史が中心で、労働組合の日常活動の記録はほとんど皆無にちかい。そして、そういうものに関係する限りの組合の規約とか、大会記録、その他労働組合本来のファンクションを知り得るような基礎資料はほとんど提供されていないというのが実情でした。」(前掲『社会政策四十年』、416頁、傍点原文)

 この研究史的把握は、労働組合史研究のたちおくれを指摘した限りでは同意しうる。しかし、問題は労働争議を労働組合の日常活動と切り離した「事件」としてしか見ていないところにある。労働組合が法認されず、政府も資本家も、自主的な労働組合運動に一貫して敵意を抱いてきた戦前の日本において、労働者が労働条件を維持、改善するためにはストライキを武器としてたたかうほかはなかったのである。自主的な労働組合組織の維持とストライキは不可分のものであった。争議を抜きにして「労働組合本来のファンクション」はあり得なかったのである
 さらにいえば、一般に労働争議においては、労働組合の日常活動の記録からは容易にうかがえないさまざまな矛盾が顕在化するのであり、争議を研究することによって組合の日常活動も動態的に分析することができるのである。とりわけ、文書による記録を残すことがまれな活動家や一般組合員、あるいは組合にも参加しない労働者の意識、思想をさぐる手だてとしては、彼等の行動そのものを手がかりにする他はない。また、文書記録にしても争議に関連して残されたものが多い。これを無視しては組合研究も不可能であろう。労働争議は、日本労働運動史の特質を解明するための最も豊かな鉱脈としてわれわれの前に残されている。問題は、それを掘りあてる方法にこそある。

 従来の争議史が、ともすれば労働者がいかに困難な状況にもめげずたたかったかという「教訓に満ちた物語」に終るか、さもなければ争議の統計的分析やストライキの要求項目や結果を一般的な政治、経済、社会情勢によって説明するにとどまっていたことは事実である。おそらく、冒頭に引用した松沢氏の批判や、大河内氏の争議史に対する否定的評価も、こうした研究状況に対する批判として出てきたものであろう。この点を打開して研究を前進させるためには、各時期における代表的な争議についての徹底した事例研究による他はない。これには、先に私自身が主張したような一産業における産業的諸条件の変化と労働運動との関連を一般的に問題にするだけでなく、一経営を対象に、その資本蓄積の運動にともなって変化する労資関係の具体的な存在様式を解明することが必要である。このことによって、争議の当事者の性格、特質を解明することが可能になると考える。この点で、前掲の中西洋論文は示唆に豊んでいる。
 各時期における争議研究の必要を主張するのは、各時期の争議を比較検討することによって、運動の歴史的特質を解明することが可能になると考えるからである。これは、ごく当りまえのことではあるが、実際にはわれわれの研究はまだこの点に真正面からとりくんでいない。むしろ松沢氏や大河内氏は、この差異を無視、あるいは軽視している。
 さきにも述べたが明治初年の炭鉱暴動も、日清戦後のストライキも、日露戦後の争議も、すべて「苛酷な労働条件に対する自然発生的闘争」として片づけられているのである。「自然発生的」というのは労働組合などの意識的な指導によるものでないという意味で使われているのであろうが、社会現象である争議や暴動が文字通り「自然発生」するわけはない。ある一定の時期に、一定の産業、特定の企業に起った争議を具体的に分析し、他の時期と比較することによって、一口に自然発生的として片づけられているもののなかの質的な差異、歴史的発展を跡づけることが可能になると考える。池田氏は1919年の川崎争議、21年の川崎・三菱神戸両造船所の争議(4)についてこれを行なって、ある程度成功している。日清戦後、日露戦後の争議と比較、検討を加えれば、1921年の争議の歴史的特質も一層明らかなものとなったと思われる。




*10 機械工業以外では次のものをあげうる程度である。鼓肇雄『戦前における愛知県労働組合運動史』(1963年、風媒社)、同「日本型クラフト・ユニオンの形成と崩壊」(「日本労働協会雑誌」第48号、1963年)、安井二郎『繊維労使関係の史的分析』(1967年、お茶の水書房)、庄司吉之助「常磐炭礦労働運動小史」(「商学論集」第37巻第2号、1968年)、村串仁三郎「高島炭坑における納屋制度の成立」(「商経論集」第6号、1968年)、同「明治中期高島炭坑における納屋制度の構造」(同第7号、1969年)、二村一夫「全国坑夫組合の組織と活動」(「大原社研資料室報」第159号、第168号、1970年)

*11 内藤則邦「産業資本確立期における『鉄工』の形成と陶冶について」(「立教経済学研究」第16巻第2号、1962年)、同「『鉄工業』における労務管理の形成」(「立教経済学研究」第17巻第3号、1963年)、小松隆二「戦前日本の労働組合──石川島造船所における労資関係をめぐって(1)(2)」(「三田学会雑誌」第60巻第1号、同第2号、1967年)、同「製綱労働組合の組織と活動」(「三田学会雑誌」第60巻第10号、同61巻1号、1967年)、同「戦前・芝浦製作所における労働運動」(「経済学年報」第11号、1968年)、同「機械労働組合連合会の組織と活動」(「三田学会雑誌」第61巻第5号、1968年)、飯田鼎「鉄工組合と黎明期の日本労働運動」(「三田学会雑誌」第60巻第8号、1967年)

*12 本稿をほぼ書き終えたのちに、兵藤釗『日本における労資関係の展開』(1971年、東大出版会)に接した。本稿でとりあげた論文が大幅に加筆訂正されて収められている。

*13 1921年の川崎・三菱両造船所争議については、旧兵庫県労働研究所のスタッフの努力によって多くの資料が発掘され、争議経過や問題点が明らかにされたことを見逃すことはできない。この争議に関する文献・資料については、渋野純一「大正一〇年川崎・三菱大争議の文献と研究史」(「歴史と神戸」第27号、1967年)参照。なお、その他の争議に関する最近の研究としては、次のものがある。庄司吉之助「日鉄機関方職工同盟罷業の意義」(「商学論集」第36巻第4号、1968年)、広川禎秀「北海道における炭鉱労働者の形成と一九〇七年の北炭争議」(「日本史研究」第114号、1970年)






 

4. 若干の補足

 以上で与えられた紙数はほとんどつきてしまった。最後にこれまでふれえなかった通史、地方運動史、労働組合史、資料集について簡単に紹介しておこう。
 〈通史〉
 この十数年間に出た通史は多くない。年次順に列挙すれば次のとおりである。
 『講座現代反体制運動史』全3巻(1960年、青木書店)、労働運動史研究会他編『日本労働運動の歴史』(1960年、三一書房)、塩田圧兵衛『日本労働運動の歴史』(1964年、労働旬報社)、松尾洋、大河内一男『日本労働組合物語』(1965年、筑摩書房)、隅谷三喜男『日本労働運動史』(1966年、有信堂)、小山弘健『日本労働運動史』(1968年、社会新報)、労働運動史研究会『日本労働運動の歴史と課題』(1969年、労働旬報社)。
 このうち労働運動史研究会、塩田、小山両氏のものは、労働者向けの啓蒙書である。『反体制運動史』は多数の研究者の共同執筆であるが、共同作業のプラスよりマイナス面が目立ち、一貫した通史としては成功していない。松尾洋氏らの『物語』は豊富な資料に裏づけられ、史実について数多くの新発見がちりばめられ、興味深い読み物となっている。
 研究史の上で最も検討を要求されるのは隅谷三喜男『日本労働運動史』であろう。著者は、自らの方法について次のように述べている。
 「労働運動史は基本的には賃労働史の一環として分析さるべきであると考えている。ということは、賃労働の再生産の構造──それは日本的特質をもちながら歴史的に変化する──とかかわらせて、労働運動史を分析すべきであるということを意味している。したがって、労働組合運動はきわめて重要な内容をなすが、それだけでなく、一時的なものであっても、労働階級の組織的活動──たとえば争議団──は、すべて分析の対象に加え、労使の対抗関係を、その対抗物としての協調組織も含めて全般的に考察すべきものと考える」。
 この方法は、渡部氏が主張した労働運動の3つの要素のうちの労働組合運動を「賃労働史」におきかえたもののように思われる。「労働階級の組織的活動はすべて分析の対象に加え」ると述べながら、実際には労働者政党の活動は意識的に研究対象から除かれている。渡部氏の場合には、一応総体としての労働運動史が前提され、各要素に即して「まず分析され」ることが主張されているのに対し、隅谷氏は、政治運動、政治問題を捨象した労働運動の通史が可能であると考えておられるかの如くである。労働組合と社会主義運動が「無批判に統一的に叙述された」ことの反省の上に書かれる労働運動史に要求されるのは、「批判的に統一的に叙述する」ことであって、両者を別個に叙述することではないであろう。このようにいったからといって、社会主義運動史、あるいは労資関係史は無意味だとか不可能だと主張しているわけではない。ただ、すぐれた通史は全体像を描くことを要求されるということ、また、部分史としての自覚を欠いた部分史は、それ自体としても説得性を欠くことになることをいいたいまでである。

 〈地方運動史〉
 渡部徹編著『京都地方労働運動史』(1959年、同編纂会)は、研究者の共同作業によって広範な資料収集と関係者からのききとりをもとに、詳細に史実を記録した労作である。その後、青森、埼玉、千葉、神奈川、兵庫などで相次いで刊行された地方労働運動史は、多かれ少なかれ、この書を模範にしている。これらは、研究文献というより、事実史あるいは資料集的性格が強いが、それを更に徹底したものが『資料愛媛労働運動史』全9巻(1950年〜65年、愛媛県商工労働部)である。最近の地方労働運動史研究のなかで注目されるのは斎藤勇『名古屋地方労働運動史(明治大正篇)』(1969年、風媒社)で、単なる地方労働運動史ではなく名古屋を舞台とした日本労働運動史となっている。

 〈労働組合史〉
 戦後も25年たって、各組合や単産で組合史がつくられている。もちろん戦後が中心であるが『全逓労働運動前史』全3巻(1965年)、『大交史』(1968年)などは戦前について詳細である。なお、地方労働運動史、労働組合史については、渡辺悦次・高橋敦子「戦後労働組合史文献目録」(「労働資料」第35号別冊、1968年)、あるいは渡辺悦次「戦後労働組合史文献目録(1)(2)」(「労働運動史研究」第47号、50号、1967年、69年)が網羅的な文献リストであるので参照されたい。

 〈資料集〉
 この十数年間の日本労働運動史研究で最も進んだ分野は、研究そのものより、研究の前提条件である資料の発掘、整理、資料集の刊行である。とりわけ明治期については主要な運動機関紙誌はほとんど覆刻されたほか、各種の資料集や指導者の全集、著作集の編さんや官庁資料の覆刻も進んでいる。経営の所蔵資料、警察・裁判関係のものを除き基礎的な資料はほぼ出そろったといえる。主なものだけあげれば次のとおりである。

 機関紙誌──労働運動史研究会編『明治社会主義史料集』全20巻(明治文献)、労働運動史料委員会編『労働世界』(同委員会)。

 資料集 社会問題・社会主義運動関係──岸本英太郎他編『資料日本社会運動思想史』全6巻(青木書店)『明治文化全集・社会篇』(日本評論社)。労働者状態、労働運動関係──労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第1巻〜第3巻(同委員会)。各種調査──『生活古典叢書』(光生館)。
 これにくらべ大正期以降については、機関紙誌の覆刻も資料集の刊行もようやくはじまったばかりである。主なものは次のとおり。

 機関紙誌──総同盟五十年史刊行委員会『友愛新報』(柏書房)、総同盟五十年史刊行委・法政大学大原社研共編『労働及産業』(既刊2冊)(法政大学出版局)、法政大学大原社研編『新人会機関誌』、同『建設者同盟機関誌』(法政大学出版局)。なお以上のうち『友愛新報』のほかは法政大学大原社研編『覆刻シリーズ日本社会運動史料』機関紙誌編として刊行されたもので、今後も同シリーズとして労働組合、農民組合、無産政党などの主要機関紙誌の覆刻が予定されている。

 資料集──山辺健太郎編『現代史資料・社会主義運動』(既刊7冊)(みすず書房)、法政大学大原社研『日本労働組合評議会資料』(既刊11冊)、鈴木茂三郎他編『社会文庫叢書』全9巻(柏書房)、労働運動史料委員会編『日本労働運動史料』第7、9、10巻(同委員会)、田中惣五郎編『資料大正社会運動史』上下巻(三一書房)

文献目録
 本稿では社会主義運動史や運動指導者の伝記的研究にはほとんどふれえなかった。また、労働組合運動史についても充分網羅的ではあり得なかった。この点は、小山弘健『日本労働運動・社会運動研究史』、岡本宏『日本社会主義運動論史序説』、松尾洋他『日本労働組合物語』、住谷悦治他『講座日本社会思想史』全6巻(芳賀書店)に参考文献のリストが付されているので、これによって補っていただきたい。


初出は、労働問題文献研究会編『文献研究・日本の労働問題《増補版》』(総合労働研究所、1971年)所収。




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法政大学大原社会問題研究所          先頭へ



Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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