よくいろいろな方から聞かれるのは、大原孫三郎さんは、大原社会問題研究所を創立し、維持するのに、いったいどれほどお金を出したのかということである? これはかなり正確に分かる。研究所は昔から資料保存を旨とし、帳簿類がきちんと残されているから。それを集計してみると、彼がさまざまな形で支出した金額は、研究所の創立以降、一九三九(昭和一四)年までの二一年間に、総額約百八十五万円になる。
といっても、今とは貨幣価値が違い過ぎ、その値打は分かりにくい。しかしまた、物によって価格上昇率に大きな違いがあるから単純な比較も出来ないが、仮に一千倍とすると一八億五千万円、五千倍なら九二億五千万円、一万倍とすると一八五億円になる。バブルの最中にゴッホの〈ひまわり〉に五八億円も出した企業があることを思えば、意外に少ない。しかし一個人がよくもこれだけ出したものではある。
年別に内訳けをみると、創立の一九一九(大正八)年は二十万円余、うち十万円は大阪市天王寺区伶人町の土地九六六坪(三一八八平方メートル)の代金である。一平方メートル当り三一円、坪にして一〇三円余。今ではその一万倍ではとうてい買えまい。どんなに低く見積っても一〇万倍にはなるだろう。なお、この機会に訂正しておきたいが、『大原社会問題研究所五十年史』が土地購入価格を九万円としているのは誤りである。契約成立時に手付金一万円を支払っているのを見落としたものらしい。また、買ったのは更地でなく一四軒の家屋があり、その家屋の代金や一部所帯には立退き料を支払っており、土地取得にかかった経費はこれより若干多い。
その後も、事務所や書庫、講堂など延べ五〇三坪、一六六〇平方メートルの建築費二五万円や、図書収集をかねてイギリスやドイツに研究員を留学させた費用などの特別経費があるため、毎年一〇万円を超える額が支出されている。とくに一九二〇年は一七万五千円、一九二三年は一五万円余と多くなっている。 一九二三(大正一二)年暮、研究所は大原孫三郎の個人経営から財団法人となるが、彼のポケットマネーで維持されるという実質に変わりはなかった。
ただ一九二四年から特別支出はなくなり、一九三三(昭和八)年まで毎年経常費として八万円余が寄付されている。これは、基本金を一〇〇万円とし、その利子相当として決められた金額である いわゆる〈研究所の存廃問題〉が持ち上がるのは、一九二八(昭和三)年の三・一五事件がきっかけだが、実際に寄付が打ち切られたのはその一〇年以上後のことである。ただ一九三四年から寄付額は、年六万五千円に減額されている。孫三郎が最後に出したいわば〈手切れ金〉とも言うべきものは総額八万五千円、毎月二千円余を支払う約束であった。
しかし、送金を担当していた倉紡秘書課があまりに事務煩雑であるとして、一九三九年七月、残りの一年足らずの分を一括して支払い、これによって孫三郎と研究所との金銭上の関係は終わった。この時、敬堂・大原孫三郎がどんな感慨を抱いたか知る由もないが、おそらく大きな重荷を下ろした思いだったに違いない。
初出は『大原社会問題研究所雑誌』第三五九号(一九八八年一〇月)