前回は後藤貞治の連想から土蔵のこと、それも戦後の話になってしまったが、今回は話題を昔に戻し、天王寺の研究所について紹介しよう。
大原研究所は創立当初は大阪南区にあった社会福祉施設・愛染園に仮事務所をおいたが、一九二〇年七月研究所本館が落成したので、九日に開所式を、翌一〇日に各方面の人を招き施設を披露した。ベルギーのソルベー研究所を模したこの本館は、木造二階建て六三七平方メートル、当時としては堂々たる建築であった。なおモデルにしたソルベー研究所は、炭酸ソーダの製造技術を開発した企業家であり、社会改良家でもあったE・ソルベーが設立した自然科学と社会学部門をあわせもつ研究所である。大原孫三郎は、経営者ながら社会改良家でもあるソルベーが設立経営した研究所に親近感を覚え、これをモデルにしたのであろう。
ところで、この開所披露に招かれ、その様子を記録してくれた新聞がある。ほかならぬ荒畑寒村主筆の『日本労働新聞』である。署名はないが、いささか古風な、しかし達者な筆は、おそらく寒村その人のものであろう。
天王寺畔の大原社会問題研究所、工事落成して七月十日その開所式を行った。記者も案内を受けたので、雨の中をお館拝観に出かけたが、流石は大原長者が浄財を投じて建立しただけあって、規模こそさして大ならね、瀟洒たる館ぶりである。
丁重慇憖なあんないにつれ、所内を隅なく巡覧したが、本館は階下中央の図書閲覧室を囲んで、研究室、実験室、事務室、雑誌閲覧室、図書事務室、講堂、書庫等合わせて十室、階上は応接室、寝室、研究室、会議室、書庫、講堂合わせて十室、合計二十室より成っている。
案内の人がまだ整理がつきませんのでと断られたが、成る程書庫などはまだ雑然として、一向に秩序立っていなかった。記者が何時から図書館を公開されますかと聞いたら、十月頃からだろうと云ふことであったが、之は一日も早く実現して頂きたいものである。それと諸外国の労働組合の機関紙を取り揃へて貰ひたい。記者の如きはそう云ふものを蒐集して労働問題の研究者に公開するのが、大原社会問題研究所の一番意義ある使命だと思っている。兎に角、万事万端、小ヂンマリと整った、好個の研究所である。
二階の応接室から見ると、天王寺の五重の塔が雨に煙っている。「いいなア」と云ったら「旧い趣味だな」と同所の堀田君に冷やかされた。休憩室に充てられている階下の講堂へ行くと所長の高野博士が愛想良く茶菓をすすめられる。森戸辰男氏が忙しそうに出たり入ったりしている。久留間鮫造氏に会ふ。友愛会の西尾末広君らと話す。何所のホテルかレストランか、当日の賄ひ方を引き受けていると見へて、料理場にはコックが立ち働き、雪白の服装をしたウエイタが、ひっきり無しに冷紅茶やら、西洋菓子やらを運んで来る。到れり尽くせりのおもてなしである。
雨も晴れたので、帰ろうとして廊下に出ると、何の必要があるのか知らないが、警部や巡査が大勢、臆面もなく入り込んでやがる。胸クソが悪いから、楽天地に跳込んで、逸見君が送った何たら丈に贈る、日本労働新聞社荒畑寒村という引幕を見やうとしたら、警察が止めたとかで其幕を引きよらん。とうとう癇癪玉を爆発させて、おとなしく社に帰る。
ブルジョアが作った研究所に対する社会主義者の紹介としては、思いのほか好意的である。「森戸事件」の渦中の人物をはじめ研究所のスタッフが、労働運動の支持者であったことがこうした評価となったのであろう。
実はこの日の夜七時から、友愛会大阪聯合会の主催で労働講座が開かれている。当初は研究所の開所式に出席予定の鈴木文治、北沢新次郎、それに森戸辰男を講師に迎えるはずであった。しかし鈴木、北沢両氏は欠席、森戸氏が公開の講演を遠慮するとして、賀川豊彦独演会になっている。だが、講演会後に森戸氏を囲む会が開かれ、氏は「本日、ある人が大原研究所に来て、今度国立精神病院を設けるので森戸のような危険な精神病者は、さっそく収容せねばイカぬと云った」と語っている。前途多難を思わせる研究所の門出ではあった。