(22) お年取り料理
いささか季節はずれの話題で恐縮だが、年越しそばや「おのっぺ」を取り上げたついでに、わが家の「お年取り料理」のことを書いておこう。「お年取り料理」といっても「おのっぺ」のほかは、いわゆる「お節料理」とほとんど変わりはない。定番の数の子、田作り、昆布巻き、きんとん、紅白なます、黒豆などなどであった。
戦後になって物資がいくらか出回りはじめ、雑誌やテレビでお節料理の作り方が紹介されるようになると、母はそれまで作ったことのない伊達巻きを焼いたり、錦玉子を蒸したこともあった。しかし、それも試しに作ってみたという程度で、定番にはならなかった。私自身も、吹き寄せのお煮染めを作って大いに好評を博したことがある。しかし、里芋、八頭、人参、蓮根、椎茸、蒟蒻、絹さや、高野豆腐、などなどを、面取りをしたり梅花型にするなど形を整えた上で、それぞれ別個に煮るわけで、あまりにも手間がかかり過ぎ、いつの間にか止めてしまった。
書いているうちに、戦前は今の「お節料理」にはないメニューがいくつかあったことを思い出した。たとえば豆腐の寒天よせ、胡桃の砂糖からめ、切りいかの佃煮風の甘辛煮などである。数の子を小さく刻んで、青大豆を茹でて出し汁に浸した「浸し豆」と混ぜ合わせたものも、一般のお節料理ではあまり見かけない。いずれも祖母の専売特許だったから、わが家独特の一品という訳ではなく、おそらく南信の年取り料理だったのであろう。
甘いものに飢えていた子供のころ、お節料理のなかの好物といえば、栗きんとんや黒豆、胡桃の砂糖かけだった。一方、ちょっと苦手だったのは数の子。戦前は今のような塩数の子ではなく、干し数の子を何日もかけて戻して食べていた。あのボソボソとした食感が嫌で、「共食いはしない」と言って食べなかった。僕のように頭にカのつく名の子は、「カンズー数の子ニシンの子」とか「カッチャン数の子ニシンの子」とはやされていた頃の話である。そう言えば「馬鹿カバちんどんや、お前の母さん出べそ」だの「デブデブ百貫デブ電車に轢かれてぺっちゃんこ、ぺっちゃんこはせんべ、せんべは丸い、丸いは月」といった悪口歌が日常的に歌われていた。今の子供は、おそらくこんな歌は歌わないだろうが。
これはもちろん戦後、それも比較的最近のことだが、有名料亭の高級お節料理をあれこれ試みた時期がある。食べ比べの面白さがあり、各店とも見栄えを競うプロの技には感心し、それなりに美味いと思う品もあったが、好みでない品も多く、間もなく飽きた。今では「年取り料理」でも、ご飯のおかずになるようなものが欲しい。したがって「おのっぺ」と年取り魚、それに黒豆があれば、あとは何でもかまわない。
さて、その肝心な「年取り魚」はといえば、わが家では昔から鰤と決まっている。切り身を焼くだけでなく、「おのっぺ」にも鰤の「かま」や「あら」を加える。これが入ると入らないでは汁の味がまったく違う。切り身の鰤は「塩焼き」か「照り焼き」である。今は生のいい鰤が手に入るから照り焼きが主だが、子供の頃は塩焼きだった。その昔、山国信州で生のブリが手に入る筈もないから、照り焼きは無理だった。
ところで、鰤が年取り魚として祝い膳にのぼったのは、成長するにつれて名前の変わる「出世魚」だからという説がある。それもひとつの理由ではあろうが、信州で鰤が年越し魚となったのは、ふだんはとても口に出来ない贅沢品だったからだろう。寒中に日本海で捕れる「寒ブリ」は脂がのり、淡水魚にはない美味しさがある。年末年始の寒い季節なら、冷蔵設備のない時代でも、塩蔵さえすれば、日本海でとれた魚を遠路はるばる山国まで運ぶことが出来た。これが古くから鰤が信州で年越し魚として珍重された理由であろう。
よく知られているように、年取り魚は東日本では鮭、西日本では鰤である。この鮭文化圏と鰤文化圏の境界線は、信州を二分していた。鰤文化圏の東端が中南信である。つまり木曽、飯田、松本、諏訪がこれに当たる。おそらくわが家の食の伝統は、祖母がかつて暮らしていた飯田辺りの食文化を受けついでいるのであろう。ただ、鰤文化圏といっても、家によってはブリではなく、サケやサンマあるいはイワシを年取りに使っていた。鰤は目玉が飛び出るほど高かったからである。
年とり魚に鰤を使う伝統は戦国時代にさかのぼるのだそうで、能登や富山で水揚げされた「越中鰤」は、塩鰤にして飛騨高山へ運ばれ、これがさらに野麦峠を越えて松本に、また木曽の薮原から権兵衛峠を越して伊那谷へ入って来た。そこで飛騨では、年取りの鰤は「越中鰤」、信州では「飛騨鰤」と呼ばれていた。野麦峠は女工だけでなく、鰤も運んだ鰤街道だったのだ。
〔2005.3.11〕
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