二村一夫随筆集  『さまざまな出会い』

藤田省三さんのこと

1997年の藤田省三氏、著作集別刷り「まえがき」より

二〇〇三年五月二八日、わが畏敬する大先輩の藤田省三さんが亡くなりました。知ったのは一週間後、六月四日深夜のNHKラジオのニュースによってでした。数ヵ月前から雑誌『世界』で「語る藤田省三」の連載が始まり、そこにはご本人の意向がなにも示されていなかったので、あるいはその日が近いのではないかと予感はしていました。しかし、実際にその時が来ると、失ったものの大きさをあらためて痛感しました。ただ、その一方で、藤田さんのためには、苦しく長い闘病生活が終わったことを喜んであげるべきだろうとも考えたことでした。なにしろ、今から六年も前に記された『藤田省三著作集』の「まえがき」で、著作集を生前に出すことを決意した理由を、つぎのように記されていたほど、その病苦は辛いものだったのですから。

 私の「時代」と「人生」は終わったのだから人間としてでなく「修羅」となって「人工肛門生活」の苦痛に満ちた「煉獄」を我慢するよすがとしようか、と決意した。

藤田像、作者年代不詳、著作集別刷り「まえがき」より  藤田さんに初めてお目に掛かったのは一九五六年、石母田ゼミにひょっこりと顔を見せられた時でした。法政大学法学部助手から専任講師となったばかり、処女論文「天皇制国家の支配原理(一)」が『法学志林』の巻頭をかざった前後のことでした。談論風発、颯爽として、しかし時々ちょっと照れたような笑顔をみせる二九歳の少壮学者でした。私が助手になったばかりの頃、藤田さんの教室にもぐりこんで講義を聴いたことがあります。彼は教室中を歩き回り、教壇に腰掛け、その自由な精神を態度でも示して、実に面白い授業でした。しかし、クラスが終わると彼はすぐ研究室にすっ飛んで来て「以後、授業に潜り込むことはまかりならん」と申し渡され、残念ながら弟子入りはかないませんでした。

藤田さんは、近代日本政治思想史の専門家として著名ですが、ご本人は、「私は現代に生きる者として、〈これが問題だ〉と思う所には、どこへでも出掛けて、及ばずながら其処で専門家の仕事に教わりながら問題の現代的意味を発見しようと努力するのが、私の根本方針なので 〔中略〕 私は知的な〈アマテュアリスト〉で且つ〈ジェネラリスト〉を目指す者であろうと心掛けている」(著作集版『維新の精神』まえがき)と言っておられました。つまり、○○の専門家といった枠に納まる方ではなかった、というより、納まることを拒否された方だったのです。

 本を読むことを無上の楽しみとしており、底知れぬ知的好奇心が着物を着て歩いているような人でした。書を読む際の、その関心の幅広さ、その読書量の多さもさることながら、その集中力、抜群の読みの深さには、いつも驚嘆させられました。その日本一の読書家、いやおそらくは世界でも稀な読書家に、丸山真男批判をふくむ小著『足尾暴動の史的分析』を、あの『中世的世界の形成』までひきあいに出してほめていただいた時の嬉しさは、格別でした。

 藤田さんはまた〈書生っぽ的議論〉を好み、歯に衣着せぬ物言いをすることでも知られていました。なにしろ毒舌が自分の趣味であり娯楽であると、次のように公言されていたのです。

 骨の髄まで不精者である私は、他に何も習得しなかったためであろうか、「趣味としての毒舌」を「パチンコ」代わりの娯楽として喜ぶ性癖を持っているが、松沢〔弘陽〕氏の無比の勤勉と信ずることにおける真剣さとに接すると、否応なしに独りで自己批判せざるをえないことは明白ではなかろうか。ただそれを他人に表現する場合には「その対立面に関する毒舌」をもってするだけなのだ。なぜなら、ひとも知る通り私は普遍主義者であるから、いくら趣味にすぎないからとはいえ、毒舌においても又普遍主義者でなければならないではないか。というのは半分冗談だとしても、私は、せっかく今まで保ち続けてきた対立面を消してしまって、双方の結合を非生産的な「夫婦善哉」にしたくはない。彼がもし過大に謙遜するのなら私は無理にでも不遜にならなくてはならぬ。そこが私の度し難いところであろう。しかし志すところはそう捨てたものでもないかも知れぬ。
(『天皇制国家の支配原理』第二版へのあとがき)

 このように、その毒舌は衝動的な罵詈雑言ではなく、きわめて意識的であり、生産的な対立を目指す、きびしい、しかし爽やかな毒舌でした。明確な根拠を示しての批判だったのです。一九六六年に「期待される人間像」が公表された時、中教審に名を連ねていた大河内一男氏らを批判した「〈論壇〉における知的頽廃」での発言、著作集第一〇巻『異端論断章』での丸山真男、石田雄両氏との討論における宇野弘蔵氏らへの評価などには、そうした批判の厳しさの片鱗が示されています。

 ただし、厳しい批判の反面、藤田さんは優れた人物や業績を、あるいは批判の対象とする人物であっても優れた側面をもつものには、これを惜しみなく評価し、尊敬を払う人でもあったことを見落としてはならないと思います。丸山真男、石母田正、古在由重ら諸先生への尊敬の念はいくつかの珠玉の文章に結晶していますが、同時に「諸先生のこと」と題する文章では、香具師も先生のひとりとして、彼から学んだところを述べる人なのでした。この尊敬の念の重要性について説いた「原初的条件」の次のくだりも、忘れがたい一文です。

 どんなにラディカルに意見が対立してもそれは構わない。(但し意見があればのことである。もちろん意見とは根拠を述べることである。)憎んでも構わない。ただ尊敬の念は持つべきだ。少なくとも当日のあなた方は人を尊敬する能力を全く持ち合わせていない人達のように見えた。中野重治をも尊重せず花田清輝をも尊重せず杉浦明平をも尊重せず平野謙をも尊重せず本多秋五をも尊重せず等々……彼等の数十年の仕事が我々に与えた大小の精神的モトデを尊重せず、そうして羽山氏その他の人民の文学を志す人々の努力を尊重せず、五〇年問題の経験から学ばず、それでどうして全ゆる歴史的蓄積の上に立って進歩発展を担うなどということが出来るだろうか。ひょっとするとあなた方は宮本顕治すらも本当には尊敬していないのではなかろうかとさえ思われる程であった。まだしも私などの方が、現在の意見こそ異にしているが、宮本顕治や故国領五一郎等に対して──戦争中日本人民の精神を公然と守った彼等に対してそして彼等の生涯の歴史的功績に対して遙かに深い尊敬の念を持っているのではないかと思われたのである。



 この六月二九日、日曜日午後二時から、《藤田省三さんを偲ぶ会》が法政大学市ヶ谷キャンパスの八三五番教室で開かれました。冷房のダクトや各種の配線がむき出しになっている古い殺風景な階段教室でした。この会場選択は、生前の藤田さんの意向を尊重して決められたことが、これも故人の遺志で司会をつとめた成澤光さんから説明されました。しかし、いったん会が始まってしまうと、劇団《風》のスタッフによって制作された簡素な舞台装置と劇場のような照明のもとで、いかにも藤田省三を偲ぶのにふさわしい雰囲気のなかで会は進行しました。
 最初に、平凡社の元編集者で、ご近所に住む友人として藤田氏の晩年を支えた小林祥一郎氏から「療養経過報告」がありました。一九九三年、六五歳の時に直腸癌が発見され手術を受けたこと、手術は外科的には成功だったが、術後の痛みがいつまでも続いたこと、九八年には一月に左大腿骨を骨折し、一〇月には腰椎を骨折しという不運に見舞われ、以後は入退院をくりかえし、最終的には要介護度五の状況だったこと、嚥下困難による肺炎になり、最晩年は点滴だけで栄養をとる状況であったことなどが報告されました。この間、友人、隣人、ゼミ生、それに藤田さんが命名者だった劇団《風》の人びとがその療養生活を支えておられたことも、この報告で知ったのでした。何年か前、人工肛門生活に適応できず、人に会うのを好まれないと聞いていたこともあって、比較的近所にいながら訪ねることを控えていたことが悔やまれました。
 この後、八人の方が追悼の言葉を述べられました。松山高校以来の友人宇野俊一さん、みすず書房社長として藤田さんを支えた小尾俊人さん、法政大学法学部で長年同僚であった松下圭一さん、シェフィールド大学日本研究所の元所長で、藤田さんのイギリス留学を支えたマーティン・コリックさん、後輩の宮村治雄さん、近所に住む親しい友人の子息だった鈴木亮一さん、韓国の軍事政権下で十九年間とらわれていた徐勝、俊植兄弟の弟、徐京植(ソ・キョンシク)さん、藤田ゼミ生だった高橋信一さんです。
 多くの方がそれぞれの思いこめて語られた内容を紹介するのは難しいし、いずれ何らかの形で活字になるのではないかとも思いますので、ここでは、単純な事実経過の報告にとどめることにします。ただ、そこで語られたことの多くに共通していたのは、藤田省三が学者であり思想家であると同時に、細やかな心配りをする熱心な教師であったこと、それも単なる知識の伝え手ではなく、人生の師として生きていたことでした。
 「追悼のことば」につづいて、劇団《風》の辻由美子さんが、ブレヒトの「肝っ玉おっ母とその子供たち」の劇中の追悼歌「子守歌」を歌われ、さらに西郷信綱、多田道太郎、ミリアム・シルバーバーグ、それにお名前を聞き漏らした中国・北京大学の助教授の四人の方のメッセージが代読されました。このミリアム・シルバーバーグは、博士論文を書くために一八八〇年代初めにシカゴ大学から法政大学大原社会問題研究所に留学してきた女性研究者で、Changing Songs:The Marxist Manifestos of Nakano Shigeharu(邦訳 『中野重治とモダン・マルクス主義』)の著者です。私が藤田さんに頼んで弟子入りを認めてもらったのですが、メッセージは私の研究室で最初に二人が顔を合わせた時のことから始まっていました。脳腫瘍の手術後で苦しい闘病生活を送っているミリアムが、藤田さんの最晩年にはるばる別れを告げに来たことを、彼女の弟子から聞いたばかりでしたから、このメッセージは二重の意味で胸がつまる思いがしました。
 最後に夫人の春子さんのご挨拶があり、参加者全員の黙祷で三時間におよぶ「偲ぶ会」は終わりました。

〔二〇〇三年七月七日記、七月十一日補訂。《編集雑記》九に掲載〕




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