二 村 一 夫 著 作 集

職工義友会と加州日本人靴工同盟会
     ──高野房太郎の在米時代

一 義友会に関する二つの史料


片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』

 日本の労働組合運動の源流のひとつに職工義友会がある。 一九世紀の末、サンフランシスコで、少数の在米日本人によって組織されたこの団体は、片山潜・西川光次郎『日本の労働運動』に「労働組合期成会の前身」として記録されたことで、かろうじて歴史にその名をとどめてきた。

「労働組合期成会の前身は職工義友会なり。故に期成会に就き云ふ所あらんとせば、先づ義友会より(かた)らざるべからず。
 職工義友会は日本に於て創設せられし者にあらざりき。(ここ)に面白き意味あり。此の会は明治廿三年仲夏、米国桑港に於て当時同地に労働しつゝありし、城常太郎、高野房太郎、沢田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵外四五名の労働者によりて組織せられし者にして、其の期する所は『欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解決に備へんとするにあり』たり。」

 以上が、『日本の労働運動』における〈職工義友会〉に関する記録の全文である。長い間われわれは、日本の労働組合の源流である職工義友会を、この記述によってのみ知ってきたのであった。その後、一九六〇年に『労働世界』が覆刻され、『日本の労働運動』のこの箇所は同紙の第一五号(一八九八年七月一日付)に掲載された「労働組合期成会成立及発達の歴史(一)」に拠ったものであることが明らかになった。両者の違いはほとんどなく、ただ『日本の労働運動』が『労働世界』には記されていない武藤武全、木下源蔵の名を加え、平野永太郎の名を誤って栄太郎と記していること、会員数が『労働世界』では「他二三の人相集まりて」と少ないことだけである。



『経世新報』記事

 ところが、一九六二年に刊行された『日本労働運動史料』第一巻に義友会についての新たな史料が発掘・収録された(同書三九四ページ)。当時、東京で発行されていた新聞『経世新報』の一八九一(明治二四)年一〇月一六日付に掲載された記事で、つぎがその全文である(なお原文には句読点が付されていないが、読みやすさを考え補った)。

「米国桑港に我労働義友会起る
 久しく米国桑港に在留し、目下同港に於て靴職工を営める城常太郎、平野永太郎の両氏は、我日本労働社会の萎靡逡巡(いびしゅんじゅん)、自ら屈し(ごう)もなすなく、今後益々其惨状を極めんとするの観あるを見て、此程(このほど)一篇の意見を草し、我国同好の人に送り、大いに組合を設くるの利益を説き、各地方に職工組合なる者を設立し、更に全国枢要の地に地方本部を設け、以て地方に関する事務を処理し、従来労働社界に存在したる弊害を矯正すると同時に、其の利益の増進を計り、緩急相救ふの術を行はんには、実に我労働社界の救治策たるを説きたる由なるか、今度右の両氏発起となり、桑港ミッション街千百〇八番地に労働社界の改良利益を計り、(あわ)せて同港在留の日本人は相共に苦楽を同ふせんとて、毎月第一第三土曜日に会員の集会を為す由なるか、目下会員も大いに増加し、同地外人の信用をも博するに至たりと。同会の設立こそ、向後米国に渡行する職工に採りては、(すこぶ)る好き手蔓となるへし」。

 見られるとおり短い報道記事である。しかし『日本の労働運動』とくらべると、いくつか重要な点でくいちがいがある。その第一は名称、第二は創立年、第三はその創立メンバーについてである。また、会の目的、活動内容についても両者は同じではない。
 そこで本稿では、まずこの二つの史料を手がかりにして、これまでその名が知られているわりには実態が明らかでない、職工義友会の姿をできる限り復元してみたい。




二 義友会をめぐる諸史実

職工義友会か労働義友会か職工義勇会か?

 第一は、その名称である。
 『経世新報』ではこれまで知られてきた職工義友会ではなく労働義友会となっている。一八九七(明治三〇)年に日本で再組織された団体が職工義友会と名のったのは確かだが、アメリカでは労働義友会と称していたのかもしれない。しかし、「労働組合期成会成立及発達の歴史」は義友会の関係者が執筆したとみられるのに対し、『経世新報』は報道記事である。この場合は当事者にしたがって職工義友会をとっておこう。
 なお、ハイマン・カブリン『明治労働運動史の一齣』をはじめ、多くの文献で職工義会と勇の字が用いられているが、これは明らかに誤りである。当事者の記録に義勇会を用いた例はない。さらにつけ加えれば、高野房太郎はゴンパーズに送った手紙で、同会を The Friends of Labour あるいは The Friends of Workers と英訳しているのである(注1)



創立は一八九〇年か九一年か?

 第二の創立年については、『日本の労働運動』、『労働世界』の両者とも「明治廿三年仲夏」と記し、これが通説として一般に認められてきた。一方、『経世新報』の記事では日時こそ明記されていないが、「今度右の両氏発起となり」と、同紙の発行された一八九一(明治二四)年一〇月一六日から遠くない頃に結成されたことを伝えている。どちらをとるべきか、まず両者の史料としての性格から考えてみよう。すでに述べたように、『労働世界』の記録は明らかに当事者、それも高野房太郎が書いたことはほぼ確実で、その内容は信用しうる。ただ問題は、これが僅かに七、八年とはいえ後年の記録である点にある。これに対し、『経世新報』は同時点での報道記事で、少なくとも年次については、より信をおくべきではないか。ただ、この問題に結論を出すには、職工義友会の創立メンバーについて検討を加えてからにしたい。




職工義友会の創立メンバー

 創立メンバーのうち、城常太郎、平野永太郎の二人については『日本の労働運動』『労働世界』『経世新報』の三者が一致しており、疑問の余地はない。問題は高野房太郎である。隅谷三喜男氏は、友人から房太郎宛の書簡や、彼が『読売新聞』、『遠征』等に発表した論文にもとづいて、高野は一八八九年一〇月から一八九二年九月頃までの「約三年は、主としてワシントン州の Tacoma に生活の本拠を置いていた」と推定し、「高野は義友会の中心メンバーではなかったと考えなければなるまい」と結論されているのである。隅谷氏はまた、『経世新報』が発起者として城、平野の二人だけの名をあげていること、また『明治文化全集・社会篇(続)』の西田長寿氏の解説に依拠して、『遠征』にこの頃高野が「飛脚のように日本を往復している」と報じられていることの二点を、その傍証としてあげている(注2)
 これに対し、大島清氏は、高野房太郎から弟・岩三郎にあてた手紙によって、房太郎が「一八九〇年一〇月から九二年二月にいたる一年数ヵ月はサンフランシスコにいたことは確かである」ことを指摘し、隅谷氏の推測に疑間を呈している(注3)。この大島氏の指摘、すなわち高野房太郎がサンフランシスコ市立商業学校に入学するため、一八九〇年一〇月にタコマからサンフランシスコに移り、翌九一年一月に同校に入学、翌年一月その課程を終え、翌月ふたたびタコマにもどっていることは、同氏が紹介された一連の手紙から明らかである。この間毎月一回以上の割合で房太郎から岩三郎に送られた手紙は、いずれもサンフランシスコ五番街一〇〇のコスモポリタン・ホテルから発信されている。
 さらにつけ加えれば『遠征』のどこにも高野が「飛脚のように日本に往復している」とは書かれていない。ただ、同誌の第三一号(一八九三年八月)にある「高野房君」と題する小文は、「君は昨臘タコマを去て暫らく故国に灌ぎしも、我侭の亜米利加育ハ窮屈の日本に尻据らず、又々飛んでタコマに渡り」と、高野が一八九二年暮に一時帰国し、またすぐにアメリカにとって返したことを報じている。これを、西田長寿氏は「飛脚のように日本に往復している」と表現されたのであろう(注4)。また隅谷三喜男氏は、高野が「桑港市立商業学校に入学、其課程を終った」ことを証する資料は見当たらなかったと特に注記されている。だが大原社会問題研究所には同校が発行した高野房太郎に対する卒業証書が残されており、「桑港市立商業学校に入学、其課程を終った」ことは確実である。さらに、サンフランシスコ市の記録でも、彼は一八九二年のサンフランシスコ市立商業学校の別科(Limited Course)の卒業生リストに名を連ねていることを指摘しておきたい(注5)
 要するに、房太郎は「明治廿三年仲夏」にはサンフランシスコにいなかった。したがって創立年が通説のとおりであれば、彼が職工義友会の創立に参加したとは考えられない。しかし、同会の創立が翌年のことであれば、彼は当然それに加わっていたであろう。
 残るのは沢田半之助である。結論からいえば、彼もまた「明治廿三年仲夏」にはまだ日本にいたとみられる。その根拠は沢田の旅券が発給されたのは早くても一八九〇(明治二三)年一一月、おそらくは同年一二月中旬のことと推定されるからである。沢田半之助の旅券に関する記録は、外務省外交史料館に保管されている『明治廿三年本省渡海外旅券下附表』の中にある。これは交付月日は記載されていないので正確な日付はわからない。しかし、沢田の旅券番号は三〇八六三番で、これによってかなりの程度まで「下附」月日を特定できる。すなわち「同下附表」によれば、同年中に外務省で「下附」された旅券の一番若い番号は二一三七二であり、最も数の多いものは三一七五二である。したがって沢田の旅券は前から数えて九四九一番目、後から数えて八八九番目ということになる。これだけでも同年の「仲夏」前に交付されたとは考えにくい。念のためさらに見ると、外務省以外の神奈川県、兵庫県、長崎県など「開港場官庁」で「下附」された旅券については月日が外務省に報告されており、沢田の番号に近いものは、いずれも同年一二月中に「下附」されている。すなわち、三〇三七九は一二月二六日に神奈川県で、三〇四九七は同じく一二月二六日に兵庫県で「下附」されている。とくに注目されるのは長崎県で、沢田より五三番前の三〇八一〇と四番後の三〇八六七がともに一二月二二日に交付されているのである。当然のことながら旅券番号は全国一律の通し番号で、各府県は番号が入った旅券用紙を、外務省からあらかじめ一定数送付されていた。長崎県が沢田より四番あとの旅券を受領したのは、おそらく一二月二二日より早くても数日から一週間前であったろう。また、沢田が旅券を取得した日と、外務省がそれに続く番号の旅券用紙を長崎県に送付した日は、おそらく同日か、離れていたとしても前後数日の違いであろう。いずれにせよ、「明治廿三年仲夏」に沢田がサンフランシスコにいなかったことだけはまず確実である。




義友会創立は一八九一(明治二四)年

 このように見てくると、「明治廿三年仲夏の頃、米国桑港在留の城常太郎、沢田半之助、平野永太郎、高野房太郎及他二三の人相集まりて職工義友会を起す」という、義友会についての根本史料となってきた「労働組合期成会成立及発達の歴史」の記述には、どこかに誤りがあると考えざるを得ない。すなわち「明治廿三年仲夏」が正しいとすれば、義友会の創立者の氏名には誤りがあり、創立者名が正しいとすれば、「明治廿三年仲夏」ではあり得ない。この場合、どちらが誤りやすいかといえば、まず年次の方であろう。西暦から元号への換算ちがい、あるいは単純な記憶ちがいもおこりうる。ただし、「仲夏」という季節が誤られた可能性は小さいであろう。
 以上から、職工義友会はこれまで信じられていたように一八九〇(明治二三)年の創立ではなく、翌一八九一(明治二四)年仲夏に結成された、と結論してさしつかえないと考える。




再び創立メンバーをめぐって

 創立メンバーについては、すでにあるていど検討を加えたが、いますこし別の面からも見ておこう。
 まず、『経世新報』では、城、平野の二人の名しか出てこないが、これに沢田が加わっていたことは確実である。その根拠は、同紙に職工義友会の集会場として明記されている「桑港ミッション街千百〇八番地」は、他ならぬ「沢田裁縫所」の所在地だからである。職工義友会が創立されたのとほぼ同じ頃発行された『遠征』第四号(一八九一年八月一五日付)には、つぎのような広告が掲載されている。

 「安価ヲ旨トシ裁縫ニハ念ヲ入レ調進可仕候
其外直シ物モ精々勉強致候
 ミッション街千百○八番 沢田裁縫所」

 実はこの場所には、沢田だけでなく、城も店を置いていたのである。これについては、かなり後の記録ではあるが、一八九〇年代からサンフランシスコやロスアンゼルスなどにおいて日本語新聞の記者をしていた鷲津尺魔(文三)が『在米日本人史観』の附録「元祖しらべ」のなかで、「洋服屋の元祖沢田半之助」としてつぎのような興味深い事実を伝えている。

「沢田半之助は明治二十三年(一八九〇年)渡米、翌明治二十四年桑港、ミッション街と第七街の角なる城靴直し店に同居して洋服屋を始めた。これが米国に於ける同胞洋服屋の元祖である。
 茲に注意を要することは昔時、洋服屋とか靴直し店とかいふものは今日の同業者とは比較にならぬ程貧弱なもので、ミッション街の沢田、城共同借家は家賃十五弗で通行者の少ない街であった。其処に洋服屋と靴直しとが同居したのだから実に見すぼらしいものであった。
 此頃は大概独身生活で店の奥に手造りのベッドを置きそこに起臥したのである。ケチンもベッドルームもパーラーもダイニングルームもすべて一室の中に兼用され、其食事の如きはブレッドにカフヰー、麦粉の団子汁等であった。それも客足が稀れの時には食ひ兼ね、一日一食で済ましたことが多いのであった。
 沢田半之助は洋服屋とは名ばかりで洗濯、直し物等が主なるものであった。新造の注文などは開業当時はなかった。
 当時桑港には五六百の同胞がゐたが、其多くはスクールボーイ階級で、彼等は一週五十仙より一弗の給料ゆゑ洋服を新調する余裕はない。大概働先の主人の着古しを貰ったり、やむを得ず衣服買入の必要に迫るときはハワード街の古着屋に走り一着三弗位で用を弁じ、靴も一足五十仙の古靴で間に合わした。」

 ことのついでに、同書のなかから「靴工の元祖 城常太郎」の項も紹介しておこう。

「熊本県人城常太郎は母国業者の声援により明治二十一年十一月(一八八八年)渡米し、コスモポリタンホテルに皿洗いとして働き翌二十二年六月、関根忠吉の渡米するや共同し靴直しを開業した。場所は桑港ミッション街と第七街の角であった。これが日本人靴工業の始まりである。」(注6)

 この経歴で注目されるのは、コスモポリタン・ホテルの皿洗いである。というのは他でもない、一八八八年から八九年はじめにかけ、高野房太郎はミッション街と五番街の角にあったこのホテルを宿舎として、そこから徒歩で数分のところにあるストークトン街とマーケット街の角に日本雑貨店を出していたのである。房太郎はコスモポリタン・ホテルを単に宿舎にしていただけでなく、一八九一年にサンフランシスコ商業学校に通っていた時には同ホテルの「客引き」もしていた。これについて、房太郎は、一八九一年七月一七日付、弟岩三郎あての手紙でつぎのように書いている。

 乍去さりながら当「コスモポリタン・ホテル」ヘ相勤メ居候 当家ハ一ケ月三回日本ヨリ汽船着ノ時波止場へ出張、当家ヘ来ル客ヲ連レ来ル事ニテ、何ノ造作モナキ仕事ニ有之候。食住ハ当ガヒ呉レ候。尤モ無給料ニ有之候。(注7)

 おそらく、城が渡米した一八八八年当時も、高野はコスモポリタン・ホテルの客引きを兼ねていたのであろう。そうでなければ、もっと安い下宿がいくらもあるのに、貧しい彼がホテルを宿舎に選ぶはずはない。渡米した城がサンフランシスコの波止場で、真先に顔を合わせた日本人が高野房太郎であった可能性は高い。英語ができない城に、慣れるまでコスモポリタン・ホテルの皿洗いの仕事を世話したのも、おそらく高野であったろう。彼等は長崎と熊本という隣県出身のよしみもあり、二人とも長崎にいたことがあるなどから、たちまち意気投合したようである。城と高野がこの時から生涯を通じて親密な交りを結んだことをうかがわせる事実はいくつかある。一八九二年三月、城が日本に一時帰国した際、彼はこのことをわざわざタコマにいた高野に知らせ、高野は城に托してディッケンズの小説六冊を弟の岩三郎にとどけている(注8)。労働組合期成会結成前後の二人の交わりの親密さは、房太郎の日記のそこかしこからうかがえる。とりわけ両者の親しい間柄を思わせるのは、高野が運動に挫析して中国に渡った時、城がこれと行動をともにしていることである(注9)
 すこし先にいきすぎた。ここで言いたかったのは、このような城と高野の関係からみて、城の家を会合場所とする義友会の創立には、高野も当然加わったであろうことである。しかもこの時、高野房太郎は、彼等の仲間では、いやおそらく全日本人のなかでも、労働運動について最も豊富な知識をもっている人物だったのである。これについては、また後でのべよう。
 城、平野、高野、沢田の他に職工義友会の会員として、その氏名が残っているのは、『日本の労働運動』に記されている武藤武全と木下源蔵の二人である。この二人の経歴等の詳細はわからない。ただ、武藤武全は高野らが職工義友会を再組織した一八九七年にはボストンにあり、日本商品の輸入、販売業の Yamanaka, Amano & Co.の園芸部門の責任者で、植木や球根、種子などをあつかっていた(注10)。また木下源蔵は、高野房太郎の一八九七年の日記帳巻末の住所録では、「木下玄三」と記されており住所は小石川区上富坂町一五番地となっている。




義友会は単なる研究団体か?

 『日本の労働運動』や「労働組合期成会成立及発達の歴史」と『経世新報』記事との間には、もうひとつ、くいちがっている点がある。義友会の目的、その活動内容等についてである。前者では、義友会の目的は「欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解釈(解決)に備へんとするにあり」と記されている。いうならば義友会は主として研究会的存在である。
 一方、『経世新報』では、義友会はより実践的な団体として描かれている。すなわち義友会は、職工組合の結成こそ、日本のみじめな労働社会の状態を救済する方策であることを説く意見書を各方面に送り、さらにサンフランシスコ在留の日本人に「労働社界の改良利益を計り併せて同港在留の日本人は相共に苦楽を同じふせんとて」、月二回の集会を開いているのである。
 果たしてどちらが義友会の性格をただしく伝えているのであろうか。
 ここで注目したいのは、「在米社友高野房太郎氏の寄稿に係る」との前書きをつけ『読売新聞』が社説欄に連載した「日本に於ける労働問題」である。その掲載日時は一八九一(明治二四)年八月七日以降、まさに職工義友会創立の時点である。その論旨は、日本の労働者は「不正なる制抑の下に屈服し」「財産なく、恒心なく、教育なく、勇気な」き状態にある。 この惨状を救済するには「唯結合の一法あるのみ」。そのためには「名誉ある有識家」の率先誘導のもとに「識見あり秩序ある運動」をすること、また、友愛協会等「直接の利益を労役者に与」えることが必要である、というにあった。
 この内容は、その基本線において『経世新報』が報じた城・平野の意見書と同一である。しかも注目されるのは、高野が文中で「此意思は近く嘗つて発して靴工の結合を形造りたり」とのべていることである。この「靴工の結合」とは、おそらく城をアメリカに送り出す母体となった「靴職工同盟会」のことであろう。一八八六(明治一九)年に東京で関根忠吉、相原錬之助ら、桜組の職工によって組織されたこの会のことを高野が知りえたのは、その一員であった城常太郎を通じてであったに相違ない。間接的ではあるが、これもまた、高野が義友会の創立に関与していたひとつの有力な証拠たりうるであろう。
 もっとも、城・平野の意見書と「日本に於ける労働問題」は同趣旨ではあるが、別箇の文書であったと思われる。前者の「各地方に職工組合なる者を設立し更に全国枢要の地に地方本部を設け以て地方に関する事務を処理し」といった具体策は、「日本に於ける労働問題」には全く示されていないから。また発表の日時からみて、「日本に於ける労働問題」がおそくとも一八九一年七月はじめには書き上げられていたとみられるのに対し、城・平野の意見書について報じた『経世新報』は同年一〇月一六日付で、この間二、三ヵ月の開きがある。
 ともあれ、両者が高野房太郎、城常太郎らの討議のなかから生まれたものであることはほぼ間違いない。あえて推論すれば、「日本に於ける労働問題」は職工義友会の創立宣言的性格をもっていたのではなかろうか。あるいは執筆時期からみて、この論文がきっかけとなって職工義友会が組織されたと考えることもできる。義友会は、この高野論文をさらに具体化したものを、城・平野の名で日本の靴工仲間に送ったのではなかろうか。
 いずれにせよ、高野の「日本に於ける労働問題」と城・平野の意見書は、〈日本に於ける労働運動の最初の印刷物〉として有名な、かの「職工諸君に寄す」の原型であるといえよう。そのように見てくると、職工義友会は、単に他日に備えて欧米諸国の労働問題を研究するにとどまらず、遥かアメリカからではあるが、祖国日本の労働者や有識者に労働組合結成の必要をよびかけるという、より実践的な性格をもっていたとみることができよう。



三 加州日本人靴工同盟会

靴職工同盟会

 職工義友会が単なる労働問題の研究団体ではなく、より実践的な性格をもっていたことを示すもう一つの事実がある。加州日本人靴工同盟会の存在がそれである。この団体は一八九二(明治二五)年の暮に、当時サンフランシスコで働いていた約二〇人の日本人靴工によって組織され、翌年一月正式に発会式をあげている。その実体は労働組合というより白人靴工の迫害に対抗するために設けられた日本人靴工の同業組合であった。しかし、その出発点で日本における靴工の労働運動とかかわっており、また、城常太郎、平野永太郎という、職工義友会のメンバーによって組織された団体で、いわば彼等の運動の原体験をさぐる意味もあるので、しばらくその成立の経緯を追ってみよう。
 なお、これについては『加州日本人靴工同盟会会報』の第一号(一九〇九年一月)に掲載された大嶋謙司「靴工同盟会創立苦心談」や、一九一七年四月、加州日本人靴工同盟会が創立二五周年記念の祝典に際して発行した『加州日本人靴工同盟会沿革の概要』等に詳しい。以上のほか、カリフォルニア・ファースト銀行の日米資料室には、日本人靴工同盟会に関する新聞切抜き、筆者不明の手稿「加州日本人靴工同盟会ノ起源ヲ議ス」等が残されている。これらによって、城常太郎と日本人靴工同盟会について見ていこう。
 まず注目されるのは、加州日本人靴工同盟会には、その前身ともいうべき靴職工同盟会が存在することである。大嶋謙司はこれについて次のようにのべている。

「日本に於ては、今でも此国と比較にはならぬが、明治二十年前後の日本の総ての職工は随分資本主から逆待(原文のママ)せられたもので、靴職工なども其御多分に漏れず実際憐れなものでした。吾々東京の桜組に就動(原文のママ)して居つた職工中、多少気骨ある者は其の圧制に憤慨して丁度明治十九年でした。東京芝区松本町に靴職工同盟会なるものを設立しまして同志を糾合し資本主からの抑圧制を逃れんと企てたのです。其主唱者は関根忠吉、相原錬之助外九名と記憶して居ります。で此同盟会を本拠として更に地方の同志に檄を飛し、ソーして其賛同ヲ求めたのです。此時長崎より城常太郎、依田六造の面々も来りて之れに投じ、其他よりも同志中賛同の意を表した人々が期せずして相会し、互に資本主の圧制より逃て新運命を開拓する方策を講じて居りました。」

 なお、「加州日本人靴工同盟会ノ起源ヲ議ス」は、大嶋の苦心談を補足して、つぎのような事実を記している。
 明治一九年一〇月、桜組の職工が、賃上げ要求でストライキをおこした。その時解雇された一五人中の七人が東京芝区松本町に家を借りて〈職工同盟造靴場〉を開いたが(注11)、経営は困難で脱落者が相ついだ。このため残った関根忠吉、相原錬之助、岩佐喜三郎の三人は「痛切ニ我国ノ職工ト云フ者ニ意気地ノナイノヲ非常ニ憤慨シ再ビ相談ヲ重ネ東京市中ノ大小靴屋ヘ残ラズ檄ヲ飛バシ日本橋区呉服町柳屋トイフ待合デ二拾年ノ壱月大会ヲ開キ靴工同盟会ノ創立ヲ建議シタガ毎月拾銭ノ積立金問題デ相談ガ纏マラナカツタ 会スル者百名ヲ越エ」た。
 ここで、「資本主の圧制を逃れて新運命を開拓する方策」のヒントが与えられた。『国民之友』の一記事によってである(注12)。「苦心談」によれば「アノ雑誌中に米国に於ける支那人の靴工の状態が誠に詳細に記されてあって、其記事を見た吾々不平連は大々的に奮起し、暴戻千万なる内地資本家の下に働くより寧ろ去って米国に航し、大に新運命を開拓すると同時に現に圧制に苦しみつつある多くの職工に慰安の道を与へねばならぬ。」
 こうして先ず実情視察のために先発したのが、ほかならぬ城常太郎であった。城常太郎は文久三(一八六三)年一月、熊本に生まれた。幼時に父をうしない苦難の少年時代をおくったという。依田西村組熊本支店で給仕として働いている時、支店巡視に来た西村勝三に見出され、神戸の伊勢勝造靴所の生徒となり、靴工として腕を磨いた(注13)。西村勝三は周知のように日本で最初の洋式製靴工場・伊勢勝造靴場を創設した人物である。
 その後社名は伊勢勝から依田・西村組、さらに桜組とかわったが、陸軍の軍靴を製造し、日本の製靴業の第一人者であった。伊勢勝造靴場で修業して独立した業者の数は一八八九(明治二二)年には六〇〇をこえ、その徒弟まで含めると〈伊勢勝派〉の靴工は一〇〇〇人をこえたという。彼等は同年五月、伊勢勝靴工旧友会という親睦団体を組織し、会長に西村勝三を推した。この伊勢勝旧友会を組織する中心となったのが、さきに靴職工同盟会を結成した関根忠吉である。
 一八八八年一〇月、城が、続いて翌八九年六月、関根忠吉も渡米した。この二人の渡米は西村勝三とも相談の上、その援助を得ておこなわれたもののようである。桜組の経営者は言うまでもなく西村勝三である。この西村を対手に賃上げストをおこして馘首された関根が、職工同盟会をつくるとともに、西村を会長とする親睦団体を組織し、またその援助で渡米した、というのはいささか矛盾した話のように思われなくはない。しかし、西村は一八八九年一二月には、伊勢勝靴工旧友会を基盤に東京靴工倶楽部、靴工同志会などの団体も加えて大日本靴工同盟会を組織し、その会長に就任している。この大日本靴工同盟会は、製靴業主を構成員とする靴同業組合とは別箇に、実際に靴の製造にあたる自営業者と製靴職工を組織したもので、一九〇一(明冶三四)年四月、東京向島で開かれた二六新報主催の労働者大懇親会にも参加しており、またアメリカの日本人靴工同盟会とも提携していた。
 西村はまた、彼より早く世を去った城、関根のために石碑を建て、自らその碑文を撰している。このような西村の行動は、彼が製靴業という日本にとってまったく新たな産業分野にのりだし、その発展につとめた先覚者として、単に桜組という一企業の経営者、資本家の枠にとどまっていなかったことを示している。とくにこの段階の製靴業は、労働者の手工的熟練に依存しており、経営者としても靴工の生活に無関心ではありえなかった。しかも多くの靴工は直接・間接に西村の弟子であった。こうしたことを考えると、西村と関根や城との関係を矛盾したものとばかり見ることはできない(注14)


アメリカにおける日本人靴工

 渡米した城、関根は間もなく故国で彼等からの知らせを待っている同僚たちのために働き口をみつけた。彼等のすぐれた技術を認めた一米国人が、日本人靴工の雇入れを承知したのである。関根忠吉がいったん帰国し、桜組の職工一二人を率いて再渡米した。一八八九年一〇月のことである。この一二人のうちの一人が職工義友会の一員となる平野永太郎であり、また「靴工同盟会創立苦心談」の筆者・大嶋謙司である。
 彼等はマーケット街とミッション街の間にあたるエッカー街四四番地に家を借り、一階を工場、二階を寝室にあてて仕事を始めた。彼等の雇主チースは、ほかに靴の製造所を持ち、白人靴工を使用していたが、日本人靴工を雇い入れたことは秘密にし、その製品には白人靴工が製造したものと同じマークを押して市場に出していた。はじめ二、三ヵ月の間は何のこともなかったが、そのうちに白人靴工労働同盟(The Boot and Shoe Makers' White Labor League)がこの事実を発見し、激しい妨害を加えた。
 周知のように、カリフォルニアでは一八七〇年代から中国人排斥運動がひろがり、各地で中国人に対する暴行事件などが頻発した。この中国人排斥運動の主力となったのは労働組合であるが、なかでも靴工の組合はその急先鋒であった。それというのも、製靴業と葉巻製造業は中国人労働者の比重がきわめて高い分野であったからである。正確な統計ではないが、一八八六年一月現在、サンフランシスコ市内の製靴業で働く労働者七〇〇〇人のうち五分の四は中国人であった。中国人の経営する製靴工場がわかっているだけで三八あり、各工場は平均一〇〇人の中国人労働者を使っていた。白人の経営する製靴工場でも中国人労働者を雇用するものが少なくなかった。これに対し、白人の靴工は一〇〇〇人から一二〇〇人程度とみられた(注15)
 カリフォルニアの製靴業は東部諸州の同業者と激しい競争を続けていた。新開地であるカリフォルニアの相対的な高賃金をカバーするために、中国人労働者が早くから雇用され、その数は着実に増加した。このため、早くも一八六〇年代の後半には、白人靴工による中国人労働者の排斥運動がおこなわれている。一八六七年二月には中国人労働者との競争によって賃金を切り下げられた白人靴工のストがあり、一八六九年には靴工の全国組織である聖クリスピン騎士団のサンフランシスコ支部が結成され、同年四月には賃上げを要求してストライキをおこなっている(注16)。この頃、白人靴工の賃金は週二〇ドルから二八ドルであった。しかし、その後は低下傾向をたどり、一八八六年には白人靴工の週給は一四ドル前後にまで下っていた。一方、中国人靴工の賃金は一日一ドルから一ドル七五セント、平均で一ドル二五セントであった(注17)
 城や関根らに迫害を加えた白人靴工労働同盟は、一八八一年にサンフランシスコの靴工によって、それまでの靴工組合を改組して結成されたもので、約五〇〇人の靴工を組織していた。その名が示すように、その主要な目的は中国人労働者の排斥であり、白人の製靴業者のなかには、これを支持し財政的な援助さえ与えるものがあった。彼らは白人労働者の製造した靴に組合のラベルや押印をして、中国人労働者の製品のボイコットをよびかけた。
 一八八六年一月には白人靴工労働同盟の要請によってカリフォルニア労働統計局は製靴業における中国人労働者雇用の実態を調査する聴問会を開いたが、席上、証人として呼ばれた白人靴工労働同盟の役員はもちろん製靴業者、靴問屋、小売商なども、すべての靴に白人靴工の製品か否かを明示する押印を強制する立法に賛意を表している(注18)
 城ら日本人靴工の製品に白人靴工の製品と同しマークを押していたチースが、白人靴工労働同盟から糾弾されただけでなく、製靴業者仲間からも非難されたのには、こうした背景があった。困りきったチースは一時姿をくらまし、一四人の日本人靴工は非常な苦境におちいった。仕事がなくなっただけでなく、未払いの工賃も手に入らなかったので、一部の籠城組を残して、彼等は農園の日雇いやレストランの下働きなどのアルバイトに出かけて一時をしのいだ。
 その後、チースと白人労働同盟等との間に和解が成立し、日本人靴工の製品には白人靴工のマークをしないこと、日本人靴工には白人靴工の好まない仕事のみをさせること等が決まった。これを機に、日本人靴工は独立工場を設ける方針をとり、未払いだった工賃を得て、これを資本に一八九〇年五月頃、七番街とミッション街の角に家を借りて、最初の独立工場を設けた。工場とはいっても仕事場と寝室を兼ねた一室で、仕事は靴の修理が主であった。この最初の「工場」こそ、他ならぬ職工義友会の事務所の設けられたところである。これに続いて、サンフランシスコ市内や近郊のオークランド、アラメダ、バークレー等に、つぎつぎと日本人の「独立工場」が生まれ、新たに渡米してきた人々も加え、一八九六年中には、その数は一五、六にも達した(注19)




日本人靴工同盟会

 日本人靴工同盟会はこうしたなかで生まれたのである。さきに述べたように、靴工同盟会は労働組合ではなかった。その構成員の大半は自分の店を持ち、靴の修理を主とし、かたわら注文靴の製作にあたる自営業者であった。職人や徒弟もいたが、せいぜい一軒に一人か二人で、通常は一年から二年で独立していった。会の目的は何よりも白人の圧迫に対抗するため、互いに協力し合うことであった。「靴工同盟会設立の主意」はつぎのように説いている。

 「(前略)然れ共吾人の職業は業に已に白人の久しく執れる処、需給また久しく平均したる所なり。吾人今この間に起て亦これを営まんとす、勢ひ必ず両者の競争を避くべからず。吾人は幸に大和民族の特質を享け製靴の技術にて敢て対手に譲る所なしと雖も、黄白人種を異にし東西言文を同ふせず。四辺の事物吾人に不利なるもの挙げて於謂ふべからず。吾人は是等の障害に克て、而して自己の発達を計らんとす、豈容易の事ならむや。聞道く毛髪の弱き之を束条すれば、以て千鈞を擡ぐべしと。吾人また相親和し、相応救し益々団結の鞏固を致し、聚力を利用せざるべからず。合資の力を以て大資本に当り、又時に此の抑圧に反抗するの覚悟なかる可からず。吾人は更に同業者をして各其身を修め、家を斉へ、居住の地盤を固めしめざる可からず。蓋し大勢に順行して優存の地に立たんと欲する者の必ず取るべき道なりとす。而して吾人は、之を実行するの機関を要するは素より言を俟ざるなり。これ今回靴工同盟を組織したる所以なり。
  千八百九十三年一月創立
             発起人(城常太郎ら二〇人の氏名略)」(注20)

 日本人靴工が靴修理の分野に進出したのは、小資本でも自分の店が持てること、軍靴製造が主であった日本とちがって、アメリカでは靴の修理は厖大な需要があったためであるが、もうひとつ見逃しえないのは、この分野が白人靴工労働同盟の組合員と競合しないためでもあった。白人靴工労働同盟は、市販用の靴製造工場に雇われている白人労働者だけを組織し、靴の修繕や注文靴製作の分野には進出していなかったのである(注21)。もちろん、靴修繕を業とする白人はおり、彼等は白人靴工労働同盟の応援を得て日本人靴工を迫害した。たとえば「我が同業者の店頭グラスを破壊し、看板を奪い、顧客の来るのを途上に防遮し、甚しきは家主に対して立退を迫り……」(注22)といったごとくである。
 しかし、何といっても彼等は未組織であったから、その妨害は長続きしなかった。日本人靴工の数は着実にふえ、一九〇四年七月現在で、会員数は一六七人に達し、さらに一九〇九年一月には三二七人となった。その内訳は、営業者一九一人、職工および徒弟一〇七人、休職者二九人である。営業者を地域別にみると、サンフランシスコ七二人、オークランド四二人、ロスアンゼルス一四人、バークレー一二人、アラメダ一一人、東オークランド九人、他はサクラメント、フルートヴェイル、サンディエゴなどカリフォニルア州の各地に三一人であった(注23)。 この頃になると、サンフランシスコ近辺では、靴の修理店は日本人の「独占」とも言える状態になったらしい。その理由を日本人靴工同盟会の役員は、つぎのように説明している。

 「抑も吾が同業者が白人同業者に打ち勝ちて今日の如く殆んど独占の境に進みしは、何にが故に然るやと云はゞ余は大略左の三とす。
  一、 白人顧客に対して親切を旨とし期限を違はざること
  二、 白人同業者に比して少しく安値なる事
  三、 白人同業者に比して修靴の技術巧妙なる事」(注24)

 しかし、会報の第一号を発行した一九〇九年頃が日本人靴工同盟会の最盛期であった。その後は、排日運動激化の影響で渡米者が帰国者を下回っため、会員数は減少傾向をたどり、創立二五周年の一九一七年には一五〇余人となった。その後の活動についてはまだ明らかではないが、カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』によれば、「排日悪化と製靴機械化のために一九二九年に解散した」(同書七一ぺージ)という。
 ここで日本人靴工同盟会の組織と機能を、その「規約及細則」によって簡単に見ておこう。
 会員となることが出来たのは、もちろんカリフォルニア州に在住する日本人靴工であったが、入会にあたっては会員五人の保証を必要とした。日本やアメリカで靴工として働いた経験を持つ者は無試験であったが、それが証明できない場合には技術試験がおこなわれた。未経験者の場合は、会員の徒弟として一ヵ年修業した後、技術試験に合格してはじめて開店が認められた。しかし、徒弟として二年以上修業した場合は無試験であった。なお徒弟志望者は、保証金として二五ドルの納付が必要であったが、徒弟試験に合格した時に、これは返還された。会費は、一ヵ月につき営業者は五〇セント、徒弟は三五セント、その他、会としての営業資金として毎月五〇セントの積立が要求された。この積立金は一人五〇ドルまでを限度とし、帰国、退会等の際には返還された。
 役員は、会長一名、幹事一名、検査役二名、会計一名、営業部員二名、常議員一二名で、任期は六ヵ月、「二期以上重任再選するを得ず」とされている。役員に対しては「相当の報酬」が支払われた。
 会は、営業部を設け、事務員をおいて靴の製造販売所を直宮し、また原材料等の共同購入をおこなった。直営店は同盟会結成の当初から設けられていたようで、あるいは生産協同組合的な構想があったのかも知れない。また、同盟会に入らない日本人靴工の店に対抗するために、近くに直営店が設けられた例が知られている。
 しかし同盟会が力を入れたのは、白人の迫害に対抗して日本人靴工の自営店を拡大することであった。白人の迫害に対しては「白人反抗予防委員」が置かれている。新規開店の者に対する資金援助については、一九〇四年現在の規定では、地方に開店する場合のみ五〇ドルを限度として、資金を貸与することとなっている。
 日本人靴工間の競争を避けるため、修理代金の最低額が規定され、新規開店に際しては、会員の店から一定距離外に出ることが要求された。諸規定の違反に対しては、営業者については保証人が、徒弟についてはその養成者が責任を負い、過料等が課されることになっている。




四 高野・城がアメリカで学んだもの

 最後に、日本労働組合運動の最初の組織者となった職工義友会の面々、とりわけその中心となった高野房太郎、城常太郎がアメリカにおいて体験し、あるいは見聞、学習した労働運動、労働問題が、どのような内容をもっていたかを検討しておきたい。彼等の経歴さえまだ充分に明らかではなく、材料も限られているから、いきおい断片的、一面的なものとなることは避けがたいし、アメリカ労働運動史についてまったくの門外漢であるから、初歩的な誤りをおかさないとも限らないが、今後の研究のための手がかりを提供する意味であえてとりくんでみよう。




高野房太郎と労働騎士団

 まず、高野に対するAFLの影響、ゴンパーズの影響について考えてみたい。これまでの研究には、高野がゴンパーズの信頼を得てAFLのオルグに任命され、帰国後もひんぱんに文通していたという両者の密接な関係から、高野の労働運動論を主としてAFLの影響によるものと簡単にわり切っているものが少なくない。だが、果たしてそうであろうか。高野がゴンパーズと最初に会ったのは一八九四年のことで、彼が労働運動に関心をもってからすでに五年間はたっていたのである。
 高野房太郎は渡米前に、労働組合について一応の知識をもっていたとみられる。彼の横浜時代の蔵書と推定される、フォーセット夫人の『経済学入門』(Millicent G. Fawcett, Political Economy for Biginners, 1884)が残されており(注25)、そこには労働組合、ストライキ、協同組合について、労働側を支持する立場からの叙述があるからである。ただ、房太郎が直接労働運動に関心を抱くようになったのは一八八九年のことであった。これについては、高野自身の証言がある。一八九七年一二月一七日付、ゴンパーズ宛の手紙のなかで、次のように述べているのである。

 「私が一八八九年にカリフォルニアの製材所にいたとき、幸運にも『労働運動──今日の問題』と題する一冊の本に出会いました。その本を熟読したことで私の労働運動に対する関心がめざめ、また日本の労働者が耐え忍んできた不当な境遇についての私の認識は研ぎすまされたのです。その後、七年間のアメリカ滞在中、私はアメリカの労働運動について懸命に勉強し、また綿密に観察を続けました。そして帰国すると労働組合期成会を設立して、この国の労働運動を出発させたのです。」(注26)

 The Labor Movement: The Problem of Today、ジョージ・マクニール(George E. McNeill)編著で一八八七年に刊行されたこの本が、高野房太郎の〈労働運動への開眼の書〉となったのである。A五判より二、三センチ縦長で、六〇〇ページをこえるこの大冊は、ギリシア、ローマから近代にいたる労働の歴史、アメリカ労働運動の通史、ヨーロッパおよびアメリカの労働法制、さらには印刷、靴製造、繊維、炭坑、鉄鋼、鉄道、建築、その他各産業別の労働問題・労働運動の歴史と現状、さらに特別のテーマとして労働騎士団の歴史とその理念、労働時間、利潤分配制、協同組合、産業教育、調停と仲裁、失業、さらには中国人と労働問題など二四章が一四人の筆者によって執筆されていた。フィリップ・フォーナーが『合衆国における労働運動の歴史』の第一巻の冒頭で、リチャード・イリーの『アメリカにおける労働運動』(一八八六年刊行)とともに本書の名をあげ「貴重な本」と呼んでいるように、ジョージ・マクニールの本はアメリカ労働運動史に関する先駆的な業績であった。その内容は運動史にとどまらず、労働運動の百科事典ともいうべき内容をもっていた。高野がこの書物からいかに多くのことを学んだかは、一八九〇年に『読売新聞』に寄稿した「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」にはっきり示されている。ただし、房太郎はこの論稿をマクニールの本だけに頼って書いたのではない。彼は明らかに新聞その他からも労働問題、労働運動に関する事実を集めている。
 マクニールの本で注目されるのは、労働騎士団について大きくとりあつかっていることである。全二四章のうち二章を労働騎士団にさき、その歴史を労働騎士団の創設者の一人であるテレンス・パウダリーが書き、労働騎士団の諸原則について編者のマクニールが書いている。このような扱いもある意味では当然で、マクニールは一八八四年から八六年にかけて労働騎士団の第三〇支部(マサチュウセッツ州)の役員であり、一八八六年には労働騎士団を代表して、議会の委員会で発言しているのである。
 なお、高野房太郎がこの本を手に入れたのは労働騎士団の組合員の手を通してではなかったかと想像される。これは推測ではあるが、全く根拠がない訳ではない。房太郎が働いていたのはカリフォルニア州メンドシーノ郡のポイント・アリーナにあったガルシア製材所であるが、この地域の製材労働者を組織していたのは三七六人の組合員を擁するメンドシーノ製材工連合で、その傘下には労働騎士団の五つの地域組織があったのである(注27)。サンフランシスコのような都会であれば、本屋などで偶然の機会に手に入れることも可能であったろうが、ポイント・アリーナは人口五〇〇人程の酪農と製材が主要産業の小さな町(注28)で、とても『労働運動──今日の問題』といった専門的な本を置いている店があったとは考えられない。房太郎がこのような場所でこのような本を手に入れたこと自体、彼が労働騎士団のメンバー、それもかなり意識的なメンバーとの接触があったことを裏書きしているのではなかろうか。

 いずれにせよ、高野房太郎がAFLとの接触の前に労働騎士団に強い関心を示したことはたしかで、サンフランシスコでは労働騎士団の機関誌を定期購読していたのである。ジョン・へイズからサンフランシスコの高野あてに書かれた手紙が残っている(注29)が、その内容は、機関誌の購読料が切れたこと、しかし労働運動の国際的な目標を考慮して読者名簿から除かずにいるので、是非続けて購読してほしい、また出来れば一人でも二人でも読者となり得る友人の名を知らせてほしいというものである。手紙の日付の部分が破損していて、August 6, 189 までしか読めないが、一八九〇年代で高野がサンフランシスコに長期に滞在していたのは、職工義友会創立の年、一八九一年しかない。
 おそらく職工義友会(Friends of Labor)という名もThe Knights of Laborからヒントを得たものであろう。彼は一八九二年秋にも、書店を通じて労働騎士団の機関誌の入手を依頼している。さらに注目されるのは、高野がゴンパーズに宛てた最初の手紙で、日本の労働者を組織するには、さしあたり労働騎士団のような組織形態をとる方がよいのではないか、との考えを述べていることである(注30)
 また、ゴンパーズに会う直前には、労働騎士団のヘイズ書記長にあてて手紙を書き、その中で要旨つぎのように記している。

 「労働者の解放に向けての第一歩は彼等を教育することであり、その為には労働者を強力な組織のもとに集める必要があるが、それにはあなた方のような方法でのみなしうることだ。職業別の組織では弱小組合が乱立するだけであろう。そう考え、私はこの一、二年来、あなた方の組合の活動を注意深く見守ってきたが、そのやり方は日本でも適用可能で成果をあげると思い満足している。帰国して運動を始める時には、同じようなやり方を提案するつもりだ。ついては、あなた方の組織の詳細について教えてほしい(注31)」。

 高野のこうした考えは、ゴンパーズに会った後も変らなかったように思われる。彼が帰国後、最初に組織したのは、労働組合に関心のある人なら誰でも、職業に全く関係なく参加できる労働組合期成会であり、その主たる役割は、労働者の教育であった。また、高野が力を入れた協同組合運動も、労働騎士団が重視したところであった(注32)
 もちろん、高野はゴンパーズやAFLの活動から全く影響を受けなかったわけではない。ただ、一部の人々が高野房太郎といえばすぐにAFLとサミュエル・ゴンパーズにのみ結びつけているのは一面的であるだけでなく、事実にも反している。




ジョージ・ガントン

 ところで、マクニールやゴンパーズの他にも、というよりこの二人以上に高野に強い影響を及ぼした人物がいる。ジョージ・ガントンがその人である。高野の賃金論、ひいては労働運動論に決定的ともいえる影響を及ぼしたのが、ガントンの著書、『富と進歩』であった。両者の理論的共通性とその問題点については、すでに大島清氏の研究がある(注33)ので、詳しくはそれにゆずり、ここではジョージ・ガントンその人と高野とのかかわりについて主として見ていこう。
 高野房太郎にとって〈一冊の本〉となった『富と進歩』を彼が手に入れたのは一八九一年一一月二九日、サンフランシスコ市役所の向かいにある本屋 West Coast Book からであった。発行所は New York の D.Appleton and Co.で一八九〇年に刊行された紙装の普及版である。
 一読して感銘を受けた房太郎は、この本の翻訳をこころみる。約二ヵ月半かかって翻訳し終えた彼は、本の最後のページに、感慨をこめて「一八九二年三月一日、ワシントン州タコマにて読了。所要約2ヵ月半」と記した(注34)

 『富と進歩』の著者、ジョージ・ガントンは、一八四五年九月八日、英国・ケンブリッジシャーに、農業労働者の子として生まれた(注35)。正規の教育は受けず、ランカシャーの織物工場で約一〇年間働き、そこで組合活動に参加した。
 一八七四年、彼は家族を残し、ほとんど無一文でアメリカに渡った。深刻な不況のさなかだったが、彼は幸いマサチュウセッツ州フォール・リバーで織物工の口を見つけた。織物工場の町フォール・リバーはその頃労資紛争の絶え間がなかった。そうしたなかで、イギリスでの労働運動の経験をもっていたガントンはすぐに頭角をあらわし、一年もたたないうちに同町の合同労働組合の書記に任命され、また合衆国木綿工組合(The United States Cotton Operatives Association)のオルグとなり、かたわら労働運動の機関紙誌にも執筆した。
 一八七五年、ガントンはフォール・リバーにおきた労働争議の最前線に立って活躍したが、ストの敗北によって職を失い、さらにブラックリストにのせられてしまった。しかし、この頃までには、ガントンはニュー・イングランドの労働運動の指導者たち、とりわけアイラ・スチュワードやジョージ・マクニールらの知遇を得ており、彼等の世話で税関や後にはボストンの海軍工廠に職を得ることができた。




アイラ・スチュワード

 ここで注目されるのは、高野房太郎の労働運動開眼の書の著者であるジョージ・マクニールと、『富と進歩』のジョージ・ガントンとの密接な関係である。この二人は、ともに「アメリカにおける労働時間短縮運動の父」とか「八時間狂」とまで呼ばれたアイラ・スチュヮード(Ira Steward)のもとで、その両腕として活動した経歴をもっていたことである。
 スチュワードは一八三一年の生まれであるが、その生い立ちはわかっていない(注36)。一八五〇年、まだ彼が一九歳の時、一日一二時間も機械工の徒弟として働いていた頃から労働時間短縮運動を始めたといわれ、一八八三年に死ぬまで、マサチュウセッツ州、とくにボストンを中心に労働時間短縮運動にその生涯をささげた人物である。スチュワードの名が最初に人々に知られたのは、一八六三年のことで、ボストンの機械工・鍛冶工組合の大会に代議員として出席し、八時間労働日要求決議と、州議会で八時間労働日の立法化にむけた運動方針を採択させたのである。彼は八時間労働日の立法化運動に力をいれ、一八六五年にはマサチュウセッツ八時間大連盟(Massachusetts Grand Eight-Hour League)を結成、一八六九年には、これをボストン八時間連盟(Boston Eight-Hour League)に改組した。この間スチュワードを助けて働いたのがジョージ・マクニールである。
 マクニールは一八三六年八月四日、マサチュウセッツ州アムスバリーに生まれた(注37)。父は奴隷制廃止論者であった。少年時代は故郷の毛織物工場で働き、一八五一年、そこで大ストライキに遭遇した。間もなく靴工となり、一八五六年にボストンに移った。一八六〇年代の中頃には、ボストンの『デイリー・ヴォイス』の寄稿家として知られるようになっていたが、彼はスチュワードの考えに共鳴し、ボストン八時間連盟の会長を八年間つとめた。さらにスチュワードらとともに運動して、一八六九年にアメリカ最初の労働統計局をマサチュウセッツ州に設置させ、その初代の局長代理となり、一八七三年までその職にあった。
 一八七八年、スチュワード、マクニール、ガントンは、アメリカにおける第一インターの指導者であったF・A・ゾルゲ、J・Pマクドネルらと、国際労働組合(International Labor Union)を結成した。組合長にはマクニールが就任した。スチュワードらとゾルゲらとの間では、最終目標やそれを達成する手段について大きな違いがあった。ゾルゲらはいうまでもなくマルクス主義の立場をとっていたが、スチュワードは、八時間労働日を法制化することによって、終局的には労働者の賃金が資本家の利潤部分をも完全に吸収するまで増大し、一種の協同組合国家への到達を展望していた。国際労働組合は、その目標では労働時間短縮を中心とするスチュワード理論を受け入れていったが、目標実現の方法としては労働組合の活動によるというゾルゲらの主張にもとづいていた。国際労働組合は不熟練労働者の組織化を意識的に企てた点で注目されるが、現実にはフォール・リバーとニュージャージー州のパタソンの繊維労働者を組織しただけで、一八七九年のストライキで大打撃を受け、一八八七年には消滅してしまった。
 一八八三年三月一三日、アイラ・スチュワードは死去した。彼はかねてから『八時間労働日の政治経済学』(The Political Economy of Eight Hours)と題する本を書こうと企てていたが、それを完成することなく病に倒れたのである。スチュワードは再起不能とわかった時、ガントンにこの仕事の完成を依頼し、彼等の友人もこれをすすめた。一八八五年、ガントンはこのすすめを受け入れ、労働運動から離れてニューヨーク市に移り、ジャーナリスト、教育者として、第二の人生を始めたのである。
 一八八七年、ガントンはスチュワードに依嘱された仕事を完成した。他ならぬ『富と進歩』がそれである。ただ、ガントンは書名を変え、これを自分の名で出版した。その理由は、スチュワードが残した草稿は一冊の本にまとめるにはあまりにも不完全であり、『富と進歩』を体系的理論的な著作として仕上げた責任はガントンにあるというのである(注38)
 しかし『富と進歩』の中心命題は、明らかにアイラ・スチュワードによって生みだされたものと見てよい。スチュワードの執筆したもので活字になっているものは僅かだが、彼の草稿も用いたドロシー・ダグラスやジョン・アンドリュースの研究(注39)によれば、スチュワード理論のポイントは次のようなものであった。
 (一) 賃金は労働者階級の慣習、欲求に依存する。
 (二) 余暇(レジャー)は彼等の慣習を改善し、欲求を増大させ、したがって労働者はより高い賃金を要求するようになる。 
 (三) 高賃金は、労働節約的な機械の導入を促進するとともに、機械による大量生産を可能にする、大量消費をもたらす。
 (四) 高賃金労働が低賃金労働との競争によって駆逐されるのを防ぐには、全般的な八時間労働法を採用することが必要である。
 (五) 法律による強制的な労働時間の短縮は低賃金労働者の欲求を増大させ、高賃金要求をもたらすであろう。
 (六) 機械生産による剰余の増大は、使用者がこの要求を受け入れることを可能にするであろう。
 (七) 世界の大工業国は労働時間の削減を通して生活水準を向上させるため、一致して行動すべきである。
 このスチュワード理論の骨格は、ほとんどそのままジョージ・ガントンに引きつがれている。ただ両者は、その最終的な目標について大きな違いを見せる。すなわち、アイラ・スチュワードにあっては、絶えざる賃金上昇によって資本家の利子・利潤部分はなくなり、一種の無階級社会の実現が展望されている。これに対し、ガントンは、賃金制度の永続を考え、晩年にはトラストの支持者、労働組合と大企業の協力を積極的に説くことになったのである。
 ちなみに、一八九四年に、高野房太郎はニューヨーク市に行き、五月二日にはアメリカ海軍の水兵となっている。ただ、同年一一月二〇日の出航までは、待機の形で時間的余裕があった。この間に、高野はガントンが主宰した社会経済学院(College of Social Economics)の学生となり、ゴンパーズとも面会している。ところで、この学校やガントンが出していた個人雑誌の費用は、ほかならぬ石油トラスト・スタンダード石油からの年間一万五〇〇〇ドルから二万五〇〇〇ドルもの補助金でまかなわれていたのである(注40)
 ガントンはまた労働騎士団に批判的な立場をとり、AFLを積極的に支持した。高野が労働騎士団に最後まで強い関心を持ちながら、結局はAFLと結びついたことも、このガントンの態度と全く無関係とは思えない。AFL支持という点でいえば、ジョージ・マクニールも一八八〇年代の終りには、労働騎士団とアメリカ労働総同盟との協力を提唱していれられず、騎士団から離れAFLに加わった。AFLが発行した八時間労働日運動のパンフレットには、マクニール、ガントンの二人とも、ゴンパーズとともに、それぞれ執筆しているのである(注41)
 われわれは、ともすればAFLと労働騎士団を対比的にとらえ、両者の対立抗争に目をうばわれる。しかし、ゴンパーズ自身、一時期は国際労働組合や労働騎士団のメンバーだったことを見ても、またマクニールの経歴からもわかるように、AFLは、労働騎士団のなかから生まれた側面をもっているのである。
 また房太郎が直接影響を受けたのはガントンの『富と進歩』であることは確かだが、その理論的骨格の大部分はアイラ・スチュワードによって形成されていたものである。こうした事実が端的に示すように、高野がアメリカで学んだのは、単にゴンパーズとAFLの活動だけでなく、ボストン八時間連盟、国際労働組合、労働騎士団、AFLへとつらなるアメリカの労働者階級の運動経験であったとみるべきではなかろうか。たとえば、高野は「富国の策を論じて日本に於ける労働問題に及ぶ」の最後に、「労働者の社会周囲物を精良ならしむるの道」の「重なる者」として、無料の義務教育、労働時間の制限、労働統計局の設置などを掲げている。実は、これらの要求は、ほとんどそのまま国際労働組合によってその目的に掲げられていたものである(注42)
 本稿は通説の批判に力点を置いたため、ゴンパーズ、AFLから高野が何を学び、どのような影響を受けたかについてはほとんど検討しえなかった。この点は別の機会にゆずりたい。ただ一言つけ加えておけば、ゴンパーズを「著名な社会主義嫌い、イデオギロー嫌い、またインテリ嫌い」(注43)と位置づけ、高野がその影響を受けたとする大河内一男氏の主張は、後年のゴンパーズ像には合致しているとしても、高野が面談した一八九四年時点での評価としては疑問が残る(注44)




中国人労働者排斥問題

 つぎは城常太郎である。彼の場合は、アメリカの労働組合を単に新聞や書物を通して知っただけでなく、白人靴工労働同盟の運動により自らの職を失うという痛烈な体験のなかで知らされたのである。彼が労働組合について考えるとき、おそらく白人靴工労働同盟と対立した体験を忘れえなかったに相違ない。また、労働組合の活動分野の一つとし、外国人労働者排斥が大きな比重をもつことも強く印象づけられたに違いない。城が一八九九(明冶三二)年、神戸で「清国労働者非雑居期成同盟会」に参加し、高野房太郎を同会主催の演説会の弁士として東京から招き、高野もまた積極的にこれに応じているのは、彼等のアメリカでの体験と切り離しては考えられない。 この「清国労働者非雑居問題」では、片山潜は高野、城と全く異なった態度をとった。片山は説いている(注45)

「吾輩は喜んで支那人の来住を歓迎せんと欲す。支那人は吾同胞なり、而して忠実なる労働者なり。吾人は平常労働者の利益の為めに弁護す。
 又公平なる同情を以て、忠実なる労働者支那人の為めに弁護せざるを得ず」
「米国人の嘗て之を排斥したるは、一種の人種的感情より出たる者にして、実際の利害より打算したる者に非ざりしなり」

と主張している。
 片山はこの問題を重視し、『労働世界』紙上で、三回にわたって「雑居賛成論」を展開している(注46)
 片山のこうした見解は高野の到底承認できるところではなかった。『労働世界』第四一号(復刻版四〇一ページ)には労働組合期成会の名で特別広告が掲げられ、片山を名ざしにこそしなかったが、彼の主張は「期成会の決議を経た」ものでないことが強調され、翌四二号には高野の「清国非雑居期成同盟会の演説会に臨む」が発表されたのである。
 この「清国労働者非雑居」問題をめぐる片山・高野の対立は、これまであまり注目されていないが、社会主義と労働組合主義の対立というだけではとらえきれない、両者の思想上の相違を解明する手がかりとして重視さるべきであろう。
 片山と高野の比較論は、これまでしばしば試みられている幸徳秋水と片山潜との対比以上に興味のあるテーマだが、本稿の範囲をこえている。別の機会にゆずりたい。
 最後にどうしてもとりあげておく必要があるのは、高野らを「色濃い排外思想」の持ち主とみる見解についてである。大河内一男氏は「職工諸君に寄す」がその冒頭で〈内地雑居問題〉をとりあげていることを根拠に、こうした評価を下している(注47)。大河内氏は「清国労働者非雑居」問題については全くふれていない。たしかに、この問題に対する高野、城らの対応をみると、大河内氏の評価は裏書きされているかに見える。だが、こうした見解には疑問がある。それというのも、このような評価は、高野の生涯そのものとあい容れないところがあるからである。いったい、自らの意思でアメリカに赴き、一〇年近い勉学と労働の歳月を送り、その文明に強い感銘を受け、日本人にとって全く未知の経験であった労働組合運動の紹介につとめ、ついにはそれを実践し、挫折した後には中国大陸に渡ってそこで客死した男と、「色濃い排外思想」とは、いかにすれば結びつくのであろうか。
 高野や城は、辻野功氏が指摘したように、ナショナリストではあった(注48)。明治初年に生まれ育った青年達の常として、彼等もまた日本帝国の前途を憂い、「日本帝国の文明の為めに其国力の発達」を何よりも希望していた。だがこれは直ちに排外主義に結びつくものではなかった。彼らは、アメリカで白人の労働組合によって排斥・迫害された体験をもちながら、これに感情的に反発する態度をとらなかった。むしろ、低賃金労働力の流入による労働条件の切下げに反対するという、白人労働組合の主張に耳を傾けた。そして、労働組合を日本の労働者の間で組織することが、日木の労働者の悲惨な状態を解消し、ひいては日本帝国の国富の隆盛をもたらす道であることを主張したのである。高野や城が、中国人労働者の日本への自由な流入に反対したのは、彼等の労働組合論からすれば当然の帰結であった。彼等の主張の背後には、中国人に対する蔑視がなかったとはいえないであろう。しかし、それは彼らの中国人労働者排斥論の主たる要因ではなかったと思われる。




【注】


(1) ハイマン・カブリン編著『明治労働運動の一齣』(有斐閣、一九五九年)英文篇四七〜四八ページ。

(2) 隅谷三喜男「高野房太郎と労働運動── Gompersとの関係を中心に── 」(『経済学論集』第二九巻第一号、一九六三年四月)。なお、本稿は隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』一九七六年、御茶の水書房にそのまま再録されている。

(3) 大島清「労働組合運動の創始者・高野房太郎」(一、二、三)(大原社会問題研究所『資料室報』第一〇六、一二四、一三九号(一九六五年一月、六六年一〇月、六八年七月)。

(4) 『遠征』は、サンフランシスコ在住の日本人が組織していた海外実業同志会の機関誌である。創刊号は一八九一年七月の発行で、義友会が創立されたとされる一八九〇年にはまだ出ていない。筆者が閲読した『遠征』は、西田長寿氏が利用されたものとまったく同じ、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫の所蔵本である。
 なお、同誌には『明治労働運動史の一齣』にも収録されていない高野房大郎の論稿が二つある。論争の相手である『愛国』記者の論稿とあわせいずれ発表したい。〔その後、この高野の論稿は岩波文庫『明治日本労働通信──労働組合の誕生』(一九九七年)に採録し公表した。〕

(5) San Francisco Municipal Report for the Fiscal Year 1891-92., p.724

(6) 鷲津尺魔『在米日本人史観』(一九三〇年、羅府新報社)。

(7) 法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一二四号(一九六六年一〇月)。

(8) 高野房太郎より岩三郎宛書簡、一八九二年三月七日付(法政大学大原社会問題研究所『資料室報』第一〇六号(一九六五年一月)

(9) 『労働世界』第六五号(一九〇〇年九月一日)英文欄。この筆者は、城を高野の「古くからの親友」(old chum)と呼んでいる。

(10) 武藤武全より高野房太郎宛書簡、一八九七年六月二九日付。大原社会問題研究所所蔵。

(11) 『東京靴工同業組合史』(一九三三年刊)によれば、「職工同盟造靴場」は、製靴業者の同業組合である「東京靴工組合」が職工の争奪を防止するため、職工に鑑札を持たせようとしたことに怒った職工がつくったものであるという(『日本労働運動史料』第一巻一八一ページ)。ずっと後の記録であるので、必ずしも信頼しえないが、当時製靴業者と職工との間に対立があったことは確かであろう。

(12) 問題の『国民之友』の記事は、一八八八年七月二〇日付の第二六号の雑報欄に掲載された「支那人の職工」と題するものであろう。次がその全文で、とうてい「詳細」なものとは言えない。

 「桑港職工事務委員『エノース』氏は近頃支那人職工に関せる報告をなせり。その言によれば、支那人にして当港各種の製造処に使役せらるゝ職工は実に夥しきものにして、単に靴類製造所に使役せらるゝ者のみにても六千人内三千八百人は同国人の製造所に、他は皆米国人に使役せられ、一日給料七十五仙より一弗七十五仙の間にして、平均一弗二十五仙を受領し」ている。

 これが「米国に於ける支那人の靴工の状態」に関して、『国民之友』が報じたほとんど全てである。それでも、日本での運動に行き詰まっていた靴工にとっては、見逃しえない重要な情報であった。この記事が何に拠ったものかはわからないが、 ニュースの最初の出所は、カリフォルニア州労働統計局の報告書であろう。エーノスは「桑港職工事務委員」ではなく、一八八三年に設立されたばかりのカリフォルニア州労働統計局の初代局長である。一年おきに発表された同局の報告書は、毎回、中国人労働者の問題に大きなスペースをさいている。とくに一八八七年に発表された第二回報告書では白人靴工労働同盟の要請によって開かれた聴問会の記録が収められている。

(13) 城の生いたちは『西村勝三の生涯』所収の「靴工故城常太郎君之碑」の碑文による。なお、城常太郎をヘンリー・ジョージ『済世危言』の訳者・城泉太郎と混同した文献があとをたたないが、二人は全く別人である。城泉太郎については、家永三郎「自由民権に関する新史料紹介──城泉太郎の自伝」(『歴史評論』一九五六年六月号)参照。

(14) 西村勝三に関しては主として西村翁伝記編纂会『西村勝三の生涯』(一九六八年)による。なお、城らの渡米を西村が援助したことは、大嶋謙司「靴工同盟創立苦心談」にも記されている。

(15) Second Biennial Report of the Bureau of Labor Statistics of the Study of California, Sacramento, 1887, pp.420-422.

(16) Ira B. Cross, A History of the Labor Movement in California, Berkeley, 1925, pp.56-57.

(17) Ibid. p.57 & Second Biennial Report of the Bureau of Labor Statistics of the Study of California, p.425.

(18) Second Biennial Report of the Bureau of Labor Statistics of the Study of California, Sacramento, 1887, pp.442-428.

(19) 「靴屋の繁殖」(『遠征』第三一号、一八九三年一二月一日)。

(20) 「日本人靴工同盟会規約及細則」(一九〇四年七月)

(21) Third Biennial Report of the Bureau of Labor Statistics of the Study of California, Sacramento, 1888, p.118.

(22) 浦川生「我同盟会の将来に就て」(『加州日本人靴工同盟会会報』第一号、一九〇九年一月)。

(23) 加州日本人靴工同盟会会員名簿」(同会『会報』第一号所収)。

(24) 前掲、浦川生稿。

(25) 現在大原社会問題研究所にある高野岩三郎文庫の中に、F. Takano の署名のあるこの本が残されている。この本の中にはさまれていた紙は、一八八五年一月九日の日付のある英文の船荷の送り状で、本にある署名とよく似た書体で書かれている。房太郎が伯父の経営する回漕店で働きながら横浜商業夜学校で学んでいた時に読んだ本と思われる。

(26) この手紙はハイマン・カブリン『明治労働運動史の一齣』には入っていない。同書英文篇七〇ページ以下にある鉄工組合の結成を報じた通信に付されていたもの、あるいはその一部とみられるが、AFLの機関誌には発表されなかったのである。高野のゴンパーズ宛の手紙の現物二〇通は一九五〇年代の前半までは確実にAFLの本部に保存されていたが、同本部の新築移転の際に他の膨大な資料とともに廃棄されてしまった。引用した部分は、幸いフィリップ・フォーナーの『合衆国における労働運動の歴史』の第三巻に引用されていたため残ったものである(P.S.Foner, History of the Labor Movement in the United States, Vol.2 p.274)。
【追記】
  本稿を発表した時点ではまだその存在を知らなかったが、フィリップ・フォーナーは、AFL・CIOのアーカイヴスに残されていたゴンパーズ宛の高野房太郎書簡すべてを、自らタイプして残していてくれた。これによって、岩波文庫『明治日本労働通信』 でゴンパーズ宛の房太郎書簡二二通を翻訳紹介することが出来た。

(27) Proceedings of the First Annual Convention of the Pacific Coast Council of Trade and Labor Federations, 1891, p.5.

(28) Handbook and Directory of Napa, Lake, Sonoma and Mendocino County.

(29) 法政大学大原社会問題研究所所蔵。

(30) 隅谷三喜男『日本賃労働の史的研究』(御茶の水書房、一九七六年)一八七ページ参照。

(31) 前掲書、一九八〜一九九ページ。

(32) 労働騎士団が教育を重視し、協同組合運動にカを入れていたことについては、P. Foner History of the Labor Movement in the United States Vol.2, pp.75-77.

(33) 大島清『人に志あり』一九七四年、岩波書店。

(34) 原文は次の通り。「Finished March 1, 1892, at Tacoma, Wash. Time taken , about 2 monnths & half」。なお高野房太郎が翻訳に用いた George Gunton, Wealth and Progressは、現在も大原社会問題研究所の高野岩三郎文庫の一冊として残っており、本文に記したように、購入の日付、翻訳の進行を示す日付が書き込まれている。ただ、残念ながら訳稿の行方はわからない。

(35) ジョージ・ガントンの経歴、その理論については、Jack Blicksilver, “George Gunton:Pioneer Spokesman for a Labor-Big Business Entente" The Business History Review, Vol.31 no.1, Spring 1957.

(36) アイラ・スチュワードの生涯とその理論については、Dorothy W. Douglas, “Ira Steward on Consumption and Unemployment", Journal of Political Economy, Vol.40, Aug.1932 のほか、Commons and Associates, History of Labor in the United States, Vol.2, pp.87-93,301-306 およびDavid Montgomery,Beyond Equality, pp.249-260を参照。

(37) ジョージ・マクニールの経歴については、本人が編集した『労働運動──今日の問題』に付されている労働運動関係者の略伝、および Commons and Associates, History of Labor in the United States, Vol.2, p.92.

(38) George Gunton, Wealth and Progress, Preface 参照。

(39) 注36参照。

(40) スタンダード石油からの補助金問題については、前掲のジャック・ブリックシルバーの論文のほか、McClure's Magazine, Vol.26 no.4, Feb. 1906, p.451.

(41) George E. McNeill, The Economics and Social Importance of the Eight Hour Movement, Eight-Hour Series No.1.
George Gunton, The Economic and Social Importance of the Eight-Hour Movement, Eight-Hour Series No.2.
Samuel Gompers, Eight-Hour Workday, Eight-Hour Series No.4.

(42) Commons and Associates, op.cit pp.202-204.

(43) 大河内一男『労使関係論の史的発展』(有斐閣、一九七二年)一六七ページ。

(44) Stuart B. Kaufman, Samuel Gompers and the Origin of the American Federation of Labor 1848-1896,1972.

(45) 『労働世界』第三九号、一八九九年七月一日、復刻版三七三ページ。

(46) 『労働世界』復刻版三七六ページ、三八三〜三八四ページ。

(47) 大河内一男『労使関係の史的発展』(有斐閣、一九七二年)一四六〜一四八、一六八〜一七六ページ参照。

(48) 辻野功「明治組合運動におけるナショナルな契機」(辻野功『明治社会主義史論』法律文化社、一九七八年)所収。




【付記】 本稿で用いた資料の収集にあたって、カリフォルニア・ファースト銀行日米資料室長の岡省三氏、カリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館司書の由谷英治氏にひとかたならぬお世話になった。記して謝意を表する。



初出は労働運動史研究会編『黎明期日本労働運動の再検討』〔『労働運動史研究』第六二号〕(労働旬報社、一九七九年四月)所収。


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