二村一夫随筆集  『さまざまな出会い』

弔辞 林要さん

林 要 さん!
 四〇歳も年下の私からすると、「林先生!」とお呼びする方がずっと自然なのですが、誰に対しても先生と呼ばない主義であった貴方を先生と呼んだのでは、「おい二村君、先生はやめろよ」と叱られそうですから、あえて林さんと呼ばせていただきます。
 私が林さんとはじめてお目にかかったのは、もう二十五年も昔の一九六七年四月五日のことでした。何で日付まで覚えているかといえば、この日は大原社会問題研究所の初代所長であった高野岩三郎先生のご命日で、毎年、研究所の主催で高野先生追憶会が開かれていたからです。私は専任研究員として入所したばかりの時でした。林さんがこの会に参加されたのは、大原社会問題研究所の大先輩でいらしたからです。一九二〇年、大正九年に林さんは東京帝国大学法学部を卒業されましたが、その年の七月に、大阪は天王寺に設立されたばかりの大原社会問題研究所に助手として入所されたのでした。同僚の助手は、宇野弘蔵、丸岡重尭、植田(宮城)たまよ、山村喬、河西太一郎、八木沢善次という錚々たる顔ぶれでした。
 しかし、この助手の皆さんが大原研究所で研究生活を送られたのは僅か二年半あまりに過ぎませんでした。研究所改革で全員が解雇されたからです。これを機に、林さんは同志社大学に移られました。しかし林さんは、自分を解雇した高野所長にも、研究所にもけっして不快感は抱かれませんでした。高野先生追憶会に、林さんはほとんど毎回のように出席され、七十歳を越えた方とは思えない若々しさで、いくつもの楽しい思い出を話してくださいました。
 私はまもなく、この追憶会の席だけでなく、林さんからいろいろお話をうかがうことになりました。それは、一九六九年に研究所が創立五十周年を迎えたのですが、その記念事業のひとつとして戦前の社会運動の機関紙誌の復刻事業をはじめることになり、私がその担当になったからです。その企画の最初にとりあげたのが、一九一八年暮れに東大法学部の学生を中心に創立された新人会の機関誌、『デモクラシイ』『先駆』『同胞』『ナロオド』の4誌でした。林さんは、徳山中学以来の友人だった赤松克麿、荘原達とともに新人会の創立会員で、大学時代は目白の新人会本部に泊まり込んでいらしたのでした。私は日本の社会運動団体の源流のひとつである新人会の創立事情などと同時に、ペンネーム筆者の本名を教えていただこうとお宅へうかがったのでした。そして山野秋人、笹川暢など林さんご自身のペンネームのほか、柏木敏子の本名は永倉てる、後の林夫人であることなどを教えられた上に、二四歳の若さで亡くなられた奥様の遺稿集『小さき命』までいただいて帰りました。これがきっかけで、研究所の五〇周年記念展示会には、林さん秘蔵の書画を何点もお借りしたり、ついには戦前の社会運動関係の資料や雑誌を研究所にご寄贈いただくことになりました。その都度、久我山のお宅へうかがい、食事までご馳走になったのでした。いまでも、隣の家がほとんど見えないほどの広い庭に面した部屋で、楽しい会話をかわした時のことが目にうかびます。夕方になると武蔵野中の群れが集まったのではないかと思われるほどの椋鳥の大群の思い出ととともに忘れがたい印象が残っています。
 じつは新人会について調べ始めた私に大いに役立ったのが、先生が『世界経済評論』に一年半にわたって連載されていた自伝的回想記でした。私は一読して感銘をうけ,『日本社会運動史料』を出していた法政大学出版局の編集者に、これを本にすることをすすめました。この企画には林さんもたいへん乗り気で、長年集めてこられた書画、津田西楓や長谷川如是閑をはじめとする多くの文化人の書画の写真などをふんだんにもりこんだ『おのれ・あの人・この人』が出来上がったのでした。この回想記は、林さん一流の皮肉をユーモアにくるんだ名文で、読むだけでも楽しい本ですが、それ以上に、大正デモクラシー時代を担った吉野作造、高野岩三郎、安井てつといった歴史的人物の人柄、生き方が生き生きと描かれ、たいへん貴重な記録でもあります。また、多くの人に対する林さんの評価は、おのずと林さん自身の個性を伝えています。それは、いかなる権威にも屈しない反骨の人であり、まさに〈大正デモクラシーの申し子〉ともいうべき自由人であると同時に、どんなに苦しい時でも肩ひじ張らずに人生を楽しむゆとりをもった文人の姿です。
 人の目ばかり気にして、互いに競争しあい、ついには〈過労死〉といった事態に追い込まれかねない今のわれわれは、林さんの生涯に学ぶべきところが少なくないと思われます。しかし九十七年という長い年月を生き抜いてこられ、さぞお疲れになったことだとおもいます。いまは安らかにお休みください。


   一九九一年一二月二九日

法政大学大原社会問題研究所
二村 一夫




【追記】
 一九九一年も押し詰まった暮の二八日、五味健吉氏からの電話で林さんの訃を知った。五味健吉氏などと言うと誰か別人のような気がするから、いつも通りゴミケンと呼ばせて貰おう。ゴミケンは諏訪中学の同期であり、大学院や大原社会問題研究所のアルバイトなど、あちこちで一緒になり、法政大学に職をえたのもほぼ同じ頃だった。職場が離れていたのと、私は彼のようには飲めないから、日常的に親しくしていたわけではない。しかし、会えば互いに心を許して話せる仲だった。そのゴミケンが林要さんの孫娘と結婚し、林さんの葬儀を取り仕切っていたのである。この弔辞は、彼の依頼で、三鷹の法専寺で執り行われた葬儀の際、霊前にささげたものである。
 私などが大先輩の林さんに弔辞をささげるのはかえって失礼にあたると固辞したのではあるが、ゴミケンの頼みとあっては、けっきょく引き受けざるをえなかった。享年九十七歳、すでに親しい友人の多くは故人となっておられ、適任者がいないというのが、私にお鉢がまわってきた理由だった。私としても、大原社会問題研究所の大先輩であり、私が研究所で最初に手がけた仕事である《復刻シリーズ 日本社会運動史料》編集の際、たいへんお世話になった林さんに、ひとことお礼を申し述べておきたい気持ちもあった。
 こうした匆々の間に筆をとった弔辞であるから、意を尽くさないところが多々ある。なにより林要さんの全生涯をきちんと評価するものになっていない。東大新人会から大原社会問題研究所、同志社大学での活躍、同校を追放された経緯、厳しい戦時体制下を晴耕雨読の生活で乗り切られたこと、戦後の学術会議での活躍、さらに数々の研究業績など、私などに評価できるはずもない。しかし、そうした経歴についてまったく触れなかったのは、人の最期を送る言葉として不十分だった。それだけでなく、当日ささげた弔辞では、年次を一年間違えるという失敗まで演じてしまった。弔辞をとりまとめたのが翌年の年賀状を書いている最中だったためであろう、つい「一九九二年一二月二九日」と書いてしまったのである。読み上げた途端に間違いに気づいたが、もはや取り返しはつかなかった。あの世から「きみもそそっかしい男だな」と林さんの大きく口をあけた例の「呵々大笑」が聞こえてくるようなミスだった。
 私に弔辞を依頼してきたゴミケンも、一九九九年夏、あの世に行ってしまった。反骨精神にあふれ、ちょっとガラッパチ的なところはありながらシャイで、ひそかに細かい心配りをする男だった。多くの点で林要さんと共通するところのある快男児だったが、長生きの点をもうちょっと見習って欲しかった。 合掌。

〔二〇〇三年八月九日〕




縦書き表示 総目次

ページの先頭へ