評者:市原 博
《書評》
二村 一夫 著
『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』
I
本書は、1971年に争議史研究の重要性を提唱してその後の労働運動史研究に大きな影響を与えるなど日本の労働運動史研究をリードする役割を果たして来た著者が、1907年の足尾暴動に関して発表して来た研究を集大成されたものである。著者が足尾暴動の研究に着手されてから本書が纏められるまでに実に30年に及ぶ歳月が費されている。「20年余り作業を中断したために過ぎない」との著者の言にもかかわらず、鉱山労働に関する著者のこの間の持続的な研究の成果が本書の到る所に盛り込まれていることからすれば、本書はやはり著者の〈半生をかけた作品〉と評することが出来よう。本書を貫く著者の姿勢は、日本の労働運動史研究のあり方を見据えながら、労働運動史のこれまでの理解・通念を足尾銅山の史実を基に実証的に検討するというものである。それ故、本書は決して足尾暴動の研究書に止まるものではなく、労働運動史・労使関係史研究全体の中で本書が持つ意義と問題点を検討することが本書の書評に当って何より求められる。しかし、評者の力量と専門の関係から、また他にも多くの書評が出ると思われるので、ここでは主に鉱山労働史研究の側面から本書の内容を検討することにしたい。
II
本書は、1959年から1985年にかけて発表された3つの論文を基礎にした第1章から第3章と序章・終章からなっている。序章「暴動の舞台・足尾銅山」では、鉱毒事件で著名な割には良く知られていない足尾銅山の暴動当時の状況が紹介され、全体の導入とされている。足尾の地理・地名から始まる説明は微細に及び、足尾銅山を経営した古河と原敬のつながりや暴動当時の職制・役員、足尾銅山の友子同盟の組織など、足尾暴動を理解する上で不可欠の予備知識が紹介されている。
第1章「足尾暴動の主体的条件」は足尾暴動そのものを分析対象とし、暴動に至る坑夫の運動・暴動の経緯と原因・暴動後の経過を会社・警察・裁判・新聞資料などを突き合わせて追求している。その叙述は、詳細と言うよりは生々しいと称するのが適切である。ここで著者は、足尾暴動を始めとする労働者の暴動を「組織をもたず、経済的に窮乏した労働者による自然発生的反抗」だとして労働者の主体性を評価せず、それ故それぞれの暴動の歴史的差異を無視することになった多くの通史的研究での見解、とりわけ、鉱山労働者を「求心的・非結社形成的で他者志向的な」原子化された人々とし、鉱山暴動を「絶望的に原子化された労働者のけいれん的な発作であ」るとする丸山真男氏の見解を批判の対象に据え、足尾暴動の中心となった坑夫の主体的特質とその組織性の解明に力を注いでいる。
1907年2月4日の暴動勃発までに足尾銅山の鉱夫の間では3年以上に亘って再三労働組合の組織化の試みがなされ、特に1906年10月に夕張から南助松が来山し、彼を中心に大日本労働至誠会足尾支部が結成されると、同会はより正確な現状認識の下に、a)賃上げ、b)役員の一般労働者に対する差別待遇の象徴であった食米の改良を運動目漂に据え、飯場頭や「いわば坑夫のクラフト・ギルドで」「坑夫の自治団体であった」友子同盟の山中委員に協力を働きかけた。
これに対し鉱業所側は至誠会に先んじて飯場頭に賃上げ請願を行わせたが、既に至誠会に協力姿勢をとっていた通洞の友子同盟の山中委員は友子同盟としての独自の請願を行うことを計画し、これを抑えようとする飯場頭と激しく対立するようになった。至誠会に接近した通洞の山中委員は、足尾内の他の友子同盟の山中委員に働きかけて労働条件の改善や友子同盟の労働者代表権などを要求する全山友子一致の請願書を作成し、また飯場頭の中間搾取に強力な制限を加えようとした。2月4日の暴動は、こうして追いつめられた飯場頭の挑発によるものだった可能性が大きいとされる。そして、暴動でもっぱら役員が攻撃目標にされたのは、坑夫賃金の決定に現場員の裁量の余地が大きく、また現場員が低賃金であった状況下で賄賂の強要など現場員の不公正な行為が多かったためであった。このような分析を踏まえて著者は、暴動自体の中には自然発生的な側面があったにしても、その背後には友子同盟の極めて組織的な活動があったのであり、むしろ坑夫が〈結社形成的〉であったからこそ暴動が起こったのであり、それは他の鉱山の争議にも共通していたと主張されている。
第2章「飯場制度の史的分析」の原論文は、大河内一男氏の「出稼型論」に痛撃を与えたことで著名な1959年に発表された論文「足尾暴動の基礎過程」である。「出稼型論」は、原論文が発表された当時には大きな影響力を持っていたが、多くの批判に会い、また大河内氏の見解の転換もあって今日では受容されていないと言って良い。にもかかわらず著者が「出稼型論」批判をそのままの形で収録されたのは、「出稼型論」が何よりも日本の労働者の特質を問題にするものであり、そこでの「宿命論」的な理解を克服した日本の労働者の特質把握こそ著者の中心的研究テーマだったからであろう。
著者の「出稼型論」批判の最大の重点は、それがもっばら労働市場での在り方から労働力の特質を規定するに止まり、生産過程での労働力の鍛冶、その性格の変化を見落としている点に置かれ、本章では、生産機構(具体的には採鉱法)の進歩に伴う坑夫の性格変化が、特に飯場制度の変質を軸に追求されている。1877年の古河による買収後、銅山開発の進展過程で旧来の下稼人制度が廃止され、「産業資本に包摂された請負制度」たる飯場制度が形成された。この飯場制度は、基幹工程たる採鉱が手工的作業による抜き掘法の段階に止まっていたことにその存立根拠を有したが、1890年代後半には抜き掘法の欠陥が強く意識されるようになり、1900年前後には採鉱法は階段掘法へと移行した。その結果、飯場制度の重要な機能であった飯場頭による作業請負が廃止され、また雇用・解雇・賃金決定に関する権限が失われて飯場頭の坑夫統率が弱化し、飯場頭の中間搾取者としての本質があらわになった。しかも、収入を減少させた飯場頭は流通面からの坑夫の収奪を強めたため飯場頭と坑夫の矛盾が激化した。
著者は明示されていないが、こうした採鉱法の革新に主導された飯場制度の変質=弱化によって生み出された坑夫の自立性の強化が、第1章で明らかにされた坑夫の活動を可能にして暴動の基盤になったし、また第1章の「結びにかえて」で論じられている暴動後の飯場制度改革(飯場頭への統制の強化、配下坑夫の独立性の強化)の根拠にもなったと読むべきであろう。ここに足尾暴動とその基礎過程の分析の統合をみることが出来よう。
本章の論旨は極めて明快であるが、率直に言って評者には不満が残った。飯場制度の変質=弱化を論ずる際に議論の焦点となった飯場頭による作業請負の存在が十分実証されていないのである。著者はいくつかの資料で採鉱が「請負」とされていることを以て作業請負の存在を主張されているが、採鉱の「請負」とは必ずしも飯場頭による作業請負を意味するわけではない。また、採鉱法の階段掘法への転換時期についても鉱石品位の低下から推測されるだけで十分実証されているとは言えない。原論文の発表時期を考えればこれらの点は必ずしも非難されるべきではないが、本章の議論の根幹に係る点なので何らかの形で補足された方が良かったのではないだろうか。
本章には補論1「飯場頭の出自と労働者募集圏」、補論2「足尾銅山における囚人労働」の2つの補論が付加されている。特に補論1では、飯場制度の労働力確保機能や飯場頭の出自など本書全体の理解に係る重要な点が論じられている。
第3章「足尾銅山における労働条件の史的分析」では、暴動に至る足尾銅山の労働者の労働条件、とりわけ実質賃金水準の推移と、それを規定した労働力需給・技術・経営政策の変化が追求されている。
著者によれば、従来の日本労働運動史や日本資本主義発達史では労働争議の原因として労働者の「構造的低賃金」から来る「窮乏」が強調されるだけのことが多いが、他職種・他鉱山・他産業の労働者に比して高賃金を得ていた坑夫が暴動の主力となった足尾暴動はそうした理解では説明され得ず、暴動当時の足尾坑夫の「窮乏」の質を明らかにするためには足尾銅山の各職種別の賃金水準の変化の歴史的追求が必要だとされる。
本章は、本書の中で最も分量が多く、論点も多岐に亘り、しかも多くの資料をつなぎ合わせながら資料批判と推計を繰り返して史実に迫っているので限られたスペースで要約することは評者の能力を越えるが、評者なりに結論部分のみを纏めると以下のようになろう。
1880年代の足尾銅山では、生産拡大に伴う膨大な労働力需要が存在したため坑夫・製錬夫とも相対的な高賃金を得ていたが、暴動直前には両者とも実質賃金を大幅に低下させ、特に製錬夫の賃金は、この間実質賃金が横ばいだった雑役夫と同水準にまで落ち込んだ。製錬夫の賃金低下は、熟練製錬夫=吹大工の労働市場の需給関係の1880年代後半の緩和と1886年以降の洋式熔鉱炉の導入の下で経営側の積極的攻撃により進められ、特に、1890年に洋式熔鉱炉により旧来の吹床の駆逐がなされ吹大工の知識や熟練が無用化してしまうと、彼らに代った洋式熔鉱炉の製錬夫がOJTにより企業内的に養成され、技能の社会的通用性が制限される下で低賃金を甘受せざるを得なかったためである。これに対して坑夫の実質賃金の低下は、鉱毒事件に係って1897年に出された「第3回鉱毒予防命令」を機とする古河の経営政策の転換(市兵衛の「進業専門」から潤吉の「守成の方針」ヘ)により賃金が抑えられる一方、日露戦後に物価が騰貴したためであり、製錬と異なりこの間の採鉱労働に質的変化がなく、また労働市場的条件にも支えられたため製錬夫ほど大幅なものにはならなかった。こうした実質賃金の低下により「高賃金」時代の生活水準の維持が困難化したことが暴動当時の足尾坑夫の「窮乏」の中身であった。
本章では、足尾暴動の分析の枠を越えて、とりわけ製錬・選鉱部門を中心に技術革新による労働及び労働市場の変化が詳細に検討されている。それは、これらが賃金水準の変動の規定要因だからだけでなく、生産技術・生産機構の革新により労働様式の変化を媒介として生み出される労働者の質的変化の把握を重視する著者の姿勢の現れと言うことが出来よう。本書の副題が「鉱山労働者の社会史」とされているのも、友子同盟や飯場制度に体現される鉱夫間の人間関係のあり方の重視と共にかかる著者の姿勢を反映したものだと思われる。
終章「総括と展望」では、これまでの分析を受けて、まず争議・暴動の原因が総括され、続いて足尾暴動の与えた影響が労働者・経営側・国家に分けて指摘され、最後に本書の内容に係らせて、日本の労働運動と言うよりは近代日本の労働者のあり方を理解することの必要性とそのための視点が提唱されている。
III
以上、若干の感想を交えながら本書の内容を評者なりに紹介して来たが、本書の素晴しさは何よりもその実証の凄さにある。ここで実証の凄さと言うのは、倉庫に死蔵されていた資料を探し出し分析したという類のことではなく、2次資料を含め多くの資料、それも断片的な資料を突き合わせ、資料批判と推計を繰り返しながら正確な歴史像を築き上げて行く著者の手腕の見事さを意味している。
かつて著者が個別争議研究を提唱された際、既成の理論の枠組を「史料的論証」によって検証・修正することを意図されていたとすれば、それは本書において果たされたと言うことが出来る。とりわけ、第3章の鉱山技術・鉱山労働の分析は、技術者の役割を含めて詳細かつ明確であり、これまでの研究水準を格段に凌駕したものと評し得る。これらの点は、鉱山労使関係の解明にとって極めて重要でありながら、その理解に大きな困難を伴うものであった。ここに著者の長年の鉱山研究の成果、そして著者もその中心人物の一人であった、研究者と鉱山関係者により組織された研究会の地道な研究活動の成果を認めることが出来よう。そして、鉱山技術の発展を軸に労働様式・労働者の質的変化を明確に把握した点、友子同盟や飯場制度に体現された鉱夫の人間関係のあり方や鉱夫の心性の暴動に至る変化を追求した点で、本書は単なる足尾暴動の研究に止まらない極めて優れた近代日本鉱山労働史の研究という評価を受けて然る可きである。
なお、本書の特長の一つとして鉱毒事件と足尾暴動の関連が示されていることがある。足尾銅山の名を世間に知らしめたこの2つの事件の関連はこれまで明確ではなかったが、本書で両者の密接な関連が明らかにされている。以上の評価を前提とした上で、以下、主に鉱山労働史の立場から若干の疑問を出して書評の責を果たすことにしたい。
本書を読んで最も気になったのは友子同盟と飯場制度・飯場頭の関係の捉え方であった。著者によれば、友子同盟は坑夫の「白主的な同職団体」で「いわば坑夫のクラフト・ギルド」であり、各飯場から選ばれた山中委員により運営される組織とされる。これに対して飯場頭は請負人的性格を有するものの基本的には資本に従属した中間搾取者であり、暴動直前に友子同盟と飯場頭の厳しい対立が生じたのは、友子同盟の独自の賃上げ請願を飯場頭が抑圧し、更に坑夫の自主的団体である友子同盟に飯場頭が介入・干渉したからだとされる。従来友子同盟と飯場制度は原理的に異なることが強調されて来た。しかし、実体的には、飯場頭は坑夫の親分として友子同盟の中で大きな力を持つのが普通で、友子同盟と飯場制度は密接な関係を持っていたのではないだろうか。既に、親分子分関係を紐帯とする「坑夫集団」を飯場制度の基礎と捉える観点が提起されており(武田晴人『日本産銅業史』1987年、東京大学出版会、評者も炭鉱の飯場制度・納屋制度についてほぼ同様の観点を述べたことがある)、本書でも、坑夫飯場の飯場頭は坑夫出身者により占められていたことが明らかにされている。坑夫中の有力な親分が飯場頭に任命された際、従来の親分子分関係が消滅するとは考え難い。暴動前の足尾の友子同盟においても、財政の管理権を飯場頭が掌握し、また飯場頭が友子の集会に出席していたのであり、飯場頭は友子同盟と密接な関係を持っていたようである。この両者の関係をどのように考えたら良いのであろうか。著者も第1章の「結びにかえて」で両者の関連を示唆されているが、全体としては両者の異質性を強調されているようである。資料的制約の故だろうが、本書では友子同盟を重視する割には足尾の友子同盟の組織や実態についての分析が手薄である。足尾の友子同盟の内実をもう少し詳しく知りたいという感は否めない。
この点は飯場頭と坑夫との関係の捉え方への疑問につながって行く。著者は、飯場制度の変質=弱化の中で中間搾取者たる飯場頭の坑夫に対する流通面での収奪が強められ、これが暴動の重要な原因となったとされている。この認識は著者の研究により今日通説的地位を占めるようになっている。しかし、その実証的根拠は必ずしも十分なものではない。管見の限りでは、1919年に纏められた古河鉱業「使用人一般状況」(1986年復刻、非売品)の中にこの点の記述があるが、この「使用人一般状況」の記述の内容は暴動の原因をもっぱら飯場制度の欠陥に負わせるものであり、そのまま信用して良いか疑問が残る。第1章で詳細に分析されたように暴動はもっぱら役員を攻撃目標として飯場頭は攻撃されていないし、暴動に先立つ賃上げ運動の中でも飯場頭の中間搾取が大きな問題とされていないことからすれば、この認識は再検討の余地があるとも考えられる。賃上げ運動の中で出て来る坑夫及び山中委員の飯場頭への反感は、むしろ、飯場頭が会社に対して弱腰で鉱夫の利益を代弁しなかったことにあるように思われる。坑夫達は、親分たる飯場頭に自分達の利益の代表者たることを求めており、それが実現されなかったことに坑夫の飯場頭への反感の根拠があったとは考えられないだろうか。
細かなことだが、実証的根拠が明示されないまま、「1890年代から1900年代の北海道・常磐の炭鉱の採炭夫の中心部分は、金属鉱山、とくに関東以北の金属鉱山の出身者によって占められた」という記述がなされている。「中心部分」が何を意味しているのか明確ではないが、北海道の炭鉱の場含、確かに東北の金属鉱山の出身者がその開発に大きな役割を果たしたものの、採炭夫の主力となったのはやはり東北農村の過剰人口だったように思う。いずれであったにせよ、実証密度の極めて濃い本書で何故こうした根拠を明示されない記述がなされるのだろうか。
第3章の製錬部門の分析は極めて説得的であったが、一つだけ気になったのは洋式熔鉱炉の導入に伴う製錬夫の性格変化の捉え方であった。著者によれば、洋式熔鉱炉の導入により製錬夫は学校出の技術者の指揮・監督の下でOJTにより熟練を身に付けるようになったとされている。この点を示す資料も掲げられていないが、当時足尾の製錬技術が先進的であったため、かかる新しい質の熟練の養成は自鉱山内で行われるよりほかあり得なかったと言うことであろう。OJTにより養成された製錬夫は等級賃金制の下に組み込まれ定着性が高かったとされるが、問題は、こうした企業による製錬夫の包摂が足尾独自のキャリア編成による熟練の祉会的通用性の喪失によるものなのか、それとも単に他鉱山での洋式製錬の普及の遅れに基づくものなのかと言うことである。もし後者であったとしたら、それは一時的で限界を持ったものだったと言うことになろう。著者がこの点をどう考えておられるのか良く分からなかった。
最後に著者にお尋ねしたいのは、日本の鉱山労働者の心性の特質をどう考えるべきかと言うことである。終章の「3、今後の課題」において著者は、日本の労働運動・労使関係史全体に議論を敷衍させ、日本の労働者は自らに加えられた身分的差別に大きな不満を持ち、労働者の地位からの脱出志向が強く、その際個人の能力による差別は当然と考えたが親の経済状態の差などにより能力の劣った者の身分が上になる現実に不満を持ったとされ、更に、かかる日本の労働者の心性は、入職規制や相互の競争の制限により労働条件の維持を図るクラフト・ギルドの慣行が徳川時代に欠如していたことと密接な関係があったと主張されている。この主張は近年著者が折に触れて発言されているもので、それ自身真剣な検討を要するものであるが、ここではそれは措くことにしたい。友子同盟も入職規制を十分に行いえず、また足尾の労働者の間にも強い上昇志向があったという叙述からすれば、上述の日本の労働者の心性は鉱山労働者にも共通すると著者は考えておられるようである。しかし、鉱山の労働運動の主体的条件として徳川時代に起源を持つ友子同盟の存在を重視する著者の立場からすれば、鉱山労働者の心性の重工業労働者などのそれに対する差異が問題とされるのが自然ではないだろうか。友子同盟に体現された坑夫仲間の交際・慣行は鉱山労働者に独自の心性を持たすことがない程意義の小さいものだったのであろうか。評者は、鉱山・炭鉱の労働者の心性はある時点までかなりの独自性を有し、大袈裟に言えばそこには独自の文化形成さえ認められるのではないかと考えている。
以上、鉱山労働史の立場から本書を読んだ感想を書かせて頂いた。誤読や思わぬ読み落としがあったとしたら著者に御容赦を乞うのみである。多くの読者が本書の深い味わいを満喫されることを願って止まない。
二村一夫『足尾暴動の史的分析──鉱山労働者の社会史』東京大学出版会、1988年5月刊、366+xiiiページ、5、400円、ISBN 4-13-020084-4
いちはら・ひろし氏は、本稿執筆当時は北海学園大学助教授、現在は駿河台大学教授。
初出は『歴史学研究』第596号、1989年8月.
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