二村一夫随筆集  『さまざまな出会い』

弔辞 石母田芳子さま

 奥さま、二村でございます。長い間たいへんお世話様になり、まことに有難うございました。
 先週の日曜日にお見舞いにうかがったときには、もう奥さまは意識がなく、私がこれまで一度も見たことのない、つらそうな、苦しそうなお顔をしておいででした。私には、奥さまはいつもお元気そのもの、どんな時でも朗らかに、高らかな笑い声で明るく話される方という印象が強かったのですが、あの時ばかりは本当にお苦しそうで、早く楽になることを祈ってそうそうに失礼しました。
 私がはじめて奥さまにお目にかかったのは一九五六年でしたから、もう今では四〇年近い昔のことになります。法政大学大学院の政治学専攻の第一回の学生として、石母田正先生のもとで勉強を始めたばかりの時でした。先生のゼミに出ている学生だけでなく、ほかのゼミの学生まで加わって、何回かお宅にうかがい、その度に奥さまの手料理をご馳走になりました。外で飲み食いするのは、学生には少々ぜいたくな時代でもありました。
 石母田先生は、教室だけが勉強の場ではない、自分の問題、解くべき疑問をもっていれば、ちょっとした立ち話でも役に立つことがあるのだとおっしゃり、ご自分が富山房編集部にいた時代、原稿とりにいった先の先生から教えを受けたことを語られました。こうした気さくな先生のお招きに甘え、またいつも奥さまが明るい笑顔で迎えてくださるのにも甘えて、その後いったい何回お宅をお訪ねしたことでしょうか。
 私だけでなく、先生のお宅には多くの方がいらしていました。先生の友人、運動の仲間、学生、編集者、さらには先生の本の愛読者など、いろいろな方が大勢いらしていました。敗戦後のまだ物の不自由な時期に、研究会で、あるいはその後の飲み屋で、時間を忘れて議論したあげくに電車がなくなった時、石母田先生はすぐ家に連れて帰られたようです。しかも石母田家の客は、一度来ると二度三度といらっしゃる方が多かった。もちろんそれは先生の学識が、またそのお人柄が多くの方を惹きつけたからでした。しかし、もうひとつ大きな理由は、奥さまの存在でした。お二人には、とりわけ奥さまには、今の私どもにはほとんど失われかけている、人と人との親密な交わりを大事にされるお気持ちがおありでした。なによりそれが、先生ご夫妻の生き方と結びついておいででした。昨晩のお通夜の折りのお話しでも、先生の新婚家庭にはご夫妻それぞれの弟さん達が居候をしており、下宿屋のようだったとのお話がありました。実際は弟さんたちだけでなく、先生の友人が、それも知り合いになって二年ほどの友人が病気でおられるのを見て「栄養をとらねばだめだ」と半年もの間同居させていらしたそうです。その当のご本人が書いておられることです
 先生は、偉大な歴史家・思想家であると同時に、文化・科学運動のすぐれた組織者でもありました。「人の三倍忙しい」と自認されるような超多忙の生活の中で、このように多くの人に取り囲まれて、いったい何時どのように勉強されたのか、いまなお不思議です。おそらくそれは先生のなみはずれた才能と、おどろくべき集中力が可能にしたものだったと思います。論文や、本を書かれているときの、先生の集中ぶりはすさまじいものでした。あの『中世的世界の形成』をたった一ヵ月で書き上げたことに、そのすごさはあらわれています。しかし、その背後には奥さまの献身的な支援があったに相違ないことは、容易に想像できます。それも所帯の苦労を背負って、夫を研究に専念させたというだけではありませんでした。新婚ほやほやの石母田家に同居されていた松本新八郎さんは、毎晩夜中の一時、二時までも『出雲風土記』の研究をされる先生を奥さまが手伝っていらしたことを、書かれています。実は私自身も奥さまが先生のお仕事の大きな支えであった事実を知る機会が、何回かありました。私は近代史が専門で、普段はあまり古文書とは縁のない勉強をしていますが、それでもたまには達筆の手紙などを史料として使うことがありました。ある日、どうしても読めない字を教えていただこうとした時、先生は例の調子で「芳子! 芳子!」とすぐ奥さまを呼ばれ「僕よりは家内の方がずっとよく読める」とおっしゃるのでした。昼間はお子さんや同居人の世話をされ、夜は夜中でないとなかなか原稿が書けない先生の手伝いもされる、いかに頑健でいらしても肉体的にはつらい日々もあったことと思われます。また、学者の道具である本に金を惜しんでは駄目だと言われた先生のもとで家計を預かり、経済的にもたいへんだったことと拝察いたします。
 長女の瑶子さんは、お母さんについて「若い頃から父に無理難題を押しつけられてもそれを黙々とこなすことしかできなかった母」と言われています。たまに伺うだけの私どもから見ても、先生は奥さまに対して我侭をおっしゃっていました。とくに十数年にもおよぶ長い闘病生活では、そうしたところがあったように拝察しました。しかも先生は卵アレルギーなどという、食事を準備する側としては何とも面倒な体質の方でした。奥さまのお心遣いはたいへんなものでしたでしょう。先生はけっして横暴ではありませんでしたが、いささか亭主関白的でした。あえて言えば先生は、生涯奥さまに甘えて我侭をいっていらしたところがある。もちろん先生はそのことについて奥さまに心から感謝しておられました。先生がそれを直接口に出していわれたかどうかは知りません。しかし、奥さまは先生のお気持ちをよくご存知であったに違いありません。
 先生の著作集の月報には、数多くの方が心のこもった追憶を書いておられますが、なかでもドイツ史の坂井栄八郎さんのお話は心に残りました。坂井さんは、マールブルクに留学中、先生を下宿人として短期間でしたが生活をともにされた時のことを書いておられます。坂井さんは帰国の日が刻一刻と迫る中でようやく三年の留学の成果を論文として書き上げられたのですが、締め切りに追われた焦りから、手伝っていた坂井夫人の手際が悪いと当たられたそうです。その日の夕、石母田先生は坂井さんに論文の完成のお祝いと同時に、その仕事の完成が奥さんに支えられてきたことを忘れるなと、目に涙を浮かべて諭されたということです。このエピソードは、先生の奥さまに対するお気持ちが投影されたものとしてたいへん印象深く拝読しました。奥さまがこの坂井さんの回想をお読みになった時は、さぞ嬉しかったのではないかと存じます。もちろんこれを読まなくても、奥さまは先生のお気持ちはよくご承知だったでしょうが。
 奥さまの八〇年近い生涯は、いろいろご苦労の多い日々だったには違いありません。しかし、反面そのご苦労をはるかに大きく上回るお幸せも感じておられたのではないでしょうか。石母田正というすばらしい伴侶を得て、その研究生活を五〇年近く支え、しかも最後は三人のお嬢さん達に支えられて息をひきとられた。ご自身で、石母田先生と一緒だったことに悔いはないと話されていたとうかがいましたが、その意味ではご家族に恵まれた、おうらやましい人生を送られたと存じます。
 どうかやすらかにお休み下さい。


  一九九四年三月八日


二村 一夫






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