二 村 一 夫
片山潜の未発表書簡について
──「パーマ・ レイド」前後とモスクワ便り
はじめに
ここに紹介するのは片山潜の未発表書簡11通,葉書3葉で,現物はいずれもアメリカのカリフォニア大学ロスアンゼルス校(UCLA)の研究図書館に保管されている。同校に片山の書簡があることは「埋もれた過去」(“A Buried Past”)と題する「日系アメリカ人研究計画収集資料」(The Japanese American Research Project Collection )の解説目録*によって知り,1978年2月,同校を訪ねてこれを閲覧することができた。同資料の閲覧については同図書館の Asian American Bibliographer の Che-Hwei Lin 氏にたいへんお世話になった。
書簡・葉書とも故西村義雄氏の旧蔵にかかるもので,書簡2通を除きいずれも西村氏個人に宛てられたものである。他の2通は西村氏を含む在米の日本人4人に宛てられている。発信地および発信の年次は,宛名が連名の2通はニューヨークからで1920年中と推定され,他はモスクワからで1928年から1931年にかけてのものである。なお,ニューヨーク発信の2通は匿名であったため,これまで片山の手紙とは気づかれていなかったが,1通には「潜」という署名もあり,筆跡,内容からみてまぎれもなく片山のものである。さらにモスクワからの手紙は、「Yovki」の名で出されているが、これは片山潜の生家の名である「藪木」を使ったものと推測される。
* Y.Ichioka, Y.Sahater, N.Tsuchiola, E.Yasuhara A Buried Past,1974, University of California Press
1. 西村義雄と片山
はじめに「片山潜の未発表書簡」と書いたが,正確に言えばうち1通はすでに鶴谷寿「アメリカ西部開拓と日本人」(NHKブックス,1977年11月)の中に写真版で紹介されている(同書198ページ)。また鶴谷氏は西村義雄の経歴についても調査され同書のなかでふれられている。これらを参考にしながら,まず受信人の西村義雄について簡単に紹介しておこう。
彼は1882(明治15)年2月2日,奈良県吉野郡十津川に生まれた。1889(明治22)年,十津川村が大水害に会った後,同村の600戸,約2600人は大挙して北海道に移住し,石狩川のほとり樺戸郡に新十津川村を建設した。十津川の郷士であった義雄の父・皓平はこの移住に積極的で,新十津川村では長年,戸長をつとめたという。新十津川村で少年時代を過した義雄は,三男であったこともあってか村を離れ,海軍機関学校を卒業して士官候補生となった。彼が渡米したのは前掲の“A Buried Past”によれば1906年頃のことである。鶴谷氏が西村の同僚から聞いた話によれば,彼は通常の方法で渡米したのではなく,乗り組み艦がアメリカの港に入った折に脱艦したものであるという。アメリカでは,ユタ日報,桜府日報など邦字新聞の記者,編集者として働いた。 1917(大正6)年10月,ユタ州のトエラ精錬所で一日本人労働者が解雇されたことをきっかけに,日本人労働者106人が日本人の労働ボス排斥を要求してストライキをおこし,西村はこれを支援する運動をおこなった。翌1918年1月,争議団はユタ州ソートレイクシティで,「労働協友会」という労働団体を組織,西村はその機関紙『協友時事』を編集,発行した。労働協友会は消費運動などもおこなったが,会内の意見の不一致や会員の離散で永続しなかった。その後も西村はワイオミング州キャマー地方やユタ州南部の炭鉱の日本人労働者の間で労働運動を続けていた。西村と片山のつながりができたのは,この頃,1920年のことで,はじめに連絡をとったの西村の側であった。
なお,1920年代にニューヨークで西村義雄と行動を共にした石垣栄太郎は,西村について次のように記している。鶴谷氏の記述と若干くいちがうところがあるので紹介しておこう。「この人は海軍機関学校を中途で止めてアメリカに行った人ですが,コロラド州の山奥で炭坑夫になって働いていましたから,アメリカの資本家がどんなに坑夫をひどい目に合わせたかを知っていました。理論的には曖昧なところもありましたが,労働運動の実際にあたっていた人ですから,私達は教わるところがありました。」(『中央公論』1952年12月号)
2.「パーマー・レイド」後の地下生活
最初に紹介するのは,1920年7月2日,片山が西村義雄とその同志たちに書き送った手紙である。手紙としては異例の長さで,大型の用箋(28センチ×21センチ)にびっしりと書きこまれ,字数にして約5000字になる。1920年1月2日夜からアメリカ全土でおこなわれた「赤狩り」(これを指揮した検事総長 A. Mitche11 Palmer の名をとって,一般に Palmer raid とよばれている)のニュースに接した西村たちが,片山の身を心配して見舞いの手紙を書いたのに対する返事である。内容についてコメントする前に,手紙そのものを見ていただこう。鉛筆の走り書きで,一,二判読し難いところもあり誤字,脱字あるいは今日から見て不適切な表現もあるが,あえてもとのまゝとした。ただし,以下に紹介する手紙は(14)の1931年12月31日付の葉書以外はすべて縦書きで,所どころに二字分のくり返し符号が用いられているが,こゝでは横組みであるので符号は用いず,文字をくりかえした。
(1)〔1920年〕7月2日付,H. Hoshi(片山潜)より平本忠他三名宛書簡。
拝啓 諸君から来た御親切なるお手紙は漸く今日(七月二日)に拝見致しました。実は一月三日以来,稍落ち着いて元の室に帰ったのは昨日でした。二月末以後は,大概の書面にして僕宛のものは受け取りました。それも此節同志の一人なる田口運蔵氏が迂回送して呉れての事でした。お手紙の当地に着した頃は安子から聞きますに,毎日毎夜探偵が室前を排徊してエレベートルの所にも見張って居る。時々室戸を叩いて僕は帰ったか 何処に居るなどと聞きますので集った書面などは深く箱中に秘し置くと云ふ風でした。之も米官憲が唯一の手掛りとするのは電話と郵便物だと聞いて安子が心配の余り其当時は一切僕に手紙など送って呉るゝツテもなく 僕の居所を知った者は右田口兄一人り(ママ)でした。二月末頃から探偵は余り厳びしくなくなったので時々書面は違名(ママ)でやりとり致しました次第で貴下等からのお手紙は今日書類を調べるに際て(ママ)始めて拝見致したる訳です。約半年振りで古巣に帰りて始めて諸君からの同情のお手紙を拝見して感涙に咽びました。右の次第ですのでお返事は夙に差上ぐべきであったのか今日になったのです 悪からず御許を願ひます。就きましては左に一月以来の僕の径路を申上げて諸君の同情の一端に報じます。
丁度一月三日に我か同志の一人石本恵吉氏(男爵)が入露の目的で当地を立たるゝので僕は早朝ニュージェーシー州ニューワークの一ピヤーヘ行き二三の同志と石本氏を見送り昨夜以来全国にレードのあったことを咄し 且つ我々も警戒の必要を語り合ひ当日一日は田口兄及今独逸ベルリンに居る東洋経済新報記者の高橋亀吉氏と一日新年を楽しむ為めに会食し後活動に行き別れて帰宅したのが四時頃でした。所が安子が申すに今朝から諸方から電話で僕の安否を尋ねて来た。中には既に捕へられたとキメて見舞の電話をかけた人もあるとの事で非常に心配をして居ました。其夜は友人伊藤道夫*(舞踏家)の家に泊りました。僕は何事もまだ僕に対してあるとは知らなかったので翌日夜は前田河氏**の送別会か「都」と申す料理(ママ)であったのに行き十一時頃伊藤の所に帰って見たらは伊藤か外出する故書置きをして今朝から兵士共六七名の者が僕の家に来りて僕を尋ねて室前に立ち番をして僕の帰るを待ってると電話で知らして来たから外出は致さざるようと申す意味であつた。其の夜は過ごし翌日は一日外出せず居た所が,安子から米官憲以外日本政府も僕の送還を望んで米官憲に頼んで居るから日本人の徘徊する所に行くを避けよと云って来たので僕は伊藤の所を去って一時ロングアイランドの一知人の家に行き八日迄居ましたが 尚ほ此内は日本人が多数出入するので終に田口兄の週旋(ママ)でニュージャーシー州アトランチック市に行き田口兄の友人の家に窒居(ママ)して二月末まで居ましたが此時期は仲々次ぎへ次ぎへと同志があげられるので心配致しましたが,二月末に紐育市へ一寸帰り約十日間程滞在して此近在に一つの働き口を得て昨日迄働いて居ましたが此の家で引き越すので僕は再び紐育へ出て来た訳です。まだ僕等の党員中目星を着けられている者は皆仮名の下に隠れて地下運動をやっておりますが 僕もまだ全く天下晴れての身ではないが,知人等が今は積極的に探がしては居ないと云ふのですから斯く帰宅致して居る訳です。併し又々何処かヘ口を探して働きに行く考へです ドウも我々は現社会から呪咀されて,安子迄が僕の子だと云ふのて折角働き居りました劇場から解傭さるゝと云ふ風で実は閉口致して居ります。併し我々社会革命を以て自任致す者は決して現代資本家社会から歓迎さるゝことは出来ないことは夙に覚悟致して居るのです
右は御手紙の御返事を延引致した理由やら心配して下さった其御同情に報ず為めに一月以来の僕の経て来ました概略を申あげる次第です。
* 正しくは伊藤道朗。 1893年東京に生まれる。伊藤熹朔,千田是也の長兄。1914年ヨーロッパに渡り,ドイツのダルクローズ舞踊学校で学んだ。l916年に渡米。
** 前田河広一郎。1888年,仙台市に生まれた。l907年渡米。ニューヨークでは邦字新聞『日米時報』の編集にあたっていた。
扨て諸君が如何なる立場に居るゝか存じませんが お手紙の赴き(ママ)では少なくとも我党に御同情あるお方々であることを確信し僕は力強く感じます。就ひては諸君と今後御交際を願ひたいと存じます。近時在米国日本人間にも母国の形勢を見て多少自覚致した人々が増へて参りました 当地にても段々同志が出来かゝって居ります。従来の同志中には或る日本の有力なる銀行社員*の中にも一二あります。其に近く欧州から帰米する石本男も当市に落合ひて大に将来を談合し我々の活動を計らんと致して居ります。現に独逸や英国に行ってる同志**もあり 又露国に行き帰途当地に来る一同志***もあります。我々が日本に向って国際的に活動致すのは此時であると我々同志は信じて居ります。
諸君露国ボルシェヴキの革命後は真の愛国者は労働者で而かも其内でも社会主義者でボルシェヴヒズムを信ずる者が一番であることを立証したのです。で資本家富豪等は露独墺匈諸国にて自己の財産や地位を国以上に置いて外敵の占領や侵撃(ママ)し来るを歓迎致したのです。今や露の反革命派資産家等は其自国の富源や利権を外国資本家に売って自国労働者の建設する政府を倒さんとしているでせう。僕等はツクヅク感じます。日本を愛する者は我々でなければならない。又我々であると。諸国の諸労働者と同一主義の下に提携して世界的平和を得るのは我々であります。日本の官僚軍閥及財産階級が真に日本を彼等の地位擁護以上に愛するならは今日の如き乱暴なる政策はやらないでせう。陸海軍に向って国費の三分の一以上を投じ而かも軍備は全体より云へば殆んと国費の半分を費しております,而かも斯る軍備は何の為めですか。僅々三万の兵をシベリヤに出して年二億,モウ一昨年八月以来八億円の軍事費をシベリヤに消費して居ります。若しも全陸海軍を戦闘準備の下に置いて外戦をやるには少なくとも年六七十億万円の軍事費が要るのです。日本はどうして斯る大金を処弁することが出来ませうか。借金して外国と戦争するのは過去の事で将来は容易ではありません,否不可能事です。日本現時の財政金融状態から申しても日本は軍備の為めに戦争を益(ママ)不可能にしてるのです。斯く不釣合なる軍備を敢てしつつある結果は日本の産業は萎靡不振に陥って少しの経済界の打撃にも一大恐荒(ママ)を来し国民を塗炭に苦しめて居ります。ドウして斯る産業状態で(国民は重税悪税に苦しんで居て)大軍を動かすことか出来ませうか。今や十万の兵を四月以来シベリアに出して不義の戦争をやって居ります。軍閥はニコライヴスクに在った兵士と同胞とを夙に犠牲として絶東シベリアを占領する計画であったのです。遠境無援のニコライヴスク港に兵士を置き同胞を置きて軍閥は乱暴にも彼等軍隊をして反抗せしめ犠牲となし露国赤軍に虐殺さるゝことを目的としたのです。ニ港の虐殺は陸軍が始めから計画したので斯く遠境無援の地に軍隊を置きたる罪は我陸軍にあるのです。彼等は多少軍事を知ってるから斯く孤立の地に一軍隊を置くのは危険である位いの事は百も承知してるですよ。然り彼等は現財閥原内閣と軍閥とか堤清六なるシベリヤシャケ王と結托して八ヶ年計画で殖民政策を目ろむで居たのでニ港の占領の口実を作る為めに数百の日本人を犠牲にしたのです。然り愚なる露国民は案の如く日本軍閥が計画した餌を食って日本人を虐殺しました。之を日本軍閥は種子に日本にて対露〔一字抹消〕民反対の戦争熱鼓吹をやって見事に成功致したる訳です。愚なる日本国民は軍閥の犠牲となり国家を挙けで(ママ)不義不倫不道徳の戦争をやって居ります。自覚せる露国一億八千万の敵を作りつゝあります。支那四億と二千万餘の鮮民とは日本軍閥を憎んで居ります。彼等三民族が一致して日本に当る日の来るのは明白です,此時日本の労働者は不要の犠牲とならねばなりませぬ。僕等真に日本と日本人を愛する者は彼等の為めに国際的地位を作り日本労働者の弁護者となって今から活動せねばなりませぬ。今日の如く我軍・官及財の三閥に一任して置けば日本人労働者の前途は風前の燈火の如きものです。今から彼等を激励して自覚せしめ 日本を禍し 日本人を不評判にして至る処に排日を盛んに致す軍閥の犠牲に何時迄もならしては日本の為めでありませぬ。
* 横浜正金銀行ニューヨーク支店長であった加納久朗子爵であろう。
** 高橋亀吉のことか
*** 吉原太郎のことか
斯る状態は事実に基礎を置いて申上ぐるのですから御領承の事と信じます。日本の軍閥が過去に於て多少の功績のあったことが将来日本を彼等の地位の為めに犠牲としておくと云ふ理由はないと思ひます。で如何に斯る日本の窮境を救済するかは各人に依って異ることゝ思ふ 諸君も急度之が救済改善の御計画があることゝ信じます。是非共諸君の対日本現状及び前途に関する御意向を伺ひたいものです。無論コンフヒデンシアルです。何卒腹蔵なく御知らせを願ひたいものです。若しも我々と共通点が発見する(ママ)ならば今後共に如何なる方法かで日本人の為めに母国の為めに活動致したいと思ふのです。斯る事は容易の事業ではありませんが,デブ氏*の態度行為に御同情ある以上は僕等持って居る日本救済策と大差なきを信じます。今や世界は真に革命時代です。新旧社会組織の一大衝突は社会革命に於て決戦せられんとして居ります。で露骨に申上ぐれば日本の三閥は先づ外国の資本家と結托して 一時は支那富源を共同掠奪をやるでせう(対支那コンソーチァン**は其計画)然るに此ジョイント・エッキ(ママ)プロイテーション・〔一字抹消〕ヲブ・チャイナは結局東部シベリアにも及ふでせう。然らは露支は先つ聯盟する鮮人も加担する。結局印度人も之に加って世界的財閥の掠奪に反抗するでせう 然うすると欧米の労働者は遥かに露支労働者に応援するでせう。此時に当りて日本の労働者は国際的に自覚して露支労働者に応援するよう今から教育し準備せしむることが僕等の任務である。斯くすることが真に日本を愛する以所であると信じてるのです其方法手段に至っては種々ありませうが日本の労働者を国際的に自覚せしむるのが第一で斯くして国際的に他日活動し得るように彼等を善導し教育することが今日の急務であります。扨て彼等日本労働者を国際的に自覚せしめ国際的活動するの素養を得せしめて一朝事ある時に世界的立場に立たしむるのは必要だと信じます。
如何にせば斯くなるかは諸君と共に研究を致したいと思ふ。我々は之か研究を為すと同時に之が宣伝を為す必要があります。日本人の在米者にも直接せねばり(ママ)ませぬが,遠く母国の日本人にもせねばならない。日本には言論の自由がありませぬ,我か同志は直接而かも露骨に宣伝を為す自由がありませぬから之は我々の任務だと思ひます。
然らは我々の此大事業を実行致す用意は何であるか。第一に我々の決心,我々の方針を確立すること,次には之が研究と実行で直接宣伝をやるですが,其には僕は露国のボルシエヴキ革命を研究することが第一だ思ふ(ママ)。ボルシェヴキの社会政策はモウ三ケ年近くの経歴を持って着々成功して万難を排除して進んで居りますから我々の研究資料としては窟強のものです。僕は多くの友人を露国今日の首領中に持っておりますので事情を他人に比すればよく存じてますから多少の便宜を諸君に提供することもできます。又時々刻々新事実を得ることもできます。
露国革命と其の政策は僕等に宣伝の好模範と好個の材料と手段とを伝へましたから真に好都合です。右は長く申上げました。何れ諸君の御意見を伺ってから僕も具体的成案も申上げまた我々の団体の内容等も御知らせして御賛成を得たいと存じます。何卒日本の為めに御奮闘を願ひます。日本人の改善進歩を計り彼等の自覚を計るのは我々日本人でなくてはなりませぬ。右は諸君の同情に依頼して僕の腹蔵なきことを申上けて御親切なる御手紙にお答え致します。
七月二日
平本 忠様 大月喜朗様
菱田三田也(ママ)様 西村義雄様
潜
H. Hoshi
〔9枚目裏〕
御返事は下の〔1字欠〕へ願います
H. Hoshi
c/o Mr. Naito
2115 Boardwalk
Atlantic City N.J.
此内藤家に田口〔1字欠]も居ます。熱心な〔1字欠?〕同志ですから御紹介を〔1字欠]します。田口兄からも〔1字欠〕然何か申上ぐること〔1字欠〕存じます。
* Eugene V. Debs
** Consortium (国際借款団)
この手紙は片山の伝記資料として,なかなか面白い内容をもっている。とくに興味をひくのは,片山が1920年1月2日夜から全米各地でおこなわれた「赤狩り」,いわゆるパーマー・レイドをどのように逃れ,その後の半年をどこで過ごしていたかを,かなり詳しく伝えている点にある。この間の事情についての従来の伝記的記述を『片山潜著作集』第3巻に付された年譜によってみれば次のとおりである。
「一月三日 二日夜,パーマーの第四次レッド・アレストにより全国七〇都市にわたって数千名拘引された。三日,片山は「恰度外出中に家宅捜索されていることを聞いた。」そこで田口の知人内藤勘三郎の家に潜る。滞在四ヵ月。『自伝』の続稿をかく(我社会主義の続篇とみられる原稿,即ち死後出版された仮題『搾取なき社会への熱情』も,この時書き初めたといわれる)。時々ニューヨークに出て連絡した。
四月末,ニューヨークに帰る。アメリカの諸団体や当時新設されたアムステルダムのコミンテルン情報局へ日本労働運動の資料を,また日本の同志ヘコミンテルン資料を送るなどの活動を再開。」
片山潜生誕100年にあたる1959年前後に出たいくつかの片山伝は,いずれもこの年譜と全く同じである。
ところで,手紙と年譜の内容がかなりくいちがい,また,未知の他人にこのような逃亡生活,地下生活の様子を実名入りで報ずるというのは,いささか無警戒,不用意のように思われ,それだけに,その内容の信憑性について検討の要があろう。
ここで注目されるのは、1967年に公刊された『わが回想』である。同書の結びの部分は,まさにこの時期についてふれ,つぎのように述べているのである。
「一月一日早朝,友人の欧州への出帆を見送るために家を出て夕景に帰ると,安子は『今日は諸方から電話で父様を尋ねてきました。郵便局からも一寸来いと通知があったから父様の身に危険が迫っているのではないか」と注意した。予は直ちに仕度して友人の〔伊藤〕道朗の家に行き,事情をを告げて暫く静かに蟄居することにした。
三日の晩には,帰国する友人の送別の晩餐会が日本人の料理屋で催されたので出席した。午後十時過ぎに晩餐会を去って,中央公園の角に佇立し,安子が一人で心配しているからと愚かにも室に帰らんと考えた。されど十一時限りで隠家の門が鎖さるることを思い,帰って見ると友人の主人が短いノートを置いていた。安子からの電話通知である。それによると『三人の兵士と三人の警官が我々の住居を廻って張番して帰るのを待ってるから帰るな!』とのことだ。当時予が捕縛されなかったのは,全く僥倖である。而して予は,翌朝ロングアイランドの知人の家に隠れたが,尚危険を感じた故に,米国富豪の冬場なるアトランチック・シティ(海岸)の知人の家に行き,此処に冬篭りをした。此処はブルジョアの遊散地なる故に,疑わるることなく安心して勉強した。初春になってニューヨーク市に帰り,暫く様子をうかがい,働き口を求めて料理人として田舎の別荘地で働いた。
此年の秋口より又々ニューヨーク市に帰り,少数の邦人同志と再び共産主義の運動を開始した」(下巻309〜310ページ)。
見られるとおり,手紙(1)の伝える内容と『わが回想』の記述は大筋で一致している。ただ『わが回想』では,検挙の危険を察知して伊藤道朗宅に泊ったのが1月1日のことになり,片山宅が警官に襲われたのが1月3日のことになっている。手紙では,これはそれぞれ1月3日と4日のことである。どちらが正確かといえば,10年後の回想記よりも事件の記憶がまだ生々しい時に書かれた手紙であろう。また,事実関係から見ても『わが回想』ではパーマー・レイドが始まる前に,人々が片山の身を心配して電話をかけて来たという不自然さがある。見舞いの電話は手紙の記述のように,「赤狩り」が一般に報道された1月3日にあったものとしか考えられない。おそらく,片山は『わが回想』を書いた時点では正確な日時を記憶せず“パーマー・レイド”が1月2日夜から3日にかけておこなわれたのに,彼自身が逮捕されなかった事実から逆算して日付を割り出したのではなかろうか。
いずれにせよ,手紙の内容は大筋で『わが回想』と一致しており,事実をかなり正確に伝えていると見てよいだろう。これらによって明らかになる事実を略記すれば,つぎのとおりである。
1月3日,石本恵吉の見送りに早朝家を出る。田口運蔵,高橋亀吉らと会食し,映画を見た後で帰宅。安子の話で危険を感じ,同夜伊藤道朗宅に移る。 1月4日,朝から片山宅にFBIの係官等来る。片山はそれと知らず,同日夜,前田河広一郎の送別会に出席。伊藤宅にもどると安子からの知らせで事態が切迫していることを知る。
1月6日朝,ロングアイランドの一知人の家に移り8日までとどまる。石垣栄太郎「片山潜とその同志たち」はこれを「ブルックリンで宿屋をしてゐる友人」「ブルックリンの日本人のボーデング・ハウス」とのべている。
1月8日夜,アトランティックシティーの内藤勘三郎宅に移り,2月25日までここに隠れ,自伝および『我社会主義』の続稿を書く。
2月25日,ニューヨーク市に行き,l0日間程滞在する。
3月上旬から6月末まで料理人として,ニューヨーク近在の田舎の別荘地で働く。
6月末,ニューヨーク市にもどり,7月1日,半年ぶりにブロードウェイ1947の自宅に帰る。
なお,つぎに紹介する手紙(2)によれば,片山はこの後8月9月にも5週間ほど海岸(おそらくアトランティックシティ)で働いている。
ところで,ここで問題となるのは,なぜ片山は逮捕を逃れえたのか,言いかえればFBIが1月2日夜に片山の家に来なかったのは何故か,である。この疑問に,ハイマン・カブリンは次のように答えている。
「明らかに,彼の逮捕を確実にするためのいかかる試みも,連邦政府の手先によってなされず,彼は一月三日午後の出発まで,支障なくニューヨーク市に留ることができたのである。ファイルに記録されている約六万人の急進主義者の中から,誰が拘引されるべきかを決定する責任がおそらくあった司法省の調査総局の職員に,彼が全く知られていなかったということは,ありそうにない。反対に明確な証拠を欠いていたので,片山は司法長官のスタッフの注意の十分な根拠となるほど,大変重要であるとはみなされなかったということであろう」(辻野功他訳『アジアの革命家 片山潜』294ページ)。
現在,われわれは,ワシントンのアメリカ国立文書館でこの当時のFBIの記録のマイクロフィルムを見ることができるので,推測ではなく,確認しうる部分がある。その一つは,FBIは片山がニューヨーク市におけるアメリカ共産党の一員であることをはっきりつかんでいたことである。FB1のニューヨーク事務所の係官から,FBI内に1918年8月1日に過激派対策のため新設されたばかりの一般情報部(General Intelligence Division)の部長 J.Edgar Hoover に宛てた報告書には,ニューヨーク市における共産党員73人のうちの一人として Katayama,Sen の名が明記されている。この報告書の日付けは1919年12月27日,1月検挙の1週間前である。おそらくは検挙予定者のリストであろう。またFBIのファイルには,片山が逮捕予定者の一人として,かなり重視されていたことをうかがわせる文書も含まれている。すなわち,1920年2月28日の夜,ニューヨーク市の中央オペラハウスで開かれた゛Friends of Freedom for India″の晩餐会に片山潜が出席する予定との通報によって,警官二人がその会合にもぐり込んだ経過の報告書である。手紙で書いているように,この頃片山はアトランティック・シティーからニューヨークに出てきていたのであり,この時も,かなり危い橋を渡っていた訳である。
要するに片山はFB1によってマークされていた。にもかかわらず,1月2日未明の一斉検挙に洩れたのは何故か。疑問は依然として残る。あえて推測するならば,FBIの第一目標はアメリカ共産党のなかで主力を占めていたロシア人をはじめとする東ヨーロッパ系の党員の国外追放にあり,片山にまで手をまわす余裕がなかったということではないか。
この手紙でもう一つ注目されるのは,石本恵吉が「同志」の一員に加えられていることである。従来,片山のニューヨーク時代の「同志」については,田口運蔵,渡辺春男らによって語られてきた。そこでは石本は加納久朗とならんで「在米日本人社会主義者団の運動に非常なる同情者であった。が,これも一時的の『若様の縄暖簾くゞり』に終った」(田口運蔵『赤い広場を横切る』336ぺージ)と位置づけられている。この評価は石本のその後の行動によっても裏書きされているようである。しかし,1920年のアメリカでは,石本は田口運蔵や野中誠之らとともに,片山の数少ない「同志」の一人であったことは確かである。
石本恵吉は1887(明治20)年12月,後に第二次西園寺内閣の陸軍大臣となる新六の長男として生まれた。新六は1907年に日露戦争の功で男爵の爵位を授けられ,その死後の1912年,恵吉が襲爵した。彼は東京帝国大学の採鉱冶金学科を卒業し,三井鉱山に入社,1914年から17年技師として三池炭鉱に勤務した。その後,在職のまま鉱業視察の名目で中国・シベリア,さらにアメリカに渡った。ここで片山潜と知り,その運動に加わったのである。1918年にはメキシコに行き,Linn A. E. Gale らと接触している。片山の手紙にあるように1920年1月,石本はアメリカを離れロシアに向ったのであるが,この時Gale派のメキシコ共産党は石本にコミンテルン第2回大会の同党の代表としての信任状を与えていたのである(Karl M. Schmitt “Communism in Mexico ” pp.6〜7)。おそらく彼は片山から在米日本人社会主義者団の代表としての資格も与えられていたと思われるが確証はない。しかし,石本は結局ロシアに入国できなかった。男爵であることが入露不許可の原因であったと見られる。1920年に帰国した石本は社会主義運動には加わらなかったが,全日本鉱夫総聯合会や産業労働調査所などに多額の資金援助をおこなった。
手紙についてのコメントのつもりが横道にそれすぎた。ここでは,この手紙がパーマー・レイド前後の片山の動静をかなり詳しく明らかにするものであることを確認して次に進もう。
(2)〔1920年〕11月3日付,星(片山潜)より中熊敏夫他3名宛書簡(大型用箋 4枚)
拝啓 只今田口運蔵君から貴書及金弐拾弗を正に受取りました。御親切なる御言葉と御厚意とを深謝致します。御地同志諸君によろしく御伝へを願ひます,一々御書面にて御礼を申上ぐるべきですか失礼致します 何分御承領の上よろしく!
諸君!僕は日々僕の総べてを尽して奮闘を試みて居ります*。世界の事態時々刻々変化致して居ります。実に資本と労働との大戦争は各方面に於て激烈に戦はれて居ります。然るに日本の労働者は非常に不利益の地位に立って軍閥官僚及富豪賊の圧迫と奮闘して居ります。今や彼等は四国の圧迫や襲ひ来る社会的新思想と新運動に依って勃興せんと致して居るのです。我々在外同志は大に声援を与へねばならない時です。僕等小数(ママ)同志は此地を根拠として出来る丈け凡ゆる方法で宣伝を実行して居ります。其第―方法は個人運動で訪問を始めとし 次に信書伝導で又新聞の切り抜きや新著小冊子を送って当地及一般社会各国の社会運動を報道し知織を交換し又事実真相を知らして相互奨励を計って居ります。事実を知る,真理の実現,実行を報道する之より有力なる宣伝はありません。社会主義の実現共産主義の実行は着々と進行して居ります 資本主義が没落しつゝあります。此実現を我同志及労働者に知らしむることは今日の急務で僕等は之に従事致して居ります。日本の労働者を社会主義的に国際的に其立場を得せしむることは我々在外同志の為すべき急務です。故国の同志は夙に之か為に奮闘致して居ります。我々は斯機を逸してはなりません。日本からの同志に報道に依れは共産主義者も漸次増加しつゝあって一般自覚せる労働者は議会政策よりも層一層直接行動*に激進して居るとの事で地下運動も段々進行して来ましたと申して参りました。公然社会主義同盟の下に示威運動を盛んにやって居ります。何卒御奮闘を願ひます。近々羅府より一同志が当地に参る筈ですから何とかして途次御地に寄り諸君に面会して万事打合わせを致すよう都合を計り度いと思っております。我々同志は少数ですか在米日本人中にも段々と我が運動に耳心を傾くるものが出来て参りましたから此機を失ってはならないと思います。
最後に僕は去る六月に田舎より帰り当市に居ります。八・九月中に五週間程は海岸で働き今は市中カジュワルの労働を致して口を糊して居ります,で此一二ケ月はレニンの名著ステート・アンド・レボリューションを翻訳致して居ります。此著は日本にも福田博士が最大名著として「開放(ママ)」紙上に其自説を確実ならしむる為めに翻訳して居りますが日本では当底(ママ)出版の出来る著でないと思ひますから此国で出版したいと熱望して居ります。マルクス及エンゲルス著を根拠として共産主義を説き革命的社会主義を説明したもので第三イタナショナルの基礎を成立ちる(ママ)大著(百二十貢(ママ))です。此が出版することが出来れは慥かに日本に向って有力なる宣伝の資となると思って居ります。
此二三週間で一先づ翻訳を卒へ充分の修正を施したらは印刷に附するようになりませうか,其丈は僕の独力(無論同志の助けに依り)て出来ますか印刷には大に苦心致して居ります。一ペーヂ約五六百字で百五六十ペーヂ(四六版)あろうと思ひます。 右は此際御送り下さいましたる御厚意の金か此翻訳となる訳ですから非常に仕合*です。
右御親切なる御贈物に対して再び茲に厚く御礼を申ます。皆様によろしくお願ひ致します。
十一月三日 星 拝
中熊敏夫君 菱田三男也君 平本忠君 西村義雄君
尚ほ高橋素山君 松崎賢君 萩尾岩雄君 大月喜朗君 杉山義夫君其他同志諸君へよろしく H.
* 圏線,傍線とも原文のまま。
この手紙も年次はなく,十一月三日とだけ記されている。しかし内容から見て1920年のものと思われる。ただ若干問題がない訳ではない。手紙のなかで1920年12月9日に創立大会を開いた〔日本〕社会主義同盟の名が出て来ることである。しかし,この手紙が1921年以降であり得ないことは,同年11月3日には片山も田口も既にアメリカにはいなかったことから確かである。一方社会主義同盟は正式の発足こそ1920年12月だが,同年8月には準備会が発足し,9月にはその機関誌『社会主義』が創刊されているのである。
ちなみに,この手紙と重なり合う内容をもつものに『片山潜著作集』第2巻にも収録されている「米国紐育通信国家論」がある。また文中で強い希望を述べている『国家と革命』の邦訳書の出版は,結局この時は実現せず,1924年に『新国家論』のタイトルでウラジオストークで発行された。
この手紙は,(1)とちがい片山の活動そのものについて特に新しい内容をつけ加えるものでない。しかし,彼が「信書伝導」をいかに重視し,具体的にどのように進めていたかがよくわかる。また彼の活動の影響が,単にニューヨークやロスアンゼルス在住の日本人だけでなく,ユタ州ソートレイクシティーの周辺で働いていた日本人の間にも及び,10人近い人々から資金カンパが寄せられていたとは,これまで余り知られていなかった事実である。
なお,この手紙も本名を使わず星という匿名を用いている。野中誠之が後に星政市の匿名を用い,また「同志ホシ」は山川均の党名として知られた名だが,それより先に片山が使っていたのである。ところで,片山は1904年の夏,あの第2インター・アムステルダム大会に出席する旅費を稼ぐためセントルイスの世界博覧会の売店で短期間働いたことがある。その売店の経営者は星製薬の創設者,星一であった(星新一『明治・父・アメリカ』)。片山が H.Hoshi の名を使ったのも存外こんなところにあったのかも知れない。
3. 片山潜のモスクワ便り
手紙(2)を書いてから間もなく,1921年3月に,片山はコミンテルンの汎アメリカビューローの責任者としてメキシコに行き,さらに同年11月にはソビエトに向けて出発した。一方,西村義雄はその後,ソートレイクシティーからニューヨークに移ったが,それが片山のメキシコ行きの前であった可能性は少ない。少なくとも,片山のメキシコ行きに際しニューヨークで開かれた送別会の写真には,西村の姿はない。また石垣栄太郎の回想記「片山潜とその同志たち」は,日時が明瞭な書き方をしてはいないが,片山のソビエト入りを書いたのち,「その後,西村義雄が西部から来ました」と述べている。おそらく,片山と西村は一度も顔を合わせることなく終わったのであろう。しかし1923年,ニューヨークで石垣栄太郎と日本人労働協会を組織し,其の書記となった西村は,片山と文通を続け,また片山の求めに応じて,日本の新聞や雑誌をモスクワに送り続けた。いわば,片山のニューヨーク事務所としての仕事は,はじめ石垣栄太郎が一人で処理していたが,何時の頃からか西村もその一員になったものと思われる。UCLAの Nishimura Papers に残されている片山のモスクワ便りは,以下に紹介する12通だけで,1928年8月からl931年12月に出されたものだが,この他に,もっと早い時期のものが何通かはあった筈である。というのは,その一つ,1927年2月10日,ベルギーのブラッセルから西村に宛てた英文の書簡が,岡繁樹の回想「片山潜とアメリカ」(『改造』l951年7月号)のなかで紹介されているからである。片山がその手紙のなかで「在加州の同志諸君に呉々もよろしくお伝え下さい」と書いていたので,西村が岡に廻送したものである。また横道にそれるが,以前,この岡の回想を読んだ時,片山の手紙の最後に,「同志としての祝福をもって,ヤヴキ」とあるのが気になった。ヤヴキとは一体何を意味するのかわからなかったからである。この疑問は,一昨年ワシントンの国立公文書館で,片山のメキシコ時代に関する米軍情報部の記録を調べていた時に解決した。これは,Yavkiで,片山がメキシコ時代に用いた匿名であった。同時に,片山,ルイス・フレイナ(Louis C. Fraina)とともにコミンテルンの汎アメリカ・ビューローの一員であったチャールズ・スコット(Charles E. Scott)は他ならぬカール・ヤンソン──コミンテルンの代表として1925年5月頃から1927年1月まで日本に駐在した──と同一人物であることもわかった。ただし,その後になって,片山が Yavki の名を用い,Scottの本名がCarl Jansenである。といったことは新発見でも何でもなく,20年以上前に出たTheodore Draperの“The Roots of American Communism ” に明記されていることを知ったのだが。なお,片山はメキシコ時代だけでなく,その後も時々YavkiあるいはYovkiの名を用いたようである。現に,次に紹介する手紙(3)の封筒裏の署名はYovkiとなっている。
また,サンフランシスコで在米日本人共産主義者によって発行されていた『階級戦』第15号(1927年9月5日付)には片山潜の「ロシア通信」が掲載されているが,その冒頭の一節は,次のように述べている。
「拝啓,今日のメールで紐育の西村義雄兄から四月五日発行の階級戦を受取った。之が二回目である。僕のモスクワ通信が連載されてるのを見た。で,僕は茲に階級戦に対して此処から直接に通信したくなった(後略)」
おそくとも1927年には,西村が片山宛に新聞,雑誌などを定期的に送っていたことはたしかである。
ところで,これまで片山潜の「モスクワ便り」として知られているのは,雑誌『解放』に発表された山崎今朝弥あてのものである。また『改造』にも何回か寄稿している。このほかサンフランシスコで発行されていた『階級戦』やその後継紙『在米労働新聞』にも何通かの片山の通信が掲載されている。これから紹介する西村宛の書簡は,すでに紹介した2通にくらべ短いものが多く,内容的にも特に目新しいとはいえない。しかし,片山潜が日本に関する情報を入手する経路がかなり限られていたこと,そのなかで西村や石垣によるアメリカ経由のルートがかなり重要な役割を果していたことがわかる。また,片山が公表を前提としない個人あての私信でどのようなことを語っていたか,その一端を知ることができる。なお,以下の手紙のなかで,片山はしばしば「公表を禁ず」,「秘密の事」といった注意を加えている。鶴谷寿氏は,このような但し書きをつけている理由を,片山が「日本に帰ることは無理として,せめていつかは第二の故郷アメリカに戻って活動したいという気があったからではなかろうか」(『アメリカ西部開拓と日本人』198ぺージ)と解釈されているが,そうではなかろう。片山はすでに紹介したように西村宛の手紙とは別に,公表を前提とした手紙を何通も在米の同志にあてて書き送っているのだから。むしろ片山が懸念していたのは,不用意に書いた私信が公表されて,思わぬ影響を及ぼすことであった。現に『在米労働新聞』第22号 (1928年9月5日付)には,同紙の第20号に公表された私信に関する片山の釈明の手紙が掲載されている。第20号は未見なので正確にはわからないが,片山が「一同志への私信で」佐野学,渡辺政之輔の論文に対する批判を書き,これが公表されてしまったため,あわてて「斯く発表になった以上は僕は茲に僕の誠意を吐露して誤解なきやう願ふ」として書き送ってきたものである。この釈明の手紙の日付は1928年7月5日。西村義雄あての一連の手紙に先だっている。この苦い経験が,その都度,私信の公表を禁ずる但し書きをつけさせた原因と見てよいのではないか。
最後に一点だけ,手紙の内容に関してコメントしておきたい。それは書簡(1)の「石垣は階級道徳を破れる者,非同志です」との追記に関してである。これは,おそらく1931年に「石垣栄太郎は大衆党支持の声明を発表して,ニューヨーク日本人労働者クラブから除名された」(カール・ヨネダ『在米日本人労働者の歴史』113ページ)ことを片山が知ったためと思われる。しかし,ここで問題となるのは,UCLAの Nishimura Papers の中に残されている一枚の除名通知書である。それによれば,西村義雄もまた「山川一派の左翼民主主義を支援し,従って労農大衆に対する裏切行為」が「意識的のものと認め」られ,在米日本人労働協会とニューヨーク日本人労働者倶楽部から除名されているのである。この除名通知書は,日付が単に四月六日とだけあって,年次が記されていないが,文中に四月三日(水)とあり,西村と同時に田中綾子の除名の事実も記されていることからみて,1929年のことと推定される。4月3日が水曜日であるのは1918年,1929年,1935年であるが,在米日本人労働協会が結成されたのは1928年のこと,田中綾子が石垣栄太郎と結婚して石垣綾子となるのが1929年のことだからである。そうなると,片山は何故,西村と文通を続けていたのかといった疑問がおこる。除名の事実を知らなかったのか,あるいはこの除名がすぐに取り消されたのか,今のところその間の事情はわからない。
(3)〔1928年〕8月7日付,片山潜より西村義雄宛書簡(小型ノート5枚)
拝啓 久しく御無サタ失礼!雑誌を毎々御送り下され有難う!コングレスは去月十七日開会,モウ半ば済みました。来る十八日に閉開(ママ)のハズです,常に多忙の為め失礼ばかりして居ります。今僕はコングレホールてプログラム委員会に出席而かも「米一揆」の為めに気焔を吐いた処です。此度の大会は重要問題を討議決定するので趣味深遠です。プログラム,殖民地問題,戦争問題,ロシア問題及一般世界政治状勢等です。一般世界政治情勢の首報告者はブカーリン氏で其討議及結論は等(ママ)で約二週間費しやっと其テーゼを委員フ托となった,プログラムは先づ委員会で討議中です。右の次第で仲々進行遅々!
戦争問題は英代表者トム・ベル氏首報者(ママ)で今日氏の結論あり 委負会でテーゼを討ギするハズ。
追々決ギ文及演説等もお読みになることゝ思ふ,此等を充分研究され而かも断呼として実行されんことを希望します。
「労農」派は新党を組織せりと而かも極左主義者排斥の下に戦闘分子即共産主義者を排撃しつゝあるは遺憾の極です。彼等ローノー派は右化し共産主義より離れつゝある 実に不都合千万です。我々在外同志は間違った馬を追ふてなりません!何人も何処に共産主義運動の中心か在るかは分明なる筈です,決して中心から離れてはなりません,間違 失過(ママ)を抗撃(ママ)も時には必要ですが 今日の如く我正統の同志は困難の地位に在る 多大の戦闘分子は監獄にゴーモンに苦闘しつゝある。我々は全力を傾注して我党を支持せねはなりません。極左主ギ者とブランドして我党をザンブ中傷するは敵陣を強むる者,許すべからざる行動です。在米同志諸君!大に御注意あらんことを希望します。
ヲギノ君は九月始め迄に御出張を乞ふ 学校は九月中旬に始るる(ママ),御来莫の全費用は御地方にて支便(ママ)さるゝことは既に申上けた如くです。帰米の費用は此方持です 右御領承を乞ふ!
次にゴメス君の言に依ると労農党支部を米国に作らんとの議ありと 僕等は大賛成です。併しながら労農派の新党=労農大衆党に賛成しての支部は我が党,旧労農党に反対することゝなり我々に反旗を掲げことゝなりますから特に御注意を願ひます。諸君は「無産新聞(ママ)」「マルクス主義」「労働者」「政治批判」インタナショナル及労働新聞等を支持さるゝことを望む 此等を抗撃(ママ)する者は我々の敵で資本家及其政府の味方です 支那革命を支持することは今日の急務です。右御注意まで
不一 皆様によろしく!
八月七日 第六コングレス席上より 潜
西村兄 ヒミツの事
〔注〕前述したように Nishimura Papers の中には,この手紙を送るのに使われたと推定される封筒が残っている。切手の消印(モスクワ)は1928年8月8日付で,裏面にニューヨークの郵便局の到着印があり,その日付は1928年8月18日,さらに,ニューヨーク市内の College Point 局の到着印は1928年8月20日付である。
表面の宛名は次のとおりであるが,そのほか,ロシア文字で,航空郵便,ニューヨーク,アメリカと記されている。
Mr. Y.Nishimura
c/o Mr.Higuchi
College Point 53
L. I. New York City
また裏面にはロシア文字でモスクワ トヴエルスカヤ36とYovkiの名が記されている。Yovkiは彼が養子になる前の旧姓、藪木であろう。
(4)〔1928年〕11月10日付,片山潜より西村義雄宛書簡(小型用箋4枚)
拝啓西村君! 毎々雑誌を難有う! 始終貰うばかしで僕の方からは何も送ることが出来ない。遺憾の次第ですが我々は君が送って呉れる雑誌を此処ては頗る有効有益に読んで居るから偏に君の諒解を願ひます。
十月革命第十一週年祭も大成功以って終た。今年は先づ好天気で道もよし 午后天トウサマが出て快くパレードが行れた。四五万の赤衛兵は実に壮厳なる観兵式を行ひボロシロフ主席,カリニン氏か祝辞を述べて式が進み 午后は労働者のパレードがモスコウ六ケ区より来る 労働者は一斉にレットスコヤーを進行した。種々様々の旗やスローガンを書いた看板や其他対資家抗撃(ママ)のモトウを持って居った。百万近(ママ)群集は出たと思ふ 万事整然なるものであったよ!
次に日本に於ける共産党運動は今や大民衆の支持の得て(ママ)発展しつゝあ(1字不明)か反動政府の圧迫は益々野蛮的になり彼等は死刑を以って脅威して沈圧(ママ)せんとしてる。ニモ拘はらず我同志は益熱心に決死的奮奮(ママ)をやって居る。今や我々在外同志は極力日本の革命運動を支持せねはならない。
西村君 此際一層の熱心と努力が要るよ。何卒頼みますよ。
僕は最近『労農』派と其組織した無産大衆党に関して少し研究したが 山川氏其他は此等団体に依って我共産党及旧ローノー党及新党準備会を目して極左分裂主義者又は宗派的分裂主義者と云って悪口憎言(ママ)し甚しきはコムミンターンの決議文迄を批難抗撃(ママ)しケチを着て(ママ)不信用にせんと我民衆に虚偽を並べて居る 諸君は彼等にダマサレてはならない。彼等か欺して極左分裂主義者と云って我党員及其団体共産党を排斥するは実に田中反動内閣の共産党圧迫を助くるる(ママ)者である 我々は如何旧友なるにせよ我共産党及左翼団体を排斥しコムミンター迄も批難抗撃する者を敵として戦はねばならない。僕は之に関して一文を起草中である 出来たら送るから充分研究して諸君の方針を誤らぬように願ひます 右 不一
十一月十日
西村 兄
〔注〕この手紙の冒頭の2行の上に赤鉛筆で「秘密の事」と記されている。
また,この手紙を送ったと推定される封筒が残っている。宛名は
ニューヨーク アメリカ(ロシア文字)
Mr. S. Sasaki
The Japanese Workers Assoc.
107 McDougal St.
New York U.S.A.
ただし107 McDougal St.は横線で抹消され,B27E17の郵便番号とおぼしき記号が書き加えられている。発信人の住所,氏名の記入はなく,裏面にはられた切手の消印は1928年11月11日,ニューヨークの到着印は1928年11月23日付である。
(5)〔1929年〕7月30日付,片山潜より西村義雄宛書簡(大学ノート1枚)
拝啓 度々新聞や雑誌を難有う!去る四月以来一つも我党の機関紙は来ないので閉口して居る。無産者新聞は兄が送って呉れたので始めて四月分を見るシマツです。改造の如きも三月分以来は見ない。困ってる。然るに世間がブッソウになったので日本との連絡が絶へて実際の様子は少しも分らない。兄の方で何とかレンラクを取って貰らいた(ママ)が非常に圧迫かヒドク又警戒かゲン重なのて注意に注意を要する訳である。今や日本の社会状態も益窮迫して来た。銀行の恐荒は益政府をして乱暴な政策をとって労働者及貧農を苦しめて居る 政治的には種々法律を作って民衆を圧迫しつゝある。此際我々は大に準備して他日大活動を為さねばならない 兄等の奮闘昼(尽?)力を乞ふ。石垣兄にも一寸書いた。逢って聞いて呉れたまへ。皆さんによろしく!
七月卅日 片山 潜
西村義雄兄
〔注〕この手紙にも年次は記されていない。これを1929年と推定したのはΓ日本との連絡が絶」えたとの記述によるだけでなく,「30・7・29」と判読できる消印のある封筒が残されているからである。この封筒の宛名は
Mr. Y. Nishimura
52−2nd Ave.
College Point New York City
裏面には Katayama Brown Katayama〔(5,6字分不明)Born in カ〕1870と記されている。
(6)〔1929年〕10月31日付,片山潜より西村義雄宛(小型洋紙片1枚)
誠に恐れ入りますか 雑誌『労農』の九月号を一部 送って呉れませんか。僕に対する文か出て居るとの事ですから
次に僕は此夏はフランクフヲートに行き帰ってからコーカサス,クリミヤに保養するすること一ケ月半て二週間前に帰りました。マア元気な方てボツボツ仕事を為て居ります。皆様によろしく
十月卅一日 片山 潜
西村義雄兄へ
〔注〕これも年次は内容から推定した。なお,文中にある『労農』9月号の「僕に対する文」とは,同第3巻8号所収の大田三郎(高橋正雄)「旧『新党準備会』指導部と『労農』(五)──『マルクス主義の再現を機として』──であろう。
(7)〔1929年〕l1月4日付,片山潜より西村義雄宛書簡(グラフ用紙1枚)
御啓 常々雑誌を難有う。数日前に一書を兄に宛てゝ出した 番地がなかったか(ママ)届かないかも知らぬから又其に旧切手は入れた。レーニン切手は手に入らぬから他のものを入れて届かぬとイカン(ママ)た!
時に僕の悪る口書いた九月号の「労農」か出たと聞いか(ママ) 是非一部至急送って呉れませんか。手元になければ石垣兄に云って都合して呉れたまへ。
石垣君から手紙を受取ったがまだ答へて居らぬ よろしく!
僕は今夏も一ケ月半コーカサスとクリミヤに行って十月五日に帰った 健康はよい方だから安心して呉れたまへ
右はお礼かたがた御依頼致します。
十一月四日
西村義雄様
(8)〔1929年12月?〕片山潜より西村義雄宛絵葉書(北京万寿山十七孔橋)
宛名 Mr. Y. Nishimura
Yokohama Co.,
24E125, New York City
拝啓 始終雑誌を難有う!お変りもなく御働きの事と存じます。僕も其事 働いてます。御安心を乞!
誠に恐れ入りますが文芸春秋の十二月号と『労農』の十二月号とを送って下さいませんか!
右御依頼まで 潜
(9)〔1930年5月頃〕片山潜より西村義雄宛書簡(中型用箋1枚)
拝啓 毎々改造其他の雑誌御送附誠に難有存じます。続いて御健全にてお働きの事と存じます。
次に僕もボツボツ働いて居ります。前月より三週間ばかしトルキスタン地に行って居りました。其ハガキを差上けます お子供衆にあげて下さい N94と97は美術ハガキです。古切手も送ります。三月の中央公論に猪俣氏の論文か出てるとの事。古るかあったら送って下さい。僕見たいから
時節柄御身大切に
サヨウナラ
片山 潜
西村兄
〔注〕この手紙は全く日付を欠いているが,片山がトルキスタン地方を旅行したのは1930年4月から5月にかけてのことである(片山潜「病中の感想」『改造』1931年10月号参照)
(10)1931年2月1日付,片山潜より西村義雄宛書簡(200字詰原稿用紙1枚を横にして縦書き,表裏)
拝啓 お手紙や雑誌改造難有う!君!僕は十二月廿二日に病気になり一月一日から入院して今に苦ん(ママ)で居るよ。病気はマラリアだと云ふか其も十日ばり(ママ)前に真正発見したので其か治療して居ますが此一両日は大分よくなりました。北米国もクライシスて大弱り君迄が其トバシリを負ったとお気毒で 思ひ切って盗人の〔1字不明〕われと明ら〔1字抹消〕めて 此から新に儲けるのです。郵便蓄金(ママ)は利子は安いが慥かです 僕在米中は利用しました。
働くの我々の運命です。ロシアには一人も失業者ない。本年は二百万の新な労働者が入要なので教育して居ますよ。ロシアの社会建設は五ケ年計画が四ケ年に完成し大成功を来しつゝあます。
本年は「改造」は直接僕に送って呉れますから御送附に及ばず。若し〔1字抹消〕も東洋経済新報か何か手に入ったらば送って下さい。「進め」もよろしい。堺老人のキカン新又は大衆新聞(大衆党の機関)其他総同盟系の雑誌も送って下さらは仕合です。紐育及桑港辺の日刊ならは〔1字抹消〕大喜びで読みます。何れも古いものて差支なし。
御自愛 御自重 御奮(ママ)を祈る。栄太郎君によろしく!
此手紙はヒミツ!読んだらヤキ捨てゝ下さい。 不(ママ)
一九三一年二月一日
西村義雄様
(11)〔1931年5月頃〕 片山潜より西村義雄宛書簡(200字原稿用紙2枚)
西村義雄兄 君のケンコウを祈るよ 潜より
拝啓 お変りも(ママ)御奮闘の事と存じます
次に僕に(ママ)去年の十二月廿二日就床 一月一月一日(ママ)クレムリンホスピタルに入院致して尚ほ今日迄寝て居ります 一月頃に快方に近き旨を承りましたか二二(ママ)月高熱の為め人事不ショとなり 一時は友の見舞呉れるのも分らぬ〔1字抹消〕有様で非常に苦しみました 大兄からもお手紙や雑誌をお送り下さいました 読むこと出来す 漸く此頃になってから読んで楽〔1字抹消〕しむよううなりました。誠に難有く存じます。本年の四月号中央公論雑誌に僕の論文が出て居りますとの事で,此は一度発行して 僕の論文主として千九百十八年の米騒動の記事の為め禁止されたのだ それで後主たる所を切り抜いて又発行してある。僕は大兄の御尽力で是非共切り抜かなない(ママ)のを一部手に入れて大至急に送って頂きたいものです 四月号の中央公論
「改造」二月がない誰か持て行ったものと見へる おありなれば送って下さい
最もトメル米国か恐荒(ママ)に逢って而かも用心深い君が此クライシスに引っかゝるなどとは遺カン此上なしである。僕津田銀行に二百円バかり損を〔2字不明〕うたことが爾後四五十年銀行に引かゝらない いゝレッスンである
栄太郎氏は近々帰国の由。錦を着て帰らるゝことゝ思ふが 只予に取っ〔1字抹消〕てバリケードの向ふ側に居る人である
また身体が弱く 労れ(ママ)るので之で失礼します 何か面白〔3字不明〕があったらば送って下さい。
石垣君に雑誌を難有うと伝言して下さい。
〔2枚目裏面〕 石垣は階級道徳を破れる者 非同志です 如何なることがあっても我々の階級に〔2字不明〕我階級に不利な事を語るは禁ずべきです 片山
雑誌ありがとう!
〔注〕(10)(11)は病床で書いたものと見え,筆跡が乱れ,判読できない部分がある。
(12)〔1931年6月頃〕 片山潜より西村義雄宛書簡(中型用箋2枚,表裏)
拝啓 お手紙及二月号の中央公論難有存じます。君の御親切は決して忘れません。お手中にある小生の意見を徴されましたが 今は病気で昨年十二月廿二日から今日迄殆んど病院住居で 来る二十五六日頃にやっと退院か出来て其から又クリミアに六週間保養して そしてからでなくは仕事は出来ま〔二字不明〕。其に君の質問は寧ろ予言的に答へねばならぬ。特に日本に対しの(ママ)事です。之は仲々面倒です。又不必要の様思れます。第一に第六コングレッス将来の共産主義の社会が何んなものかをよく書いてあります 日本に応用すれはよいのです。第二にソヴエート・ユニオンの現状は実に社会主義の実現建設が着々と実行されています。各国の労働者農民は〔2字不明〕団体を組んで視察に来て報〔1字抹消〕告して資本家の偽欺(ママ)の讃誣(ママ)中傷を打破して居ります。今ローノーロシアの人口は〔23字抹消〕一億六千万です。然るに現に昨年十月から失業者なくなりました。失業基金は労働者教育マワシて新に労働者を養生(ママ)して居ります。今年中に養成する新労働者は二百万です。仲々其でも足りません。至る所に新な労働者か要求されて居ります。而して右労働者が仕事に熱心なる今や労働者が要求し事業公債を募集することを以ってしました。募集を始めてから僅々二週間に一億二千三百万ルーブルの応募がありレニングラードでは五千三百万円の応募がありました 皆労働者か其月給から出すのて一人 〔1字不明〕の資本家ありません。労働賃銀は上って居ります。戦前に比ぶれは16.7%の増かで昨二ケ年間に一割二分一厘の増加をして居ます。本年は六パーセントの増加です。我々月給取りには仕合です 僕は今度モウ六ヶ月半入院して几ゆる手宛(ママ)をして貰らい一文薬代半文の世話料や入院料は払はない 皆病気保険で支払 月給まで払って呉れるのです 労働者で賃銀を取る者皆〔2字不明〕です。ロシアに今失業者のないことは〔1字不明−は?〕御注意を願ひたい。賃銀があがって必要品が下落することも亦注意に値す!将来を想像す(ママ)する必要はない 実見は御同様に研究して来た社会主義がロシアには着々と実行されて居る。独逸や支那も今に然うなるでせう。右は君の趣味上有益なる質問にかへて申上げます。
右事実は皆公表されたものですから御使用は御自由ですが僕の手紙として公表〔1字不明−等?〕は断じておことわり致します 手紙は友人の君に差し上げる私信ですから 私信としての公表を禁す〔約2字分不明 −抹消か?〕僕の名を附して!右お礼やらお答やら S.K
(13)1931年11月7日付,絵葉書(モスクワ・ゴム工場労働者クラブ)
〔宛名〕 Mr. Y. Nishimura
Yokohama Co.,
24E 125th St.
New York City U.S.A
拝啓 中央公論の七月号難有う。お手紙二ヒラ及二私信を難有拝見致しました。山辺,北村諸兄によろしく。石垣兄が文選(文戦=文芸戦線〕と〔3字不明−ケン和?〕して我陣営に来たのは帰る為ではないと信す 日本でナップは迫害されて居るナップに行くのは御都合主義でない。来る者を歓迎するは同志的態度でせう!何卒中央公論其他の雑誌新聞を送って下さい。中央公論は殊に願ひます。
(14) 1931年12月31日付,片山潜より西村義雄宛 葉書
〔宛名〕 Mr. Y. Nishimura
c/o Yokohama Co.,
24E 125th St.
New York City
U.S.A
拝啓 相変らず何時もげんきで御奮闘の事何よりです。昨日中公論十一月号正に難有拝受いたし厚くお礼を申上げます。十月号は他から借りて読みました。貴下と石君と御相談して十二月及来年分も送って頂けば大仕合です 改造は今の所月々貰って居ます。文選(ママ)及労農も見て居ります。
労農ロシアは五ヶ年計カクの三ヶ年完成 今一ヶ年で五ヶ年計画を完成する予定が分明一億六千万の労農者は一人の失業なく皆熱心に働いて居ります。社会主義建設が着々と進展して行くのを親しく見聞して居るのは此の上なきユ快です。労働者の状態はよくなるばかりです。賃銀は増加して物価は下る而も品物はよくなると棚からボタモチ的で虚言ではないかと疑ふ人もあるか真で事実です。工場及事業を中心として物資の配給が行れるので労農者の状態は日々改善されて行きつゝあります!今まで一寸多忙で失礼!
何れまた委しく申上げる。石垣兄によろしく!
30/XII/31 Moskow
初出は法政大学大原社会問題研究所『資料室報』259号(1979年10月)
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