〈アンケート 21世紀の労働研究〉
広い視野での国際比較研究を──欧米中心史観を超えて──
"Beyond Eurocentrism: Toward a New International and Comparative Perspective in Labor Studies"
二村 一夫
【はじめに】
A 『日本労働研究雑誌』の編集部から,労働問題にかかわる〈21世紀を踏まえた〉研究課題か,若手研究者に研究して欲しいテーマについて書くようにと依頼があってね。歴史畑の人が少ないようなのと,たまたまこの3月で定年退職なので,いつもあれこれ理由をつけて断ることの多い僕としては,わりあい素直に引き受けたんだが,いざ書くとなると,とても今の若い人の役に立ちそうな意見などないから弱ってるんだ。
B 君には無理な注文だね。労働史の研究者ではあっても,まともな教育者だったことがないんだから。だけど,もともと研究テーマは研究者ひとりひとりが自分で探し出すものなんだから,気楽に,いま自分が20代の若手研究者だったら何を研究するかでも考えてみるんだね。
A そういうことなら,いくつもある。たとえば,EUの統一通貨が示しているように,来世紀には経済のグローバル化はさらに進み,一国の枠内では解決し得ない状況を作り出すに相違ない。そうなれば,これまで国家単位に形成されてきた政治,法律,社会,文化はいやおうなしに変容を迫られるだろう。そうした問題の追究は,まさに21世紀を踏まえた研究課題といえるのじゃないかな。
もうひとつは,ロシア・ソビエト史だね。20世紀最大の社会的実験,というより人類史上でも稀な社会的実験を敢行して,見事に失敗したのだから。成功より失敗の経験のほうが学ぶべき点を数多く含んでいるに違いない。この経験は仔細に吟味されるべきだろう。
そのほか,先進諸国が多子・低学歴社会から,少子・高学歴社会へと変化した過程とその影響について検討するのも面白いテーマだと思うよ。
B でも,それじゃあ〈労働問題にかかわる〉という注文と,ちょっとずれるのじゃないかな。
A そんなことはないだろう。21世紀中にヨーロッパ合衆国が成立するかどうか分からないけど,仮に成立したら,これまで一国内で処理されてきた労働問題,労使関係が変容を迫られることは明瞭だ。そうした時に,参加各国の伝統的要因で「合衆国」に継承されるもの,あるいは否定されるものが何かを考えてみるだけでも,これまでの国単位の研究についても見直す手がかりが得られるんじゃないかな。
B そうかな?
A ロシア・ソビエト史というと,すぐ政治史的なアプローチが考えられるのだろうけど,社会・労働史的研究も重要だと思うんだ。今のロシアの民衆の生活を見ていると,どことなく敗戦直後の日本と似ているような気がする。皆が〈企業〉を拠り所に,何とか生き延びようとしている点でね。〈企業社会〉という点では,中国も日本以上のようだ。労働者が主人公だった〈社会主義社会〉が,企業と従業員の関係をどのように形成してきたか,それが市場経済化のもとでどのように変化しているか知りたいね。
少子化問題だって,今はもっぱら近い将来の社会保障や社会福祉との関連で問題にされているけど,これまでの変化の過程と,それが労使関係や労働運動におよぼしてきた影響は小さくないと思うよ。たとえば,ブルーカラーとホワイトカラーの関係の変化だってこれと無関係じゃない。そうした過程を明らかにする歴史社会学的研究が必要じゃないかな。
B これは何も歴史社会学的テーマとは限らないだろう。開発途上国ではいまだに多子・低学歴が問題だから,国際比較的な検討も可能だ。
A それはそうだ。しかもこの問題は東アジアで急速に進んでいる。中国の一人っ子政策はよく知られているが,韓国の高学歴化は日本よりはるかに急激だ。1994年現在で高等教育在学者の比率が半数を超え,男だけなら実に63.6%にも達しているんだ。これが,労使関係にどのような影響をおよぼすか,これまで他の国ではあまり経験のない事態だから,実に興味津々のテーマだよ。
ただ,何を研究するにしても課題選択の前提になる問題関心は,自分が生きてきた時代に制約されるから,いまさら僕に20代の研究者だったらといわれても困るね。同じ仮定の話なら,あと30年僕が現役の研究者でいられるなら,何を研究するか考えてみるほかないね。
B あと30年間も現役でいるつもり?95歳だよ。
【前近代社会からの遺産について】
A もちろん仮定の話だよ。ただ,本当にそこまで体力・気力がもつといいけどね。そうなれば,さしあたり研究したいのは徳川時代の職人や商人の組織と幕藩権力とのかかわりと,それが戦前戦後の労働組合運動におよぼした影響かな。
日本の労働組合運動の歴史を探ってきて,クラフト・ギルド,クラフト・ユニオニズムの伝統が欠けていたことが,欧米の組合との大きな違いをもたらしたことは状況証拠的には確実だと思うけど,まだ実証的には解明できていないから。
それに,最近気づいたことだけど,問題は単に西欧型クラフト・ギルドの伝統の欠如というだけではなさそうだ。日本の諸組織の意思決定方式とか,幕藩権力と町人との関係など,おそらく「政治文化の特質」といってもよいものだと思うけれど,これが工業化以降の労使関係にも大きな影響をおよぼしている。
さらに最近の規制緩和の大合唱のなかであらためて感じさせられたのだけど,日本の庶民は,イギリスとはまるで違い,昔からヴォランタリズムとはおよそ無縁だ。自力で生活を守ろうなどとは考えず,お上の力で守ってもらおうとしてきたんだ。そうした状況は,今日にいたるまで変わっていないのじゃないかな。
【国際比較研究】
B ところで,君は自分ではずっとくそ実証主義的な研究をしてきたのに,最近はしきりと国際比較研究の重要性を主張しているそうじゃないか。
A ひとつにはバリントン・ムーアの仕事に感心したからね。君も『独裁と民主政治の社会的起源』を読んでごらん,比較研究が個別事例の詳細な研究に代えがたいことについて説得されるから。
それと,僕自身がたまたま日韓の労使関係を比較検討する機会があり,そこでこれまで気づかなかった日本の労使関係の特徴をあらためて認識させられたからでもあるんだ。ご承知のように,日本も韓国も企業内組合という点では共通なのだけれど,韓国の労働組合指導部は大統領制的に構成されている。これに対し,日本の組合はあえていえば議院内閣制的なんだ。同じ企業内組合でも運営の実態がずいぶん違う。共通点が多い両国間の比較だけに,かえって他の国との比較では見えなかったところが見えたように思うんだね。
B でも,これまでの研究も,国際比較には力を入れ,かなりの成果をあげてきたんじゃないか。
A それはそうだ。ただ僕自身もふくめ,従来の労働研究は,欧米,とくにイギリスとの比較が主だった。だけど,同じヨーロッパといっても西欧と東欧はもちろん,カトリックの国とそうでない国の間にも大きな違いがある。あるいは,イギリスの労使関係の伝統を継承している国の間でもかなりの差がある。そうしたことを考えなきゃならないだろう。さらに言えば,これまでのようにキリスト教社会や儒教社会だけでなく,イスラム社会やヒンズー社会までが工業化への道を進みつつあるのだから,今後は,そうした国々も視野に入れた労働問題研究が必要だろう。これこそ,今の若い研究者にとりくんで欲しいテーマだね。
まあ一人の人間が生涯に出来る研究はごくごく限られたものだ,というのが今の実感だけど,視野だけは歴史的にも地理的にも広くして,自分の研究がどのような欠落を埋めているのか自覚的に研究する必要があると思うよ。
(にむら・かずお 法政大学大原社会問題研究所名誉研究員)
初出は『日本労働研究雑誌』No.465(1999年4月)。
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