戦後の大原社研爽やかな笑顔──中林賢二郎さんのこと
〔1986年〕1月10日午後9時、奥様からの電話で中林さんの容体が急変し、意識が混濁されたことを知らされた。病気が重いことはうすうす察していたが、それほど悪いとは思っていなかっただけに愕然とした。病院に駆けつける間、何とか意識を回復してほしい、なんとかもう一度元気になって欲しいと祈る気持ちと同時に、暮れのうちに見舞いに行くべきだったと悔やまれてならなかった。
翌朝の病理解剖の結果、癌の初発は右肺上部にあり、前年12月上旬にレントゲン写真で発見された右肺門部の腫瘍はそこから転移したものであることが判った。転移は肺だけでなく全身に広がり、なかでも肝臓には大きな癌が数カ所、小さな転移は無数にあり、全体の60〜70%がすでに癌化していた。ほかにはすい臓、顎下腺付近のリンパ腺、胃の外壁、背骨など各所に広がっていた。
中林さんと最初に会ったのは、1957年5月11日のことである。労働運動史研究会が、といっても正式発足直前の準備会時代だが、明治大学大学院の会議室で開いた全国研究者懇談会の席上であった。中林さんは前年ヨーロッパや中国を回って来られたばかりで、主に中国における労働運動史研究の現状について紹介された。私はまだ大学院生で、自分の研究やボランティアとして整理に当たっていた大原社会問題研究所の資料のことを説明した。研究会の正式発会後は二人とも事務局員となり、よく顔を会わせるようになった。外国史の専門家であると同時に現代日本について研究する人は今でこそ少なくはないが、当時では希有の存在だった。中林さんの学風の特徴は、一貫して労働運動・社会主義運動発展の法則性を追究される点あったといってよいだろう。それまでの日本労働運動史研究が、ともすれば論理を欠いたものであることに中林さんは批判的であった。
1965年、中林さんは法政大学大原社会問題研究所に兼任研究員として入所され、翌年には専任研究員になられた。私も1年ずつ後れ66年に兼任研究員、67年に専任研究員となって、二人は一緒に仕事をするようになった。研究所での中林さんは、当時刊行継続が困難になっていた『日本労働年鑑』の編集責任者として、その立て直しに全力を傾けられた。新しく年鑑の出版を引き受けてくれた労働旬報社の努力もあって、その成果は目に見えてあがった。
思い出のなかの中林さんは、いつも爽やかな笑顔である。明朗、快活で、いっしょにいるのが楽しい人であった。何しろ物知りで、人生経験も格段に豊富だった。会話のなかに、他人の噂話がめったに出ないことも快かった。そうした日々の思い出は尽きない。
1971年2月、中林さんは、アムステルダムの社会史国際研究所に留学された。帰国すると同時に社会学部教授に就任され、大原研究所の方は兼任となった。正直のところ、これは私には大ショックであった。それまで何をするにも中林さんを頼っていたからである。いささか遣り場のない思いで「貴方は我々を見捨てるのか」という趣旨の詰問をした。いろいろ釈明されたことを理解はしたが、納得は出来なかった。 「七〇年の一月初め、前年の暮から葉山の大森海岸で仕事をしていた筆者をはげますために堀江正規氏がわざわざ旅館を訪ねて下さったことがあるが、その日の氏の言葉はいまも私の耳についてはなれない。うらうらと晴れ渡った三浦半島の海はすでに春を感じさせたが、お茶を飲みつつ氏がふともらされたのは、自分に残されている研究時間にはもう限りがある、せいぜい二つか三つの仕事しかできないだろうという意味の言葉であった。私は、愕然としたが、しかし現実はそれ以上にきびしかった。氏はその二つないし三つの仕事をまとめるいとまもなく、この世を去られることになった」。 ここでの堀江氏の言葉は、そのまま中林賢二郎の気持ちであった。研究者としての出発が遅かっただけに、残されている時間を絶えず意識せずにはいられなかったのである。 初出は『労働法律旬報』1986年3月上旬号、のち『追憶 中林賢二郎』(私家版、1987年2月刊行)に再録。1997年10月2日一部加筆し、本著作集に掲載。1998年5月7日画像追加。 |
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