二村一夫《随筆集》
  『さまざまな出会い』


塩田庄兵衛さん、『人生案内・塩田庄兵衛対談集』(1988年刊)口絵写真より

半世紀余の交流
      ─ 追憶・塩田庄兵衛先生 ─

 塩田庄兵衛先生には半世紀余もの長い間おつきあいいただきました。同じ研究分野の先輩としていろいろお世話になり、とくに駆け出しの頃は大いに教えられました。主たる交流の場は労働運動史研究会と社会政策学会でした。
 長期間のおつきあいでしたから、公的にも私的にもさまざまな思い出があります。なかでも忘れがたいのは、労働運動史研究会が発足した3日後の1957(昭和32)年7月16日から1週間、ずっと行動をともにした折のことです。足尾の村上安正さんの依頼で、足尾銅山労働組合が編纂中だった『足尾銅山労働運動史』の草稿を読んでコメントする役を塩田さんと私が務めたのです。1週間、ずっと寝食をともにしたので、塩田さんの素顔に接するところがありました。印象に残っているのは、私が何か推測めいたことを口にすると、すぐに「どうして?」「なぜそう思う?」と、その根拠を問いただされたことです。それまで円満で穏やかなお人柄と思い込んでいたのですが、別の側面も知って、ゼミでの指導教授としての顔を垣間見た思いがしました。
 その他にも、思い出は尽きません。塩田家恒例の新年会のこと、大河内一男会長宅で手弁当で働く事務局員を慰労してくださった宴のこと、三一新書の『日本労働運動の歴史』と『日本社会運動人名辞典』の編集作業、伊豆湯ヶ島の白壁荘への旅、社会政策学会高知大会の際に皿鉢料理の大盤振る舞いに与ったこと、京都のマンションに泊めていただいた時のことなどなど。ただ、こうした話は塩田さんの思い出というより、大河内家でご馳走になった珍味カラスミや豪華な皿鉢料理など、食べ物の話に傾きそうです。ここはまず、まだ二人とも若かった最初の出会いの時のこと、塩田さんが組織者として最も力量を発揮された、労働運動史研究会のことについて書きとどめておこうと思います。

 私が塩田さんの存在を初めて認識したのは、1953(昭和28)年、大学2年の時でした。この年5月に出た『歴史学研究』に掲載された「さいきんの日本労働運動史文献について」と題する論稿を読んだのです。塩田さんの数多い著作のなかではやや異色の作品で、筆鋒鋭く厳しい批判を展開された研究レビューです。先生32歳、都立大学人文学部助教授となって2年目、その直後には、歴史学研究会編『近代日本の形成』に「幸徳秋水の社会主義思想──明治のマルクス主義」を発表されています。ただ、私の手許に複数ある「塩田庄兵衛著作目録」には、この論文は採録されておらず、ご自身ではそれほど重要とは考えておられなかったようです。しかし、労働運動史研究に関心をもち始めたばかりの私には、教えられるところの多い《研究手引き》でした。内容は、当時刊行されて間もない日本労働運動史関係の著作5点の紹介と批判が中心で、いずれの書物に対しても厳しい批判を加えておられます。そのなかで最も力を込めて論じていたのは、恩師・大河内一男さんの新著『黎明期の日本労働運動』でした。この本は、大河内さんの岩波新書の日本労働運動史三部作の最初の作品で、有名な「出稼型論」で明治期の社会・労働運動を分析した力作です。しかし塩田庄兵衛氏は、この本を「〈型〉によって歴史をとらえる方法のために、数々の〈歴史離れ〉がなされ、歴史が矮小化されている」と厳しい評価を加えていました。
 私がこの文献研究論文から教えられたのは、日本の労働運動史研究がいちじるしく立ちおくれている事実であり、その原因は「史料の貧困と方法の貧困」にあるとの診断でした。いま考えてみると、私はこの塩田さんの《研究手引き》に導かれて労働史研究の道を選び、その後もこの「診断」にしたがって、研究者人生を送ってきたようです。私が半世紀近く主な仕事としてきたのは《復刻シリーズ 日本社会運動史料》200冊をはじめとする、大原社会問題研究所所蔵史料の整理紹介でしたし、研究者としては、処女論文の「足尾暴動の基礎過程」で大河内「出稼型論」を批判したのを手始めに、一貫して労働運動史の研究方法を模索し続けてきたのですから。
 その塩田さんに初めてお目にかかったのは、それから2年後の1955(昭和30)年のことでした。学部の卒業論文のテーマを選ぶのに、相談にのっていただいたのです。歴研論文で、先行業績を厳しく批判する鋭い論客というイメージをもってお会いしたのですが、実像は想像とはまったく違い、丸いお顔の丸いお人柄、笑顔が魅力的な親しみやすい方でした。
 お目にかかったのは、駒込駅にほど近い都営住宅のご自宅でした。まだ引っ越されて間もない頃で、さっそく荷物を片付ける手伝いをさせられ、その合間にご意見をうかがいました。埃まみれの仕事が終わった後、まだ赤ちゃんだった洋子さんともども、近所の銭湯に行ったことも忘れがたい思い出のひとつです。初対面から文字通り「裸のつきあい」でした。
 結局、私は塩田先生の助言にしたがい、1907年の足尾暴動を卒論のテーマと決め、間もなく足尾銅山に村上安正さんを訪ねました。もともと塩田さんは、木下順二さんが足尾鉱毒事件に関する戯曲を書くための史料集めの助手をしておられ、また東大社研のプロジェクト「労働組合調査」の一環として足尾労働組合を調査されており、古河鉱業の鉱員で『思想の科学』の会員でもあった村上さんとは旧知の間柄だったのです。塩田さんの紹介のおかげで、私は村上さんの独身寮の一室に泊めてもらい、徳川時代の手掘りの坑道をはじめ、普通は立ち入りが禁止されている坑内の各所を見てまわることができました。寮の食事がボソボソの外米だったこと、つるつる滑る垂直のハシゴを、カンテラの火で顔をあぶられながら村上さんの後を必死で追った時のことなど、いまなお昨日のことのように覚えています。

 塩田さんは組織者として抜群の力量をもっておられました。彼が中心となって設立した団体は、おそらく十指に余るでしょう。しかし、その中で最も力を入れたのは、1957年夏に正式に発足した「労働運動史研究会」だったに違いありません。この研究会は、最盛時には300人をこえる会員を擁し、隔月に活版の機関誌を発行するなど活発な活動を展開しました。その中心人物が塩田さんであったことは、衆目の一致するところです。塩田さんは、研究会創立の1年以上前から準備会の責任者を引き受け、会の事務所を都立大学の自分の研究室に置き、恩師の大河内一男さんを会長に引っ張り出し、全国の主要研究者を評議員に委嘱し、自らは事務局長を買って出て、労働運動史研究会を全国的な組織に育て上げたのでした。事務局長の下にはかなりの数の事務局員がいました。創立時で10人ほど、大原慧、加藤佑治、高橋洸、中林賢二郎、増島宏、村口康雄、渡辺菊雄などの面々だったと記憶します。私も創立前から事務局員として働き、また塩田会長時代には、短期間ですが事務局長をつとめました。塩田さんは、上に会長を戴いて実権を掌握するかたちの「事務局長」というポストがお好きで、実際にそれを口にされたこともありました。自分が仕事を全部背負い込むのでなく、人をそれぞれの個性に応じて働かせるのが実に上手な方でした。
塩田庄兵衛さんほか『日本社会運動人名辞典』編集委員と青木書店の担当者  労働運動史という同じ研究分野の専攻でしたが、研究関心や研究の手法に違いがあり、研究面での交流はしだいに希薄になりました。その背景には二人の性格の違いもあったことを、塩田さんの大原慧氏追悼文で気づかされました。塩田さんは、「大原君と私とは、性格的にかなり違っていたような気がする」と述べた後で、ご自分のことを、「多分気が多いという人種に分類されるだろう私は仕事の範囲をどんどん広げていく興味を抑えることが出来ない。その私から見ると幸徳秋水、片山潜という限られた思想家に焦点を絞ってとことん追求していく大原君の学風は、なんと粘り強い人だろう、俺にはとても真似ができない」と書いておられます。私は明らかに大原さんに近いタイプです。塩田さんのように、学界活動から社会・政治活動までさまざまな実践的課題に関与し、さらには演劇など文化一般についても幅広く発言することなどとても真似できません。とりわけ座談やスピーチは名人芸といってよく、軽妙洒脱な話しぶりで座を引き立てる方でした。
 ただ、塩田さんの《研究手引き》で「方法の重要性」を教えられ、労働運動史研究の道に踏み込んだ後輩としては、運動史の課題や方法についてはもっと議論し、論争しておくべきだったかもしれないと思っています。しかし、私の気後れと怠惰のため、少なくとも二回はあったその機会を逃してしまいました。1回目は塩田さんが岩波全書で『日本社会運動史』を刊行されたとき、書評を依頼されたのですが、掲載誌が紀要の退職記念号とあってとても執筆する勇気がなく、固辞しました。2回目は私が『足尾暴動の史的分析』を出したときに、塩田さんは社会政策学会の機関誌に書評を書いてくださり、そのなかで、山田盛太郎『日本資本主義分析』の評価について見解を異にすることを論じてくださったのですが、私はそれに反論することをしませんでした。あまり建設的な論争にはならないだろうと予想したからですが、いささか卑怯だったなと今になって反省しています。


 初出は『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』第49号、2010年1月24日。
 集合写真は『日本社会運動人名辞典』の打ち上げの会合、1979年3月ころ。前列左から江口十四一(青木書店編集長)、塩田庄兵衛、中林賢二郎、島田泉(青木書店)。後列左から渡辺悦次、祖父江昭二、二村一夫、松尾洋、高橋彦博。


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Written and Edited by
NIMURA, Kazuo
@『二村一夫著作集』
(http://nimura-laborhistory.jp)
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