二 村 一 夫 著 作 集


高野房太郎略年譜




1869年1月6日(明治元年11月24日)
 高野房太郎,長崎府彼杵郡長崎町銀屋町(ぎんやまち)18番地に,和服仕立て職人の父・高野仙吉,母ます(旧姓山市)の長男として生まれる。幼名・久太郎。
 
1871年10月15日(明治4年9月2日)2歳10カ月
 弟・岩三郎生まれる。
 
1875(明治8)年4月 満6歳。
 小学校に入学(年齢から推定。岩三郎の記す卒業年次からすると,実際は1年早く入学した可能性がある)。
 
1877(明治10年) 満8歳。
 一家(本人,両親,祖母かね,姉きわ,弟岩三郎)をあげて上京。浅草橋の畔で回漕店と旅館を兼ねた長崎屋を経営。横浜で三菱汽船の代理店として回漕業を営む伯父弥三郎の事業拡張を助ける意味あいがある移住。客室15,建坪182.1坪。
浅草橋の千代田尋常小学校から,後に本所・江東小学校へ。
 
1879(明治12)年8月26日 満10歳。
 父・仙吉死去。以後は房太郎が高野家の戸主となる。
 
1881(明治14)年1月26日 満12歳
 松ケ枝町大火で長崎屋全焼。日本橋小網町に一時転宅。
 
1881(明治14)年 満12歳
 江東小学校高等科を卒業(岩三郎「兄を語る」による)。
満6歳で入学し8年間在学すれば,卒業は1883年の筈。
 卒業後間もなく,神奈川県久良岐郡横浜区境町1丁目26番地の伯父高野弥三郎が経営する回漕店兼旅館の住み込み店員となる。かたわら,横浜商業夜学校で学ぶ。
 
1881(明治14)年11月9日
 高野家,日本橋区浪花町9番地で回漕店・旅人宿・売薬業長崎屋を再開。名義人高野房太郎。
 
1882(明治15)年12月29日
 仙吉の長兄で,横浜弁天通りで旅館・高野屋を経営していた高野亀右衛門死去。行年55歳。

1884(明治17)年1月
 高野房太郎ら横浜講学会を結成。横浜在住青少年の勉強会。図書の共同購入や天野為之,高田早苗らの講演会を主催。
 
1885(明治18)年1月
 祖母 かね 死去。
 
1885(明治18)年10月
 姉きわ(貴和),井山憲太郎と結婚。井山は,帝大医学部学生の時長崎屋に下宿。1882年8月に退学し,佐賀県東松浦郡玉島村に帰郷,小学校教員のかたわら蜜柑栽培を奨励。きわは農業に従事し,働き者として知られた。
 
1886(明治19)年1月23日
 横浜講学会,東京専門学校同窓会の同攻会横浜支会となる。房太郎は改組発起人の1人。
 
1886(明治19)年1月
 長崎屋廃業,浪花町の家を570円で売却し,母・弟も横浜市住吉町6丁目80の伯父高野弥三郎方に同居。
 
1886(明治19)年4月22日
 伯父・高野弥三郎死去。
 
1886(明治19)年5月1日
 アメリカ労働総同盟の前身であるアメリカ・カナダ労働組合連盟の呼びかけで,全米各地で八時間制要求スト(メーデーの起源)。シカゴヘイ・マーケット事件。
 
1886(明治19)年11月25日 満17歳
 房太郎,旅券の交付をうける。旅券には「右ハ商業研究之為米国桑港ヘ赴クニ付通路故障ナク旅行セシメ且必要ノ保護ヲ与ヘラレン事ヲ其筋ノ諸官ニ希望ス」と記されていた。
 
1886(明治19)年12月2日
 アメリカ労働総同盟結成。組合員15万人。
 
1886(明治19)年12月2日
 パシフィック・メール会社のニューヨーク号で横浜を出航。
 
1886(明治19)年12月19日
 サンフランシスコに上陸。コスモポリタンホテルに止宿。
 
1887(明治20)年 満18歳
 オークランドで〈スクール・ボーイ〉として働く。
 
1887(明治20)年3月
 キングスランド夫人に英会話や英作文を学ぶ。
 
1887(明治20)年6月末〜8月
 カリフォルニア州メンドシーノ郡ポイント・アリーナのガルシア製材所で働く。
 
1887(明治20)年9月
 岩三郎,第一高等中学予科三級に入学。
 
1887(明治20)年10月以降11月以前
 一時帰国。岩三郎によれば,「一度東京へ帰り,長崎にあった小さい山を二百円で売り,それを資本に商ひをやるべく,再び渡航した」〔兄を語る〕。帰米は同年末。
 
1888(明治21)年9月16日〜17日
 労働騎士団カリフォルニア大会,サンフランシスコで開催。
 
1888(明治21)年9月
 城常太郎渡米,コスモポリタンホテルで皿洗いとして働く。
 
1888(明治21)年10月以前 満19歳
 高野房太郎,サンフランシスコ・ストークトン街10番地で友人(中川宇三郎?)と日本雑貨店を経営。
 
1889(明治22)年3月 満20歳
 『読売新聞』に「米国桑港通信」を寄稿(4月26日掲載)。
 
1889(明治22)年3月〜9月ころ 20歳
 カリフォルニア州ポイント・アリーナのガルシア製材所で働く。この間に,ジョージ・マクニール編著『労働運動──今日の問題』を読み,労働運動への関心が目覚める。
 
1889(明治22)年9月7日
 「ヤンキー」を執筆『読売新聞』に寄稿(10月5日掲載)。


1889(明治22)年10月以前
 ワシントン州シアトルに移る。シアトルはこの年6月に大火があり,その後の建築ブームで好景気であった。
 
1890(明治23)年4月頃? 満21歳
 ワシントン州タコマに移る。
 
1890(明治23)年4月30日
 『読売新聞』に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を寄稿(5月31日〜6月27日掲載)。
 
1890(明治23)年9月30日
 タコマを離れ,サンフランシスコへ(10月3日到着)。
 
1890(明治23)年11月11日
 日本で材木伐出場設立のための調査を岩三郎に依頼。
 
1890(明治23)年12月
 沢田半之助,渡米。
 
1891(明治24)年1月4日
 サンフランシスコ商業学校別科(昼間のクラス)に入学。
コスモポリタンホテルの客引き,移民局の通訳などをしながら英語,簿記,商法,速記術,算数,商業通信文などを学ぶ。
 
1891(明治24)年仲夏
 城,沢田ら12人ほどと職工義友会を創立
 
1891(明治24)年8月6日
 労働騎士団の John Hayes,房太郎に宛て,機関誌誌代が切れたが購読を続けるよう勧める手紙を寄こす。
 
1891(明治24)年11月29日
 房太郎にとっての1冊の本,ガントンの 富と進歩 Wealth and Progress を購入。感銘を受け,翻訳を試みる。この後,タコマへ戻る。
 
1892(明治25)年5月
 卒業式出席のためサンフランシスコへ。別科生 123人,通常課程 59人,計182人が卒業。

1892(明治25)年5月20日
 「金井博士及添田学士に呈す」を『国民新聞』に発表。
 
1892(明治25)年5月23日
 岩三郎の大学入学費用として50ドルを送金。
 
1892(明治25)年9月
 この前後に,経済学の書物を買い集める。
 
1892(明治25)年6月
 ホームステッドで鉄鋼労働者のストライキ。1892年中にアメリカ全土で起きたストライキは1200件に達する。
 
1892(明治25)年9月
 高野岩三郎,帝国大学法科大学に入学。仕送り負担軽減。
 
1892(明治25)年12月
 一時帰国。
 
1893(明治26)年1月
 加州日本人靴工同盟会,正式発足。
 
1893(明治26)年5月 満24歳
 房太郎,ワシントン州タコマに在住。

1893(明治26)年7月〜10月31日
 シカゴ万博の日本商品即売所で働きながら博覧会見学。
 
1893(明治26)年11月
 マサチュウセッツ州グレイト・バーリントンのホワイティング家で働く。同家は町の旧家でドラッグストアを経営。
 
1894(明治27)年3月6日 満25歳
 アメリカ労働総同盟のサミュエル・ゴンパーズ会長に手紙を書く。これ以後,数回の往復書簡。
 
1894(明治27)年4月下旬
 ニューヨークに移る。
 
1894(明治27)年5月2日
 アメリカ海軍の軍艦 ヴァーモント号の水兵(食堂勤務員・給仕)となる。契約期間ははじめ1年,すぐ3年に延長。
1894(明治27)年5月11日
 プルマン・ストライキ
 
1894(明治27)年8月中旬以降
 ゴンパーズに面会を求める手紙を送る。
 
1894(明治27)年8月25日
 労働騎士団に手紙,組織の実態についての情報を求める。ジョン・ヘイズより返信(9月1日付)。
 
1894(明治27)年9月4日 満25歳
 サミュエル・ゴンパーズとはじめて面会。その後も数回会う。ニューヨーク滞在中,房太郎はジョージ・ガントン主宰の社会経済学院(College of Social Economics)に在籍したと推測される。また労働省,葉巻工組合,機関士組合,機関車火夫組合などに共済活動などにつき問い合わせ。
 
1894(明治27)年10月1日
 米海軍の兵員募集用軍艦のヴァーモント号から実際に乗務するマチアス(Machias)号乗り組みに変更。
 
1894(明治27)年11月20日 満25歳
 マチアス号,ニューヨークを出航。スペイン・ジブラルタル→マルタ島ヴァリッタ港→エジプト・ポートサイド→スエズ運河→アデン(アラビア半島)→セイロン・コロンボ→シンガポール→香港(1995年3月6日)。
 
1895(明治28)年3月6日〜4月21日
 香港,アモイに各数週間滞在。
 
1895(明治28)年4月25日〜27日
 長崎に寄港。この間に義兄の井山憲太郎と面会(井山より房太郎あて書簡)。
 
1895(明治28)年5月1日〜13日
 マチアス号 芝罘に寄港。以後中国の各港をまわる。
 
1895(明治28)年7月
 岩三郎,東京帝国大学を卒業。
 
1895(明治28)年7月28日 満26歳
 同日付けでゴンパーズ,高野に手紙を出し,翌年のアメリカ労働総同盟の大会で報告するよう招待。
 
1895(明治28)年9月
 岩三郎,東京帝国大学大学院に籍をおき,金井延教授の指導で「労働問題を中心とする工業経済学」を専攻。日本中学で西洋史,日本史,ドイツ語などを教え,自活。
 
1895(明治28)年9月26日〜10月14日
 マチアス号,南京ほか揚子江流域の各地をまわる。
 
1895(明治28)年10月15日〜11月24日
 上海
 
1895(明治28)年11月28日〜
         1896(明治29)年4月4日
 済物浦(仁川)
 
1896(明治29)年2月18日 満27歳
 同日付けで,ゴンパーズより高野に宛てて発信。オルグとしての再任辞令を送付。 同日,城常太郎帰国。
 
1896(明治29)年6月18日〜8月1日 
 マチアス号横浜寄港。この間に未払い給与32ドル36セントを残し脱艦。
 
1896(明治29)年9月10日
 ゴンパーズ宛書簡で,アドヴァタイザー紙翻訳者として働いていること,日本でストが頻発していることなどを通報。

1896(明治29)年10月31日
 ゴンパーズの書簡,高野が運動に参加できないことに遺憾の意を表し,機会が来たら活動を始めるように勧告。
 
1896(明治29)年12月11日
 房太郎,ゴンパーズの手紙に返信。アドヴァタイザー社を退職し,労働運動をはじめる決意を固めたことを伝える。
 
1897(明治30)年1月16日
 『和英辞典』の編集を終える。弟岩三郎およびヘラルド記者山崎要七郎との共著として同年12月に大倉書店から刊行。
 
1897(明治30)年1月26日
 この日東京に移転。城常太郎,沢田半之助と会う。

1897(明治30)年2月7日
 「此日社会政策学会ニ列シ遂ニ会員トナル」(『日記』)。
 
1897(明治30)年3月6日
 社会政策学会の席上で,佐久間貞一と知り合う。
「学士会事務所ニ至ル。金井博士,佐久間貞一君アルアリ。佐久間君ノ労働ノ談甚タ面白カリシ。」10日「佐久間貞一氏ニ出状シ,12日ニ面会ヲ頼ム」12日「午前9時佐久間貞一君ヲ訪フ。談一時余,去リテ城氏ヲ訪フ」(『日記』)。
 
1897(明治30)年3月22日
 佐久間貞一より,4月6日の工業協会総会席上での講演を依頼され,すぐに承諾。
 
1897(明治30)年3月29日
 佐久間を訪ね,『職工諸君に寄す』の印刷を依頼。
 
1897(明治30)年4月6日
 工業協会総会(錦輝館)で「米国における職工の勢力」について講演。ゴンパーズ宛書簡では,これを職工義友会主催の初会合と報告。席上,『職工諸君に寄す』を配布。
 
1897(明治30)年6月25日
 神田青年会館で,職工義友会主催「我国最初の労働問題演説会」。「高野氏は義友会を代表して期成会設立の必要を説き,来会者の賛成を求めたりしか之に応ずる者実に四十七名」。
 
1897(明治30)年7月5日
 日本橋区北槙町池の尾で,労働組合期成会発起会開催。高野房太郎,城常太郎,沢田半之助が仮幹事に就任。
 
1897(明治30)年8月1日
 期成会第1回月次会で幹事に選出される。
 
1897(明治30)年11月14日
 鉄工組合創立相談会。
 
1897(明治30)年12月1日
 労働組合期成会鉄工組合発会式。午後6時より神田青年会館で開会。実弟の高野岩三郎も演説。
『労働世界』創刊,編集長・片山潜。
 
1898(明治31)年3月23日 満29歳
 日本橋警察署に召喚,期成会大運動会中止を勧告される。
 
1898(明治31)年4月24日
 期成会,会費を15銭から10銭に引き下げることを決定。
 
1898(明治31)年7月 満29歳
 この頃,横溝キクと結婚。
 
1898(明治31)年6月15日
 『労働世界』14号に消費組合のモデル規約を執筆。
 
1898(明治31)年6月26日
 期成会月次会で,トップで幹事に再選される。
 
1898(明治31)年7月15日
 高野房太郎,労働組合期成会幹事長となる。
 
1898(明治31)年7月23日
 東北遊説に出発。同行は片山潜ほか。大宮,福島,一関,盛岡,青森,尻内,盛岡,仙台,宇都宮などで演説会,日鉄矯正会会員と交流し,31日帰京。鉄工組合の支部2を設立。
 
1898(明治31)年9月23日
 期成会15回月次会で工場法案修正の陳情委員に選任さる。
 
1898(明治31)年11月29日
 期成会幹事会で,高野,常任幹事を辞任。後任に片山潜。同日鉄工組合の参事会でも,高野,常任委員を辞任。
 
1898(明治31)年12月22日
 横浜鉄工共営合資会社を開業し,その専従となる。
 
1899(明治32)年3月4日
 長女・美代誕生。
 
1899(明治32)年6月5日
 高野岩三郎,欧州留学に出発。
 
1899(明治32)年6月20日
 期成会,鉄工組合,本部を日本橋区本石町1丁目12番地に移転。同時に高野も本部に住み込む。
 
1899(明治32)年6月25日
 期成会月次会,高野房太郎・片山潜を常任幹事に選任。同日鉄工組合委員総会も常任委員の増員を決議し,高野を選任。
 
1899(明治32)年6月29日
 高野を有給の常任委員とし,鉄工組合より月20円,期成会より5円を給与すること決定。
 
1899(明治32)年11月1日
 京橋区本八丁堀二丁目四番地で消費組合「共営社」を経営。
同店2階に石川島造船所労働者のための労働倶楽部を設置。
 
1900(明治33)年1月30日
 鉄工組合,財政問題を検討するため臨時本部委員総会を開く。財政難解決のひとつの方策として,房太郎,有給常任委員を辞職し,無給で活動することを申し出る。
 
1900(明治33)年3月10日
 高野房太郎,幸徳秋水らとともに普通選挙期成同盟会の幹事に選任される。
 
1900(明治33)年8月24日
 高野,片山潜・安部磯雄と大宮での演説会に出演。日本鉄道大宮工場の経営を批判。これが日本での活動の最後となる。
 
1900(明治33)年9月1日
 同日付け『労働世界』第65号に次の記事。
 「◎高野房太郎氏 は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ」。 また同号の英文欄には,高野が城と天津で商店を開く計画に関する短信がある。
 
1900(明治33)年11月1日
 『労働世界』第67号に「高野房太郎氏は去る五日天津より帰り,直ちに北清貿易会社を設立し,再び渡清せしよし」。
 
1901(明治34)年1月1日
 『労働世界』第69号英文欄に,高野が天津から北京に移動し商店を開くとの短信。
 
1901(明治34)年1月15日
 『労働世界』第70号英文欄に,高野が現在ドイツ軍におり,用務のため一時帰国し馬関(下関)にいるとの消息あり。
 
1901(明治34)年4月
 同日付け『労働世界』第75号英文欄に高野房太郎が北京に滞在中との短信あり。
 
1901(明治34)年〜1902(明治35)年
 青島において,在米時代からの友人・竹川藤太郎と貿易業に従事。日本の石炭を青島に運ぶなどしている様子。
 
1903(明治36)年1月18日
 次女 ふみ(富美)誕生。
 
1903(明治36)年11月23日
 同日付け片山潜より高野ます宛て書簡から,房太郎がすでに病気であることがわかる。
 
1904(明治37)年3月12日
 逝去。「山東省青島の独逸病院に於て肝臓膿腫の為めに斃る,時に年三十七。同地に於て葬儀を営み,遺骨は之を東京に送り,本郷駒込吉祥寺に葬る」(大日本人名辞書)。
 
1904(明治37)年6月26日
 この日,午前9時に駒込吉祥寺で納骨式。
 横山源之助,『東洋銅鉄雑誌』第1巻第1号(6月号)に「高野房太郎君を憶ふ」を掲載。