トップページに戻る

【追憶】 若き日の村上安正さん



出会い

 私が村上さんと初めて顔を合わせたのは1955(昭和30)年の秋、今から65年も昔のことです。学部の卒業論文のテーマに「足尾暴動」を選んだ私は、その現場を知りたいと思い、塩田庄兵衛氏の紹介で、足尾銅山の鉱員だった彼を訪ねたのです。手土産代わりに、宇都宮検察庁から借り出したばかりの『足尾騒擾事件に関する機密書類』や、暴動を主導したとして起訴された永岡鶴蔵の自伝「坑夫の生涯」などの諸史料を持参しました。私はどこかに宿をとるつもりでしたが、村上さんは通洞独身寮の自分の部屋に2晩泊めた上で、坑内坑外をくまなく案内してくれたのでした。村上さんの勤務時間中は、同じ職場の先輩に坑内の案内を頼んでくれており、お二人の案内で、私は採鉱の現場から各時代の旧坑跡など、坑内各所を見せてもらいました。〈河鹿直利〉跡の巨大な空間や、一度入ると、元へ戻るには後ずさりする他ない狭い手掘りの旧坑、その壁に刻まれたノミ跡など、今も鮮明に記憶しています。徳川時代の旧坑に辿り着くには垂直の足場を登るほかなく、カンテラの火に頬をあぶられながら、湧水にぬれてツルツル滑る丸太を必死の思いでよじ登ったのも、忘れ難い思い出です。坑内見学だけでなく、古老の野田勇太の話を聞いたり、友子の墓地群に案内されたりと、充実した足尾体験でした。独身寮で出された朝食が、ボサボサで赤みがかった外米で、戦後10年経ったというのに、足尾では、まだ「南京米」を食べているのだと知りました。村上さんが鉱山史研究へ進むキッカケのひとつが、私との出会いだったと、晩年に回想されているのを知り、人と人との繋がりの妙、因縁を思わずにはいられませんでした。



「地質鉱床課」と組合の文化活動

私より3歳年長だった村上さんは、東京は錦糸町の生まれです。一家9人が、1945年3月10日の下町大空襲に遭いながら、全員が生き延びたのでした。この大空襲のことは、彼が執筆した義母の自伝・村上清子『焔の町を生きて ─ 足尾・東京での七十年』(私家版、1986年刊)や、村上安正『足尾に生きる ─ 私の人生八〇年』(随想舎、2012年刊)に詳しく描かれています。一夜にして10万人の命が失われた大空襲で、家族全員が無事だったのは奇跡的な幸運でしたが、その後は辛い日々の連続だったようです。
 焼け出された村上さんは、父を東京に残して、母と幼い弟妹とともに両親の故郷・足尾に疎開し、そこで高校を卒業しました。中学・高校時代は戦中戦後の混乱期で、長男の彼は、母を助けて食料の買い出しに行ったり、幼い弟妹の世話で、学校の出席さえままならなかったようです。
 足尾高校を卒業して、すぐ古河鉱業に入社、配属されたのは、足尾鉱業所の〈地質鉱床課〉でした。この課は所属員8人の小さな職場で、坑内の測量や地質調査をおこない、調査結果を図面に書きおこすことが業務でした。つまり現場作業とデスクワークが半々で、大卒の職員と高卒の鉱員が組んで仕事をするという、特殊な職場でした。高校の出席率が7割だったにもかかわらず「卒業生総代」に選ばれたほど、村上さんは賢い人でした。また知識欲旺盛で、自学自習の読書家、かつ努力の人でした。そうした彼にとって、初めて配属された〈地質鉱床課〉は、ある意味、たいへん恵まれた職場だったと思われます。仕事を通じて、彼は、後の研究テーマとなる「足尾研究」「金属鉱山研究」の基礎を学習したのですから。
 村上さんは、職場の先輩に大学の地質学教科書を借りて書き写し、分からないところは遠慮なく質問して、地質学の基礎を学びました。また業務の坑内探査を通じて、足尾銅山の地質・鉱床・鉱脈に関する詳細な知識を身につけて行きました。とりわけ、時期による採掘方法の変化を、採掘跡の実地調査によって知ったことは、後の研究に大いに役立ったと思われます。〈地質鉱床課〉の中心人物は、村上さんに読書指導までしてくれた浅野五郎副課長でしたが、後年、九州大学工学部の応用地質学教授に就任しています。この一事からも、学術的レベルの高い職場だったことが伺えます。

 職場とともに、村上さんを鍛え、とりわけその文章力を周囲から認められる場となったのは、労働組合、とりわけその文化活動でした。19歳で足尾労組の年度文化賞評論部門で一位に選ばれ、その後何年も連続して一位入賞しています。また、彼が編集長をつとめた通洞支部のガリ版機関紙『つどい』が、全日本金属鉱山労働組合連合会の機関誌コンクールで優勝したこと、さらに全鉱の機関紙『ぜんこう』に、足尾の古老からの聞き書きを連載したりなど、労働組合での諸活動を通じ、彼の文章力は周囲から高く評価されてゆきました。
 村上さんはまた、足尾労組の教宣活動の一環として労働講座を企画し、自ら木下順二、竹内好らを訪ねて講師を委嘱し、それを機に文化人との交流を深めました。人見知りしない性格や、筆まめで、頻繁に手紙を書いたこともあって、村上さんは、文化人の間で「知的な労働者」として、その名を知られるようになりました。彼らの勧めもあって、「思想の科学研究会」の会員になり、『思想の科学』にも寄稿しています。木下順二のラジオドラマ《銅山》(NHKラジオ、1953年11月27日放送)は、村上さんから聞いた話をもとに創作されたものです。



転機 ─ 『足尾銅山労働運動史』

 村上さんの生涯の転機となったのは、足尾銅山労働組合が、1956年に、組合創立10周年の記念事業として組合史の刊行を決め、その編集責任者に彼を選んだことでした。これがきっかけで、彼は足尾銅山史研究に足を踏み入れたのです。『足尾銅山労働運動史』の編纂に先立って、村上さんは塩田庄兵衛氏や私の意見を聞き、この本を足尾労組の10年史に限定せず、長い歴史をもつ足尾銅山そのものの変遷を描き、その中に戦後の労働運動を位置づけるという方針を決めたのでした。こうした計画が可能だった背景には、この頃までに、足尾銅山の戦前の労働運動に関する基本史料が発掘されていたことがありました。
 村上さんはこの本の構成を決めただけでなく、戦前編を単独で執筆し、さらに戦後編も最初の2章の共同筆者でした。執筆者は総勢4人、全員が足尾で働く鉱員でしたから、日々の業務の余暇に、690ページもの本を書き上げたのです。取材・執筆に2年余をかけ、1958年6月、『足尾銅山労働運動史』は刊行されました。

 戦前編を執筆するために、村上さんは足尾暴動の中心人物である南助松・操夫妻をはじめ、京谷周一、小山勝清、高橋長太郎ら戦前の運動関係者を訪ねて、貴重な証言を得ています。この前後には、数多くの組合史が刊行されましたが、その中で、この『足尾銅山労働運動史』は、文句なしにトップレベルの出来栄えでした。刊行前から市販することを決め、予約募集をしたのも、一事業所の労働組合史としては異例のことでした。

 第一稿が完成した段階で、塩田庄兵衛氏と私は足尾に招かれ、泊まり込みの検討会に参加しました。1957年5月のことです。6日にわたり(注)、午前中はガリ版で印刷された草稿を読み、午後に意見を述べたのです。今でも私は無遠慮なもの言いをする傾向がありますが、その時も、かなり批判的なコメントをしました。もともと現場の労働者である筆者の皆さんは、「とても書き直しは無理だ」とお手上げ状態で、結局、改稿は村上さんが一手に引き受けたようです。この他にも、この本の制作過程で、私は村上さんの力量を知る機会がありました。それは戦前編の執筆に先立ち、私が個人的に所有している足尾関係の諸史料を見るために、彼が我が家を訪ねて来た折のことです。宇都宮検察庁から借り出した警察・検察関係の記録は、全てマイクロフィルムの形で残していたので、この日のために、私は大原社会問題研究所からマイクロフィルム・リーダーを借り出していました。このリーダーは100ワットの白熱灯を使う旧式なもので、異常な高温を発しました。冷房などない時代の真夏の夜、村上さんはその高熱にあぶられながら、徹夜でマイクロフィルムを読み続け、メモをとったのでした。その折の彼の集中力・持続力には感服しました。そうした集中力・持続力は、本業の余暇をさいて研究する人には、不可欠の能力だったに相違ありません。



フォークダンス

研究・執筆の他には趣味らしい趣味をもたなかった村上さんですが、足尾在勤中は、フォークダンスに熱中されたようです。1950年代は「うたごえ運動」とともに、フォークダンスがブームになりました。足尾も例外ではなく、1956年に、レクリエーション部が設けられ、大学で経験のある社員の指導で、フォークダンスが始まりました。彼はこれに参加し、後には会の責任者にもなっています。すらっと背の高い村上さんは、踊りの輪の中でも目立った存在だったことでしょう。何ごとでも始めるとトコトンやる性格の彼は、〈日本フォークダンス連盟〉の「二級指導者」の資格をとっています。泊まり込みの講習会を何回も受講した上で、検定を受け得る資格です。組合の仲間と、五色沼や宮古、飯坂などの全国各地のサマーキャンプにも参加して、「遅れてきた青年」の「遅れて来た青春」を謳歌されたようです。フォークダンス指導者としては、他組合はもとより、足尾高校の体育授業の講師を委嘱されているほか、足尾町の〈町民教室〉ではフォークダンスだけでなく日本民踊講座の講師もつとめています。



結婚式

 最後に、村上安正・畠山雍子ご両人の結婚について、簡単に触れておきます。お二人が知り合い、婚約するまでの経緯は、『足尾に生きる ─ 私の人生八〇年』に、かなり詳しく記されています。とても傘寿の筆者が書いたとは思えぬ、初々しい文章です。おそらく当時の日記などをもとに執筆されたものでしょう。
 結婚式は1962年3月15日、東京で開かれました。なんと塩田庄兵衛さんが仲人を、私が司会をつとめました。ともに、村上さんのたっての依頼によるものでした。出席者は総勢25人、両家の親族主体のささやかな式でした。足尾の職場の仲間は2人だけ、それもカメラマンと録音係を依頼されての参加でした。職場の上司や同僚を呼ばなかったあたりに、村上さんの生きる上での姿勢がうかがえます。



仕事と研究

 とは言え、村上さんは、職場や仕事を軽くみていた訳ではありません。1957年春に、村上さんは鉱員から職員に登用され、所属組合も労働組合から職員組合になりました。『足尾銅山労働運動史』執筆中のことです。新たな仕事は通洞坑の採鉱係員で、採鉱夫や支柱夫、運搬夫らの現場監督的な業務でした。採鉱現場は能率給の比重が高いだけに、番割りや賃金査定に関わる採鉱係員の仕事は、気苦労の多いものだったようです。その後、採鉱をサポートする通洞坑本部に移ると、残留パイプの活用や沈澱銅採取の拡大策など、彼はそれまでの経験を生かし、さまざまな工夫をこらしています。1971年末には本社機械事業部総務課に転勤となり、ボーリング機などの宣伝業務を担当します。その後も子会社に出向したり、定年後は4つの会社に再就職するなど、村上さんは75歳まで働き続け、研究はその余暇にすすめられたのでした。文字通り在野の研究者として、その生涯を送ったのです。




【注】

鉱山研究会機関誌『鉱山研究』第95号(2020年3月)に寄稿。《二村一夫著作集》への掲載にあたり、加筆訂正した。

(注) 『鉱山研究』の寄稿文では、検討会の日数を2日と記したのであるが、実際は6日間に及んだことが、『足尾銅山労働運動史』の「あとがき」によって確認されたので、訂正する。







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org