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佐方信一さんと諸先輩と私と
          『社会・労働運動大年表』

 佐方信一さんと私が出会ったのは1966年のことです。この年3月、佐方さんは労働旬報社に入社し、『日本労働年鑑』担当として、社長の木檜こぐれ哲夫さんに連れられて、大原社会問題研究所に顔を出されました。一方私はといえば、その十年も前から大原社研に出入りはしていたのですが、立場はずっと「無給の一資料整理係」でした。それが同年4月、念願かなって研究員に採用されたばかりでした。つまり、二人とも人生の大きな節目の年に出会った形です。
 実は、私と労働旬報社の関係は、その前年に始まっています。主な研究の場であった労働運動史研究会の機関誌『労働運動史研究』が、大月書店・日本評論社を経て、1965年に、同社から再刊されたからでした。同誌の編集担当者の初代は、研究会会員でもあった川崎忠文さんでしたが、ほどなく佐方さんも編集陣に加わり、すぐ主担当になりました。こうして佐方さんと私は、仕事場と研究の場の双方で、頻繁に顔を合わせる仲になったのです。

 佐方さんは、綿密で、手間ひま惜しまない仕事ぶりと、誠実で、さりげなく細やかな気配りをする人柄から、担当した著者の誰からも信頼され、愛されました。今さら言うまでもないと思いますが、若い世代のためにあえて付け加えれば、彼が編集者になったのは、著者は原稿用紙のマス目に文字を埋め、編集者は原稿を受け取りに著者の家を訪ね、時には書き上がるまで待つのが普通だった時代です。電子メールで原稿や校正刷りのやり取りまで済む今とは、著者と編集者の関係、距離感はまったく違っていたのです。当時の編集者・佐方信一の姿は、彼自身が『松尾多賀をおくる』に寄稿した「多賀夫人に学んだこと」に活写されています。(注)
 彼が受け持った著者で代表的な方は、年鑑の仕事を休んでまで携わった『大河内一男集』の大河内さんはじめ、塩田庄兵衛、松尾洋さんでしょうか。どなたもご健在なら本書にも寄稿されたと思いますが、大先輩ばかり、とても叶わぬことなので、私からご紹介する次第です。とりわけ佐方さんが全面的に担当した本は、塩田庄兵衛さんの立命館大学退職記念『京都にて』と傘寿記念の『二十一世紀へのバトン』、それに「おしどり夫婦」で知られた松尾洋さんの『松尾多賀をおくる』です。いずれも佐方さんが特に依頼された、どれも美しい私家版です。

 これら佐方さんと親交を結んだ著者のなかでも、とりわけ彼を信頼していたのは、大原研究所で私の一年先輩だった中林賢二郎さんでしょう。彼こそ、教え子だった三千枝さんを信一さんに紹介し、お二人を結びつけた仲人であることは、ご承知の方も多いと思います。中林さんは、『日本労働年鑑』が売れ行き不振から版元に継続を断られ、難航していた折に、労働旬報社を大原研究所に紹介し、自ら年鑑編集の責任者となり、たるみ切っていた編集体制を一変させ、年鑑永続の基礎を築いた方です。これはまた、旬報社と大原社会問題研究所との半世紀を超える協力関係の出発点ともなりました。私個人としては、中林さんこそ、研究所改革の中心人物だったことを特記しておきたい気持ちが強いのですが。1986年1月、急逝された中林さんのお通夜と密葬を、不慣れな私たち ─ 佐方・二村の二人 ─ で取り仕切ったことも、彼との交友における忘れ難い思い出です。

 半世紀を超えるお付き合いですから、記すべきことは多々あります。編集者・佐方信一の生涯の仕事であった『日本労働年鑑』のことは、他に語られる方が何人かおられます。ただひとつ、1985年に年鑑の装丁を一新した経緯だけは、書きとめておきたいと思います。
 この年は、年鑑担当の早川征一郎さんが留学中であったため、私が編集を担当しました。その折、つまり第56集を出す間際になって、私は佐方さんに注文をつけました。それは、従来の年鑑の装丁はあまりにも地味で、書店の棚で一向に目立たない。これを思い切って変え、「『日本労働年鑑』ここにあり!!」とすぐ分かるように、目立つものに変えて欲しいということでした。この私の注文に応じて、佐方さんが提案されたのが、函を廃止し、色つきの上質紙のカバーをかけ、派手な色の「腰巻き」で目立たせるというものでした。たしか佐方さんは「腰巻き」と呼んだと記憶していますが、今なら、品良く「帯」とか「帯紙」と呼んでいるものです。これは『日本労働年鑑』の装丁の歴史にとっては大変革でしたが、その発案者は佐方さんだったのです。

 もうひとつ、編集者・佐方信一の大きな業績として、やや詳しく書き留めておきたいのは、『社会・労働運動大年表』のことです。発端は1981年4月、佐方さんが労働旬報社を代表する形で、労働運動史研究会の中心会員だった栗田健・高橋彦博両氏と私とに、労働運動史関係の「大出版」を企画して欲しい、と依頼されたことでした。「人物評伝集」などいくつかの案が検討されましたが、最終的には『社会・労働運動大年表』と決まりました。1858年から1985年まで約130年間の日本の労働運動・社会運動の関連事項を詳しく記録し、政治・法律、経済・経営、社会・文化、国際の関連項目も加えた6欄構成、各項には出典を、重要項目には解説を付け、全4冊・定価5万8000円という一大計画でした。問題は、その作業量の途方もない大きさで、年表項目や解説の執筆には外部の協力を仰ぐとしても、原稿チェックや選択・構成など、多様な実務をわれわれ三人だけで担いきれないことは明白でした。どうしても若い方の力を借りざるを得ません。ただ、これには難問がありました。将来ある若い研究者を、数年間も、この仕事に拘束しておけるだろうか、ということです。当然、問題の解決にはお金がかかります。そこで出資者側代表でもある佐方さんと私とで話し合い、検討を重ねました。その結果、この企画を法政大学大原社会問題研究所の事業とし、協力者を「嘱託研究員」に採用すれば、彼らの経歴上にもプラスとなり、実現可能だろうとの結論に達しました。白状すれば、研究所の財団法人解散・大学との合併の時が迫っており、この際、出版社の負担で「研究員の予算枠」を拡大して置こうという魂胆もあったのです。
 かくして1983年3月、「大原社会問題研究所創立六〇周年記念」と銘打った事業が始まりました。出版完了は1987年1月、企画から足かけ7年、作業開始から4年、追われるような日々でした。もともと私立大学付属の弱小研究所にとって、これは無謀な企てでした。作業が進むにつれて、実務を担う若手研究者に、また出版社側にも、予想をはるかにこえる労苦を強いる結果となりました。完璧を期し、四校になっても赤字を入れるなどしたこともあって、刊行は遅れ、版元の財政負担も膨れ上がりました。出版社の社員であると同時に、著者側の実情も熟知していた佐方さんは、両者の板挟み状態となり、心身ともに疲れ切ったに相違ありません。間もなく彼が旬報を退社したのは、これが主原因だったと推察され、私も辛い思いをしました。

 幸い『社会・労働運動大年表』は『朝日新聞』書評欄で大きく取り上げられ、冲永賞も受賞、版元の営業努力もあって、完売・増刷されました。さらに1995年には、9年分を増補した上で、本巻を一冊にまとめた『新版・社会労働運動大年表』が完成しました。付け加えれば、この新版に付された「別冊索引」は、香取治良・佐方信一両氏による350ページの労作です。この「大年表」は、その後の旬報社・大原研究所共同の「大企画」の基礎となり、両者のそれぞれに、大きな財産として残りました。多くの方の協力を得て完成した事業ですが、その功労第一は、佐方さん、貴方です。

 私が研究所を辞めた後も、彼は私を友人として親しく付き合ってくれました。それに甘え、『労働は神聖なり、結合は勢力なり ─ 高野房太郎とその時代』の入稿直前の原稿を読んでいただいて感想を聞いたり、個人サイト《二村一夫著作集》に掲載している多数の論文を校正していただきました。今にして思えば、熟達したプロの技を安価に利用した形で、ちょっと申し訳ないことでした。発病後はお目にかかる機会はありませんでしたが、何回か電話でお元気な声を聞いていたので、突然の訃報に驚きました。佐方さんの葬儀は、偶然、研究所の「創立一〇〇周年・法政大学合併七〇周年記念集会」の日と重なり、私にとって忘れ難い日がまた増えました。




  佐方三千枝編『ひたすら生きて ─ 佐方信一 ある日ある時』2020年3月、旬報社刊、非売品)に寄稿。同年7月、本著作集掲載に際し、加筆。なお、この追悼文集は、2020年10月、労働旬報社で佐方さんの後輩であり、文集の編集実務を担当されたお一人である飯島信吾氏により、同氏が運営する「インターネット事業団」のサイト内に、全文がpdf版で公開された

【注】 裏方に徹した佐方さんが署名入りで執筆した数少ない論稿のひとつ、「多賀夫人に学んだこと」は、前掲『ひたすら生きて ─ 佐方信一 ある日ある時』に収録されている。181ページ、pdf版では91コマ目。






Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org