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多摩移転前後の大原社会問題研究所──1982〜1993年

はじめに──激動の10年

 大原社会問題研究所が多摩校地へ移転したのは、経済・社会両学部の移転から2年後の1986年3月であった。しかし、研究所の移転が問題となったのは、それより4年も前のことである。そこでこの機会に、1980年代初頭以降、つまり大原研究所移転問題が急浮上した直前から、研究所が歩んだ道筋を振り返っておきたい(注)
 1980年代は、4分の3世紀におよぶ研究所の歴史の中でも、大阪から東京へ移転した30年代に次ぐ激動期であった。この10年間に研究所は2回の移転を経験し、さらに組織面でも大きな変化をとげたのである。
 研究所移転という文字通りの〈激動〉の第1回は81年3月であった。この時、研究所は、それまで四半世紀余の間、事務所をおいてきた53年館(大学院棟)の5階事務室を引き払い、また図書資料を一般の閲覧に供するために設けていた麻布分室からもすべてを移して、新築なった80年館に本拠を得たのである。2回目の移転はそれからわずかに5年後のことであった。
 組織面での〈激動〉は、財団法人法政大学大原社会問題研究所として法的には法政大学とは別法人であった研究所をいったん解散し、所有財産を法政大学に寄付し、名実ともに法政大学の付置研究所へとその性格を改めたことである。この改組が完了したのは多摩への移転と同時の1986年4月であった。


研究所改革への圧力と改革方針

 大原研究所の多摩移転と付置研究所への改組は、最終的には研究所が自主的に選択したところである。だがこの決定に際して、外部の強い〈圧力〉が加わっていたことも、また事実である。すなわち研究所の多摩移転の発端は、1982年10月、すでに移転を決定していた経済・社会の両学部から「大原社会問題研究所の移転・改組に関する要望」書が提出され、文書で回答を求められたことによるものであった。この要請を受けたのは研究所が80年館へ移転した直後のことで、実のところ所内の誰も再移転など予想もしていなかった。当時はまだ全学部が多摩校地に移転する計画が生きており、その際、研究所は富士見地区に残り、施設面でも大幅な拡張の可能性があるやに伝えられていた。とりわけ大原研究所は学外の利用者が多く、その点からも大原の多摩移転は問題外であると考えられていた。
 一方、研究所の組織変更はかねてから所内で検討されていたが、これについても外部からの〈圧力〉があった。そのひとつは他ならぬ経済・社会両学部からの要請である。両学部は、移転要請と同時に「既存の研究活動を見直し、社会的要請の強い新しい研究活動を開始」すること、「研究所所蔵図書の利用方法についてより改善」すること、「研究員体制をより充実」し「学部スタッフの参加を一層進めること」(経済学部)、「全学的な研究活動推進の場として機能を充実する」(社会学部)ことなどを求めていたのである。
 もっとも大原社研の改組問題は、両学部の要請に先だつ1981年には、別の形ですでに問題となっていた。すなわち、同年夏に会計検査院の監査がおこなわれた際、財団法人大原社会問題研究所と法政大学の付置施設である社会労働問題研究センターとの関連が問題にされ、その解決を約束させられていたのである。もともと〈社会労働問題研究センター〉は、大学所蔵の協調会文庫と大原社研の蔵書を統一的に利用する機関であったが、設立の契機は私学に対する経常費助成において財団法人法政大学大原社会問題研究所が対象外であったため、その対策としての側面をもっていた。大原社研の専任者はすべて同センターにも所属し、給与をそこから支払われることで経常費助成を受けたのである。その二重組織性は明白で、問題解決には助成を返上するか、財団法人を解散するかのどちらかを選ぶほかなかった。実際上は、独立の財団法人といってもその経費の大部分を法政大学からの寄付金でまかなっていた研究所としては、解散しか道は残されていなかった。
 このように、研究所の組織変更は〈外圧〉によるところが小さくはなかったが、同時に研究所改革については、1960年代後半から研究所内部でしばしば問題となり、さまざまな改革案が検討されていた。現に、改革案策定の準備作業として、研究所がおかれている現状を把握するため、70年代初めから全国の主要大学の付置研究所の調査を実施し、世界各国の社会・労働関係の研究所や文書館の視察をすすめていたのである。そうした調査結果をふまえ、研究員会議や職員をふくめた所員会議の場で、研究所の改革問題が論議された。その結果、研究所再生の基本方針としてほぼ意見の一致をみたのは、つぎの2点であった。
 a) 開かれた研究所となること
 b) 三流デパートでなく、専門店のトップをめざすこと
ではこの2つの方針がいかなる背景のもとで決められ、またどのように実行に移されていったかを見ていこう。


開かれた研究所をめざして

 「大原はもっと開かれた研究所になるべきだ」とは、かねてから、多くの人によって指摘されていたところであった。こうした批判をまねいた研究所の閉鎖性は、その歴史や人間関係などさまざまな要因が絡みあっていた。だが、最大の原因は、財団法人の憲法ともいうべき〈寄付行為〉が、研究所の仕組みを自己完結的なものにしていたからであろう。つまり、研究所の運営にあたる〈理事〉は評議員の互選によって任命され、その〈評議員〉は「理事会の議決により理事長が委嘱する」規定であった。役員は再任を認められ、いったん役員になると、自ら退任を望まない限り、その地位に留まることが可能であり、また慣行上もそのように運営されていた。この仕組みのもとで、1946年に常務理事、49年に所長となった久留間鮫造博士は、1966年に退任するまで20年の長きにわたって、研究所の運営にあたられた。また、その後の約20年間は、久留間所長のもとで理事の職にあった3人の兼担研究員が、ほぼ2年交代で所長を務めていた。このように、40年近く、ほぼ同じメンバーからなる理事会によって研究所が運営されてきたことが、組織を閉鎖的にしただけでなく、活動を現状維持的にしがちであった。同時にまた、大原研究所は、一部の人びとだけの特権的な組織であるとの批判をまねく原因ともなっていた。
 もちろん、この間、研究所がつねに現状維持的だったわけではない。とくに1968年に第1巻を刊行した『マルクス経済学レキシコン』は、所長退任後の久留間博士を中心に、多数の研究者の協力によって始められた大事業であった。また、その翌年1969年には、創立50周年記念事業として研究所所蔵の貴重な資料を復刻する《日本社会運動史料》の刊行が開始された。さらに、日常の研究活動などについては、理事会より研究員会議で協議決定するようになるといった、運営面での改革もはじまっていた。
 研究所改革は、直接的には外圧への対応策として、余儀なく実行された側面があるとはいえ、研究所内部でも改革の動きはさまざまな形で進んでいた。それを端的に示したのは、1982年3月に起きたひとつの事件である。それは、研究所理事会が病気入院中で退院後も長期の療養が予想された理事を次期所長に選任したことに対し、専任研究員・専任職員のほぼ全員が一致して反対し、ついにこの決定を覆したことであった。これによって、2年ごとの所長輪番体制は終わり、理事会中心の運営から実際に業務をになう専任所員中心の運営へと変わったのである。こうしたことが可能であったのは、所長の選任に当たっては、あらかじめ専任研究員・専任職員の意向を問うことが、70年代はじめの研究所改革の討議のなかで決定されていたからであった。会計検査院の指摘や、社会・経済両学部からの申し入れは、こうした内部での研究所改革の動きを促進し、制度的に確定したものであった。
 1983年6月、大原社会問題研究所の理事会および評議員会は、多摩移転を機に財団法人を解散し、法政大学の付置研究所とする方針を決定した。それを受けて、1986年3月に〈財団法人法政大学大原社会問題研究所〉は解散し、同年4月から法政大学の付置研究所としての大原社会問題研究所となったのである。この改組は、研究所の〈閉鎖性〉を解消する上で、画期的な意味をもった。これ以後、所長の人事をはじめ、研究所の運営に関する重要事項は、学部の教授会に相当する運営委員会によって決定されることになった。運営委員には、研究所の専任研究員のほか、関連学部の教員の間から選任された7人の兼担研究員が就任した。兼担研究員・運営委員の任期は2年であり、改選期ごとに新たな委員が加わることで、それまでの自己完結的な役員選任の仕組みは改められた。
 これと同時に、研究スタッフとして、これまでの専任研究員と兼担研究員に加え、兼任研究員、客員研究員、嘱託研究員という新たなタイプの研究員の制度が設けられた。また、研究員の総数はそれまでの10人前後からいっきに50人余へと、大幅に増加した。なかでも移転後の研究所にとって大きな戦力となったのは兼任研究員である。これまで3人の専任研究員と2、3名の嘱託によって担われてきた事業に7人の若手研究者が兼任研究員として参加したことで、研究所の活動は活発化し、《戦後社会運動資料》など新たな事業をはじめることが可能になった。
 また、専任研究員だけでなく、兼担研究員、兼任研究員を中心に、学外の専門研究者を組織して、新たな研究プロジェクトがつぎつぎに生まれた。これらの研究プロジェクトの設定にあたっては、研究員個々人の自発性が尊重され、予算もあらかじめ固定するのでなく、実績に応じて配分する方針をとった。これに先立つ1984年には、それまで専任研究員と兼担研究員が交代で執筆した論文1本を中心に編集してきた『研究資料月報』の改革がはかられた。表紙の色を改め、紙幅も増して外部筆者の論稿も掲載するようにしたのである。さらに研究所の移転改組を機に、これを『大原社会問題研究所雑誌』と改題し、これを〈開かれた研究所〉としての活動の中心とする方針をとった。そこで目指したのは、この研究所機関誌を単なる紀要にとどめず、社会労働問題に関する専門誌とすることであった。このため、外部の研究者の投稿を積極的に掲載し、発売も法政大学出版局に委託して市販することとした。この計画は直ちに実行に移され、1986年4月、第329号から体裁を一新した『大原社会問題研究所雑誌』が書店の店頭に並んだのである。これは、研究所がより開かれたものであることを多くの人に知らせる上で大きな意味があった。
 また、開かれた研究所をめざして、内外の研究機関との組織的な交流を強化した。海外とは、国際労働史研究機関協会(International Association Labour History Institutions=IALHI)を通じて、世界各国の労働関係の図書館・文書館と日常的な交流がある。また、国内では経済資料協議会、社会労働関係資料センター連絡協議会(労働資料協)の諸機関と交流している。とくに労働資料協は1986年の創立以来、本研究所が事務局を担当している。
 このように、研究所がその閉鎖性を脱し、より多くの人びとの研究に役立つ機関となるよう意識的に努力した結果、研究所の存在価値が増しただけでなく、それによって生まれた研究成果は、研究者個人の成果というだけでなく、研究所の成果としても評価されることになった。このほか、研究者だけでなく、一般の人びとに対してもより開かれた研究所となることをめざし、80年以降、毎年、公開シンポジウムを開催するようになった。とくに多摩移転後は、毎年のILO総会と関わるテーマをめぐってシンポジウムを開いている。このILOシンポは、兼担研究員で現所長の嶺学社会学部教授の献身的な努力で継続している。なお、本シンポジウムについては、毎年、ILO東京支局および日本ILO協会の後援を受け、労働省、連合、日経連など政労使の各機関団体の熱心な協力を得ている。


 

個性ある研究所をめざして

 「三流デパートでなく、専門店のトップを」という方針を決めた背景には、1970年代に実施した調査によって得られた、日本の私立大学の付置研究所についての次のような認識があった。
 日本の私立大学、とりわけ大規模私大に付置された研究所には、大別して2つのタイプがある。そのひとつは総合研究所、いわばデパート型の研究所で、主として学部教員の研究活動の場として設けられている。もうひとつは、分野を特定し、研究所独自の活動に重点をおく研究所である。デパート型の研究所に要請されることは、いわば機会均等である。つまり、全学の教員が平等に参加する機会を保証する研究テーマの設定と、予算配分の公平である。研究所の名称が「社会科学研究所」や「人文科学研究所」、あるいは「総合研究所」といった、広い研究対象を包括しうるものとなっているのもそのためである。社会科学研究所、あるいは人文科学研究所といえば、東大や京大の研究所と共通する名称である。ただ、これら国立大学の研究所が、ともに専任研究員数十人、専任職員をあわせると3桁前後のスタッフを擁し、文字通り総合研究を実施しうる実体を備えているのに対し、私立大学の研究所の場合は、専任研究員がいないか、置いても数名、専任職員も2、3名前後から専任者ゼロという事例が多い。要するに、名前は研究所でも、その実態は、研究費の配分組織に過ぎない場合が少なくない。この類型の研究所は、一般に個性に乏しい。なぜなら、研究成果は、研究所の成果というより、研究を担当した教員個人の成果となるからである。もちろん研究所としての研究成果を重視し、共同研究を組織する研究所も少なくない。しかしその場合も、大学構成員に平等な研究機会を与える方針をとるため、頻繁に研究テーマを変更せざるをえない。また、建て前の上では「学部の枠を超えた共同研究の場」であっても、テーマ設定に当たっては、事実上中心となる学部が生まれ、結局は学部回り持ちによってテーマを決めることになりがちである。このため、ともすれば研究テーマの設定に一貫性を欠き、研究所としての個性が生まれにくい。個性の欠如は、研究所の所蔵図書資料の構成にも反映する。研究テーマの変更にともない、収書の重点が頻繁に変るため、その蔵書構成に一貫性を欠くからである。
 もうひとつのタイプは、その大学が単なる教育機関にとどまらず、研究機関としても活動していることを外部に象徴的に示す、いわば〈ダイヤモンドの指輪〉的な研究所である。
〈ダイヤの指輪〉型の研究所は、第1類型の研究所に比べ、数は少ない。もともと研究所は、それ自体の活動で収入をあげうるものではなく、したがって、財政面だけで見れば、研究所は大学にとっては無駄、というよりむしろマイナスである。また、研究所をもたなければ、大学が成り立たないわけではない。
 ただ、現在のように、全国に多数の大学が存在するとき、〈一流大学〉であるためには、研究所の存在は不可欠である。〈最高学府〉としての大学は、教育だけでなく、研究機能も要求される。もちろん大学での研究は、研究所がなくとも可能である。むしろ、一般の学部教員がどれほどの研究成果をあげているかが、個々の大学の研究水準を示すであろう。
しかし、教員各人の研究水準を、社会的客観的に評価することは容易ではない。これに対し、優れた研究所の存在は、そのままその大学の研究水準の高さを端的に示すものとなる。さらにいえば、ある大学が、財政的には〈無駄〉といってよい研究所をもつ〈ゆとり〉があることは、その大学が〈一流大学〉であることの証となる。つまり、研究所は〈大学〉が真に研究機関としても機能している〈一流大学〉であることの、重要な指標の一つである。
 さらに大学が、その大学構成員の研究活動を援助するだけでなく、学界全体に貢献しうる研究機関を擁することは、その大学の教育研究水準の高さを示す証左となる。大学の付置研究所には、そうした最高学府の〈看板〉としての機能、〈ダイヤの指輪〉としての機能も期待されているのである。研究所が、こうした存在となるには、何より強い個性をもつこと、あえて言えば、目立つ必要がある。それも学内で目立つよりは、学界全体に、さらには社会全体に、あるいは国際的にその知名度を高めることが重要な意味をもっている。
 大原研究所が、〈ダイヤの指輪〉としてどれほどの輝きを見せたか、また見せているかは、所外の判断をまちたい。ただ、大原社会問題研究所の存在は、法政大学にとって、財政的には大きな負担であるに違いないが、同時にその歴史と潜在的な可能性を考慮に入れれば、貴重な財産であることも確かである。
 とりわけその歴史はかけがえのない価値をもっている。それはいうまでもなく、大原社研が社会科学系の研究所としては日本最初の研究機関であった事実による。いま私立大学の付置研究所は数百をこえるが、その中で百科事典や国語辞典、あるいは年表類に、単独項目で取り上げられているのは大原研究所だけである。いかに大金を投じても75年の歴史を作るわけにはいかず、その意味で大原社研の存在は大きい。
 もちろん、研究所はただ長い歴史をもてば、それで価値があるわけではない。それが、その歴史にふさわしい活動を展開してこそ、その価値は生きるのである。その点で、戦後の大原研究所が不十分だったことは否めない。戦前の研究所が、学界で、また社会的にもきわめて高い評価を受けていたのに比べ、地盤沈下が著しかった。それもある意味では当然で、戦前期の大原社研は、ほかに社会科学系の研究所がまったく存在していないところで、一般には研究テーマとして選び難い社会・労働問題を研究することで、高い評価を得ていたのである。
 これにひきかえ、戦後は、社会・労働問題に関するタブーはなくなり、多くの大学や研究機関で、つぎつぎと優れた研究成果が生まれていた。一方、大原研究所の方は、戦前以来の研究員はさまざまな社会的要請から研究所を離れ、少数のスタッフにより、『日本労働年鑑』と『資料室報』の発行だけで手いっぱいの状態が続いたからである。
 「三流デパートより専門店のトップを」めざす方針は、こうした状況判断から生まれたものであった。そして、この方針の実現に向けて設定した具体策は、以下の通りである。  1. まず何より、長い歴史のなかである程度蓄積のある部分を生かし、強化すること。その第1は、社会労働関係の専門図書館・資料館として、その蔵書構成をさらに充実させ、また労働関係の文献情報センターとして機能させることであった。そのために、この十数年の間に実行したのは、以下の通りである。
   a) 図書資料コレクションを積極的に受け入れること(向坂文庫、国鉄労働組合所蔵資料、村田陽一文庫など)。
   b) 所蔵資料の内容の優秀性を示すものとしての復刻事業。
   c) 他の研究所には出来ない事業として、1960年から編集を続けている「労働関係文献月録」をデータベース化すること。
 2. 1919年の創立直後から編集刊行をつづけ、研究所の名を世間に知らせてきた事業である『日本労働年鑑』の改善・充実をはかること。これについては、第57集から、それまでの3部構成を5部構成に変更したのをはじめ、1987年から収録期間を暦年へ改めたほか、編集体制の強化もはかった。  3. 『日本労働年鑑』以外にも、大原社研の財産となる刊行物を出すこと=この方針を具体化したのが『日本社会運動史料』(既刊204冊)であり、『社会・労働運動大年表』全4巻(第1回冲永賞受賞)であり、『戦後社会運動資料』である。  4. 『大原社会問題研究所雑誌』を研究所の活動の中心とし、これを単なる一研究所の紀要にとどめず、社会・労働問題分野における専門研究誌へと脱皮する。これにより、広く研究所の名を研究者の間に知らせる。


コンピュータ導入

 以上述べた他に、この10年で大原社会問題研究所を大きく変貌させた2つの問題、すなわちコンピュータの広範な使用と、国際交流について記録にとどめておきたい。
 この10年間、専任研究員・職員はまったく増員されなかったにもかかわらず、大原研究所が、『社会・労働運動大年表』の編集刊行、〈労働関係文献データベース〉の作成、『大原社会問題研究所雑誌』の改善、向坂文庫の受け入れ、《戦後社会運動資料》の編集刊行など、つぎつぎと新たな事業を始めることが出来たのは、兼任研究員、臨時職員の援助によるところが大であると同時に、諸業務の処理にコンピュータを積極的に導入したからである。といっても、予算の制約から、汎用コンピュータはおろかワークステーションの使用も不可能で、すべてパソコンによった。しかもその購入は科学研究費など外部資金に大きく依存したのである。すなわち、大原社研が第1号のパソコンを導入したのは1984年7月、文部省科学研究費の交付を受けて実現したものであった。
 さらに、研究所がコンピュータ活用について大きく飛躍したのは、1988年に開始した《労働関係文献データベース》の作成を契機としてであった。これは同年から3年間、私学振興財団の〈学術研究振興資金〉の助成を受けて始まった事業で、各年度1000万円、合計3000万円の予算が投入された。その後も、文部省の科学研究費などの助成を受け、6年余の歳月をかけて、ようやく本データベースは実用段階に入った。現在では、電話回線を通じて1日24時間、オンライン検索が可能になっている。〔本稿執筆後の1997年からは、インターネットを介して世界中からアクセス可能なデータベースとなっている〕。
 この労働関係文献データベースは、学内外の研究者によって利用されているだけでなく、少なからぬ数の学生が利用するようになりつつある。注目すべきは、このデータベースそれ自体が情報検索手段として有用であるだけでなく、本データベースの作成作業が、研究所全体の業務処理能力を大幅に向上させた事実である。データベースの作成に直接かかわった職員はもちろん、他の業務に従事する職員や研究員までもが、コンピュータの操作に習熟し、これによって、各種業務の能率が格段に向上した。データベース作成は、それ独自の作業はもちろんあるが、同時に研究所の他の業務と有機的な連関をもって進めざるをえない。日常購入した図書の整理や向坂文庫はじめ諸文庫の整理、さらには《労働関係文献月録》の作成など、いずれもデータベース作成と密接な関連をもって実行されている。それ以外でも、『日本社会運動史料』『戦後社会運動資料』などの資料集の索引作成、『日本労働年鑑』や『新版 社会・労働運動大年表』の編集作業、さらには庶務的な業務まで、コンピュータを使って進められている。今では、研究所の業務でコンピュータと無関係に処理されているものはごく限られており、ほとんど全職員、全研究員がコンピュータを使用して業務をおこなっている。
 なお、1994年度から、将来の研究所の検索システムを開発する意味あいもあって、パソコンによるマルチメディア・データベースに関する研究について、文部省の科学研究費(一般研究A)が認められ、4年間で総額1320万円、初年度は700万円が助成されることになった。また。〈労働関係文献データベース〉の作成についても、1991年度から文部省科学研究費の〈研究成果公開促進費〉が認められ、1995年度は356万円が助成された。図書については、カードによる検索をやめ、コンピュータ検索に移行する日が近づいており、すでに94年12月登録分をもって目録カードの作成は中止した。ポスターやビラなどその他の資料類についても、近い将来コンピュータによる検索へ移行することになろう。このマルチメディア・データベースに関する研究は、その第1歩である。なお、このマルチメディア・データベースの将来的な目標としては、未刊行資料を画像情報としてオンラインで利用可能にすることが考えられている。


国際化の進展

 国際交流の窓口として、研究所は、学部にくらべいくつかの利点をもっている。学部の場合は、いかにすぐれた研究者を擁していても、その特色は外からはなかなか分かり難いが、研究所はその名称や刊行物によってその専門分野が比較的容易に理解されうる。とりわけ大原研究所は、その75年の歴史と、『日本労働年鑑』『大原社会問題研究所雑誌』などの編集刊行を通じて、その名は外国の研究者にもよく知られてきた。さらに、長年かけて収集した貴重な資料を大量に収蔵していることも、利用者の資格を問わない公開の閲覧室を設け、《日本社会運動史料》の復刻を続けたことにより、しだいに広く知られるにいたったのである。とくに、70年代後半以降、日本の労使関係が外国の研究者や実務家から注目されるようになると、諸外国の人びとが研究所を訪れる機会が増えていった。なかには、ここを研究の本拠とし、学者として一人立ちしていった人も生まれはじめた。富士見校地では、外国人研究者のための研究室を設けることはできなかったが、多摩移転にともない客員研究員室を設けたため、研究条件が整い、留学希望者は急増した。移転後に、1年以上の長期にわたって大原社会問題研究所の客員研究員として、研究をおこない、あるいは現在も研究を続けている研究者は、次の10人に達している。
 Michael Gibbs(カリフォルニア大学バークレー校), Andrew Gordon(デューク大学),Bettina Post=Kobayashi(ドイツ日本研究所),Ute Schmidt(ボン大学),洪仁淑(梨花女子大),Luis Alberto Di Martino(メキシコ大学), David Lohrenz(ウイスコンシン大学),Elson E. Boles(ニューヨーク州立大ビンガムトン校)、王少鋒(中国・包頭日報記者)、Emmanuel Ezeigbo(フィリピン・サントトマス大学)、。
 この他にも、数日から数カ月間、大原社会問題研究所を本拠として研究をすすめた研究者は、日本学士院の客員である Thomas C. Smith 教授(アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校)をはじめ、多数にのぼっている。
 こうした外国人研究者が、大原社会問題研究所での研究成果を著書として発表する例も増加の一途をたどっている。80年代後半以降のものだけ、例示しておこう。なお、最後の2書は、アメリカの東アジア史に関する優秀図書1点に与えられるジョン・フェアバンク賞の授賞作である。
Germaine A. Hoston Marxism and the Crisis of Development in Prewar Japan, Princeton University Press, 1986.
Paollo Calvetti The Ashio Copper Mine Revolt(1907), Istituto Universitario Orientale, Napoli, 1987.
Sheldon Garon The State and Labor in Modern Japan, University of California Press, 1987.
Thomas C. Smith Native Sources of Japanese Industrialisation, 1890-1920, University of California Press,1988.
Michael Weiner The Origins of the Korean Community in Japan:1910-1923, Manchester University Press, 1989.
Dean Kinzley Industrial Harmony in Modern Japan;The Inovation of a Tradition, Routledge, 1991.
Miriam Silverberg Changing Song-The Marxist Manifestos of Nakano Shigeharu, Princeton University Press, 1990.
Andrew Gordon Labor and Imperial Democracy in Prewar Japan, The Universityof California Press, 1991.

 このほか、89年11月には、研究所の創立70周年を記念して、大原社会問題研究所として初の国際シンポジウム《外国人労働者問題と労働組合》を開催した。このシンポジウムは、研究員・職員一体の取り組みにより、会合そのものとして成功しただけでなく、従来あまり交流のなかったフランス、オーストラリアの研究機関や西ドイツ、オーストラリアの労働組合との間で友好的な関係をつくりあげた点でも有意義なものであった。
 また海外での国際会議に招かれる事例もこの10年間で急増し、専任研究員はアメリカ、ドイツ、オーストリア、イギリス、オランダ、フィンランド、韓国、オーストラリアなど、世界各地で開かれた国際会議に参加し、報告をおこない、討議に参加した。その成果の一部は、以下の4点の図書に収められ、刊行された。
Marcel van der Linden & Jürgen Rojahn (ed.) The Formation of Labour Movements 1870-1914:An International Perspective Vol.II, Brill, Leiden, 1990.
Glemm Hook & Michael Weiner (ed.) The Internationalization of Japan, Routledge, 1992.
Klaus Tenfelde (Hrsg.) Sozialgeschihite des Bergbaus im 19. und 20. Jahrhundert C.H.Beck'sche Verlagsbuchhandlung, München, 1992.
Jim Hagan & Andrew Wells(ed.) Industrial Relations in Australia and Japan Allen & Unwin, 1994.


多摩移転のプラスマイナス

 先に述べたような改革を進める上でも、研究所の多摩校地への移転は、決定的に重要な意味をもっていた。いかに研究分野を限定し専門店に徹するにしても、その分野でのトップを目指すには、それなりの物的条件の整備が不可欠だからである。所内に多少の異論はあったものの、研究所が最終的に多摩校地への移転を決意したのは、80年館では、施設面での行き詰まりが目に見えていたからである。移転直後に書庫はすでに満杯で、別個に保存書庫を確保せざるをえない状態であった。こうした状況では、蔵書構成の充実なども物理的に不可能なことは明白だった。
 多摩校地に移転したことで、大原社会問題研究所は、その長い歴史のなかでも、もっとも広く、また充実した設備をもつことができたのである。総面積2200平方メートル、うち書庫部分は1400平方メートルの広さがあり、図書換算で最大40万冊を収容する容量をもつにいたった。また、地下3階の書庫は事務室と専用のエレベーターで結ばれ、80年館の地下書庫のように、利用者の入庫検索に職員が立ち会う必要がなくなった。また、地下書庫の一部には、電動式の集密書架が設置され、収容力を増していた。また、これまで、兼任研究員や臨時職員へは、業務に必要な机すら準備できなかったが、多摩校地図書館研究所棟では、曲がりなりにも共同研究室を設けることができ、事務室も臨時職員が執務するのに必要なスペースをとることができた。閲覧室や客員研究員の部屋など、開かれた研究所には不可欠の部屋も設けることができたのである。
 多摩移転にともなうもうひとつの大きなメリットは、優秀な臨時職員に恵まれたことである。市ヶ谷地区の研究所が臨時職員の頻繁な移動に悩まされているのに対し、大原社会問題研究所は、移転以来、高い能力をもつ臨時職員を、夏期休暇中の雇用中断というマイナス要因をもつにもかかわらず、継続的に雇用することが出来ている。周辺にかなりの規模の団地があり、しかも良好な雇用機会が少ないことが、こうしたことを可能にしたのである。

もちろん、多摩移転によるマイナスの影響もいくつか生じた。いずれも、交通の不便とかかわるもので、都心から1時間前後も電車に乗った上に、時刻表通りの運行が期待できないバスを使わざるをえないことが問題であった。このため閲覧室の利用者は大幅に減少した。80年館時代には、年間1000人を越えていた閲覧者は、移転後はいっきに3分の1程度に減少した。また、研究会を開くのに多摩では参加できない人が出るため、市ヶ谷校地を使わざるを得ず、そうなると仕事を早めに切り上げ、2時間前には研究所を出ないと間に合わないこともしばしばである。
 しかし、多摩移転のプラスマイナスを計量してみれば、全体としてはるかにプラスであったことは明瞭である。多摩移転によって研究所が現在のように物的に整備されなければ、大原社研がその閉鎖性を克服して開かれた研究所に脱皮し、今日のように活発な活動を展開することは不可能であったろう。研究所が大学の付置研究所となってから、大原社会問題研究所は、急速に研究分野を多様化させ、研究所の名で出す出版物を質量ともに増大させ、図書資料の収集規模を広げ、その活動を国際化させるなど、あらゆる部面で飛躍した。こうした発展は、組織改革とともに多摩校地への移転の決断がなければ、実現不能であったに違いない。


問 題 点

 以上述べてきたところは、主としてこの10年間の大原社会問題研究所の変化である。ことによると、過去に問題はあったが今では順調に活動していると自己評価しており、自画自賛ではないかとの印象をもたれる向きもあるかも知れない。もちろん、そうではない。以下に述べるように、さまざまな問題が未解決であり、解決のめどさえたっていないものも少なくない。さらにいえば、個別的な問題ではなく、本研究所がこれまで4分の3世紀にわたって築き上げてきた労働問題を中心とする研究所という、いわば研究所の個性が、近年における社会的な変化に対応しきれず、その存在意義を問われる事態になっている。その意味でも、研究所は今まさに転機に立たされている。
 ただ本稿で、そうした問題まで論ずる余裕はないし、筆者はその任でもない。ここでは、直面している個別的な問題についてのみ指摘して、結びに代えたい。

1)人事政策について
 研究所が現在かかえている問題のなかでも大きいのは、研究員や職員の人事に関することである。全般に、業務量にくらべ人手不足の傾向は覆いがたい。しかしそれ以上に大きいのは、研究スタッフの固定化、高齢化にともなうマンネリ化、活力の低下である。研究員、職員を問わず、研究所の将来を担う人材の養成についても見通しは明るいとはいえない。もっともこの問題は、当研究所だけでは解決しえない点が多いのではあるが。
 a) 研究スタッフについて。現在、『大原社会問題研究所雑誌』、『日本労働年鑑』、《日本社会運動史料》《戦後社会運動資料》などの復刻といった研究所の主要業務を担っているのは、主として専任研究員3人と兼任研究員7人である。このほかにも、選書、データベースなど、専任研究員が関与する部面は小さくない。しかし、研究スタッフがこうした日常業務に追われているため、本来の任務のうち重要な研究プロジェクトを組織化し、活発な研究活動をすすめる点で非力であることは否めない。とくに大きな問題をかかえているのは専任研究員である。定員がわずかに3人であること、うち2人はすでに25〜30年もの長期間にわたって固定化しているため、マンネリ化、高齢化にともなう活力の低下は否定しがたい。学部教員との間で、期間を定めて交流する〈出向制度〉を設けるなど、制度的な解決を考えなければならないであろう。
 さらに専任研究員は、研究所の国際活動を支える上でも重要な責務を負っている。研究所の将来を考えると、まだ留学経験のない研究員には、できるだけ早くその機会を与える必要がある。だが、この10年間で事業を拡張しすぎた結果、いまの業務量を専任研究員2人で処理することは不可能で、何らかの特別措置を構ずる必要がある。

 b) 兼任研究員制度も、その本来の主旨は、研究所の業務を担う人手を確保すると同時に、法政大学出身の若手研究者を育成し、より安定したポストを得させるため、研究経歴としてプラスに働くことを意図していた。しかし、現状はしだいにその本旨から離れつつある。この制度については、近い将来、根本的な見直しを迫られることになろう。
 関連して、次代をになう若手研究者の育成も、大きな問題である。これについては、研究所が大学院教育に関与し、大学院生を特別研究員などとして研究所の活動に加えることを検討すべきであろう。また、大学院だけでなく、学部段階での教育にも研究所がもっと積極的に貢献することも重要であろう。

 c) 専任職員の場合は、かねて懸念していた世代交代については、大学当局の理解もあって、これまでのところ大きな問題はなく、比較的スムースに進んできた。しかし、将来を考えたとき、ここでも問題は大きい。なぜなら研究所職員の業務は、資料整理、図書整理、データベース作成など、高度な専門性を要求される仕事が多い。しかし、これまでのところ、法政大学の人事政策は、短期間の現場経験でどの職場のどの仕事でもこなしうるゼネラリストの採用・育成を基本としている。いいかえれば、専門性の高い業務を担う人材を訓練し、その専門性にふさわしい処遇をおこなう体制をもっていない。この問題は大原研究所だけでは解決しえないし、アーキヴィスト養成などは、法政大学だけでも、解決が困難である。いずれにせよ、現在進められている職員制度の検討のなかで、今後ますますその必要性が高まると予想される専門職の処遇に配慮し、長期的・計画的に育成を図る必要があろう。また、過渡的には中途採用によって、必要な人材を確保することも検討すべきであろう。

 d) 臨時職員について、大原研究所は、多摩移転以後すぐれた人材に恵まれてきた。7万冊にのぼる向坂文庫の整理、労働関係文献データベースの構築、《戦後社会運動資料》の刊行など、年々拡大する業務に対応できたのも、臨時職員の力によるところが大きい。しかし、「臨時職員は一時的な繁忙期に対応するために雇用する」との建て前にたつ大学側の方針と、日常的な業務も臨時職員に依存せざるをえない実態との矛盾は、さまざまな問題を引き起こす原因となっている。とりわけ契約期間が短期で、たえず更新を余儀なくされることは、臨時職員の立場を不安定にすると同時に、大学側にとっても、業務に習熟した人材を確保することを難しくする原因となっている。法政大学の画一的な人事政策の問題は、この部面でも、改革を必要とすると考える。

 2) 未整理図書・資料の問題
 この20年来、大原研究所は、毎年、大量の図書・資料のコレクションを受け入れてきた。さいわい多摩移転により広い書庫を確保できたことが、こうした受け入れを可能にしてきた。
 しかし、限られた数の職員でいくつものコレクションを受け入れてきたため、未整理図書・資料を膨大にかかえる結果になった。専任職員を中心に臨時職員の力をかりて、この整理は進められているが、ともすれば日常業務に追われ、先送りになりがちである。人手と時間のかかる仕事であるだけに、長期的な整理方針を立てて、作業をすすめる必要があろう。資料整理は、資料保存に関する知識とともに、その資料を作成した組織についての知識などが必要であるので、専門の職員とともに、実際に運動に参加された方で、すでに第一線を退いた方々などに、ボランティアとして協力していただくことが考えられてよいのではないか。

 c) 復刻事業の現状と見通しの暗さ。
 研究所はすでに30年近く《日本社会運動史料》の編集刊行を続け、さらに1987年からは《戦後社会運動資料》の編集作業も開始した。この2つの復刻事業は、単に本研究所が所有する貴重な資料を公開しただけでなく、詳細で実証的な改題と丹念な索引や目次を付したことで、それ自体が貴重な学術研究として高い評価を受けてきた。しかし、この事業も近年大きな環境の変化に見舞われ、明らかに見直すべき時が来ている。当初は通常300部、ものによっては500セットも売れ、財政面でも、若干の寄与をしてきたこの事業が、近年では、100セットを売ることも難しくなっている。このため、1冊で10万円を超えるものがあり、すでに商業ベースでの事業の継続は困難になっている。ここに投入してきた人的・物的資源を、もっと別の分野に振り向け、研究所の新たな特色を打ち出すべきであろう。

d) 研究所の学内における位置について。
 法政大学の運営は理事会を中心にすすめられている一方で、教学面を中心に各学部教授会と学部長会議がきわめて重要な役割を果たしている。一方、法政大学の付置研究所のほとんどは、建て前の上では学部の枠をこえた研究所であるが、実質的には特定の学部と密接な関わりをもって運営されている。大多数の研究所の専任研究員は学部教授会のメンバーであって、その資格において大学の運営に関与している。しかし、本研究所の場合は、歴史的な経緯もあって、学部との間にそうした関係はなく、どの教授会にも属していない。そのため、総長選・理事選などを除けば、本研究所の研究員は全学的な問題については、まったく疎外された状況にある。これも、研究所だけで解決できることではないが、正常な状態とはいえない。できるだけ早い機会に、なんらかの解決策が考えられるべきであろう。



〔本稿は法政大学『多摩移転10周年記念誌』の原稿として執筆したものである。紙幅の関係で、印刷されたものは編集者によって大幅に削除された。本稿は、その削除前の元原稿である。〕


 

【主要事項年誌】


 1982年
10月 石川淳志社会学部長より、中村総長に宛て「法政大学大原社会問題研究所の移転に関する要望」提出される。
  川上忠雄経済学部長より、舟橋所長に宛て「大原社会問題研究所の移転・改組に関する要望」届く。
 
 1983年
2月 舟橋所長名で中村総長、川上経済学部長に宛て回答。「86年4月以降に多摩校地へ移転」と表明。
3月 常務理事・大島清教授退任、専任研究員・斉藤泰明氏退職。
4月 『社会・労働運動大年表』編集開始。
5月 研究嘱託のほかに、兼任研究員制度新設。
6月 研究所理事会・評議員会、多摩移転を機に財団法人を解散し、大学付置研究所とする方針を決定。
6月 専任研究員として佐藤博樹助教授就任。
 
1984年
4月 舟橋尚道所長再任。
5月 研究叢書第1冊 舟橋尚道編『現代の経済構造と労使関係』(総合労働研究所)刊行
  研究叢書 早川征一郎他編『電機産業における労働組合』(大月書店)刊行
7月 文部省科学研究費補助金を受ける(85年度も)課題は、「労働組合・労働争議・工場委員会等に関するデータベースの作成と長期労働統計の編成」。これにより、パソコン第1号機を導入(NEC9801E)。
 
1985年
3月 常務理事・宇佐美誠次郎退任、名誉研究員を委嘱。
4月 二村一夫、所長に就任。
  研究叢書『現代の高齢者対策』(総合労働研究所)刊行。
7月 向坂ゆき氏より、故向坂逸郎氏旧蔵図書を受贈。
9月 『マルクス経済学レキシコン』(大月書店)全15巻完結
 
1986年
1月 研究所臨時理事会・評議員会、財団法人法政大学大原社会問題研究所の解散と残余財産の法政大学への寄付を決定。財団法人解散を文部省に申請。3月 同認可。
3月 多摩移転。向坂文庫も搬入し、整理開始。
4月 法政大学付置研究所となる。研究所理事会に代わり、運営委員会を設置。
4月 『大原社会問題研究所雑誌』(『研究資料月報』改題)刊行を開始し、法政大学出版局より販売。
4月 研究叢書『労働の人間化』(総合労働研究所)刊行。
8月 大野喜実・資料庶務主任急逝。
10月 『社会・労働運動大年表』第1冊刊行(労働旬報社)。
 
1987年
1月 『社会・労働運動大年表』(労働旬報社)全4冊完結。
3月 『社会・労働運動大年表』、労働問題リサーチセンターの第1回冲永賞受賞
6月 『日本労働年鑑』第57集刊行、3部構成を5部構成に変更し、収録時期も暦年とするため1年半分を採録。
 
1988年
6月 私学振興財団より、「パソコンによる労働問題文献データベースの作成と利用に関する研究」に対し、学術研究振興資金を受贈(〜90年)。〈労働関係文献データベース〉の作成開始。
7月 「労働組合ナショナルセンターの再編に関する資料収集と〈連合〉形成過程の実証的研究」に文部省科学研究費補助金を受ける(90年まで)
5月 研究叢書 二村一夫『足尾暴動の史的分析 ── 鉱山労働者の社会史』(東京大学出版会)刊行
9月 研究叢書 佐藤博樹他『労働組合は本当に役立っているのか』(総合労働研究所)刊行。
10月 第1回国際労働問題シンポジウム「ILOと技術協力」開催。
 
1989年
1月 《日本社会運動史料》第200冊の『政治批判』(3)法政大学出版局より刊行
2月 『大原社会問題研究所雑誌』特集《研究所の歴史と現状》刊行。
3月 研究叢書 佐藤博樹他『労働組合は本当に役立っているのか』、労働問題リサーチセンターの冲永賞受賞。
9月 研究叢書 二村一夫『足尾暴動の史的分析』、日本労働協会の労働関係図書優秀賞受賞。
11月 研究所創立70周年記念・国際シンポジウム《外国人労働者と労働組合》開催。
 
1990年
5月 向坂ゆき氏の所有地につき、法政大学への遺贈契約成立。
7月 村田陽一文庫受贈。
 
1991年
4月 所内事務部門の責任者として課長制度を新設し、河原由治主任、初代課長補佐に就任。
5月 「労働関係文献月録」を『大原社会問題研究所雑誌』に掲載し始める。
6月 《戦後社会運動資料》第1回『民報/東京民報』(法政大学出版局)刊行。
7月 労働関係文献データベース、科学研究費の助成170万円を受ける(以後毎年)。
 
1992年
3月 是枝洋、北村芙美子両氏選択定年で退職。
3月 『向坂逸郎文庫目録』第1分冊刊行。
3月 研究叢書 『《連合時代》の労働運動 ── 再編の道程と新展開』(総合労働研究所)刊行。
4月 河原課長補佐、社会学部事務課長に転出。後任として横田礼子沖縄文化研究所事務主任が課長補佐に就任。
10月 学部学生への図書貸出を始める。
 
1993年
3月 研究叢書 『労働の人間化の新展開 ── 非人間的労働からの脱却』(総合労働研究所)刊行
 
1994年
3月 二村一夫、所長退任。鈴木徹三氏に名誉研究員を委嘱。
4月 嶺学、所長就任。


補注 大原社会問題研究所の活動についての歴史的な検討は、これまでも何回かおこなっている。そのひとつは、創立70周年の年であった1988年度の事業報告の前半部分である。この箇所は一般には公表しなかったが、同報告書作成とほぼ同時に、『大原社会問題研究所雑誌』の創立70周年記念特集(1989年2月号)において「大原社会問題研究所の70年」と題して、より長期的な観点から研究所の活動を総括している。このほか『大原社会問題研究所雑誌』第400号でも、「労働関係研究所の歴史・現状・課題」について述べ、労働関係の研究所がかかえている問題点について論じている。


 初出は、多摩キャンパス10年史(白書)刊行・編集委員会編『 法政大学多摩キャンパス10年史:白書』(1995年8月)所収。紙幅の関係で原稿は大幅に削除されたがここでは元原稿により、また略年表を付した。




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Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
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