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《書評》

村上安正 著 『足尾銅山史』

二村 一夫

はじめに

 足尾銅山と聞けば、人はすぐ「公害の原点」といった決まり文句とともに鉱毒事件を想起する。むろん〈足尾鉱毒事件〉は、まぎれもない歴史的事実である。だが、足尾銅山をこうした負の遺産としてのみ見ることは、一面的に過ぎよう。何よりそこで働き、生きて来た人びとにとっては、納得しがたい思いがあるに違いない。この鉱山は、徳川時代には、幕府の御用山として銅銭を鋳造し、江戸城や日光東照宮、芝増上寺に屋根瓦の素材を供給した。銅はまた長崎貿易の主要輸出品目で、その2割は足尾銅が占めていたのである。明治以降も、銅は生糸とならぶ主要輸出品のひとつであった。世界が本格的な〈電氣の時代〉を迎えつつあったまさにその時期、足尾は送電線、発電機、モーターなど電気関連機器に不可欠の銅地金を産出し続けたのである。もちろん、銅は砲弾など兵器の素材となり、人を殺傷する「死の産業」としての側面があったことも見落としてはならないが。
 足尾銅山はまた、数々の先進技術の実験場的役割も果たしてきた。とくに古河家初代の市兵衛は、国際的にみても最先端の技術を積極的に導入した。その具体例を挙げれば、発電所、電車、電気精銅、電話機といった電力関連の諸技術、鑿岩機やダイナマイトを使用した通洞掘削、あるいは空中索道やドコビール(簡易鉄道)などの運搬手段の如くである。その多くが、日本最初、あるいはそれと一二を争う早期の採用であった。さらに、機械選鉱、洋式高炉、ベッセマー転炉、自熔製煉など選鉱・製錬工程でも、欧米の新技術を相次いで導入している。
 さらに、まことに皮肉な成り行きであるが、現代日本が世界に誇る〈公害除去技術〉でさえ、その出発点は「公害の原点」たる足尾にある。1897(明治30)年に鉱毒予防命令を受けて建設された沈澱池・濾過池や煙道・脱硫塔、1915年の電氣集塵機の設置など、足尾銅山の技術者がとり組んだ排水・排煙の無害化の企てこそ、日本の〈公害除去技術〉の原点となったのである。
 今日では、足尾をはじめ日本中の銅山はすべて閉山に追い込まれ、その生命を終えている。しかし、鉱山業は、造船業とともに、日本の製造業、とりわけ電機・機械製造業の母体となったのであった。社名に古河、住友、日立といった名を冠した電線、電機、さらには通信・IT関連企業名の一覧を見れば、足尾、別子、日立など日本の主要銅山が、日本資本主義発達史の上で、いかに大きな役割を果たしてきたかを知ることができよう。
 足尾銅山はまた、戦前における日本労働運動の一大拠点であった。永岡鶴蔵、南助松らの大日本労働至誠会、第一次大戦後の友愛会鉱山部、東大新人会の会員が先導した全国坑夫組合、さらには大日本鉱山労働同盟会、全日本鉱夫総聯合会など、鉱業分野の労働組合は、いずれも足尾を最大の組織基盤としていた。評者が研究対象とした足尾暴動をはじめ、日本労働運動史において、足尾は重要な位置を占めている。
 こうした存在であるだけに、これまでも足尾を紹介し、あるいは研究した文献は少なくない。しかし、そのほとんどは筆者の問題関心によって選びとられた分野に限られている。あるものは労働史であり、あるいは産業史、公害史といった如くである。また、時期的にみても、ごく限られた期間だけを対象とするものが多い。これに対し、本書は足尾銅山に関する総合的な通史で、時期的にも銅山の発見前から閉山後まで対象とする、他に類のない書物である。



本書の構成と特色

 まず外見から紹介すると、判型はB5判、つまり週刊誌サイズの大型本で、本巻と別冊の2冊から成っている。本巻は口絵写真が8ページに本文が656ページ、別冊は横組みが58ページ、縦組みが82ページの小計140ページ、総計804ページの大冊である。その上、1913(大正2)年現在の「足尾銅山図」の復刻が付されている。
 内容的にみると、本巻の大部分は通史編で、銅山発見前から閉山後の足尾町の状況までを多面的、総合的に叙述している。これが575ページと、全体の70パーセント余を占めている。この事実はまた、紙幅の3割近くが通史以外の多様な情報にさかれていることを示している。これも、本書の特色のひとつと言えよう。
 通史編は、全体を「近世以前」「明治期」「大正期」「昭和前期」「昭和中期」「昭和後期」の6期に分け、これを全14章にまとめている。近世と明治が各4章、大正と昭和前期が各1章、昭和中期と後期が各2章である。もっともページ数で見れば、近世が49ページ、明治期が188ページ、大正期138ページ、昭和前期26ページ、同中期61ページ、同後期92ページと、時期によってかなりの違いがある。明治期にもっとも多くの紙数をさいているのは、この期が足尾銅山大発展の時代で、従来の研究もこの期に集中してきたことを反映するものと言えよう。鉱毒事件と暴動という、日本を震撼させた2つの大事件がこの時期に起きていることも、明治期に多くの枚数を必要とした理由である。また、年数では十数年にすぎない大正期が、明治に次ぐページ数を占めているのは、この期に、足尾を舞台とする本格的な労働組合運動が展開され、何回かの争議がおきているからである。また〈河鹿〉と呼ばれる塊状鉱床が新たに発見されたことも、それまで鉱脈だけを採掘してきた足尾銅山を技術的にまた経営的にも大きく変えたのであった。さらに、アメリカ大陸を中心に大規模な銅山開発がすすんだため、世界の銅市場の構造が激変し、足尾もその影響を受けざるをえなかったからでもある。
 昭和期では、戦中戦後を「昭和中期」として一括している点に特色がある。
 どの時期も、経営、技術、労働、労働者生活などの諸分野をカバーし、多くの側面から足尾銅山の全体像を描き出そうとしている。さらに、鉱毒事件(26ページ)、暴動(42ページ)、労働運動(43ページ)、朝鮮人・中国人連行問題(22ページ)などの重要問題についても、詳しく論じている。足尾に関することなら、何ごとであれ取り上げようという著者の意欲は文学にまで及び、明治、大正、昭和の各期の末尾には、足尾を題材とした小説、戯曲やラジオドラマまで紹介されている。
 後でみるように、著者は足尾銅山の坑内労働に長年従事された体験の持ち主である。しかし本書の叙述は、体験記的な箇所はごく僅かで、あくまでも史料を吟味し、客観的に記述する冷静な研究者的態度で貫かれている。もっとも、採鉱関係の歴史、さらに地質鉱床に関する論述には、長年の体験、知識に裏打ちされたこの著者ならではの蘊蓄が込められている。これまでの鉱業技術史では、採鉱部門はあまり重視されず、選鉱・製錬部門中心に論じられる傾向があった。これは、選鉱・製煉部門が学校出の技術者によって主導されたのに対し、採鉱部門は学校出の技術者が介入する余地が限られ、記録もあまり残されなかったからである。一方、著者は、その足尾における最初の部署が「地質鉱床課」で、探鉱のための旧坑調査を担当していたこともあって、採鉱技術・採鉱労働の歴史に強い関心をもっている。採鉱技術に関する本書の記述は日本鉱業技術史研究に新たな知見を加えたものと言えよう。
 通史以外の部分について見ると、本巻には〈補章〉として「明治10年頃の足尾歴史地図」「足尾銅山鉱床図」「鉱山用語抄」「足尾銅山史年表」「足尾銅山ハイテク年表」「足尾銅山産銅表」「主要文献」「足尾銅山の地質と鉱床」が収められている。また別冊では、五十音順の「人名索引」と項目分類による「事項索引」「表索引」の3種の索引を中心に、20点の文献、3点の資料が収録されている。項目索引は五十音順でなく内容分類によっている。鉱山関係の事柄には特殊な用語が多く素人には取り付きにくいことを考慮した良いアイディアだと思われるが、〈足尾暴動〉の項に大正期の争議が入っているといったやゝ未整理な点も散見される。23点の文献・資料は村上氏が古書店で入手した貴重な記録をはじめ、鉱業所所蔵の「採鉱課事業記録」抜粋、「足尾銅山古記」「古河家諸鉱山役員名簿」夏目漱石の「坑夫ノート」「頭役考課表」といった諸記録、さらに村上氏が執筆した「鉱山の歴史と技術・社会」「足尾関係社会運動者人名事典」などが収められている。

足尾銅山百科事典

何分にも800ページを超える大冊であり、対象とする時期も長く、取り上げている問題も多彩である。したがって、ここでは通常の書評の形、つまり各章の具体的内容を紹介し、それに対する評価や批判、疑問点を述べるといった方式はとりえない。とはいえ、せっかくの書評の機会であるから、目についた二三の疑問点についてふれておきたい。
 小さなところでは、銭を「おあし」と呼ぶのは「足字銭」に由来するとの説(1ページ)は通説とは異なる。銭のことを女房言葉で「おあし」と言うのは、「銭の世上をめぐりありく事足あるがごとし」と『貞丈雑記』に記され、またすでに鎌倉時代に用例のある「料足」といった言葉から晋の『銭神論』に由来するとみるのが一般的である。「足字銭」説を主張するからにはその根拠を示すべきであったと思われる。
 第2は、明治初年の日本の鉱山労働者数に関する統計数値の問題である。村上氏は「わが国の金属鉱山鉱夫数の統計は、『本邦鉱業の趨勢』で明治32年51,141人が初出である。それ以前の鉱山労働者数は推測に頼るしかないが、明治20年当時は1万人前後と見られる」(117ページ)と記している。しかし、これは正確ではない。延べ工数ではあるが『統計年鑑』に1880年代初頭の数値が残されており、1880(明治13)年には、日本の鉱山労働者数が4万人を超えていたことは明らかである。これについては、拙稿「原蓄期における鉱山労働者数──明治前期産業統計の吟味」(上)(下)法政大学大原社会問題研究所『研究資料月報』第289号、第290号(1982年9月、10月)を参照ねがいたい。
 第3は、飯場制度に関する氏の見解である。村上氏は足尾銅山における飯場制度は「今日的に云えば鉱業所という持株会社的管理機構のもとで生産活動を分担、遂行する優良な協力会社のような性格を具備していた」(342ページ)と論じている。この主張は、「飯場制度」に対する通俗的な理解、すなわち「苛酷な労働の強制を伴った半暴力組織」といった見解を批判する意図で論じられているのだが、これでは批判の対象とする説の裏返しで、批判対象と同様、一面的かつ非歴史的な解釈になっているのではないか。こうした理解では1919年の争議で、組合側が「飯場制度の廃止」を要求した理由や、その後飯場制度が世話役制度に移行せざるを得なかった理由が分からなくなる。
 だが、これらの疑問点、批判点は、本書全体からみればごく一部である。
 ここまで述べて来て気づくのは、本書は『足尾銅山史』というだけでなく『足尾銅山百科事典』とも呼びうる書物だということである。もちろん、時代を追って足尾の変貌を記録している本だから、書名が「羊頭狗肉」だと言うのではない。ただこの書物は、多くの「通史」のようにすらすらと読み通させることより、足尾銅山に関する事柄なら細大もらさず取り上げ、解き明かそうとしている点に特徴がある。まさに半世紀余の間、足尾に関心を抱き続け、関連史料を集め、調査のために現場を歩き回った著者ならではの〈執念の書〉である。



著者のこと

 最後にふれておかねばならないのは、この書の著者のことである。村上氏は研究を職業とされる方ではない。名実ともに在野の研究者である。1949(昭和24)年、新制高校卒業と同時に鉱員として古河鉱業に就職し、前半は足尾銅山の坑内労働に、後半は本社において経理事務等に従事し、さらに定年退職後も再就職して74歳になる直前まで働き続けてこられた。本書の執筆もふくめ、研究は文字どおり「余暇」に続けられたのであった。読書と執筆にあてうる時間は夜間と休日だけという、著しく不利な条件下で、本書は完成されたのである。
 著者が最初に手がけた足尾研究は、労働組合の機関紙『ぜんこう』に連載された古老からの聞き取りであった。ついで、『足尾銅山労働運動史』(1958年刊行)の編集責任者として主要部分の執筆と全体のとりまとめにあたったのが、足尾銅山研究に本格的にとりくむ契機となった。1971年に26年余住み慣れた足尾を離れた後は、金属鉱山研究会を創立してこれを主宰し、鉱業史研究者、産業考古学研究者として数々の業績をあげげてこられた。その成果は、『足尾に生きたひとびと』(随想舎、1990年)、『銅山の町足尾を歩く──足尾の産業遺産を訪ねて』(随想舎、1998年)、さらには私家版として刊行した三冊の『鉱業論集』、あるいは「永岡鶴蔵論」(『思想の科学』1960年2月号)、「南助松──鉱山に生きた社会主義者」(『思想の科学』1971年7月)などとして発表されている。
 本書は、こうした経歴をもつ著者が、古稀を目前にして執筆を開始した文字どおりのライフワークである。刊行までの準備も綿密で、2001年から年1冊、4年をかけて全4分冊の私家版稿本を作成し、これを関係者に配布して意見を求め、何回もの改稿を重ねて完成させたのである。ちなみに、銅山閉山後は衰退の一途をたどり、過疎化の傾向が著しい足尾町は、2006年3月、本書刊行直後に日光市に併合された。これまで町史を出すことがなかった足尾町は、その最後に、町史に代わる本書を得た形である。
 日本を代表する鉱山の総合的な通史が、経営に当たった企業や専門研究者の手によらず、そこで働いた在野の一研究者によって纏め上げられたことに心からの敬意を表するとともに、一人でも多くの読者を得ることを祈っている。本書は、日本鉱業史はもちろん、経済史、経営史、労働史、技術史など諸分野の不可欠の基本的文献として、長くその生命を保つであろう。





(随想舎刊。本巻 2006年3月刊、B5判656頁+8頁、8000円+税。 別冊2006年7月刊、B5判58頁+82頁、1000円+税)

初出は、『大原社会問題研究所雑誌』第579号、2007年2月。








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