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《書評》

村串 仁三郎 著
『日本の伝統的労資関係──友子制度史の研究──

評者:二村 一夫

 この二十数年来、欧米諸国における労働史研究の中心的なテーマのひとつであり、また大きな成果をあげたのは、それぞれの国の労働者が工業化前の社会から受け継いできた文化的、社会的、宗教的な伝統を追究し、そうした伝統が工業化の過程においてどのような意味をもったか、またどのように変容したかを解明することにあった。しかし、なぜか日本では、この主題はあまり研究者の関心を惹かなかったようである。日本労働運動史、労資関係史の論稿は、ほとんどが工業化以降を対象としている。一方、近世史の側から工業化以降を展望した研究も、数量経済史などごく一部に限られているかに見える。
 そうしたなかで村串仁三郎氏は例外的な存在といってよい。氏は、1978年に刊行した『賃労働政策の理論と歴史』(世界書院)において明治国家の労働政策と同時に「徳川時代の賃労働政策史」を論じ、また『日本炭鉱賃労働史論』(時潮社、1976年)をまとめた後で、「徳川期石炭業における技術・経営・賃労働」(『経済志林』84年5月号)を発表するなど、工業化の前後を同時に視野にいれた研究を続けている。その村串氏がこの十数年、集中的に研究をすすめてきたのは、鉱山労働者の間で古くから組織されてきた同職組合〈友子制度〉の歴史の解明である。本書は、同氏がこの間に発表された友子に関する7本の論文を改稿し、さらに新稿1本を加えて出来あがったものである。

II

 まず、その内容を見ておこう。本書は、冒頭に友子研究の歴史を総括する「序章」をおき、ついで第1部は「成立期の友子制度」として、徳川時代から明治前期までをあつかう3つの章が、最後に第2部「確立期の友子制度」として、明治後期の友子を論ずる5つの章がおかれている。
 序章の「友子制度研究の方法と回顧」は、学術論文ばかりでなく、1906年に実施された官庁調査『鉱夫待遇事例』や1908年に『社会新聞』に連載された永岡鶴蔵の自伝「坑夫の生涯」にはじまる、友子に関する多様な文献が網羅的に検討され、友子研究入門としても大いに役に立つものとなっている。
 第1章は「徳川末期の友子制度」で、主として問題にされているのは、友子の成立時期である。これについて著者は、友子研究の先達である松島静雄、左合藤三郎両氏の徳川中期説を支持しつつ、「友子の実態資料から確信を持って主張しうることは、友子は少なくとも一八世紀末から一九世紀中葉には、ほぼ全国的な存在となっていた」とする。この主張は、近世鉱山史を研究する学者の説とは大きく食い違う点である。たとえば小葉田淳氏や佐々木潤之介氏は、友子の「先駆」や「萌芽」を江戸時代に認めはしても、その成立は明治時代であったと主張している。これに対し、村串氏は、東北から飛騨、備中など全国の諸鉱山における十数点の史料を紹介し、友子が18世紀末から19世紀はじめには成立し、19世紀前半には全国的に普及していたと結論している。
 第2章「明治前期における友子制度の普及」と第3章「明治前期の友子制度の構造」は、これまでほとんど検討されたことがない明治前期の友子についての研究である。第2章での著者の主張点のひとつは、友子は東北だけでなく、飛騨や近畿以西の鉱山にも存在していた、というにある。
第3章では、友子の組織構造や機能が検討されている。ここで注目されるのは、友子の構成員が雇用鉱夫に限られず、自営鉱夫、さらには鉱夫を雇用する鉱業人(借区人)も参加していたことを解明している点である。友子に飯場頭が入っていたことは後年の史料から明らかであるが、経営者である鉱業人の参加が実証されているのである。さらに、友子の組織・機能についても、この時期の特徴が指摘されている。たとえば、組織単位として、複数の坑を統合する単一の箱元の存在などである。また本章では友子の職業倫理が論じられている。この点については後であらためてふれたい。
 第2部では、4章から8章までの5章にわたり、村串氏が「友子同盟の確立期」とされる明治後期を対象に、その確立の背景、組織構造、機能、さらにはその労働組合化の問題が論じられている。
 第4章は「明治後期における友子制度の確立」である。前半は、友子制度が明治30年代前半までに確立し、全国的なつながりをもっていたことを論証することにあてられ多数の史料が紹介されている。後半では、明治後期における友子制度普及の根拠が客観的、主体的要因の両面から検討されている。客観的根拠としては、鉱山業の近代化にかかわらず採鉱部門は機械化されず、他部門の生産力の拡大は手掘り鉱夫に対する需要を急増させた。ここにこそ、熟練鉱夫の養成機関としての友子制度が企業によって容認され、広範に普及した根拠がある。つぎに友子制度普及の主体的要因が検討され、a)鉱山で働くには友子へ入らざるをえないとする雰囲気、b)友子の存在が、賃金を上昇させ、技能を向上させ、さらには「渡り歩き」に際しての種々の便宜を供与し、共済機能をもつなど、鉱夫にとってきわめて有益であったからである、とする。
 第5章は「明治後期の友子規約と友子制度の一般的構造」である。ここではまず、規約が成文化された時期が検討されている。松島静雄氏がこれを明治30年代後半と推定したのに対し、著者は30年代前半と推定している。ついで、成文規約を通じてみた友子制度の一般的構造が論じられている。ここでは、磐城炭鉱の友子規約をはじめ、夕張、神岡、阿仁、尾去沢などの規約が紹介、分析されている。
 第6章「明治後期の友子組織の研究」は前章をうけ、規約以外の史料を分析することによって友子の組織原理の解明が意図されている。ここでは、職業倫理、構成員の問題、組織類型、周辺鉱山の組織との関係、自坑夫と渡り友子の問題、組織運営の実態などが、明治前期と比較して論じられている。
 第7章は「明治後期の友子機能の分析」で、友子への加入儀式である取立制度の実態、共済活動、飯場制度との関係が問題にされている。
 第8章「明治後期における友子の労働組合化」は新稿で、友子が関与した労働争議、あるいは夕張や足尾における至誠会の活動などが論じられている。
 以上の研究成果を著者自身で総括した文章が、序章のはじめにある。すなわち、「私のこれまでの友子研究によって明らかになった結果を踏まえて、友子についての概念規定」がなされているのである。その主要部分を紹介しておこう。

 「友子は、徳川時代の鉱山マニュファクチュアに雇用されている親方層も含む鉱夫のクラフト・ギルド的な同職組合として形成された。友子は、鉱夫のクラフト・ギルド的な同職組合として形成された本質からみて、徒弟制度に基づく親方制(親分子分関係)の形態をとりつつ、鉱山業における熟練労働力の養成、鉱夫の移動の保障と労働力の供給調整、構成員の相互扶助、さらに鉱山内の生活・労働秩序の自治的維持、時として生活・労働条件の維持改善などの多様な機能をはたした。友子の組織は、一山に限定されていたが、制度としては全国的な共通性をもち、鉱夫にとって友子のメンバーになることが、日本の鉱山で働くための一般的な資格であった。」

III

 本書の最大のメリットは、友子に関する史料を数多く発掘、紹介し、徳川時代にはじまる友子の歴史を実証的に解明したことであろう。もともと友子は、ほとんどが無筆の労働者によって組織されたこともあって、史料そのものがきわめて少ない。その上、鉱夫の多くは一カ所に定住せず、さらに廃山などによって、史料は散逸してしまった。そうした中で、村串氏は全国の鉱山跡を歩き回り、多くの研究者の協力を得て、取立免状や規約、さらには友子の墓碑銘にいたるさまざまな史料を収集したのである。その上で、これらの史料を時代ごとに整理して素直に読み、そこで明らかになることを詳細に論じている。
 とくに本書で貴重なのは、これまでほとんど取り組まれたことのない、徳川時代と明治初期の友子を初めて本格的な検討の対象としたことである。従来の友子研究は、ほとんどが、1920年代以後、友子制度が衰退しはじめた時期以降を取り上げているが、村串氏はもっぱらその生成期から確立期を対象としている。それによって、友子が単なる共済組合ではなく、技能養成を基礎に結ばれた鉱夫の同職組合であったことを説得的に示すことに成功した。友子を同職組合とみることは、かならずしも著者独自の主張ではないが、この十数年間で急速に多くの研究者に受け入れられたのは、明らかに氏の功績である。
 すでに述べたように、近世史の研究者は、徳川時代における友子の存在について否定的である。しかし、村串氏が本書で紹介している史料は、明らかに徳川時代には坑夫の同職組合が成立していたことを示している。問題は〈友子〉という名称が史料に出てくるか否かだけではない。近世の〈金掘り大工〉が、はたして同職組合を組織できるほどの自立性をもっていたか、あるいは山師などに隷属する存在にすぎなかったか、という点にかかわっている。
 本書はふれていないが、これについては山口啓二氏のつぎのような事実発見が重要であろう。すなわち17世紀の阿仁鉱山では「切羽を稼場所として請負う小親方である金名子」は「本来は山師の譜代の半自立的な存在で」あったが、藩の政策もあって山師から自立しつつあった(『幕藩制成立史の研究』校倉書房、1974年)。さらに最近、荻慎一郎氏は、幕末の秋田藩領大葛金山の〈金掘〉が生活保障にかかわる諸要求を提出して組織的に〈出奔〉したり、公然と〈暇〉を願い出ている事実を明らかにして、彼らが債務奴隷的存在ではなかったことを主張している(「近世後期における鉱山労働者の闘争」『歴史』第70輯)。これらの研究は、友子についてはふれていないが、徳川時代の採鉱夫が同職組織をつくりうるだけの自立性をもっていたことを明らかにしており、本書の主張を裏付けるものとなっている。

IV

 評者も、かねてから、友子が鉱山労働運動において積極的な役割を果たした事例が少なくないことに気づき、従来の所説に疑問をいだいて、限られた範囲ではあるが研究をすすめてきた。その際、本書のもとになった論稿に多くを教えられ、基本的な点では氏と見解を一にしていると考えてきた。しかし、今回あらためて本書を読み、いくつかの点で意見を異にすること気づいた。最後にその点についてのべておきたい。
 異論の第1は、評者は友子を坑夫=採鉱・開坑夫の同職団体であったと考えているが、村串氏は友子を同職組合としながら、その職業の範囲がいささか不明確で、ともすれば鉱山労働者一般の組織であると主張しているかにみえる点にある。
 問題は、先に紹介した著者自身による友子の「概念規定」において、「鉱夫にとって友子のメンバーになることが、日本の鉱山で働くための一般的な資格であった」としているところである。言うまでもなく、一般に「鉱夫」という言葉は鉱山労働者をさしている。もちろん採鉱夫も鉱夫の一部ではあるが、製煉夫などの坑外労働者や、坑内労働者であっても車夫、運搬夫などの不熟練労働者も含まれている。本書で著者が強調しているのは、友子は単なる共済団体ではなく、熟練労働力の養成を主要機能とする同職組合であることである。とすれば、多様な職種からなる鉱山労働者の間で、熟練労働力の養成を基礎とする同職組合が成立することは、論理的にも現実的にも不可能ではないか?
 ことによると著者は、「鉱夫」をここでは「採鉱夫」の意味で使っているのかもしれない。本書冒頭の凡例で「一般に採鉱夫を坑夫という用語をもって呼ぶ傾向があるが、本書では、採鉱夫を意味する場合も鉱夫の用語を使用し、坑夫と鉱夫という用語を厳密に区別しなかった」と断っているからである。しかし「概念規定」で一般の用例と違う言葉を使うのであれば、そのことを明記すべきであろう。
 おそらく著者は、友子に製煉夫など採鉱夫以外の労働者が加わっていた事例を数多く知るがゆえに、友子を採鉱夫の同職組合と規定することを避けたものであろう。だが、同職組合で問題となるのは、いかなる職種の労働者がその構成員として認められていたかだけではない。むしろ、その構成員でなければ従事しえない仕事=職種は何であったかである。

 第2は異論、というより理解困難な箇所である。それは、著者が日本の鉱山労働者の職業倫理について論じ、これを日本的労資関係と結びつけているところである。もちろん日本の労働者の意識、価値観を歴史的に検討し、それが今日の労資関係の特質といかにかかわっているかを研究することの重要性について異論はない。問題は、その内容である。
 たとえば、著者は鉱夫の職業倫理を、山例五十三ヶ条や取立免状の分析によって推論し、「勤勉に働くということは、友子の大命題である。これは、鉱業人をふくむ友子の職業倫理の特徴であり、友子の労使一体、労資協調観を実現している要である。ここに日本的労資関係の源流の一つがある」と主張され、また「友子の職業倫理の根幹に、鉱山経営者への忠誠、鉱山経営秩序の遵守、更に当代の政府政策への同調支持があることは疑いない」と断言される。だが、こうした職業倫理は、はたしてどこまで友子の成員に受け容れられていたであろうか。たとえば、友子の職業倫理として「勤勉の強調」や「規律の遵守」をあげているが、実際には坑夫の欠勤率は高く、一般に3年3月10日といわれた友子の徒弟期間が守られず、短縮される傾向があったことなどは、どう理解したらよいのであろうか?
 本書が明らかにしたポイントのひとつは、友子が一般坑夫だけでなく、鉱業人や飯場頭まで含む組織であったことである。とすれば、取立免状などを書いたのは、無筆者が多かった一般坑夫よりも、こうした人びとであった可能性が高いのではないか。それどころか、「取立面状」の前文が会社の職員によって書かれた事例さえあることを本書は紹介している(310頁)。それぞれの文書が誰によって、どのように作成されたかを検討せずに、そこに書かれた文言を、そのまま彼らの職業倫理であったと結論するのは、いささか早計であろう。職業倫理を知るには、そうした建て前が強調される文書だけでなく、彼らの実際の行動も分析すべきではないか。
 これと関連して、村串氏は「明治維新の政治変革が、鉱夫の市民的意識を高め、友子自体の発達を促したのではないか」とし、あるいは「物価騰貴や政情不安を契機に鉱夫が社会的自覚を高めていった」と主張している。友子の職業倫理で指摘されているところと、ここで使われている「市民的意識」「社会的自覚」という表現の間にある大きな落差をどう理解したらよいのであろうか。さらに、勤勉を強調する友子の勤労観や、友子制における年功制の存在を、「日本的労資関係の源流」と主張される点も、すぐには同意できない。氏が友子について歴史的な把握の必要性を説かれるように、日本的労資関係についても、総体的、歴史的な把握が必要であろう。

 第3に、本書は友子が単なる共済団体でなかったことを強調するあまり、共済機能が果たした役割を正当に評価していないのではないか。評者は、共済活動が企業の枠をこえた坑夫の連帯を形成する上で果たした役割を重視すべきであると考えている。

 本書が近代史研究者だけでなく、多くの近世史研究者によって検討され、論争がおこることを期待している。それも友子だけでなく、大工の太子講などの同職組織についての研究がすすみ、なぜ日本では、欧米諸国のようなクラフト・ユニオンが成立しなかったのか、なぜ職人が初期労働運動の先頭に立たなかったのか、といった疑問に答える研究が、近世史研究者の側からも生まれることを願っている。



村串 仁三郎 著 『日本の伝統的労資関係 ─ 友子制度史の研究 ─ (世界書院、1989年8月刊、A5判、459頁、6800円)

  書評の初出は『歴史学研究』629号(1992年2月)







Written and Edited by NIMURA, Kazuo @『二村一夫著作集』(http://nimura-laborhistory.jp)
E-mail:nk@oisr.org



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