《書評》
斎藤 勇 著『名古屋地方労働運動史(明治・大正篇)』
評者:二 村 一夫
このところ、地方労働運動史の刊行があいついでいる。運動体験者の回顧録的色彩が濃かったこの分野で、はじめて本格的な研究の名に値する仕事が出たのは1959年に出された『京都地方労働運動史』であったが、それ以後、兵庫、埼玉、愛媛、神奈川、千葉など各地についてすぐれた研究成果が発表され、現在もいくつかの地方で編集作業がすすめられていると聞いている。
本書は、鼓肇雄氏の労作『戦前における愛知県製陶労働組合運動史』をのぞけば、簡単な事実史さえなかった名古屋地方の運動史の空白を埋めるものとして、われわれの待望ひさしいものであった。本書はこの期侍に充分こたえるものとなっている。それも、ただ研究の空白地帯を埋めたというだけでなく、方法的にも従来の地方運動史の研究水準を大きく引き上げてくれた。
これまでの地方労働運動史は、多くの場合、複数の筆者の共同作業としておこなわれてきた。これは史料の発掘だけでも厖大なエネルギーを必要とすることから当然であるが、そのために方法的一貫性に欠け、あるいは史実の(というよりむしろ史料の)羅列に終っている場合が少なくなかった。著者は十余年の歳月をかけ、また対象を明治・大正期に限定することによって、この労多き仕事を一人でなしとげられた。したがって、とうぜんのことながら、類書の方法的一貫性の欠如という問題は本書では見られない。また著者の研究者としてのたしかな視点は、この書物を単なる名古屋地方の労働運動の記録に終らせていない。
著者は、〈はしがき〉で、「本書の叙述にあたって留意した点」として、
(1)この地方における資本主義の発展・展開、経済情勢の変化にそうとうの紙幅をさき、企業の技術体系・労務管理態勢にもできるかぎりふれた、
(2)労働条件や生活条件についても明らかにすることに努めた、
(3)労働運動の各分野はもちろん、とくに大衆運動との関連と地方政治との関連にも留意した、
(4)つねに全国的視野のなかで地方運動を位置づけようとした、
(5)人間がになう歴史として、できるかぎり人間をえがこうと努めた、の5点をあげている。 これらの視点は、一般的に指摘することはできても、実際に分析・叙述するとなると容易ではないが、この困難な問題に著者は相当の成果をあげている。(1)(2)の点についていえば、とくに第一次大戦以前の時期について詳細に追究し、本書は一面で各古屋地方の資本主義発達史ともなっている。
ただ欲を云えば、それ以後、運動の本格的展開の時期について、もう一歩つっこんだ分析がほしかった。
(3)の民衆運動、地方政治との関連は、本書の最もすぐれた部分といえるのではなかろうか。護憲運動、米騒動、普選運動などが、労働運動との関連で見事にえがかれている。
ただ労働運動以外の大衆運動のうち、農民運動はほんのちょっと触れられただけてあり、青年・学生運動については全く述べられていない。名古屋一地方の労働運動史であるから除かれたのかも知れないが、地域的には愛知、岐阜をふくみ、労働運動以外の大衆運動についても問題にされる以上、当然論及されるべきであったろう。あるいは運動そのものがなかったとすれば、そのこと自体が一つの検討課題となったのではなかろうか。
(4)の全国的運動のなかで地方の運動を位置づけるべきであるとは、最近の地方労働運動史研究で強調されていることである。だが実際には、全国的運動については他の通史的研究をそのまま引用し、それに見合った地方の運動を記述するといった形のものが少なくない。
しかし、本書は名古屋地方の運動をほりおこし、全国的な運動とのかかわりをさぐるなかで運動の全体像をえがき、むしろ従来の通史的研究では欠落していた事実をも明らかにしている。その意味では、本書は単なる地方労働運動史ではなく、名古屋に舞台をとった日本労働運動史である。とくに、無産政党組織運動に関する章は、この地方の組合が全国的にも独自の役割を果たしていただけに、貴重である。
なお、本書は労働組合の地方的連合体を統一戦線と規定し、章の題にも統一戦線運動の語を用いているが、これは一般の用例とは異なっているのではなかろうか。もしあえて使われたのであれば、その意義を論ずべきであったろう。
本書は明治・大正篇と銘打っているから、とうぜん昭和篇が予定されているものと思われるが、それについては全くふれられていない。全国的な運動の研究も遅れており、運動全体との関係もより複雑となるその後の時期について、作業は一層困難となると思われるが、ここで終つたのではいささか尻切れとんぼの感がなくはない。続篇の刊行が待たれる次第である。
斎藤勇『名古屋地方労働運動史(明治・大正篇)』、風媒社、1970年刊
書評の初出は『日本読書新聞』1970年3月9日号
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