y 二村一夫《大原社研こぼれ話》4 研究員第1号」『二村一夫著作集』 縦書き

二 村 一 夫 著 作 集

大原社研こぼれ話 4


研究員第一号

 七〇年の間に、大原社会問題研究所に何らかの形で籍をおいて活動した研究者の数は少なくとも一〇〇人を越えている。しかし専任研究員となると、これが意外に少ない。戦前戦後を通じ三〇人に満たないのである。高野岩三郎、暉峻義等、櫛田民蔵、権田保之助、森戸辰男、久留間鮫造、笠信太郎など錚々たる顔ぶれが並ぶから、もっと多く感ずるのであろう。ここで質問、その研究員第一号は誰であろうか?
 久留間鮫造元所長は研究所の創立前から入所を希望し、友人の林桂二郎を介して大原孫三郎に会っているから、文字通りの創立所員である。しかし研究員第一号とは言えない。

 ご承知の方も多いと思うが、大原社会問題研究所にはその前身がある。財団法人石井記念愛染園に設けられた救済事業研究室がそれである。石井記念とは、岡山孤児院の創立者、石井十次を記念した施設だからである。石井は、生前、大阪に岡山孤児院の事務所を設け、孤児の受け入れと岡山孤児院、宮崎県茶臼原分院への送り出しにあたると同時に、貧民街に近い大阪市南区下寺町に愛染橋保育所と愛染橋夜学校を経営していた。石井の死後、大阪支部の責任者富田象吉の計画に大原孫三郎が応え、一九一六(大正五)年一一月二九日、愛染園を設立したのである。孫三郎は、創立総会で、愛染園内に救済事業研究室を設けることを発表したが、この救済事業研究室こそ大原社会問題研究所の前身であり、当研究所はこの時に実質的に始まったといってよい。

 この救済事業研究室に最初に研究員として迎えられたのが高田慎吾である。彼は、同研究室を改組した大原救済事業研究所の創立に参加しただけでなく、その三日前に発足した大原社会問題研究所の創立総会にも出席している。創立当初の研究所の役員のほとんどは他の機関に職をもっていたが、その中で高田はただ一人の常勤研究員である。高田慎吾こそ大原社研の研究員第一号といってよいだろう。
 高田は一八八〇(明治一三)年、熊本県八代の生まれ、高野岩三郎より九歳若く、櫛田民蔵より五年、大内兵衛、森戸辰男より八歳年長である。青山学院中学、五高を経て、一九〇八(明治四一)年に東京帝国大学法学部を卒業し、東京市養育院に就職した。帝大法学部の卒業生が養育院を就職先に選んだことに、高田慎吾の個性を見ることができる。養育院に入った時、巣鴨に分院が設置され、彼はそこに配属されて児童係となった。これが高田慎吾の生涯の研究テーマを児童問題に定める契機となったのである。彼の研究は、いま読んでも新鮮で、感銘深いものがあるが、これについては次号でふれたい。
 ただ私生児問題について高田が言うところは、児童問題研究が研究所内で、さらには学界、一般社会でも、評価が低いのを批判しているかの響きがある。

 「均しく人としての権利の主張に関する婦人運動及労働運動が最も世論を喚起するにも拘はらず、独り此の〔私生児〕問題が閑却される所以のものは何故であろうか」。

 彼は一九二七年七月、四七歳で死去したが、その葬儀は研究所葬として研究所の図書室で営まれた。高田はクリスチャンであったが、その遺志により、特定の宗教の形式によらない〈追悼式〉として実施された。一周忌には、彼の唯一の著書となった遺稿集『児童問題研究』が、研究所の同僚によって編集され、同人社から刊行された。

高田慎吾氏追悼式、大阪府天王寺の大原社会問題研究所図書室にて

初出は『大原社会問題研究所雑誌』第三六二号(一九八九年一月)




次は《七〇年こぼれ話》5 後藤貞治のこと

ページの先頭へ