二 村 一 夫 著 作 集

大原社研こぼれ話 5



後藤貞治のこと

 後藤貞治といっても、その名を知る人はほとんどいないだろう。終戦直前に不幸な死をとげたこの人物は、生前でも無名であった。しかし、彼が大原社会問題研究所に残した遺産は、今になってみると、著名な研究者をしのぐものがある、と私は思っている。
 大原社研は、他の図書館や研究所にはない資料を少なからずもっている。「さすが古い歴史のある研究所だ」と感心される方が多いのだが、歴史だけなら大原をこえる図書館はいくつもある。
 やはり、その時点では紙屑でしかなかったものに資料的価値を見出し、保存したその見識、眼力に注目してほしい。たとえば、いったい誰が、電信柱に張られているポスター、それも古新聞に赤インクで候補者の名を書いただけのものまで保存しようとするであろうか。後藤は敢えてそれをしたのである。その努力のおかげで、われわれは、第1回普通選挙の運動の実情を知ることが出来るのである。たとえば、大阪一区から労働農民党の候補者として出馬した野田律太の選挙ポスターはそうした資料の一枚である。

普選第1回野田律太選挙ポスター

 そうした作業をおこなったのは大原社会問題研究所の資料室であり、後藤貞治はその資料室主任であった。今でこそ、多くの研究所には資料室がある。がだ、創立間もない研究所に図書室とならんで<資料室>を設け、資料の収集・保存に力を入れたのである。誰が発案したのか分からないが、実際に作業を担ったのは、後藤貞治らであった。
 私はもちろん彼に会ったことはない。しかし30年ほど前、柏木の土蔵に通って古い資料の整理を始めた時、その存在の大きさを知ったのである。大きな木箱をあけ、中から裁判記録など古い資料が次々と出てきたときの興奮・感激は今も忘れ難いが、同時にその保存状態の良さは驚きだった。機関紙誌は丈夫なハトロン封筒に収められた上に、さらに厳重に包装されていたため、埃による傷みを免れていた。関係者の資料に対する思いが如実に示されていた。いつかはこの仕事をした人びとについて調べたいと思いながら日がたってしまった。ただ後藤が、変わり者の少なくない大原で、異彩をはなっていたらしいことはすぐ分かった。研究所が東京移転の直前に撮った記念写真で、全員が長髪、背広姿で立っている中に、ただひとり丸坊主の半袖シャツ姿、椅子にかけて背筋をシャンとのばした男がいる。これぞ後藤貞治その人である。

大阪天王寺所在・大原社会問題研究所玄関前での研究所所員全員での記念写真

 その後、新人会機関誌の復刻の件で平貞蔵氏にお目にかかった時、話はすぐに後藤のことになり、お二人が長年の親友であったことを知った。そこで、毎年開いていた高野岩三郎先生追憶会にご出席願い、思い出を語っていただいた。その要旨をここに書き留めておきたい。この追憶談に続き、飲み仲間だった河野密氏も後藤貞治の失恋と結婚をめぐる秘話を語られたが、これは別の機会にしよう。
 後藤貞治は一八九六(明治二九)年一月三日、山形県東置賜郡高畠町糠野目のつくり酒屋・弁天で生まれた。〔なお、『大原社会問題研究所雑誌』では山形県鶴岡の造り酒屋と記したが、これは誤りで高畠町が正しい。阿部五郎・後藤太刀味『探索・近代山形の社会主義運動』による〕。

 平貞蔵とは米沢中学の同年で、五年間寄宿舎生活をともにした仲である。中学卒業後、実家で兄の手伝いをしていたが、平の進学の勧めで上海の東亜同文書院に学んだ。卒業直前に重い肋膜炎にかかり、辛うじて一命をとりとめた。その後、静養かたがたフランス語を勉強したいと、月島の平の住居に転がり込んできて、二人で自炊生活をしたという。家は高野岩三郎が社会調査を実施した調査所の跡である。近所には、月島調査を担当し、大原社研嘱託であった山名義鶴が住み、消費組合を経営していた。ところがこの消費組合が行き詰まり、山名はその整理を後藤に依頼した。「上手く片付けてくれたら大原に就職を世話する」という約束であった。彼はこれを首尾よく処理し、一九二一年に大原に入所したのである。彼は高野所長にたいへん可愛がられた。研究所でも、大阪労働学校でも、下積みの仕事を厭わず陰日向なく働くことを評価されたのである。間もなく後藤は、図書主任の内藤赳夫とともに勤務条件はもとのままで、研究員に登用された。高野所長は彼に統計資料の収集・研究を勧め、その成果は『本邦社会統計資料解説』(叢文閣、一九三六年)として刊行された。
 戦争末期、後藤貞治は研究所を辞めて台湾に渡った。水牛の肉とバナナを混ぜたソーセージ風の〈軍人食モウ〉を事業化しようとしたのである。ところが台湾では水牛が少ないため、フィリピンに移った。一九四五年六月二〇日、敗色濃い日本軍の後を追って逃げていたが、マラリアが悪化して歩けなくなり、ピストル自殺をとげた。彼には二人の子がいたが、息子は阪大工学部学生のとき交通事故で死亡し、その姉も不慮の死をとげたという。なんとも痛ましい限りである。




初出は『大原社会問題研究所雑誌』第三六六号(一九八九年四月)




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