東京移転後の大原研究所が本拠をおいたのは淀橋区柏木四丁目、中央線の大久保駅から駅前通りを西に向かって七、八分の所である。その研究所跡を初めて訪ねたのは一九五六年、大学院に入った直後であった。粗末な門を開けると、そこは荒れはてた庭で、あちこちに焼けた建物の礎石や敷石が顔をのぞかせているほかは、雑草が生い茂るばかりであった。五〇〇坪ほどの敷地の右手奥に小さな、しかしその割に背の高い建物がぽつんと立っていた。これが敗戦の年の五月の東京大空襲に耐えて、貴重な図書や資料を守り通した土蔵であった。その荒れ方はひどく、いたるところで漆喰は剥げ落ち、小舞の竹がのぞいている所さえあった。
南側の三段の踏石を上がると一尺厚さの土壁で出来た両開きの扉がある。蝶番がさびていたこともあってひどく重かった。扉の内側に白壁の引戸があり、左に引くとようやく南京錠のついた頑丈な木格子の入口が現われた。土蔵だからもちろん電灯はなく、明りは入口と一、二階の東西にある小窓から入るだけで、中に入っての最初の仕事は、二階の窓を押し開けることだった。開けるのはまだ楽だったが、閉める時は大変だった。土壁の扉に結ばれている太い電線を引っ張って閉めるのだが、なかなか動いてくれず、完全には閉まらなかった。内側にガラス窓があり、雨の吹き込む心配はなかったが。
一階には主に和書が詰まった書架が並び、そこかしこに箱が積み上げられていた。空襲で焼け出された後、誰か一時ここで暮らしていたのか、庭木の松を薪にした残りとおぼしき丸太の切れ端や敷布団まで詰め込まれていた。大内兵衞先生のものと聞いた記憶があるが、真偽のほどは定かでない。右手の階段を上がると、大きな木箱が積みあげられていた。通気のため、二階の床の一部は簀の子になっており下が見えた。重い荷物を動かす時など、踏み抜きはしないかと不安であった。二階の両端は上下二層に分かれ、上段には製本した新聞が山積みになっていた。
その後五〇─六〇回はここに通ったろう。もともと法政の大学院を選んだ理由のひとつは、大原研究所に膨大な資料が眠っていると思ったからで、〈お蔵〉に行くのは楽しみだった。研究所が戦前に出した『日本社会主義文献』に記録されている『労働世界』を発見できるのではないかと期待していたが、これは見つからなかった。しかし、いつ行っても何か新しい発見があった。とくに丈夫なハトロン封筒に入れられ、それをさらにハトロン紙で厳重に包んだ機関紙誌を見つけた時、裁判記録の箱詰めを見つけた時には息をのんだ。
窓がきちんと閉まらないためか、土蔵の中はいつ行っても埃だらけで、みな黒い実験衣のような上っ張りを着込んで仕事をした。お蔵というと思い出されるのは、ときどき〈菜っ葉服〉で現われた久留間先生や貴重書の目録を作っていた良知力氏などだが、二人とも黒い上っ張り姿である。一九六六年に念願かなって研究所に採用されてからは、所内で車を運転する人が少なかったこともあって、柏木に行く回数が多くなった。一人で行くことはなく、いつも誰か一緒だった。忘れ難いのは、一九六七年に、創立五〇周年記念で所蔵文献目録を作った時のことである。中心になったのは石島忠、是枝洋の両氏だったが、所員全員でこれを手伝うことになり、冬の寒い時期に、中林賢二郎、斎藤泰明の両氏といっしょに何回も土蔵に通って新聞や雑誌の号数などを確認し、カードをとった。こうなると懐中電灯ではどうにもならず、蔵の外壁にコンセントをつけ、そこから長いコードを引き入れて電灯を使えるようにした。これで、今まで見えなかったものまで見えてきた。床下に何かあるのに気づき、潜り込んで、高野房太郎が経営した共営社の看板や土地と自由社の看板を見つけたのも、この後である。
壁の傷みは年を追って進行し、ついには一部に穴があいてしまった。やむなくトタンで周囲を囲ったが、台風になると気が気ではなかった。中の資料を麻布校舎に移し、土蔵が完全に役目を終えたのは一九七〇年以後のことであった。