私は離乳食の味を覚えている。そんなことを言うと、「うっそー!」とか「いいかげんなことを言うな」とやっつけられそうである。だが、食べた離乳食についての記憶はかなりはっきりしている。
あらかじめ断っておいた方がよいと思うが、戦前の離乳期は現在よりずっと遅かった。私はなんと一歳八ヵ月まで母乳を飲んでいたのである。これは、祖父豊助の日記一九三五(昭和十)年十一月三日の項に次のように記されているから、間違いない。
午前教会へ礼拝ニ行テ来タ。帰リニハ一夫モ同道ダッタ故ニ郵便局ノ傍ヨリ負フテ来タ。数日前ヨリ乳ヲ止メタ故カ、オ茶オブナント云ツテ瀕リニ水分ヲ要求スル様ダ。
翌三六年六月に弟の正が生まれているから、下が生まれる前に離乳させておかなくてはと考えたに違いない。だから、離乳食を食べたのは二歳前後、ことによると三歳になってもまだ食べていたのかもしれない。その離乳食こそ〈こおりもち〉であった。餅を、夜は凍らせ、昼は融けといった過程を繰り返すことで、水分をすっかり抜き、保存に耐えるようにしたフリーズ・ドライ製品である。寒天や高野豆腐の製法とほとんど同じ、厳しい寒さと空気が乾燥する土地ならではの特産品である。
ところで、この信州の〈こおりもち〉には二種類ある。そのひとつは安曇野など信州各地で作られている〈凍り餅〉で、普通に搗いた餅を使って造る。寒い地方なら、他でも作られているだろう。もうひとつは諏訪の特産品で、高島藩秘伝の製法で造られた〈氷餅〉である。こちらはいろいろな作り方があるらしいが、糯米をいったん粉にする点が〈凍り餅〉との違いである。つまり白玉粉でつくった餅を凍らせる。今は水に浸した糯米を砕いて乳白状の液にし、これにゆっくり火を加えて糊状にしたものを凍らせているらしい。高島藩秘伝の製法では、見栄えを良くするためにカンナをかけたという。庶民には造ることを許さず、城内の「氷餅部屋」だけで製造し、将軍家などへも献上する、藩の独占品だった。
赤穂浪士討ち入りの後、諏訪高島藩にお預けになった吉良上野介の養子、吉良義周は、おやつに〈氷餅〉ばかり食べさせられていたらしい。諏訪市博物館の特別展《元禄繚乱外伝「吉良義周パネル展」》によれば、同藩の「元禄十六年御用状留帳」には、つぎのような記述があるという。
三月十一日
一、 いつもお菓子として氷餅ばかり出しているが他のお菓子を出してはどうか。もしよろしければ、諏訪には相応の菓子がないので、江戸より届けてもらいたい。
私が離乳食として食べたのは、一般的な〈凍り餅〉ではなく、吉良義周もたべた秘伝〈氷餅〉だった。餅からつくった〈凍り餅〉の方は、熱湯を加えて戻すと柔らかい餅状になる。だが、秘伝〈氷餅〉は熱湯を注ぐと重湯状になるからである。私の記憶にある離乳食の〈こおりもち〉は、ねっとりとした液状のもので、餅ではなかった。これに砂糖を加え、甘くして食べたのである。
重湯状だから、〈氷餅〉には病人食的な意味あいもあった。義周が〈氷餅〉ばかり食べさせられていた理由のひとつは、彼が病弱だったからであろう。なにしろ、お預けから三年後には病死しているのだから。義周が乳児だったら、私はあやうく彼と「乳兄弟」ならぬ「離乳食兄弟」になるところであった。
〈氷餅〉なんて見たこともないとおっしゃる皆さんでも、それと知らずに食べているはずである。各種和菓子の表面を飾る雲母のようなキラキラ輝く粉、あれれが〈氷餅〉なのだから。今ではそのまま食べるより、多くは和菓子の原材料として消費されているらしい。
もちろん、私は離乳食として〈氷餅〉だけを食べていたわけではない。おそらく玄米の重湯や味噌汁の方が、はるかに日常的に食べさせられていた〈離乳食〉だったに違いない。だが、この方はまったく印象に残っていない。
もうひとつ、いくらかは離乳食的な意味合いもあったろうが、むしろ〈おやつ〉として幼時の私が食べていた粉食に〈むぎこがし〉がある。漢字で書けば「麦焦がし」であろう。関西地方では「はったい粉」と呼ぶもので、大麦を炒った上で粉にしている。地域によっては裸麦を使うこともあるらしい。砂糖を加え、熱湯で練って食べる。〈氷餅〉と似た食べ方だが、重湯状にすることはなく、もう少し硬く練った。私が愛好した食べ方は、初めは粉のまま、途中からだんだんお湯の量を増やし、さまざまな味を楽しむというものだった。粉だけだと咽せることがあるのは難点だが、香りは抜群である。〈むぎこがし〉の生命は麦を炒ったこうばしい香りだから、私は湯を入れずに食べるのがけっこう好きだった。別名が香煎であるのも、その香りの高さゆえであろう。
麦こがしは日本だけでなく、同種のものがチベットでは主食になっている。大麦の一種、チンコー麦を炒って粉にした「ツァンパ」である。バター茶やお湯で溶いて、団子状にして食べるという。素朴な食べ方だけに、他の地域にも同様なものがあるのではないか。