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食 の 自 分 史

(11) 揚げ栗の飴かけ─本格中華初体験

中華料理

 1939(昭和14)年夏、わが家は、祖母ひとりを上諏訪に残し、東京に引っ越した。信州味噌が東京で急速に販路を拡大していた時期で、タケヤ味噌のセールスもしていた父・清一、35歳の決断だった。移り住んだのは山手線田端駅の真上の高台に建つ二階建ての借家だった。後に、隣組などというものができた時、芥川龍之介の遺族や漆工芸の堆朱家が同じ組になったくらいだから、近所にはお屋敷もあった。しかしわが家は、日当たりの悪い猫の額ほどの庭がついただけの小さな家だった。東京市滝野川区田端町416番地、ここで滝野川第一小学校に入り、国民学校5年の夏に疎開するまでの約6年間を過ごしている。
  しだいに食料が乏しくなる時期だったから、この時期、食の体験として記憶に残っているものは貧弱なものばかりである。そんな貧しい食生活のなかで、例外的に光り輝く食体験がある。それが目黒雅叙園の本格中華、当時の言い方だと〈支那料理〉だった。
  目黒雅叙園は、細川力蔵が近藤陸三郎の旧邸6000坪を買って、1931年に創業した日本最初の総合結婚式場兼料亭である。近藤陸三郎といっても、知る人は多くないであろうが、明治日本草創期の鉱山技術者である。工部大学校を出て、官営阿仁鉱山で技師として働いていたが、同鉱山の払い下げとともに古河家に入り、最初の学校出の技術者としてその重役となった。鉱毒事件の際や暴動直後に彼が足尾鉱業所長に任命されていることが、社内での高い評価を示している。ちなみに、作家舟橋聖一の母は近藤陸三郎の長女である。

 目黒雅叙園の〈支那料理〉を食べたのは、東京に引っ越して間もない1939(昭和14)年12月のことだった。小学校に入る直前である。叔母 ── 母の末の妹・幸子が上鶴幸男と結婚したその日の夕、両家親戚だけの顔合わせの宴だった。新郎新婦ともに熱心なクリスチャンだったから、信濃町教会で挙式し、正式の披露宴は教会の地下で開かれた茶話会で済んでいた。

 何しろ、私のそれまでの外食体験といえば、諏訪湖畔片倉館の親子丼か、三越デパートの〈お子様ランチ〉、新宿中村屋のカリーくらいのものである。雅叙園の〈支那料理〉こそ、一流の料理人の調理した品を食べた初体験であり、その後も20年近くは味わえない特別な経験だった。
  よほど印象深かったと見え、どんな料理が出たのか、5歳の子にしては、わりあい良く覚えている。いちばん印象に残ったのは〈鯉の丸揚げ野菜あんかけ〉だった。大皿に大きな鯉がどんと一匹、そのままの姿でテーブルに出てきてびっくりした。それに八宝菜や酢豚という名の料理があることを知ったのもこの時だった。本当に8種類の食材があるかどうか、ひとつひとつ数えた記憶がある。つぎつぎと出てきた料理のなかで、いちばん気に入ったのが、他ならぬ〈揚げ栗の飴かけ〉だった。栗を丸のまま油で揚げ、すぐ飴をからめたデザート的な一品である。熱々の栗をとると、飴が糸状になって長ーーくだんだん細ーーく、しかし切れずに糸を引いてくる。そのままでは火傷するほど熱いので、栗を小さな器の水にさっとくぐらせて食べる。美味しかったのと、飴が糸を引くのが面白く、そればかり食べて叱られた。後に、これが抜糸栗子(バースリーツ)と呼ぶこと、栗のほかにも林檎(抜糸蘋果)やバナナ(抜糸香蕉) 、さつまいも(抜糸地瓜)、山芋(抜糸山薬)などなどさまざまな〈抜糸〉があることを知った。でも、生まれて初めて食べたこの時の〈栗の飴かけ〉ほどの味に出会ったことはない。家で作ろうとしても、長く糸を引かせるのが難しい。どうしても大学芋風になってしまうのである。

 中華料理独特のターンテーブルも、この日が初体験だった。2段式で、上段がぐるぐる回る例のテーブルである。くるくる回るのが面白く、遊んで叱られた。その後、どこの中華料理店に行っても同じようなテーブルを見かけたから、てっきり料理とともに中国から伝来したテーブルだと思いこんでいた。だが、実際は、雅叙園の創業者・細川力蔵が発明したものだそうである。だとすると、私はその発明直後、比較的早い時期の体験者ということになる。こんなことを自慢しても仕方がないことだが。

 この時結婚式をあげた叔母も、今はすでに85歳である。佐藤豊助・まつの子供10人のなかで、まだ生き残っているのは、96歳の私の母と、この叔母だけになってしまった。先日、下関で学会があった折に、北九州に住むこの叔母夫妻を訪ね、結婚式の時のことなど、話がはずんだ。そこで聞いた祖父・佐藤豊助のエピソードを最後に紹介しておこう。
  これは、雅叙園でなく、信濃町教会の地下で開かれた正式の披露宴での話である。その折、媒酌人の方が、「佐藤さんは、8人ものお嬢さんを立派に育てあげられた。今回は、末娘の幸子さんをお片づけになって、さぞ安心なさったことであろう」という趣旨のスピーチをされたそうである。会が終わろうとしたとき、祖父は予定にはなかった挨拶を求め、列席者への感謝の言葉と同時に、このスピーチに反論したというのである。いわく「私は娘たちをみな人間として育ててきた。片づけるような〈物〉とは考えていない」。結婚披露の席で仲人の挨拶に反論するとは、佐藤豊助の面目躍如というところである。



 


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written and edited by Nimura, Kazuo
『二村一夫著作集』
The Writings of Kazuo Nimura
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