小学校に入ったのは一九四〇(昭和一五)年の四月である。入学式にはちょうど今日のように校庭の桜が美しく咲いていた。そういえば、国語教科書の冒頭は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」だった。つけ加えれば、そのすぐ後は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」となる。まさに戦時下の小学校生活だった。もっとも翌年から小学校は国民学校と名を変えたから、戦前最後の小学生であった。その上、戦後入学した中学校は旧制最後の学年で、中学がそのまま高校に切り替わり、高校二年になるまで四年間下級生は入って来なかった。つまり、戦中戦後と二度の学校制度の切り替えにぶつかった〈
入学したのは東京市滝野川区立第一小学校、通称
入学間もなく、キリンというあだ名を付けられた。同年配の子供よりやや早熟だった私は、早生まれであるのに同級生よりちょっとだけ背が高かった。それに身長にくらべ頭が小さく、首が長く見えたらしい。
小学校での食の新体験は「弁当」だった。弁当箱持参というのは、ランドセル同様、大人になった気分を満足させてくれた。もっとも、弁当の中身は今のコンビニ弁当や駅弁とは、比べようもない貧弱なものだった。四角なアルミの弁当箱に、ご飯とおかず一品、それに漬け物か佃煮程度だった。おかずも魚か野菜で、肉だったことはまったくない。「
弁当のおかずで、比較的気に入っていたのは塩鮭だった。最近は、〈荒巻〉に限らず塩魚類は、どれもこれも「塩分控え目」や「甘塩」が売り物だが、当時の塩鮭は、焼くとまわりに塩が白く吹きでる〈塩引き〉だった。米の飯は、塩気さえあれば美味しく食べられるから、これが良かったのだろう。ちょっと脂ののった鮭なら、塩と脂の混じった味がご飯に染みこんだところができ、その箇所はとりわけ美味かった。これにウズラ豆でもついていれば、御の字だった。
煮豆はどれも好物で、なかでもウズラ豆、金時豆のたぐいは大好きだった。砂糖が配給制になったばかりの頃だから、甘いものはそれだけ楽しみだったに違いない。甘い弁当のおかずで思い出すのは
甘辛のおかずでは切りスルメ、昆布入りの
なによりも弁当のおかずで嬉しかったのは卵である。今のように肉類がふんだんに食べられなかった時代だから、卵を使ったおかずの時は大喜びだった。卵焼き、両面を焼いた目玉焼き、炒り卵などなど、どれも好きだった。なかでも、シラス干しを混ぜた炒り卵は好物だった。ただ、卵焼きなどは汁が出ることがあるのが難点で、弁当箱を新聞紙で包み、それを布でつくった弁当袋にいれていたのも、汁がにじみ出したときの用心だった。
卵といえば、炒り卵と海苔、それに田麩の三色弁当がある。これはたぶん普段の弁当ではなく、運動会や遠足など特別の時だったろう。彩りの鮮やかさで忘れがたい。その他、海苔を敷き詰めた〈海苔弁〉があった。鰹節の醤油まぶしを敷きつめたのは、たしか〈猫弁〉と呼んだような気がする。「猫にかつおぶし」からきた命名だろう。〈海苔弁〉と〈猫弁〉をミックスした、海苔とかつおぶしの二段重ねはけっこう美味かった。
給食にはまったく縁がなかったから、以来、高校卒業までずっと弁当箱のお世話になった。後になると、汁がこぼれないようなおかず入れが出来たり、おかずの種類も少しずつ変化した。それについては、おいおい書くことにしよう。
【お断り】
冒頭の〈日の丸弁当〉は、手許の材料を使って撮影した単なる挿絵で、当時の弁当を再現したものではありません。小学生の弁当箱はもっと小さいものでしたし、都会では、もうこれほど白いご飯を食べてはいませんでした。