(13) 弁当 小学校に入ったのは1940(昭和15)年の4月である。入学式にはちょうど今日のように校庭の桜が美しく咲いていた。そういえば、国語教科書の冒頭は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」だった。つけ加えれば、そのすぐ後は「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」となる。まさに戦時下の小学校生活だった。もっとも翌年から小学校は国民学校と名を変えたから、戦前最後の小学生であった。その上、戦後入学した中学校は旧制最後の学年で、中学がそのまま高校に切り替わり、高校2年になるまで4年間下級生は入って来なかった。つまり、戦中戦後と2度の学校制度の切り替えにぶつかった〈端境期世代〉ということになる。 入学間もなく、キリンというあだ名を付けられた。同年配の子供よりやや早熟だった私は、早生まれであるのに同級生よりちょっとだけ背が高かった。それに身長にくらべ頭が小さく、首が長く見えたらしい。 小学校での食の新体験は「弁当」だった。弁当箱持参というのは、ランドセル同様、大人になった気分を満足させてくれた。もっとも、弁当の中身は今のコンビニ弁当や駅弁とは、比べようもない貧弱なものだった。四角なアルミの弁当箱に、ご飯とおかず一品、それに漬け物か佃煮程度だった。おかずも魚か野菜で、肉だったことはまったくない。「贅沢は敵だ」と、毎月1日の「興亜奉公日」には、ご飯に梅干しだけの〈日の丸弁当〉が奨励された頃のことである。梅干しの酸で弁当箱に穴をあけた友人がいて、驚いた記憶があるから、私の弁当箱はアルミではなくアルマイトだったかもしれない。
弁当のおかずで、比較的気に入っていたのは塩鮭だった。最近は、〈荒巻〉に限らず塩魚類は、どれもこれも「塩分控え目」や「甘塩」が売り物だが、当時の塩鮭は、焼くとまわりに塩が白く吹きでる〈塩引き〉だった。米の飯は、塩気さえあれば美味しく食べられるから、これが良かったのだろう。ちょっと脂ののった鮭なら、塩と脂の混じった味がご飯に染みこんだところができ、その箇所はとりわけ美味かった。これにウズラ豆でもついていれば、御の字だった。
なによりも弁当のおかずで嬉しかったのは卵である。今のように肉類がふんだんに食べられなかった時代だから、卵を使ったおかずの時は大喜びだった。卵焼き、両面を焼いた目玉焼き、炒り卵などなど、どれも好きだった。なかでも、シラス干しを混ぜた炒り卵は好物だった。ただ、卵焼きなどは汁が出ることがあるのが難点で、弁当箱を新聞紙で包み、それを布でつくった弁当袋にいれていたのも、汁がにじみ出したときの用心だった。
給食にはまったく縁がなかったから、以来、高校卒業までずっと弁当箱のお世話になった。後になると、汁がこぼれないようなおかず入れが出来たり、おかずの種類も少しずつ変化した。それについては、おいおい書くことにしよう。
【お断り】
冒頭の〈日の丸弁当〉は、手許の材料を使って撮影した単なる挿絵で、当時の弁当を再現したものではありません。小学生の弁当箱はもっと小さいものでしたし、都会では、もうこれほど白いご飯を食べてはいませんでした。
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