二 村 一 夫 著 作 集

食の自分史(二三)

元旦の食事

雑煮

 大晦日のうちに「お年取り」を盛大に祝うわが家では、元日の朝の食事はいささか気が抜けたものになる。もし年末を年越しそばで済ましていれば、元旦は一家揃ってお屠蘇を酌み交わし、お節料理で祝うといったあらたまった形をとることが出来よう。だがわが家は、祖父が禁酒運動家であったから、屠蘇を祝うことはなかった。
 それでも祖母が元気だった頃は、ともあれ元日の朝は一家全員が集まり、新年の挨拶を交わして、まず若水で沸かした湯で茶を入れ、皆でかち栗と干し柿を食べる習慣があった。その度に祖母は「クリ回し良く、カキ回し良く」するのだと言っていた。くり回しは、金繰りを良くするとか、仕事の手順をよくするくらいの意味だろうが、かき回しが何を意味していたのか未だにわからない。

 「かち栗」といっても、最近はあまり見かけないから、知らない人もいるだろう。これは「芝栗しばぐり」つまり日本在来種の野生の小粒の栗を、蒸して乾燥させ、臼で搗いて皮と渋皮を取り除いたものである。カチカチに固い乾燥栗で、ちょっとやそっとでは噛み砕けない。しかし、いかにカチカチでも、長い間口に入れていると、だんだん柔らかくなり噛み割ることが出来るようになる。そうなると甘味も感じられ、不味いものではない。
 これを、なぜ「かち栗」と呼ぶかといえば、臼でものをくことを、古くはつと言ったからである。つまり「搗栗」だから〈かちぐり〉なのである。〈かちぐり〉は〈勝ち栗〉に通ずるから、「つき栗」ではなく「かち栗」という縁起の良い名の方が愛用され、日本の祝いの席に欠かせない品になった。とりわけ武士は出陣の時に「搗栗かちぐり」を勝利をねがう縁起物として食べたそうである。
 戦前は、どこにでもある、ごく普通の食べ物だった。その証拠に、かち栗と言えば、すぐ思い出すのは、子供のころ良く歌った言葉遊びの歌である。

神田鍛冶町かんだかじちょうの、かど乾物屋かんぶつやの、かかあがよこしたぐりってんだら、かたくてめない。」

 干し柿は、特別のことがないかぎり、信州飯田の特産品の市田柿いちだがきだった。これは「かち栗」とは違い柔らかく、しかも甘い。甘いものの少ない時代には、みな大好きで、取り合いで食べたが、いまは食べる者も少なくなった。干し柿をなぜ元旦に食べたかといえば、その表面にしわがよった様子が、長寿の翁媼おきなおうなの肌に似ていることから、長寿を願う縁起物となったという。

 ところで、元旦にかち栗や干し柿を食べるのは、古くからの慣行で、けっこう由緒あるものらしい。平安時代の宮廷で、元旦に「お歯固め」として、鏡餅や押鮎などを食べる慣行があったことが知られている。なんと、正月の和菓子として有名な「花びら餅」に使われているゴボウは、この「歯固め」の押鮎をかたどったものだという。この慣行も、さらに遡ると、いにしえの中国で元旦に固い飴をたべて延命長寿を祈った儀礼にたどり着く。「歯固め」の「歯」の字はもともとよわいの意味があり、「歯固め」は長命につながると考えられたものだそうである。歯が抜けると、否応なしに老いを感じさせられるから、歯を丈夫にすることで長寿を願う気持ちは自然のものであろう。こう見てくると、わが家の年頭の行事もいくらか有難味が増すというものである。
 だが、祖母がいなくなった後、この元旦の慣行も変化の一途をたどっている。いつの間にか「かち栗」は天津甘栗に変わり、それも最近では、皮をあらかじめ剥いて真空パックしたものになってしまった。元旦に全員が起きて集まる時間もしだいに遅くなり、前夜の夜更かしで出てこない者さえ現れる始末である。

 こうなると、元日の朝の歯固めの栗や干し柿を食べる習慣もすたれ、全員が揃って栗や柿を食べることはなくなった。雑煮と「年越し料理」だけですませる朝食になりつつある。その雑煮も、かつては三が日の間はかならず食べていたのだが、この頃は元日だけになってしまった。
 わが家の雑煮は、昆布とカツ節の出汁を使う醤油のすまし汁である。具も小松菜と鶏肉、それにウズラの卵、生椎茸に人参、三つ葉といった、比較的あっさりしたものである。餅はもちろん切り餅で、焼いてから入れる。その餅も、昔は大きな切り餅を3つ、4つと食べたのだが、いまでは、大きさはかつての半分以下になり、数も減ってしまった。

〔二〇〇五年三月二四日〕


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