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食 の 自 分 史

(24)  箱 膳

箱膳、長野県上田市立博物館収蔵品

 1944(昭和19)年7月、長野県北佐久郡春日村に疎開した。この年の秋には、学校単位の「集団疎開」が始まったが、それに先だってのいわゆる「縁故疎開」だった。母方の祖父母が生まれ育ったこの蓼科山麓の寒村で、私が過ごした期間は小学校5年から中学1年までの僅か2年余に過ぎない。だが、敗戦を挟んでのこの2年間は、見るもの、聞くこと、食べるもの、することなすこと、何もかもが初めての体験だった。ここでの生活がなければ、私は日本の農村の暮らしについて何も知らぬままだったに相違ない。辛いこともあったが、いま考えれば貴重な経験だった。

 初めの数ヵ月は、小学校2年の弟と私の二人だけで母方の大叔父、つまり祖父の弟・佐藤佐次郎の家に厄介になった。借家が見つかり、母も疎開して来たのは、その年の秋のことである。それまでの数ヵ月間、毎日が文字通りの異文化体験だった。なにしろ「米のなる木」を見たこともない少年が、田の草取りの手伝いをしたのだから。もちろん公認の泥んこ遊びのようなもので、手助けになったはずもないが、本人はいっぱし働いた積もりでいた。素足を包み込むような水田の泥の感触はいまも忘れがたい。それに無数の〈お蚕さま〉がいっせいに桑を喰むとき「サワサワ、ザワザワ」と雨音のような大きな音をたてることも、ここで知ったのであった。

 食の体験も珍しいことばかりだった。まず驚かされたのは、食事の時に「卓袱台(ちゃぶだい)」を使わないことだった。正確に言えば、家そのものが食卓を使わない、というより使えない造りになっていたのである。当時の農家で、生活の中心となっていたのは「囲炉裏(いろり)部屋」だった。この部屋は、あえて言えば、玄関兼炊事場兼食堂兼居間兼仕事場で、その中心に囲炉裏(いろり)があった。部屋は広い「土間」と「板敷き」にほぼ二分され、その板敷きの端、土間に近い位置に四尺四方ほどの囲炉裏(いろり)が切ってあり、一日中火の絶えることがなかった。普段はお湯を沸かす鉄瓶がかかり、味噌汁もここで調理された。食事時には、皆が囲炉裏(いろり)を囲んで座ったから、ちゃぶ台を置く場所などなかったのである。
  その代わり、子供以外は家族全員がめいめいの箱膳(はこぜん)をもっており、これを使って食事した。「箱膳(はこぜん)」といってもご存知ない方のほうが多いだろう。一尺四方、高さ五寸ほどの小さな木箱である。中には茶碗とお椀、それに小皿類と箸がしまってある。食事の時は箱膳(はこぜん)の蓋を裏返し、これをお膳として使うのである。
  その昔、ロス・マオアと杉本良夫が『日本人は「日本的」か』(東洋経済新報社、1982年刊)という本のなかで、「あべこべ日本人論」の章を設け、興味深い議論を展開していた。そこでは、通説を批判する試みとして、日本人は個人主義的傾向が強いと論じ、その例証に食器が個人所有である事実をあげていた。西欧ではスプーンや皿などは家族や客まで共同で使うのに、食器に関しては日本人は、個別所有だというのである。日本人が茶碗や箸を個別に所有する形にこだわるのは、おそらくこの「箱膳」「銘々膳」時代のなごりであろう。

 箱膳にも驚いたが、もっと仰天させられたのは、食事の後の食器の始末だった。食事がすむと茶碗に白湯を入れ、漬け物などを利用して内側のこびりつきを洗い落とし、つぎにお椀に移してなかを洗い、最後にはその湯は飲みほし、食器は布巾で拭いて箱膳の中に戻すというやり方なのである。つまり食事の都度、食器を洗うということをしないのだった。たぶん月に1、2回は洗っていたと思うが定かではない。幸い、こちらは居候である上に子供だったので箱膳はなく、食器はその都度、家の前を流れている小川で洗ってくれたので、大助かりだったのだが。
〔2005.5.3〕

【追記】
 冒頭に掲げた写真は、上田市立博物館の収蔵品である。同博物館のサイトに掲載されている画像を、許可を得て使用している。




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written and edited by Nimura, Kazuo
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