(25) 「銀めし」 嬉しいことに、疎開先の大叔父の家では、毎食が白米だけのご飯、つまり「銀めし」だった。玄米食や七分搗き米、麦飯やジャガイモ芋混じりのメシ、大根葉ご飯、さらにはウドン、スイトン、お焼きなど、さまざまな「代用食」に慣れた口に、大きな羽釜を使って薪で炊きあげた香りのよい「銀めし」の旨さは格別だった。いまだに好物の第一が「米の飯」であるのも、この時の記憶がインプットされているからだろう。
その頃、都会では玄米食が一般化しつつあった。疎開する前年、つまり1943(昭和18)年初めには、配給米が七分搗きか玄米になったからである。玄米食主義者の祖父は、あちこちへ呼ばれて、玄米の炊き方を教えていることが日記に記されている。一方、なんとか白米を食べようと、配給の玄米を一升瓶に入れて細い棒で根気よくついて精白した人も少なくなかった。また配給米には小石や籾殻などゴミが混じっていることが多く、これを拾い分けるのは子供の仕事だった。当時は、メシを食うにもけっこう手間がかかったのである。 話は横にそれるが、家で食事をしない人は、米の配給の代わりに「外食券」の配布を受けていた。一般の食堂では、もはや「外食券」なしには、食事を出してくれない時代だったのである。外食券30枚、つまり10日分が、米2升3合に相当したという(山田風太郎『戦中派虫けら日記』昭和19年2月11日)。例外は「雑炊食堂」で、外食券なしでも食事が出来た。ほんの僅かの米に野菜類をいっしょに炊いた雑炊を提供していたのであった。疎開直前に、田端駅から鉄道病院〔今は「田端文士村」のあるビルになっている〕の横の坂をあがりきった辺りに「雑炊食堂」ができ、「あの店の雑炊は箸が立つ」といった噂を子供までが聞きかじっていた。ことほど左様に、都会では、米とりわけ白米は飛びきりの貴重品だったのである。
集団疎開の学童が、絶えずひもじい思いをしていた話を聞くにつけ、私の場合は、食事に関する限り、恵まれ過ぎていたようである。これを書きながらでも、なんとも申し訳ない思いがする。 |
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